ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

アーサー・ミラー作「橋からの眺め」

2023-09-29 22:42:59 | 芝居
9月21日東京芸術劇場プレイハウスで、アーサー・ミラー作「橋からの眺め」を見た(演出:ジョー・ヒル=ギビンズ)。




ニューヨークの貧民街を舞台に、最愛の姪と暮らす夫婦が、違法移民の従兄弟を受け入れたことで一家に巻き起こる悲劇を
スリリングに描く社会派ドラマ(チラシより)。

エディ(伊藤英明)と妻ベアトリス(坂井真紀)は、ベアトリスの姉の死後、姪キャサリン(福地桃子)を引き取って3人で暮らしている。
キャサリンは、高校卒業後、速記の学校に通っているが、ある日、校長に呼ばれ、ある会社で女性を一人募集しており、学校で一番優秀な生徒として
推薦する、と言われる。卒業まであと半年ほどあるが、学業と両立できるし、給料も高いという。
キャサリンとベアトリスはすっかり乗り気だが、キャサリンをいつまでも子供扱いしているエディは、あの地区は物騒で、怪しい男たちがたむろしている、と
言って反対する。
だが二人の説得に負けて、ついにエディもキャサリンが働きに出ることを許す。
そんな時、イタリアから不法に入国したマルコ(和田正人)とロドルフォ(松島庄汰)という兄弟が、彼らを頼ってやって来る。
マルコはイタリアに、妻と幼い子供たちを残して、言わば出稼ぎに来たのだ。
一方、ロドルフォの方は、まだ独身。
エディは二人を地下室にかくまってやるが・・・。

エディは自分のことを、キャサリンの父親代わりの保護者のつもりでいるが、どうもそれだけとは言い切れないようだ。
冒頭、もう立派に成熟した女性であるキャサリンが、子供のようにエディに抱きつき、二人がハグしまくるのを見て驚いた。
この二人の関係は?夫婦?と思ったくらい。
実の親子でも、娘が中学生か高校生になったら、これほど密に接触したりしないのではなかろうか。
そして、エディと妻ベアトリスとの間に、この3ヶ月、夫婦の関係はない・・・。
ベアトリスにそれを指摘されると、彼は「この話はもうよそう」と嫌そうに言うのだった。

ロドルフォとキャサリンが急速に親しくなると、エディは気が気でなくなり、弁護士(高橋克実)のところへ行って訴える。
あんな奴、何とかしてくれ、と。
だが不法移民であること以外、ロドルフォは何の犯罪にも関わりがない。
弁護士はそう言ってエディを説得しようとするが、エディはまったく聞く耳を持たない・・。

初めて見た芝居で、内容もまったく知らなかったが、演出に問題が多いと感じた。
天井が何度も上下するのも意味不明。
みんながはしごを使って部屋に出入りするのも変だ。
ついでに言うと、チラシに「橋の下で身を寄せ合う人々・・」とあるが、彼らは橋の下に住んでいるのでは「ない」!
ちゃんと住所のある建物に住んでいるのだ。

ロドルフォの歌はイマイチ。どう反応していいのかわからず困った。

時々、弁護士が登場し、我々観客に向かってこの事件について語り、状況を説明する。
だが彼が、いくつかの場面で透明人間のように立っていて、その場にいる他の誰にも見えないという趣向があって、違和感を覚えた。
他の人にもそういう場面があった。
この弁護士が何度も不吉な予言をするので、きっと追い詰められたエディが誰かを殺すのだろうと身構えていたが・・・。
予想は一部裏切られた。
ラスト、一人がナイフでもう一人を刺すのかと思いきや、赤い液体の入った小瓶を持って近づき、その中身を相手にかける。
相手の白いシャツが赤く染まり、男は倒れる。
こういうのは初めて見た。

