ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

映画「テンペスト」

2011-08-29 16:36:46 | 映画
少し前だが、映画「テンペスト」をみた(監督:ジュリー・テイモア)。

ヘレン・ミレンが主演、つまりプロスペロをやる・・と言うか、設定を変えて彼をプロスペラという女性にし、台本も
それに合わせて監督自ら書き換えたのだった。
ヘレンは以前からこの役をやりたかったという。これには参った。
筆者は中学・高校の頃、ハムレット・オセロー・ケント・リヤの道化・・などやりたいと思ったが、プロスペローをやりたいと思ったことはないので。

ナポリ王アロンゾは息子ファーディナンド、弟セバスチャン、ミラノ大公アントーニオらと共に海上で嵐に会い、船は難破。
みな散り散りに或る島に打ち上げられる。そこには12年前彼らが陰謀によって追放した前ミラノ大公プロスペラとその娘
ミランダが暮らしていた。実はプロスペラには魔術を使う力があり、手なずけた妖精エアリエルを駆使して嵐を起こし、
男たちへの復讐を企てていたのだった・・・。

映画だけあって舞台でできないことをやってくれる。冒頭の嵐のシーンはもちろん。

妖精エアリエル(ベン・ウィショー)の動かし方は最高。これが決定版ではないだろうか。

「デイム」ヘレン・ミレンはさすがに完璧と言ってもいい演技。ミランダ役のフェリシティ・ジョーンズも可憐で初々しい。

しかし最後の余興は期待外れ。それまでCGを駆使してきて力尽きたのか。夢のような光景を少し見せてくれてもいいのに。

ラスト、忠臣ゴンザーロー(トム・コンティ)は普通にほほ笑むのでは足りない。12年ぶりに元の主人の元気な姿に会えた
のだから、もう少し感激してほしい。別にそれほど嬉しくもないのか、まさかボケたのではないと思うが。

島の怪物キャリバン(ジャイモン・フンスー)が「目が開けた」かのように、「おれは今までこんな酒飲みを崇めていたのか」
と愕然とするのが面白い。それまで彼は酒というものを知らず「その飲み物」と呼んでいたのに。まあこれも、一つの矛盾
であり破綻ではある。フンスーは足が長くてカッコいい。

今年は執筆から400年(!)とか。「テンペスト」の映画化というと、ピーター・グリーナウェイ監督の「プロスペローの本」
(91年)が有名だが、あれと比べると、これは原作にずっと忠実だ。そのメッセージは寛容と許し。つまりは極めて今日的な
作品である。

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ノエル・カワード作「秘密は歌う」

2011-08-20 14:41:42 | 芝居
7月19日紀伊国屋サザンシアターで、ノエル・カワード作「秘密は歌う」を見た(演出:マキノノゾミ)。

『ノエル・カワード最後の戯曲 本邦初演』とのふれ込み。1966年初演(作者自身が主演)の由。
チラシのあらすじを読んでピンと来た。

「舞台はスイスの高級ホテルのスイートルーム。高名な英国人作家ヒューゴ・ラティマーはドイツ人の妻ヒルダと
長期滞在している。彼はその夜、若い頃の恋人で女優のカルロッタと久しぶりに会うことになっている。
長年音信不通だったカルロッタが会いたいと連絡してきた目的は何なのか。
ヒルダは外出し、ヒューゴはカルロッタと食事しつつ訪問の目的を探る。彼女は自叙伝に彼からのラブレターを
載せる許可がほしいと切り出すが、彼は拒絶。
いったんはあきらめた彼女は、かつて彼が或る人宛てに書いたラブレターも持っていると打ち明ける。
文学界の重鎮になろうとしているヒューゴにとって、それはなんとしても隠しておきたい秘密だった・・・。」

これはもうアレしかないでしょう。
最近こういうことにだいぶ勘が働くようになってきました。
昔(三島由紀夫の事件の数年後、川端康成が死んだ頃)、誰か外国人が「日本の作家はみんなきっとしまいには自殺する・・」と呆れつつ言ってたけど、
それに倣って、西洋人の作家はみんなゲイなんじゃないか、と呆れつつ言いたくなります。

三田和代がドイツ人妻ヒルダを演じ、金髪のボブ姿で登場!
秘書でもある彼女はてきぱきと仕事するが、そこに現れた夫ヒューゴとのやりとりから、我々観客はこの夫婦のちょっと変わった関係を感じる。
有能で謹厳そうなヒルダは1944年1月に彼の秘書となり、数か月後に二人は結婚したという。
一方カルロッタは21歳の時、2年間ヒューゴの恋人だった。
現在50代の女優。整形しまくり、元祖アンチエイジングみたいな女。3回結婚し24歳の息子がいる。

