ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「地獄のオルフェウス」

2023-05-28 23:35:23 | 芝居
5月23日文学座アトリエで、テネシー・ウィリアムズ作「地獄のオルフェウス」を見た(文学座公演、演出:松本祐子)。



アメリカ南部の田舎町での陰鬱な雨の季節の物語。
病気の夫を抱えて雑貨店を営むレイディ(名越志保)は、愛のない孤独な生活を送っている。
この町にギターを手に流れてきた若い男ヴァル(小谷俊輔)。
蛇革の服を着たよそ者は、女たちの欲望と男たちの憎悪に火をつける・・・。
絡み合う孤独な魂が光を求め彷徨い、その先に見たものは・・・(チラシより)。

その楽日を見た。
この芝居は、2013年に東京芸術劇場シアターウエストで見たことがある。
tpt公演、演出は岡本健一、主演は保坂知寿と中河内雅貴だった。
あの時とは舞台の大きさが桁違いなので、その意味でも興味深い。

犬の吠え声がするたびに、ヴァルはビクッと怯える。
かつて警察犬が容疑者だか黒人だかを追って行って八つ裂きにするのを何度も見たと言う。
すごい時代だ。
ここでは人種差別どころじゃない、一人の男を何人かが寄ってたかってリンチしたって何のお咎めもないらしい。
当時、米国は、まだ法治国家と言える国ではなかったようだ。

レイディの父はイタリアからの移民で「イタ公」と呼ばれていた。
禁酒法の時代、彼は土地を借りて葡萄園を作り、そこにあずまやを15コ作ったので、町の人々はしょっちゅう集まって楽しんだ。
だがある時、父が「黒んぼに酒を売った」ために、運命は反転する。
秘密結社の男たちが果樹園に火をつけ、消防車は一台も来なかった。
父は一人で毛布を手に火を消そうとして焼け死んだ。
恋人の子を妊娠していたレイディは、その男に捨てられ、お腹の子を中絶し、今の夫ジェイブと結婚した。
町の人々は、レイディがジェイブに「安く買われた」と噂している。
後にレイディは、あの時火をつけた男たちの中にジェイブもいたことを知る・・・。

奇妙な人々が、次々と登場する。
化粧の濃い、イカレタ若い女キャロル。彼女はレイディのかつての恋人の妹だった。
保安官の妻で絵描きの女。彼女は日々、夫の仕事の関係で残酷なものを見聞きしているためか、宗教画を描き始め、次第に奇妙な言動をするようになる。
背の高いネイティブアメリカンの男。彼が登場すると、他の人々は怖がって逃げたり、彼を追い出そうとしたりする。
だがそういう彼の存在に、どういう意味があるのか不明。
そして町の噂好きな女性たち。彼女らは偏見に満ち、厚かましくて冷酷で独善的。

ヴァルは30歳の誕生日にこの町にやって来た。
これまで流しでギターの弾き語りをしてきたが、これからは生き方を変える、と決心して。
だが、あまりに目立つイケメンぶりと、生来の意味深な言動が、女たちを惹きつけ、男たちの憎しみを募らせる。
キャロルは敏感に状況を感じ取ったらしく、彼に「ここにいたら危ない。一緒に逃げよう」と言うが、ヴァルは断る・・。

今回、一番戸惑ったのは、主役レイディの造形。
彼女がヴァルに対してガミガミ𠮟りつけたりわめいたりするので、ただのうるさいおばさんに見えてしまう。
この二人が恋に落ちるなんてことがあるだろうか?
ヴァルがこんな女に魅力を感じたりするだろうか?
奇跡でもない限り、そんなことあるわけない、と思えてしまう。
今回の演出は、この一番肝心なところがまずい。
レイディは、確かにもう若くはないし、疲れてはいるが、まだ人を愛する素直で瑞々しい力が残っているはずだ。
そこを信じさせてくれないと困る。
松本祐子という人は、2019年に『スリーウインターズ』という非常に面白い芝居を演出した人で、この時は素晴らしかったが。
残念だ。