結局、エディに必要だったのは弁護士ではなく、セラピストかカウンセラーか精神科医だった。

役者はみな、なかなかの好演で見応えがあった。
エディ役の伊藤英明は、やや一本調子。







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「ハムレット」について Ⅱ

2023-09-20 22:29:51 | シェイクスピア論
<志賀直哉の誤解>

 シェイクスピアの戯曲、特に「ハムレット」を題材にした文学作品は多い。作家の想像力を刺激するのだろう。
 日本人作家では志賀直哉の「クローディアスの日記」、大岡昇平の「ハムレット日記」、太宰治の「新ハムレット」、小林秀雄の「オフェリア遺文」などがある。
 だが時代のせいもあると思うが、ピントがずれているとしか言えないような内容のものもある。

 たとえば志賀直哉の「クローディアスの日記」では、驚いたことにクローディアスが兄を殺していないことになっている。
 「おれが何時貴様の父を毒殺した?」だの「父が殺されたと云ふ不思議な考」だの「一人の心に不図湧いた或考」だのという信じられない言葉の連続。
 この人は3幕3場のクローディアスのこのセリフを読み飛ばしたのだろうか?

  おお、この罪の悪臭、天へも臭おうぞ。
  人類最初の罪、兄殺しの大罪!
  どうしていまさら祈れようか。
  ・・・この呪われた手の甲が、兄の血にまみれて厚くこわばっていたからといって、
  天には、それを雪のように洗い浄めてくれる雨がないのか?
  ・・ああ、だが、どう祈ったらいいのだ、おれは?
  「忌まわしい殺人の罪を許したまえ」と?
  それは言えぬ、人を殺して、そうして手に入れたものを、今なお身につけていて。
  王冠も、妃も、いや、野心そのものを、おれはまだ捨てきれずにいるのではないか。
  罪の獲物を手放さずにいて、それで許されようなどと、そのようなことが?    (福田恆存訳)
  

  クローディアスがもし潔白なら、どうして一人っきりの時にこんなことをつぶやくだろうか。
 この場面で彼が苦しみもがきつつも祈ろうとして膝を折るのは、大罪を犯した過去があり、
 その罪の重荷に責め苛まれているからだ。
 志賀直哉は「坪内さん」の訳を「ゆっくり随分丹念に読んだ」と書いているが、ここを読み落としたとしか思えない。
 その迂闊さには唖然とさせられる。
 志賀は、むしろクローディアスの兄である亡きハムレット王の方を、疑い深い、性格の悪い男として描いている。
 何の火の気もないところに猜疑心を募らせる陰気な人物として。
 彼は「クローディアスの日記」の後書きで、かつて或る日本人役者の演じるハムレットを見て「如何にも軽薄なのに反感を持ち、却ってクローディアスに好意を持った」
 ことと、「幽霊の言葉以外クローディアスが兄王を殺したという証拠は客観的に一つもない事を発見したのが、書く動機となった」と書いている。 
 確かに劇中の人々にとってはそうだが、ここで引用した箇所から分かるように、この芝居を見ている観客には、クローディアスが犯人だとはっきり分かるように
 書かれている。
 原作の戯曲の内容と「辻褄を合すのに骨が折れた」と正直に書いているところは好感が持てるが、残念ながら肝心なところで辻褄が合っていない。