カルロッタはヒューゴが出版した自伝の中に「偽装」を嗅ぎ取り、真実を白日の下にさらしたいという抑え難い欲求を覚えたために訪れたのだった。
彼女なりの正義感だろう。
恋人だった自分も妻であるヒルダも、彼の本心を隠し世間体を繕うための存在でしかないということを彼女は最近になって知ったのだ。

ヒルダは最初から知っていた。
男が自分をどういう意味で必要としているかを。彼女の方も彼を必要としていたらしい。
そこのところは筆者にはよく分からない。同じドイツ人の恋人が戦争で死んだからといって、まだ若かった彼女が新しい恋の可能性を信じることなく、
すべてを諦めて互いに愛し合っているわけでもない男と結婚したのはどういうことなのだろう。
女が一人で仕事して一生生きていくわけにはいかなかった、そういう時代だったということか。

1960年当時の英国では同性愛は犯罪だった。今では信じられないが、そのためにヒューゴは自分の本来の性向をひた隠しにしてきた。
ヒルダとはいわゆる「白い結婚」をしたのだろうか。

ラスト、ヒューゴはかつて自分が書いた手紙を読んで泣く。
このシーンがなければこの芝居は底の浅いものになっていただろう。
筆者も思いがけず号泣(もらい泣きで号泣って一体・・?)。
この皮肉屋で頭の切れる辛辣な男も、生涯にただ一人、心から愛した人がいたのだった(ヒルダもそうだが)。
たとえ相手がうぬぼれ屋でうそつきで最低な男であろうとも。
短い時間ではあったが気持ちよく甘美な涙を流せた。
彼は自分の人生で、最も純粋で清らかだったかつての自分の姿を目の当たりにしたのだ。
それはこの男の人間的な姿が初めて露わになった瞬間だった。

ホテルの部屋で、二人は膨大なセリフをやり取りしつつ、本物のキャヴィア、サラダ、ステーキ、チョコレートスフレを食べる。
この趣向も面白い。
役者はみな達者。三田和代はいかにもドイツ人女性らしい。
村井さんに関しては、この役は彼の持ち役になると思う。
これからもいやというほどキャヴィアをつまむことになるに違いない。
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「山羊・・それって・・もしかして・・シルビア?」

2011-08-13 21:56:13 | 芝居
7月17日文学座アトリエで、オールビー作「山羊・・それって・・もしかして・・シルビア?」をみた(演出:鵜山仁)。

妻スティーヴィーが居間に花を飾っている。これからここでテレビ番組の撮影があるらしい。夫マーティンが入ってきて、
50歳になったばかりだが最近忘れっぽくなったと言う。二人は睦まじく語り合うが、夫は何やら落ち着かない。ついに彼は
彼女に告白する。自分は或るヤギに恋している、と。しかし妻は冗談だと思い、笑って出てゆく。

そこに40年来の友人ロスがやってきてテレビカメラとマイクをセットし、インタヴューを開始。今週マーティンの身に
起きた3つの大きな出来事、仕事上の成功と、それに関連して賞を贈られたこと、そして50回目の誕生日を迎えたこと
について聞こうとする。ところがマーティンはインタヴュアーであるロスの言葉をおうむ返しにするばかりで上の空。
ロスはインタヴューを打ち切り、どうしたのかと問い詰める。
マーティンは話し始める。夫婦で憧れの田舎暮らしをする準備のため、一人で田園地帯に行って土地探しをしていた時、
「彼女」に会ったと・・。「彼女」の写真を見せられたロスは驚いて言う、「これはヤギだ・・」。

ここで暗転。次のシーンでは夫妻と息子のビリー(18歳)がいて、妻はロスから来た手紙を読み上げる。ビリーはゲイだが
「僕の相手は少なくとも人間だ」とショックを隠さない。二人は彼を外に追いやり、妻は夫を問い詰める。夫はロスにした
話を繰り返し、また、そういう人が集まるセラピーの会合に出た時の話をする・・。
妻はショックを受けるたびに立って瀬戸物の置物などを床に投げつけるので、部屋の中は次第にメチャメチャになってゆく。
しまいに妻は「あなたは私を壊してしまった。あなたを道連れにしてやる」と言い残して出てゆく。
ここまでは予想通りの展開だったが・・。

息子が入ってきて、こんなお父さんを「それでも僕は愛している」と抱きつき、二人は熱く抱擁しキス・・。そこにロスが
やってきて、「何だ、伝染病か?」と驚き、「病気だ、信じられない」を繰り返す。
そこに妻が戻ってくるが、彼女が引きずっていたのは・・!?