タイトルについて。
原語では "Orpheus Descending" (オルフェウスが降りていく)だが、彼が降りていく先は地獄ではない。
地獄はキリスト教の概念であり、罰としてあるものだが、オルフェウスはギリシャ神話の登場人物であり、キリスト教以前の話だ。
そこでは人間は死んだらみんな冥界へ下る。善人も悪人も区別なく。
オルフェウスの妻エウリディーチェは蛇に嚙まれて死に、冥界に下り、彼女を追ってオルフェウスは冥界に下った。
この戯曲は、その神話をモチーフにしている。
したがって、『地獄のオルフェウス』という訳は適切ではない。
長年日本で親しまれてきた題名ではあるが、このあたりで変えたらどうだろうか。
たとえば『オルフェウス冥界へ下る』とか。
レイディは20年間死んだように生きていた、そこに(彼女を救いに)ヴァルが現れた、というわけだ。

20年もの間、暴君のようにレイディを支配してきた夫は、実は父の仇だった。
その夫の死を、レイディはじりじりしながら待っている。
だが、すぐにも死にそうな老いた夫が、なかなか死なない。
それどころか、ある日、仕事熱心な看護婦にリハビリを勧められて階下にゆっくりと降りて来る!
若い愛人ヴァルが階段下の小部屋に泊まっているというのに!
もはや絶体絶命か・・という状況が、劇的緊張を生んで効果的。

ラスト近くで、レイディは自分が再び妊娠したことを知り、急に表情が柔らかくなる。
「こんな枯れ木に」と彼女は歓喜する。
何も言わずに出て行こうとしたヴァルを、ついさっきまで激しい口調で引き留めていたのに、突然、「逃げて」と彼の身を案じる。
その変化が印象的。
だが今度はヴァルの方が、彼女を置いて行けなくなってしまう・・。

10年ぶりに見た今回、以前より細部まで見えてきたように思う。
レイディの苦しみと悲しみ、そしてつかの間の、ほんのつかの間の激しい喜びと、二人の悲劇が胸に迫って来る。











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「金閣炎上」

2023-05-20 09:47:59 | 芝居
5月16日紀伊國屋ホールで、水上勉作「金閣炎上」を見た(劇団青年座公演、演出:宮田慶子)。




大正14年、若狭湾に面した寒村の成生(なりう)に若い女がやって来た。
西徳寺の住職道源(石井淳)のもとに嫁入りする志満子(魏涼子)である。
この辺境の末寺で結核に病む道源と結婚生活が始まった。
昭和4年、養賢(君澤透)が生まれる。
しかし成長するにつれて養賢には重度の吃音症があらわれる。
「貧寺の子が生き残るためには僧侶になるしかない・・・」
そう考えた父は養賢を金閣寺に入れたいと強く願う。
昭和18年、父の死から一年後、養賢は金閣寺で得度式をあげ見習い僧となる。
しかし父から受け継いだ肺病症状が現れ、母の待つ故郷で養生することになった。
昭和20年、戦争は終わった。
成生から京都に戻ってきた養賢が見たものは・・・。

作者・水上勉氏が自らの実体験と重ね合わせて描いた名作小説を作者自身が戯曲化。
40年の時を超えて、青年座に新たな「金閣炎上」が誕生する(チラシより)。
ネタバレあります注意!