≪仇討ちとキリスト教≫

3幕3場でハムレットは、一人祈っているクローディアスを見つけ、殺そうとするが、思いとどまる。

 やるなら今だ。やつは祈りの最中、造作なくかたづけられるーーよし今だ。
 (剣を抜く)やつは昇天、みごと仇は打てる。
 待て、そいつは。
 父は悪党に殺された。忘れ形見のおれがその悪党を天国に送りこむ・・・
 ふむ、雇われ仕事ではないか、復讐にはならぬ。
 そうだ、あの時、父上は現世の欲にまみれたまま、生きてあるものの罪の汚れを洗い清めるいとまもあらず、
 あの男の手にかかって非業の最期をとげられた。
 天の裁きは知る由もないが、どう考えてみても、軽くすむわけがない。
 が、これが復讐になるか。
 やつが祈りのうちに、心の汚れを洗いおとし、永遠の旅路につく備えができている今、やつを殺して?
 そんな、ばかな。(剣を鞘におさめる)
 いいか、その中で、じっと身を屈して時を待つのだ、
 飲んだくれて前後不覚に眠ってしまうときもあろう、
 我を忘れて怒り狂うときもあろう、 
 邪淫の床に快を貪るときもあろう。
 賭博に夢中になり、罵りわめくとき、いや、いつでもいい、
 救いのない悪業に耽っているのを見たら、そのときこそ、すかさず斬って捨てるのだ。
 たちまち、やつの踵は天を蹴って、まっしぐらに地獄落ち。・・・         (福田恆存訳)

これは、「考えてみれば、ずいぶん奇妙なこと」だと吉田健一は言う。
ハムレットはキリスト教の教義に従って、父は懺悔する暇もなく死んだために煉獄で苦しんでいる、と信じている。
祈っている叔父を殺せば、彼を直ちに天国に送ることになるかも知れない。
それでは復讐にならない、とハムレットは考える。
しかし、そもそも叔父を殺して父の仇を打つという考えは、キリスト教の教義とはまったく違う。
このような相克は当時は不問に付されていた。
一方にはキリスト教の教義があり、他方、俗世間の道徳問題においては、もっと原始的な、言わば旧約聖書的な倫理観が支配していた、と吉田は言う。
なるほど!考えてみれば、確かにその通りだ。
戯曲のあまりの迫力に、その点についてはまるで思ってもみなかったけれど、言われてみれば、まったくその通りだ。
当時の観客の生きる世界では、その両方の価値観、世界観が入り混じっていたようだ。
吉田健一のおかげで、また視界が広がった。
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「ハムレット」について

2023-09-14 21:58:40 | シェイクスピア論
《「ハムレット」は失敗作!?》

「ハムレット」は、父王を殺された王子が、紆余曲折の末、ついに復讐を遂げる話だが、17世紀に書かれた作品でありながら、
主人公の近代的な自我の苦悩、そして彼と周囲の人々をめぐる物語には、我々の心を捉えて離さぬ魅力があり、胸に深く迫ってくるシェイクスピアの最高傑作だ。
このような作品が書かれたこと自体、奇跡とも言うべきことだと言われており、今日まで多くの人に愛され、世界中で上演され続けている。

ところが、最後に主人公であるハムレットが死ぬことから、復讐は失敗に終わったとか、この作品は失敗作だ、とか主張する人がいる。
20世紀初頭のT.S. エリオットがそう言い出したのは有名だが、そのような受け止め方はとっくに過去のものとなったと思っていた。
だが、いまだに同じようなことを主張する人がいるのには驚かされる。
確かに、復讐に至る過程で、巻き込まれて犠牲となる人々はいる(ポローニアス、オフィーリア、王妃、レアティーズ、ローゼンクランツ、ギルデンスターン)。
このように、多くの人が死ぬ、しかも非業の死を遂げるが、それでも最終的に、クローディアスという悪人が滅びることで、観客も納得できるように書かれている。
ハムレットは無事に復讐を果たし、納得して死んでゆく。
彼は決して絶望して死んだのではない。
否、この芝居の始まりから終わりまで、一度も絶望することはない。
そして最後には、それまでデンマーク国内に隠されていた暗い大きな罪と陰謀が露見し、正義が成就するのである。
そこに、観客は喜びと満足を感じることができる。

「ハムレット」については、たとえば志賀直哉のように、そもそもクローディアスはハムレットの父を殺してないのではないか、などと、
キテレツなことを言い出すトンチンカンな人もいて、実に腹立たしい。
彼は著名な作家なのに、読解力が足りないとしか考えられない。
この手の困った人たちのことは、またいずれ書くことにしよう。