三人ともどうしようもなく変だ。異常なほど夫を愛する妻、妙な息子、息子や赤ん坊まで性愛の対象になりうると言う
気持ちの悪い夫。この男、何度も「ああ神様!」と口走るが、自分でも何が何やら分からなくなっているようだ。

一言で言えば獣姦がテーマだが、それだけでもおぞましいのに父と息子も何やら怪しげになってくるし・・。
いわゆる異化効果ってやつ?
演出の鵜山仁の言葉を紹介すると、「ブルジョワ市民社会のお行儀の良い価値観と、本来恋愛の持つ原初的で無頼なエネルギー
との衝突を、客間喜劇のパロディという演劇的文脈に置き直すことで、抱腹絶倒の笑劇でありながら神話的不条理の深淵と
直面する際どい境界線に我々を誘ってくれる」んだそうだ。
フーン、難しいんですねえ。私の生まれた地方ではこんな時「せからし!」って言うんですよ。それに客席は抱腹絶倒
という雰囲気じゃなかったけど・・。

役者に関しては、文学座の団員の演技力は本物。みな声もよく通る。演技はまあまあだが発声がなってない他の劇団とは
格が違うし、逆に発声だけで演技ゼロの劇団四季とは全然比べものにもならない。
息子ビリー役の采澤靖起は初めて見たが、クリアな演技。今後が楽しみな人がまた一人増えた。





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オペラ「ブリーカー街の聖女」

2011-08-04 21:36:48 | オペラ
7月10日新国立劇場中劇場で、メノッティ作のオペラ「ブリーカー街の聖女」をみた(東京オペラフィル、演出:八木清市)。
原語(英語)上演。日本初演ではないが、日本では26年ぶりの上演の由(作曲家の生誕100年記念)。
スコアもストーリーも手元にないので、前日にネットであらすじだけ読んでみたが、何とも暗い話で、しかも終わり方がまた変わっている・・。

台本は作曲家本人によるオリジナル。
チラシに載ったあらすじは典型的な悪文。私が中学の国語教師だったら教材にして生徒たちに添削させるところだ。
曰く「病気で苦しむアンニーナの身には、その信仰心により神父の祈祷により奇跡が起こり、霊力を与えられている。
祭りの日に彼女の力を求める群衆に兄ミケーレは妹の衰弱を心配し必死に拒むが、その甲斐なく連れ出される。・・
兄と恋人デジデーリアが口論になり、勢いで彼女を刺し逃げ去る。・・・」


音楽は冒頭からいきなりドラマチック。
聖痕に触れると病気が治るとか、口のきけなかった子が「ママ」と言えた、とか、そういう話を聞いていると、
カトリックとは何かと考えさせられる。貧しさからくる人々の苦しみ。

兄と妹の議論が面白い。妹がキリストや大天使ミカエルに会ったということを兄は幻覚だと言う。
妹は勉強ができなかったので学校で「間抜け」と呼ばれていた。
兄「そんなお前がなぜ神に選ばれるはずがあろうか」
妹「私が神を愛しているから」
兄「神は人間じゃない。人間を愛するようには愛せない」
妹「でも私は人間よ。人間としてしか愛せない」
兄「神は全であり無だ」
妹「無など愛せない」
兄「・・修道女には絶対させない!」

この兄は「お前なしには生きていけない」とも口走る。それで聴衆にも少しずつ分かってくる。彼は妹を女として愛しているのだった!
いやあ変わったオペラです・・。

背景の朽ちかけたぎざぎざの壁が、場面転換後、後ろから見ると天使の翼なのだった(美術:土屋茂昭)。
第2幕は彼女の親友の結婚式。3人の男が花嫁を称える歌を歌う。その歌詞がイタリア語で、実に美しい。
やはり英語より音楽的だと改めて感心した。

アメリカのイタリア系移民のコミュニティ。イタリア語の新聞を読み、教会ではラテン語で賛美歌を歌い、神父の読み上げる
式文もラテン語。

ミケーレの心はデジデーリアに見抜かれる。彼女は言う、「私の愛は太陽のように明るい。でもあなたの愛は・・」
「妹を女として愛している!」さらにアンニーナを指さして言い放つ、「妹もそれを知っている!」と。
確かにそうらしい。この時のアンニーナの様子からも分かるし、そもそも彼女が恋人もなく、神の花嫁になりたいと一心に思い詰めること自体怪しい。
兄の気持ちをずっと感じて苦しんできたのだ。

アンニーナ役の女性は声量があってうまいが、英語の発音がよくなくて、何を言っているのかまるで分らない。
もっぱら字幕のお世話になったが、その字幕も時々意味不明な日本語でお手上げ。

修道女になるための儀式が興味深い。キャスター付きの扉が祭壇の前に運ばれ、それを本人が2度ノックし、「私の意志で」ここに来ました、と言う。
白衣を着るのは神の花嫁になることの象徴だろう。

見方によっては、兄ミケーレのライバルは神だ。オペラ史上唯一無二(?)の、これは妹を愛してしまった男の話!
いや、兄に愛されてしまった女の悲劇だ。こんな兄さんいなくてよかった、というのが正直な感想。
妹にとっては首につけられたくびきのようなものだ。

音楽はとても素敵だった。ストーリーは異色だがドラマチックだし、またいつかぜひやってほしい。
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