<1幕>
冒頭、文殊、観音、達磨、弥勒ら6人の菩薩像が現れる。
彼らが優美な茶色の衣を脱ぐと、村の人々となり、一人ずつ前に出て道源と志満子の噂をする。
道源は病弱で、仕事もできず寝てばかりいる。
家の事情で追われるように出てきた許嫁の志満子は、高慢で派手好き。
養賢が生まれた後も、二人は始終喧嘩ばかり。
志満子は息子が3歳頃から、村の男と不倫の仲となる。
昭和17年、養賢は中学に入学するが、父が肺結核で死ぬ。
翌年、養賢は金閣寺の小僧となる。
 ~ここで休憩~
<2幕>
金閣寺の長老・妙海(横堀悦夫)は養賢に目をかけてやるが、養賢は先輩方にはあまり評判がよくない。
中学に通っていたが、戦争のため、勤労動員で兵器を作る日々となる。
次第に咳と痰が止まらなくなり、休学して寺で寝ていたが、食糧難の折から里に帰らされる。
母は寺に居続け、村の愛人に世話してもらって軍手作りなどの針仕事をしている。
本来、禅寺では住職が死んだらその家族は寺を去るのが決まり。
でないと次の住職を呼べず、村の人々が困る。
養賢はそう言って母に故郷に帰るよう勧めるが、母は聞かない。
養賢は、母が愛人のおもちゃにされている、自分は父と同じく結核だ、と言い、母は必死で否定する。
だが彼はせき込んで血を吐く。愕然とする母。
敗戦。
体調が回復した養賢は金閣寺に戻る。
学校仲間との会話。
相変わらず飢えに苦しむ日々。
大学の授業をサボり、悪い仲間と詐欺まがいのことをして警察から寺に連絡が行く。
妙海は彼を𠮟りつけ、故郷の母の方を向いて謝れ、と言うが、彼は妙海をにらみつけて唸り声を上げるのみ。
妙海もさすがに匙を投げ、彼を見放す。
彼は2軒の質屋に冬のコートなどを3回にわたって入れ、千数百円の金を手にする。
このあたりから、学友や質屋が前に進み出て、彼について証言する。
女郎屋。2度目に行くと、女の故郷の話を聴く。
「今に新聞に載るよ」と妙なことを言う。
女「警察が来たら退学でしょ」「この前そんな人がいた」
当日、彼はいつものように過ごし、特に変わった様子はなかったという。
金閣寺に放火した後、彼は近くの山に行き、睡眠薬を飲み胸を刺したが死にきれず、苦しんでいるところを警察官らに発見される。

志満子は刑務所に面会に来るが、養賢は会いたくないと突っぱねる。
彼女は刑務官に泣いて取りすがるが、とうとう諦めて帰ってゆく。
彼女が帰った後、刑務官は「親なら肌着くらい持って来るもんだ」と言う。
このセリフを聞いてハッとなった。
彼の母は、彼を溺愛しているように見えたが、実は自分のことしか考えていなかった。
息子に会わせて下さい、としきりに泣く姿からはわからなかったが、経験豊富な刑務官にはわかった。
この母親は、息子のことを案じてもいないし愛してもいない、と。
彼女は、息子が大罪を犯してしまったために、村の人たちから白い目で見られる、自分はもう寺にいられない、と、それしか考えていない。
そんな母の心が息子にも伝わっているから、息子は会いたくないと言うのだ。

結局のところ、彼の行為は、寺での飢え、安楽な暮らしをする高僧たちへの憎しみ、教えへの疑問、といったものから生まれたようだ。
三島由紀夫の「金閣寺」では、美への嫉妬が動機だった。
水上勉のこの作品の方が、動機としては分かり易いかも知れない。

今回もまた、宮田慶子の演出が素晴らしい。
作者自身による脚本もいい。
役者陣もいい。みな非常にうまいし、言葉(方言)のイントネーションが自然で、聴いていて実に心地良い。
音楽(和田薫)もいい。と言ってもごくごく短い音が要所要所に入るだけだが、それがその場にピタッとハマっていて劇的緊張が高まる。







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「オセロー」について

2023-05-13 19:22:26 | シェイクスピア論
<ヤン・コットのオセロー論>

「オセロー」には王様もお姫様も魔女も出て来ない。
オセローという黒人の将軍と、その白人の妻デスデモーナをめぐる夫婦の物語であり、そのため「家庭劇」とも呼ばれている。
彼らが駆け落ちしたところから、芝居は始まる。
オセローの部下でイアゴーという男が、策略を使って二人の間を裂こうとし、デスデモーナの不貞をオセローに信じ込ませる。
高潔で疑うことを知らないオセローはまんまと騙される。
彼は苦しみ悶えつつ妻を殺してしまうが、直後にすべてが噓で、でっち上げだったことが判明。オセローは自害する。