≪ハムレットは優柔不断なのか≫

ハムレットは父の亡霊に死の真相を告げられ、復讐を命じられたのに、グズグズしてなかなか父の仇を取らない。
そのため、後の時代の人々の中には、なぜ彼はさっさと復讐しないのか、という疑問を抱く人が現れた。
(上演当時の人々は、そんな疑問を持たなかった。現代でも、そんな疑問を抱かない人は大勢いるだろう。)
だがそうした疑問に答えようと、これまで多くの批評家たちが頭を悩ませてきた。
有力なのは、亡霊というのがカトリックの教えであって、ハムレットはプロテスタントだから、あの夜出会った亡霊を、父の亡霊だと信じることができず、
当時よく言われていたように、悪魔が彼をそそのかすために父の姿をとって現れたのではないかと疑った、というものだ。

 ハムレット: ・・・ 俺が見た亡霊は
       悪魔かもしれない。悪魔には変化(へんげ)の力があり
       人の喜ぶ姿を取るという。もしかしたら
       俺が気弱になり、憂鬱症にかかっているせいかもしれない。
       悪魔はそこにつけこんで
       俺を惑わし、地獄に落とそうというのか。
       もっと確かな証拠がほしい。・・・        (2幕2場、松岡和子訳)

なぜ彼がプロテスタントだとわかるかと言えば、彼は父の急死で呼び戻されるまでドイツのヴィッテンベルクに留学しており、そこはルター派の牙城だからだ。
他には、彼が憂鬱症にかかっていたために素早い行動がとれなかった、という解釈もあった。
いずれにせよ、すぐに復讐をしないのは彼の性格のせいとされ、彼は長いこと優柔不断な青年の典型のように言われてきた。
その点について、吉田健一が明快に答えている。
「それは、仇を取らねばならない事件の発生からこの作品が始まり、所定の5幕が経過した後に敵討ちが実現されるという、その経過のために生じた誤解」だと彼は言う。
つまり、わかりやすく言うとこういうことだ。
シェイクスピアの芝居は、どれも5幕という構成に決まっていて、復讐を命じられたのが1幕目で、5幕目のラストに敵討ちがなされて大団円となる必要があるため、
その間が長く感じられてしまうが、それまで仇を打つわけにはいかなかったというのだ。
何と単純明快な!
だから、たとえば4幕の終わりとか5幕の冒頭で父王が殺されたのなら、仇打ちはもっと素早くなされていただろうということだ。
ゆえに、彼が復讐を5幕の終わりまで引き延ばすのは、彼の性格のせいではなく、演劇としての必然性のせいなのだった。





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「オセロー」について Ⅲ

2023-09-04 22:46:21 | シェイクスピア論
<吉田健一のオセロー論 続き>

前回紹介したように、吉田健一はこの戯曲に流れる二重の時間に注目している。
オセローは妻デスデモーナが他の男と何度も浮気をしたと、部下イアゴーによって信じ込まされ苦悶するが、実際には、彼女が浮気をする暇などまったくなかった。
にもかかわらず、我々観客は違和感を覚えることなく、物語の迫力に圧倒され、舞台から目が離せなくなる。
それは作者シェイクスピアの巧妙なトリックによるものだと指摘している。
そして、イアゴー。
吉田は彼のことを、稀代の悪党という伝統的な解釈とはまったく違った風にとらえる。
合理主義者だが、性格に深みがなく、悪人と言えるほどの人物ではなく、間の抜けたところがある、とさえ言うのが面白い。

今回も引き続き、彼の文章を引用(抜粋)していきます。

①オセロの性格

  なぜオセロはイアゴの巧みな言動に屈するのだろうか。
  彼はイアゴの論理に対して、それを覆すに足るだけの言葉を見つけることができない。
  彼は生え抜きの武人であって、自分の妻について本能的に知っていることを自分自身に説明しようとしても、「女」とか「愛」という、
  一般的な概念しか頭にない・・。
  男であり軍人であることを自分の本領と考え、女を愛することを一種の「惑溺」と見ている点で、彼はイアゴの域を出ていない。
  イアゴはいつでもそこを衝けたのである。・・
  彼はデスデモナを愛することに自分のどれだけが賭けられているかを、まだはっきりとは認識していない。

