「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「上賀茂神社社家の町並み」(しゃけのまちなみ)

2009年03月05日 23時52分44秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都には歴史を偲ぶ町並み、心が癒される町並みというのがある。その中の一つ、上賀茂神社の南に賀茂社から流れ出る明神川に沿って、石垣を積み、白い土塀で囲った家が30軒余り続く。これらは同神社の神官らが住んだ屋敷(社家)で、風格のある家並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、唯一、数寄屋造の西村家別邸(錦部家旧宅)(料金:500円)が公開されており、社家の内部をうかがうことができる。このような町並みは、近隣では滋賀県近江八幡市や比叡山麓の坂本、岐阜県の郡上八幡、さらに遠くは山口県の津和野なども観光名所として知られている。

 さて、上賀茂神社は京都市街の最北部、賀茂川にかかる御園橋の北東部にある。下賀茂神社(下社)に祀る玉依姫命の子、別雷神を祭神とする。上・下社を「賀茂社」と総称することもあり、賀茂氏の祖神を祀ったと考えられている。創祀は不明だが、社伝では天武天皇6年(678)に社殿を造営したと伝えられている。正式には賀茂別雷神社という。

 上賀茂に社家集落が形成されたのは室町時代と言われる。上賀茂神社では、古くは賀茂氏人の中から社務職を選んでいたが、鎌倉時代以降は、後鳥羽天皇の長子と言われる氏久の系統につながる家々がこれを独占することになる。松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本の賀茂七家が、明治時代までは神主、禰宜(ねぎ)、祝(はふり)・権禰宜・権祝など九職を務めることになっていた。そしてそれらに携わる人々が社家町を形成して集住した。

 神社境内を流れる清流「ならの小河」は、百人一首の藤原家隆の歌にある「風そよぐならの小河の夕暮れは ……」で「ならの小河」は上賀茂神社境内では「楢の小川」、境内をでると「明神川」と名を変える。神官たちはこの川の水で、神道の「禊(みそぎ)」行っていた。それは屋敷に引き込んだ明神川の水をかぶって身を清めた。
 道路の北側の屋敷もまた社家なのだが、明神川に沿ってないだけに、川の水が利用できず、庭園は枯れ山水として造られていた。

 現在、明神川沿いに見られる風格ある石橋・土塀や門、切り妻造りの棟の低い主屋、土塀の奥に見える緑豊かな樹木等、これらは全て社家と社家町を象徴する貴重な歴史的遺産となっており、その中に西村家別邸がある。錦部家の旧邸(現在は西村家別邸)は現存する社家の中では最も昔の面影をとどめる庭園が残っており、養和元年(1181)上賀茂神社の神主(現在の宮司)藤本重保が作庭したといわれている。
 また、「賀茂七家」に数えられていた社家も健在で、現主屋の建築年代は不明であるが、天保9年(1838)頃にはほぼ現在の形になっていたと思われる。「賀茂七家」のなかでは現存唯一の遺構であり、昭和61年市文化財に指定された。
 各家の中庭にはこの川より水が引きいれられており、母屋は流れに面して建ち、緩やかに弧を描く石橋が渡され、優雅な風景を作り出している。近くに杜若の群生地がある大田神社、沼地植物そして冬鳥の飛来地ともなる深泥池などもあり、そこに至る山裾の家並も落着きがある。道路は車の通行が多いが、明神川の水音が絶えずしていて、気分が落ち着く。
 参考文献:「京都府の歴史散歩中」(山川出版社/山本四郎著)、「歴史の町並み事典」(東京堂出版/吉田桂二著)など他。

 所在地:京都市北区上賀茂中大路町。
 交通:京都市営地下鉄北山駅4番出口、市バス4系統で11分、上賀茂神社前下車徒歩3分。JR京都駅から市バス9系統で約27分、上賀茂御薗橋下車徒歩8分。
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「本隆寺」(ほんりゅうじ)

2009年02月28日 18時20分30秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「不焼寺(やけずのてら)」、「夜泣き止の松」という面白い伝説がある古刹があると知り、ぶらりと出かけてみた。上京区の今出川通り智恵光院を北へ入った一筋目の五辻通の西北に、どっしりとした風格のある寺院にであった。ここが法華宗(真門流)の総本山慧光無量山本妙興隆寺、土地の人は略して「本隆寺」と称していた。