この作品についても、ヤン・コットと吉田健一が興味深い論を展開しているので紹介したい。
まずはヤン・コットの「オセロー」論から、適宜引用していきます。
ヤン・コットについては、拙文「リア王について Ⅱ」に簡単な紹介を書きましたのでご覧ください。 

① イアゴー
 イアゴーはオセローを憎むが、そもそも彼はあらゆる人間を憎んでいる。 
 彼の憎悪にはどこか打算を離れたところがあることに、批評家たちは早くから気づいていた。
 彼はまず憎み、その後初めて憎悪の理由を考え出すように見える。
 
 彼は悲劇を考え出すだけでは満足せず、それを夢中になって演じ、あらゆる配役を周囲の者みんなに割り当てて自分も出演しなければおさまらない。
 彼は悪魔的な舞台監督というより、マキアヴェリ的舞台監督と言うべきかも知れない。
 彼の行動の動機はあいまいで隠されているが、彼の理性は精密でさえている。
 「人の身体は庭園で、人の意志がその庭師となる」(1幕3場)

 悪魔的なイアゴーというのはロマン派が作り出した虚像である。
 彼は悪魔ではない。リチャード三世と同じように近代的な野心家なのだが・・・経験主義者で空論家を信じない。
 バカな連中は名誉や愛を信じている。だが実際にあるのはエゴイズムと欲望だけだ。
 強い人間は自己の情熱を野心に従わせることができる。
 自己の肉体もまた一つの道具となりうる。
 彼は意志の力を信じている。

 イアゴーは言う。この世は悪党とバカで、つまり、食う連中と食われる連中とでできている。
 人間は獣と同じように交尾し、互いに食い合う。
 弱者を憐れむのは間違いだ。弱者も強者も同じようにいとわしい。
 ただ弱者は強者よりも愚かであるに過ぎない。この世は汚れているのだ。
 オセローは言う。この世は美しく、人間は崇高だ。この世には愛と忠節がある。

 ・・・この嫉妬の悲劇、この裏切られた信頼の悲劇は、結局オセロ―とイアゴ―との間の議論になってしまう。
 議論の中心は、世界がどういうものか、ということだ。
 それは良いのか悪いのか。・・・生と死の間の短い時間の究極の目的は何なのか。
 イアゴーはリチャード三世と同様、破滅する。
 この世は汚れている。イアゴーの言う通りだった。
 そして彼が正しかったという他ならぬそのことが、彼の破滅の裏づけとなった。
 これが第一の逆説である。

残念ながら、ここでコットに対して「待った!」と言わねばならない。
この世が汚れているからイアゴーが破滅するとは、どういうことだろうか。
イアゴーが破滅するのは、彼の妻エミリアが正直な女で、自分が侍女として仕えていた女主人であるデスデモーナを愛していたからではないか。
エミリアのまっすぐな行動からも明らかなように、この世は汚れてはいない。
エミリアは邪悪で冷酷な夫に刺し殺されるが、心は平安だろう。
死を前にして彼女は言う、「こうして私の魂は天国へ、真実を話したのだから」。
決してコットの言うように、この世が汚れているからイアゴーが破滅するのではなく、事態はまったく逆なのだ。
コットの言葉に戻ろう。

 ・・イアゴーは言葉において勝つ・・。
 威厳に富み誇り高く美しいオセロー・・
 「王族の血を引いている」オセロー(1幕2場)。・・おとぎ話や夢や伝説の要素がある。・・異国的なもので固められた世界である。 
 オセローの価値の世界は、彼の詩や言葉と共に崩壊してゆく。
 というのは、この悲劇にはもう一つ別の言葉、別のレトリックがあるからだ。
 それはイアゴーのものだ。
 彼のセリフには・・嫌悪、恐怖、不快感を起こすものが出てくる。
 ・・にかわ、餌、網、毒、浣腸、ピッチ、硫黄、悪疫・・・。
 ・・オセローは次第にイアゴーの言葉をしゃべるようになる。
 彼はイアゴーのもっていた固定観念をすべて引き継ぐ。

