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この映画・本、よかったす-旅行記も!

最近上映されて良かった映画、以前見て心に残った映画、感銘をうけた本の自分流感想を。たまには旅行・山行記や愚痴も。

「ホテル・ルアンダ」-二度目の感激

2006-06-27 12:02:16 | 最近見た映画
 今年の2月に1度目を観たが、その時は必死でストーリを追うのに神経を使い、ともかく感動したのはしたが、是非もう1度観たいと思っていた。  

 この映画のいいところは、この種の映画にありがちな-政治的意図・プロパガンダだけが先行して作品として完成度が低い、1つのドラマとしてみていられない-ということが無く作品としての完成度が高く観ていておもしろい-そう言ったら語弊があるが-映画として退屈させない所にある。主役のドン・チールド(ポール役)ソフィー・オコドネー(タチアナ役)もニック・ノルティー(オリバー大佐役)もみな良かった。
 
 ルアンダの内乱に限らず、部族間の相克や宗教を巡る対立は、はじめから存在したり、当事者同士がもともと仲が悪いのではなく、多くの場合、帝国主義者の支配の手段として対立が意図的に持ち込まれる。ルアンダの場合は宗主国であったベルギーがツチ族とフツ族の対立をあおり植民地的支配を容易にするため利用していた。
 
 分裂させ支配するやり方は支配者の常套手段である。士農工商しかり、さらにその下に民を作ることしかり。サラエボも中東も悪の商人の工作がなかったらあそこまで悲惨な状況は避けられたかもしれない。アメリカはアルカイダにてこ入れしビン・ラディンに武器を与え攪乱したが、逆に刃向かわれる始末。このような例は枚挙に暇がない。

 ポールはフツ族であり、その妻はツチ族である。ナチの純血思想よろしく、フツ族はツチ族に比べ皮膚の色は薄く、唇も薄くてよりヨーロッパ人種に近いとされるが、外国人記者の目から見れば区別が付かない。そもそも対立が無いから同じ職場で働くし夫婦にもなっているのだ。それが,政策でIDカードに民族名が意図的に記せられ対立が持ち込まれる。虐殺の動機は外から持ち込まれた陰謀であり、その目印は個人的憎しみでも政策的相違でもない、IDに記された民族名だけだった。

 ホテルが一応安全なのは、外国人がいて国連軍などが警備しているためうかつに手を出せないためだ。そのホテルに次々難民や子供が逃げ込んでくる。そのうちこの窮状をメディアを通じて知れば、外国の良心的政府も援軍を送り込んでくれるだろうと、それだけを頼りに助けを待つ。しかし、援軍は来ない。来たのは外国人だけを救出すためだけの最小限の軍だけだった。
 アメリカなどの帝国主義の軍隊が動くのは、自国の利害あるいは多国籍企業の利権が関わるときだけである、中東の石油とか。つまりルアンダは「国際社会」から見捨てられたのである。

 ここで、素人目から見ると目の前に危険が迫っているのに国連軍は発砲できないとかで、はがゆく思ったり、強力な外国の軍隊を送って虐殺をやめさせたらいいと思ったりしてしまう。しかし、それがより危険なのだ。

「イノセント・ボイス-12歳の戦場」、「ナイロビの蜂」、少し以前では「ボーリング・フォー・コロンバイン」でも描かれているように、悲惨さの原因の大半は貧困である。そしてその貧困の最大の原因は帝国主義的な国際資本である。安価な労働力を求め世界各地に展開し、不毛な土地からさらに収奪をし、武器を売るために対立を持ち込み戦争を仕掛ける。そこを見過ごして安易に軍隊を送り無数の市民を巻き添えにしても何の解決にもならないことは明らかである。虐殺をやめさせることと、軍事介入は全く別の次元の問題である。

 悲惨な現状と当面している虐殺の実態を報道しようと必死の取材をするのをみて、国際救助の手が来るとポールは思うが、当のカメラマンは「世界の人々はあの映像を見て--"怖いね"というだけでディナーを続ける。」と言い放つ。
 重く受け止めねばならないメッセージである。変えなければならないのは、この富める側にいる自分の意識のあり方とちょっとした行動の仕方である。




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