 本隆寺は、室町時代、妙顕寺の僧であった日真(にっしん)上人が、本迹勝劣を強調して師と意見を異にしたことから、長享2年(1488)に六角通西洞院に草庵を建て独立、本隆寺としたのが始まり。翌年、四条坊城に堂宇を構え、京都法華21ヶ本山(現在、16本山)の一つとして栄えた。天文法華の乱により、叡山僧兵の焼き討ちに遭い堺へ逃れたが、天文11年(1542)に後奈良天皇の勅許を得て一条通堀川に再興され、承応2年(1653)の大火により諸堂を失ったが本尊は無事であった。その後、万治元年(1658)に再建されたが、天明8年(1788)の大火により、再び山門・鐘楼・方丈・塔頭と悉く焼失したが、本堂・祖師堂・宝庫は焼失を免れ焼け残ったことから「不焼寺(やけずのてら)」と呼ばれるようになったという。現在、本堂は祖師堂とともに京都府指定文化財に指定されている。

 祖師堂の前にある「夜泣き止の松」は、第五世日諦(にったい)上人が境内で涙を流す婦人から乳児の育児を託されてしまった。母親がいなくなった乳児は母を慕い夜泣きがひどかった。上人は困り果て、乳児を抱いて題目を唱えながらこの松の木を回ると、ピタリと乳児が泣き止んだという。その後、この話が広まり夜泣きに悩む母親が、樹皮や松葉を持ち帰り枕の下に敷いたところ、子供の夜泣きが治ったという。現在の松は3代目といっていた。

 境内墓地には、広島藩浅野家の藩儒・黒川道祐(くろかわどうゆう)とその一族の墓がある。
 黒川道祐は、儒学者であり東洋医学にも精通した人物。また、今日ではよく見かける京都神社・仏閣の行事ガイド本を発行した人物としても知られている。他に、本堂正面階段東側傍らに、無外如大尼(むげにょだいに)が悟りを開いたという千代野井戸(ちよのいど)がある。
 言い伝えでは、無外如大尼(千代野姫)が満月の夜、この井戸で水を汲んでいた時、桶の底が抜けて月影が水とともに消えたので、仏道に入ったという。

 広い境内に本堂、祖師堂、方丈、鐘楼などの伽藍と、八つの塔頭があり、本堂には鬼子母神が祭られており安産祈願に訪れる人が多いという。
 比叡山に伝来した奈良時代書写の貴重な完本「法花玄論10巻」、平安時代後期の装飾経「法華経10巻<天正11年(1583)の寄進>」はいずれも重要文化財。寺のある紋屋町には、いまも西陣らしい雰囲気が残っていた。

 所在地:京都市上京区智恵光院五辻上ル紋屋町330。
 交通:市バス今出川大宮より徒歩5分(59・201・203系統など)、JR京都駅から地下鉄烏丸線で烏丸今出川駅6番出口より徒歩15分。
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「単伝庵」(たんでんあん)

2009年02月21日 23時38分43秒 | 古都逍遥「京都篇」
 今から200年ほど前、臨済宗妙心寺の単伝和尚が人々の不慮の災難を救うことを発願して、ケガ除け・厄除けの救苦観音を安置して祈祷修繕したのが単伝寺の由来となっている。
 別名らくがき寺といい、境内の大黒堂の壁に自由に願い事を書ける。

 お堂に祀られた大黒天によく見えるよう、願い事を書くと御利益があるといわれる。その大黒天は、「走り大黒天」と呼ばれており、南北朝時代、石清水八幡宮の改築に際して、楠正成が武運長久を祈願して奉納した楠木(くすのき)の残り株から彫られたもので、にこやかに微笑を浮かべて蓮華の実の上で袋を担ぎ走っている姿が刻まれている。台座には米俵が2俵用いられている。

 山門を入った正面には大黒堂という御堂がある。この御堂の白い内壁が、願いを託した落書きで真っ黒になっている。 落書きは、年齢や性別、時代を問わず、人間生活における心の遊びでもあるといえる。
 平城宮跡の発掘調査でも、木簡や土器などの遺物のなかに、いろんな落書きが見つかっている。
 さらに9世紀の嵯峨天皇の時代になると、落文(おとしぶみ)とか落首などと称して、政治、社会を批判するものがみられ、これらは匿名の文書を道に落としたり、門壁になどに貼り付けて衆人の目に触れさせるといったものであった。
 こうした落書きは、公式文書には見られず、人々の「本音」があり、当時の世情を知る重要な手がかりとなっている。

 当寺の栞には、『らくがき「人間は思わぬ様にはならぬ」とはいうものの、努力だけでは成就できないこともあります。大いなるものの力に後押しされ、はじめて努力も報われるものではないでしょうか。』と記され、直接当山へ参詣できない人のために、「願い事書き込み用紙」が用意されていて、郵送すると祈祷するとのこと。