② デスデモーナ
 オセローはデスデモーナに魅せられているが、それよりはるかに強く、デスデモーナはオセローに魅せられている。
 彼女はすべてを捨てたのだ。だから彼女は急いでいる。もはや一晩もむなしく過ごす気にはなれない。オセローの後を追ってならサイプラスまででも
 行かねばならない。
 デスデモーナは従順であり、同時に頑固なのだ。・・・
 シェイクスピア劇に登場する女性の中で、彼女は誰にもまして感覚的である。
 彼女はジュリエットやオフィーリアよりも口数が少ない・・・。

 デスデモーナは自らの情熱の犠牲となる。彼女の愛情は彼女にとって不利な材料となる。
 愛が彼女の破滅の原因になるのだ。これが第二の逆説である。
. 
 自然はオセローにとってのみならず、シェイクスピア自身にとっても悪なのである。
 それはちょうど歴史と同じように狂っており残酷である。
 ・・・この腐敗は清められることがない。あがないがないのだ。
 天使はことごとく悪魔に変わってしまうのである。

 オセローはデスデモーナを殺すことによって、道徳の秩序を維持し、愛と信頼とを回復しようとする。
 彼女を殺すことによって、彼女を許しうる状態になる。
 その結果、善悪の決着がつき、世界は平衡のとれた状態に戻るのである。
 彼は必死になって人生の意味を、いやおそらくは世界の意味を、保とうとしている。

 オセローの死は何を救うこともできない。・・・
 デスデモーナは死に、愚かな道化のロダリーゴーも、慎み深いエミリアも死んでしまった。・・・
 誰もが死んでしまう。高貴な人間も悪党も、分別のある人間も狂人も、また、経験主義者も絶対論者も。
 あらゆる選択が悪なのだ。

 シェイクスピアの世界も、地震のあとで平衡を取り戻しはしなかった。
 われわれの世界と同じく、それは統一を失ったままだった。
 シェイクスピアの「オセロー」という劇では、最後には誰もが賭けに負けるのである。

以上、いかにもヤン・コットらしい、陰鬱極まりない論調である。
彼は筆が立つので、うっかりするとその華麗な文章に飲み込まれそうになるので気をつけないといけない。
注意深く読んでいくと、彼の論理の進め方は時に大げさで大雑把で強引、時には妄想チックなところさえあることに気がつく。

ここには引用しなかったが、デスデモーナのことを「貞節ではあるが、どこか蓮っ葉女めいたところがあるに違いない」などと言ったり、
「デスデモーナは性的な意味でオセローのとりこになっている」と決めつけたり、「つい先ごろまで伏し目がちにオセローの物語を聞いていた少女が見せた
官能のほとばしりが、オセローを驚かせ恐れさせたかのようだ」などと言ったり。
あまりにも深読みが過ぎる。
想像力が豊かなのは認めるが、シェイクスピアはそんなこと考えてもいないだろう。
そこまで想像の翼を広げなくても、書かれている文字だけで、十分、この芝居を味わい楽しむことができるはずだ。
彼は、相変わらず自分の言いたいことに話を強引に持っていこうとしている。

次回は、吉田健一の見た「オセロー」を紹介します。














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「ラビット・ホール」

2023-05-04 21:53:29 | 芝居
4月25日パルコ劇場で、デヴィッド・リンゼイ=アベアー作「ラビット・ホール」を見た(翻訳:小田島創志、演出:藤田俊太郎)。



ベッカ(宮澤エマ)とハウイー(成河)は幼い息子を交通事故で亡くした。
それから8ヶ月たつが、ベッカはまだ息子の死を受け入れられず、先に進むことができないでいる。
ベッカの妹イジ―(土井ケイト)と母(シルビア・グラブ)は、そんなベッカとの関わりに心を砕いている。
息子を誤って轢いた少年ジェイソン(阿部顕嵐)が訪ねて来る。
彼との会話が、思いがけずベッカの再生のきっかけとなる・・。