  もしイアゴに事情がわかっていたならば、デスデモーナに対するオセロの信用を揺るがせるのに、かくまで中傷の秘術を尽くす必要はないことも
  彼は見抜いたはずである。そしてまた、もし事情がわかっていたならば、彼は自分が計画したことの結果として起こるべきことを予感して、
  そのような行動を取るのに二の足を踏んだに違いない。
  それができないのは、女を疑うというのは彼の持ち前の性分であっても、女を信じるなどということは、彼には思いもよらないことだからである。
  その意味で彼は滑稽であり、そこに彼の役が喜劇役者によって演じられていい所以も認められる。・・・
  オセロは彼を糾明して、一挙に自分の悩みに解決をつけようとする。
  イアゴも必死である。それはすでに補佐官に昇格するかしないかの話ではなくて、返事を一つ誤れば、自分の生命が危いことを彼は感じている。
  ・・この場面を美しくしているものは、オセロがここでようやく到達しようとしている自覚、彼が失ったものに対する諦念、またその愛惜である。
  彼はイアゴを憎悪して言う。  
    あれが人の目を盗んで愛欲の時を過ごしていたのを俺は感じたか?
    俺は見なかった、考えもしなかった、傷つきもしなかった、
    次の晩もよく眠った、よく食った、のびのびと愉快だった。
    あれの唇にキャシオーのキスの跡など見当たらなかった。
    盗まれても、盗まれたものが無くなっていなければ、
    持ち主には知らせるな、そうすれば何ひとつ盗まれたことにはならない。
    ・・
    俺はどんなに幸せだっただろう、たとえ全軍の兵士が、・・・
    あの美しい体を味わったとしても、
    それを知らずにいたならば。ああ、もう永遠に
    さらばだ、心の静けさ、さらば、満ち足りた思い!
    さらばだ、羽根飾りと甲冑に身を固めた軍隊、
    野望が美徳となる大いなる戦争!おお、さらば、
    さらば、いななく駿馬、鋭く響き渡るラッパ、
    士気を鼓舞する軍鼓のとどろき、耳をつんざく笛の音、
    堂々たる軍旗、栄光の戦場にそなわるすべてのもの、
    誇りと誉れ、威儀を正した行進や儀式!
    そして、ああ、必殺の大砲よ、お前の荒々しい雄たけびは
    不滅の雷神ジュピターの怒号をもしのいだ。
    さらば、オセローのこの世の務めは終わった!  (ここは松岡和子訳にしました)

  一つの世界が崩れてゆく。その世界は一人の男のものではあるが、それが瓦解するさまが壮麗であることに変わりはない。・・・

②デスデモーナ

 デスデモナもオセロに対する信頼に生きている。この信頼は、最後の殺しの場面まで脅かされずにいる。
 彼女は、オセロが自分を殺しに来るまで、自分が彼に疑われているとは思わない。
 デスデモナが落としたハンケチは、オセロが彼女に与えた最初の贈り物であるだけに、デスデモナを疑わせるための有力な証拠の一つとなる。
 彼女の召使いでありイアゴの妻であるエミリアは、夫にしつこく頼まれてそれを盗む。
 その後エミリアがデスデモナに対して、ハンケチがなくなったのをオセロが怪しみはしないだろうか、と言うと、デスデモーナは
  あの方がお育ちになった土地の烈しい太陽の熱が、
  そんな気紛れを皆あの方から吸い出してしまったらしいの。
 と答える。
 この信頼と自恃は、オセロの狂乱と同じく美しい。
 それは、オセロの狂乱と対照をなすばかりでなくて、この作品になくてはならない劇的な要素の一つとなっている。
 もしデスデモナがオセロを完全に信じていなかったならば、オセロにも彼女に対する疑いを晴らす余地が残されたに違いない。
 疑う者にとっては、静謐な自恃は破廉恥にも見える。
 涙は悔恨の涙を装うのでなければ、怒りを解くには至らない。
 そしてその点、デスデモナの純真はオセロの狂乱にとって、したがってまた劇の進展にとっても不可欠のものなのであって、
 デスデモナが純真に振舞えば振舞うほど、オセロの疑惑と混乱は深められてゆく。
 オセロは詰問を通り越して、ただ彼女を「売女」と言って罵るほかない。
 しかしその後でさえも、彼女はイアゴとエミリアを前にして、
   ・・小さな子にものを教える時は、
   優しく、分かりやすく言ってやるものなのに、
   なぜ私をそういう風に𠮟って下さらないのかしら。だって
   私はまだ𠮟られたことがない子供なんですもの。
 と言う。
 この二人の対置はほとんど化学的でさえあって、一定の条件の下では共に平穏にあるべき各自の性質が、イアゴの奸計という装置を転機として
 一つの悲劇となって燃焼することを不可避にしている。