 「救苦観音」のほかに、「五大釈迦」も安置されている。世の中のすべては、地・水・火・風・空の5つの元素(5大)の組み合わせにより世の中のすべてが出来ているとされており、この5大を型どった台座(方・円・三角・半月・台形の5つを組み合わせている)の上にお釈迦様を安置している。
 別の小堂には水子地蔵尊が祀られているが、清水をかける水があたりに見当たらない。柄杓だけが地蔵尊の脇に置かれてあった。大黒堂には「喘息(ぜんそく)」封じの仏様も安置されてあった。

 らくがき料は300円、駐車場は「愛の駐車場」と表示されており、駐車料500円を障害者施設などに寄付するとのこと。志納しないわけにはいかない。ただ拝観料が100円なので、京都市内の観光寺に比べれば安く、良いことに使われると思うと拝観してさらに心が晴れやかになる。
 拝観は土・日・月曜日のみの9時~15時、以外の日は予約が必要。

 所在地:京都府八幡市八幡吉野垣内33。
 交通:京阪電車八幡市駅下車、徒歩8分。
 
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 「淀城跡」(よどじょうあと)

2009年02月15日 18時59分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
「淀城」と聞くと、豊臣秀吉の愛妾・秀頼の母だった淀君の居城と思われがちだが、京・大坂を護る徳川幕府の要衝的な城だったもので、享保8年(1723)稲葉氏10万2千石の居城であった。
 明治維新で破却されたが、本丸跡の石垣と内濠の一部が残り、春は桜、夏は蓮の花が咲き、地元の人たちに親しまれている。また、淀君の館が淀城跡北東5百メートルの納所妙教寺あたりにあったと伝えられている。

 淀城跡は、京阪電鉄淀駅の西にあたるが、近くには、京都競馬場があり、城下町であった風情は忘れ去られているかのようだった。城跡の石碑は本丸跡に建っており、石碑の「淀城址」の文字は、子爵・稲葉正凱の手によるものとのこと。
 桂川、宇治川、木津川が合流する淀は、古代から交通の要所であった。西日本から淀川の水運によって平安京に運び込まれる様々な物資は、「淀津」で陸揚げされるのが通例で、中世には川の中島(現在の京阪淀駅周辺)に「魚市」が存在し、都に運び込まれる塩で加工した海産物や塩の販売を一手に掌握していた。
 また、戦国時代には戦闘の拠点として「淀城」がたびたび史料に登場するが、これは現在の納所付近に存在したようである。この古淀城は天正17年(1587)に淀殿の産所として豊臣秀吉によって修築されたが、伏見城の築城計画とともに廃城となった。 

 現在京阪淀駅の北西に隣接して石垣と堀が残る淀城は、室町末期、細川政元が築城しのち廃城になっていたのを、豊臣秀吉が弟の秀長に命じて修理させたが、その後廃城となった。後年、関が原の戦いのの火蓋の舞台となり、廃城していた伏見城にかわる新たな京都護衛の城として、古淀城の宇治川を挟んだ対岸の中島に元和9年(1623)から寛永2年(1625)にかけて築かれた。最初の城主は松平定綱で、寛永10年(1633)には新たな城主である永井尚政が入城する。この永井藩政時代に木津川流路の移動による城下町の拡張が行われた。次いで、寛文9年(1669)には石川憲之、宝永8年(1711)には戸田光熈。享保2年(1717)には松平乗邑と相次いで城主が変った。しかし、享保8年(1723)に春日局の子孫稲葉正知が城主となった後は、幕末まで稲葉家が城主をつとめた。歴代城主はいずれも譜代大名であるが、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは、敗走する幕府軍を入城させず、官軍側についた。このときの戦火で城下が焼亡した。(参考:財団法人 京都市埋蔵文化財研究所調査資料)

 所在地:京都市伏見区淀本町。
 交通:京阪京都線淀駅下車徒歩2分。
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 「清浄華院」(しょうじょうけいん)

2009年02月07日 12時06分30秒 | 古都逍遥「京都篇」
 寺町通広小路を上がったところに、いかにも古刹の風格を漂わせている山門が建っており、浄土宗大本山七ヶ寺の一つに上げられている「清浄華院」である。
 平安時代の貞観2年(860)清和天皇の勅願により、慈覚大師円仁(えんにん)が、天台、真言、仏心、戒律の四宗兼学の禁裏内道場として、土御門内裏(つちみかどだいり)の付近に創建され、御祈願などの清浄の業を精勤したという。当初天台宗に属していたが、浄土宗に改宗したのは後白河天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇が法然上人に帰依したことが縁となり法然にこの寺を与えたことにより浄土宗の寺院として発展した。