前回これを見たのは、2022年11月、ピット昴の小さな空間で、翻訳と演出は田中壮太郎だった。
ついこの間見たばかりだが、成河という、たいてい変わった役をやる人が、ごく普通の夫を演じるところもたまには見たくて行った。
他にも土井ケイトとかシルビア・グラブとか、うまい人が出るし。
宮澤エマは、昨年の大河ドラマと映画「記憶にございません」で見たことがあるが、ミュージカル畑の人らしい。
ナマで見るのは初めて。
今回、翻訳も演出も違う上に、会場の大きさも全然違う。
その楽日を見た。
<1幕>
幕が上がると、舞台中央から二階に向かって白い階段が斜めにかかっていて美しい(美術:松井るみ)。
その白い階段の上から、青いゴムボールがゆっくり転がり落ちてくる。
二階に男の子がいたことがわかる、素敵な導入だ。

下手にキッチン。(前回は上手奥がキッチンで、評者の席からはほとんど見えなかった)
少し下がっていた幕が、途中で全部上がると、上手上方に男の子の部屋が出現。
ベッカは階段を上がって行ってその子供部屋に入り、ベッドに腰掛けて、ジェイソンからの手紙を見る。
1幕ラストでハウイーは、息子との最新の、一番長いビデオが永遠に消えてしまったことを知って号泣!
~休憩~
<2幕>
ハウイーがオープンハウスと書かれた赤い看板を舞台前方に置く。
仲介料を取られたくなくて OHBO (オープンハウス・バイ・オーナー)にしたが、やっぱりなかなか人が来ない。
イジ―が彼にアドバイスする。
ついでに、自分の友人が、レストランでハウイーが一人の女性の手を握っているのを見かけた、と言う。
ハウイー「彼女は支援グループの人で、娘を白血病で亡くした人だよ!」「慰めちゃいけないのか!?」
イジ―「わかった。誤解が解けてよかった」
今回、彼女はここで本心からそう言っているようだ。
そこに母娘が帰宅。
スーパーで、幼い男の子が母親にお菓子を買ってもらえず泣いていた。
その子の母親がいつまでも買ってやらないので、ベッカは説得しようとしたが、拒まれ、何とその女性をひっぱたいたという。
だが、話を聞いてイジ―は「私も殴る」と言う。(今回、ここで客席から笑いが起こる)
今回のイジ―は笑い担当のようによく笑いを取る。
この時、突然ジェイソンが入って来る。
驚いたことに今回、ハウイーは途中までこの高校生に敬語で話す。
もちろん突然のことなので、この日はすぐに帰ってもらうが、前回ほど怒ったり怒鳴りつけたりしない。
次にジェイソンが来た日、ベッカは手作りの菓子を振る舞う。
キッチンにディケンズの「荒涼館」があるのを見て、ジェイソン「読みかけたけど長くて・・」
「デヴィッド・カッパーフィールドは面白かったです」ベッカ「あれも長いでしょ?」ジェイソン「ええ、でも・・面白かったです」
話している間に、二人の間に何かしら温かいものが通い合う・・。

数ヶ月前に見た芝居なので、つい比較してしまったが、よくできた作品なので、やはり面白かった。
ベッカが大事なセリフ「4歳で事故死したダニーと、30歳でヤク中で首を吊ったアーサーを一緒にしないで!」を早口で言ったのが惜しい。
お客はベッカの兄の死の経緯を、ここで初めて知るのだから、もっとゆっくり言ってほしい。
確かにここで彼女は怒って叫ぶわけだが、それでも何とか工夫して、客席にいるすべての人が、よく吞み込めるように言うべきだ。

ラスト近く、イジ―が気をきかせて母を急き立てて帰るシーンで、もう少し間がほしい。
ここで彼女はまさに「空気を読んで」姉夫婦の仲を取り持とうとしたわけだが、それが感じ取れるくらいに間があると、なおよかった。

この日は満席。さらにスタンディングオベーション。
役者達は皆さん、期待通り好演。
今回の翻訳は手慣れていて柔らかく、品がある。
よくできた芝居は、何度見ても面白い。

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