 オセロは錯乱している。彼はすでに彼自身ではなくなった・・彼は自分の生命を賭けてデスデモナを信じていた。と言うことは、
 彼は一つの虚偽を信じていたことになり・・是正されることを必要とする。
 こうして彼は妻を殺すが、それでこの悲劇は終わっていない。
 と言うよりも、この作品はオセロの悲劇が救われるところで終わっている。
 その速度は、そこに達するまで緩められない。
 オセロは妻を殺した直後にすべてがイアゴの奸計によるものだったことを知って、少なくとも彼をこの悲劇的な結果に導いたものが
 虚偽ではなかったことを確認させられる。とどろき渡る太鼓は、・・その記憶は汚れた幻想ではなかった。
 イアゴのことを知らされるまでの彼の狂乱に引き換えて、剣を抜いて自分の胸に突き刺す時の彼の落ち着いた態度は、
 彼が後悔よりも、この満足を覚えて安らかであることを示す。
 それは、イアゴが彼の前に引き出された時の彼の台詞にも感じられる。
   この男の足がどんな恰好をしているか見てくれーーーいや、あれは迷信だった。
   この男が悪魔ならば、私には殺すことができない。
 イアゴが悪魔であって、迷信に伝えられているように、足のところが蹄になっていても、或いはいなくても、
 オセロにはもうどうでもいいのである。
 カタルシスとは何であるか・・古典劇の要素の典型的な場合を我々はこの作品に求めることができる。
 これこそ認識であり、浄化であると言える。  

このように吉田健一のオセロー論は実に味わい深い。

<RSCのカーテンコール>

かつて英国のRSC(ロイヤルシェイクスピアカンパニー)がこれを上演した時、カーテンコールで出演者たちが踊り出したことがある。
みな笑顔で幸せそうだった。
ついさっき、舞台上で、主役の男が最愛の新妻を殺して後追い自殺したばかり。
これ以上ない悲劇のはずなのに、そこに違和感はなかった。
なぜか。
最後にオセローは知ったのだ。
妻が自分を裏切ってはいなかったと。
デスデモーナはオセローを愛していた。彼だけを愛していた。
オセローは最後にそのことを知った。
その時彼は、この世の秩序が回復されたことを感じ、世界と和解したのである。
彼が喪失したと思い詰めた世界は回復した。
以前と変わらぬ意味ある世界が、そこにはあった。
彼は自分の誤解と早まった行いを嘆き悲しみつつも、納得して彼女の後を追ったのだ。
「そこに幸いがある」とロレンス神父(「ロミオとジュリエット」3幕3場)のセリフが口をついて出る。
決してヤン・コットが言うように、彼は絶望して死んだのではない。
この芝居のラストには和解が、彼と世界との和解があり、舞台にはもう一度明るい光が差し込んでいる。
だから観客の私たちも、老グロスターのように「喜びと悲しみに引き裂かれ」る思いで(「リア王」5幕3場)涙を流すことができるのだ。






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