 天正13年(1585)豊臣秀吉の都市改造政策により、御所内から現在の地に移されたが、その後、再三の火災にあっている。
 現在の諸堂が再建されたのは明治44年(1911)。明治維新後も数人の皇族の位牌を供養したが、陵墓(りょうぼ)は宮内省(くないしょう)の所管となった。
 本尊を「法然上人御影像」とし、境内伽藍は御影堂(大殿)、大方丈、小方丈、御廟、納骨堂、三門、勅使門などから構成されている。

 寺宝としては、室町時代初期の身代り不動として知られている不動堂の「不動明王画像」で、証空が、師の臨終をむかえて身代りになろうとしたところ、不動明王が現れ「証空の身代りになろう」といわれて、師の病難を救ったという故事がある。重要文化財に指定されている宅間法眼の筆「紙本著色泣不動縁起絵巻」と唐普悦の筆「絹本著色阿弥陀三尊画像」は、ともに国立京都博物館に寄託している。

 当院は、除夜の鐘を撞くことができ、大晦日の午後4時頃から整理券108枚が寺務所で配布される。11時30分から住職が撞き始め、続いて参拝者が撞く。境内には竹明かりが灯され幻想的な雰囲気に包まれる。また、ぜんざいの接待もある。

所在地:京都市上京区寺町広小路上ル北之辺町395。
交通:京阪電鉄・叡電出町柳駅より徒歩約10分、市バス府立医大病院前停留所より約5分。
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「法蔵禅寺」(ほうぞうぜんじ)

2009年02月01日 11時18分29秒 | 古都逍遥「京都篇」
 鳴滝より周山街道を隔ててその北に三方を山にとりかこまれた小さな渓谷地がある。ここは仁和寺宮覚性法親王(鳥羽天皇皇子)の泉殿の旧跡地に因んで、泉谷(鳴滝泉谷町)と呼ばれている。仁和寺を過ぎて福王子神社の交差点を高雄方面に向かい、一つ目の点滅信号のところに嵯峨野病院の看板、その交差点を右折し、病院を過ぎたところを左に急坂を上ると右手に別荘を思わせる山門がたたずんでいる、ここが法蔵禅寺である。左折せず直進すると、時代劇や「京都地検の女」に登場する禅寺の「西寿寺」がある。

 鳴滝(なるたき)は、古くは小松の里とも長尾の里とも呼ばれた古い村落で、鳴滝川(御室川)がこの地に至って滝となり、滔々たる水声が遠くまで鳴りひびいたので鳴滝と呼ばれ、滝に因んで鳴滝村となった。周山街道沿いの民家の背後(鳴滝宅間町)に滝があり、幾段にも岩にせかれて落下しているのがみられる。
 西行法師は、「暫しこそ人目慎みに堰かれけれ果ては涙や鳴滝の川」(山家集、中、恋)と、その奔流に、悲恋に泣く想いを托してうたっている。
 また王朝時代には七瀬の霊所の一つとなり、滝のほとりの清浄な水辺をえらんで、禊祓(みそぎはらい)や祈雨祭等がおこなわれていたという。

 法蔵寺の方丈は、近衛家煕(予楽院)永代祈願所として寄進したものを改めたものと伝えられ、幾度か改修されている。近年まで無住の時代が続き、いつしか小寺となってしまったようだ。趣のある門前は楓が映える隠れた紅葉の穴場である。ぜひ秋に訪れることをお勧めしたい。寺宝は、近衛基煕の念持仏観音菩薩像、百拙元養禅師が描いた自画自賛像や黄檗高泉像、釈迦・文殊・普賢・十六羅漢図十九幅や七条仏師作の十六羅漢像、鳴滝乾山窯時代の陶片等がある。近衛家の家臣渡辺始興の描いた襖絵があったとされているが、現在は不明だという。

 乾山ゆかりの鳴滝窯跡は、境内背後の墓地の一角にある。
 乾山は絵師としてすでに名声を誇っていた兄の光琳の協力のもと数多くの作品を生み出している。制作は13年に及んだが、正徳2年(1712)に乾山(深省と改名)が住
居を二条丁子屋町(にじょうちょうじやちょう 中京区二条寺町)に移したことで鳴滝乾山窯は終わりを遂げる。二条に移ってからの深省(乾山)は、東山の清水等の諸窯に依頼して一般受けする色絵の美しい食器類を多く作って生計を立てた。享保16年(1731)69歳の時、深省は江戸へ下って入谷に住居を移し、以来京都に戻ることはなく、寛保3年(1743)に81歳の生涯を閉じた。
 
 鳴滝乾山窯は、その後、近衛家熙(このえいえひろ=予楽院)と親交のあった百拙元養(ひゃくせつげんよう)和尚が、享保16年(1731)ごろに、予楽院の出資を得、桑原空洞の旧宅をゆずりうけて黄檗宗(おうばくしゅう)の寺とした。
 百拙は京都の人で、高泉和尚の弟子となり、伏見大亀谷の仏国寺や但馬国(兵庫県)にあった興国寺の住職をつとめ、晩年泉谷に閑居し、寛延2年(1749)82歳で没した。詩歌、茶事及び絵画に長けていた、墓所は境内背後にある。

 所在地:京都市右京区鳴滝泉谷町19。
 交通:JR京都駅から市バス26系統で「福王子」下車、徒歩7分。阪急烏丸(四条烏丸)から市バス8系統で「福王子」下車。
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「御金神社」(みかねじんじゃ)

2009年01月25日 08時17分20秒 | 古都逍遥「京都篇」
 金色に輝く鳥居をもつ神社があると聞き、寒波が襲った平成20年の睦月、成人式を控えた土曜日にたずねてみた。ガイドには地下鉄東西線二条城駅前から徒歩3分とあったが、実際に歩いてみると約7分もかかった。二条城駅を降り立ち、堀川通りを東に向かって信号を渡り、烏丸御池通りを東山に向かって三筋目にあたる西洞院通りを北(左)に折れる(上がる)と、程なく住宅にまぎれるように金色の鳥居が現れる。昔から地元の人々に信仰されているお金の神社である。祀っているのは「金山毘古命」(かなやまひこ)で、日本で唯一というお金にりご利益がある神社として近年、口こみやインターネットを通じて有名になりつつある。訪ねたときも金融危機の影響もあるのだろうか多くの参拝者があった。資産運用の神として、また証券類や不動産、造作、転宅、方位、厄除け、更に旅行中の無事安全も護る大神として崇められているようだ。

 いちょうの絵馬には「宝くじが当たりますように」等の願い事が書かれていた。私は昨年、「安井金毘羅宮」(やすいこんぴらぐう)に取材を兼ねての参拝のおり、「縁切り縁結び碑(いし)」に願をかけたこともあり、ここでは賽銭を奉じて手を合わせただけにした。

 創始は、伊邪那岐、伊邪那美、御二柱神の皇子にして、金山毘古命を奉る五元陽交(天の位)の第一位の神で金乃神、金乃類を司る神として祀られたのが起こりと言われている。平家物語の作者が「ぬえ」の住み処としてふさわしい森と称したとも伝えられている。平安末期の安元3年(1178) の大火で洛中の3分の1が焼け、当神社も焼失したという。その後再建されたものの、富士山の大噴火があった翌年の宝永5年(1708)、天明8年(1788)、新撰組が池田屋事件で名をあげた元治元年(1864)など、度々の大火にすべて焼失した。

 現存する当神社の創建者田中庄吉は、現在の金光教の布教者である初代白神新一郎により金光教に入信し、京都で布教を行っていた。明治16年10月6日、金乃神の金にちなんだ、美濃の南宮大社の祭神金山彦命を祀る神社として再興し、「御金神社」と命名した。現在は、金光教との関わりもなくなり、「金神」の宮としての活動も行っていないとのことだが、元々信仰者の多いところに建てた神社のため、地元では親しまれているようだ。

 所在地:京都市中京区西洞院通御池上る押西洞院町618。
 交通:地下鉄東西線二条城前駅から徒歩7分。
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「称念寺」(しょうねんじ)

2009年01月17日 20時56分02秒 | 古都逍遥「京都篇」
 鶴の恩返しや蟹の恩返しなどの物語はあるが、「猫の恩返し」で知られる葵の紋のついたお寺があるというので取材してみた。
 そこは「称念寺」といい浄土宗知恩院派に属した寺号を本空山無量寿院といい、通称「猫寺」ともいわれ広く親しまれている。
 西陣の町並みに埋もれた様な寺で、路地を右に左にくねくねと探し歩いてようく見つけた。わかりやすい目標がなく土地感のない人はたぶん迷うことだろう。猫寺というくらいだから、さぞかし沢山の猫がいる猫屋敷かと思っていたが、意に反して静かなお寺で、すぐに目に付いたのが猫が伏せたような見事な松が配されていた。

 話を聞くと、猫寺名は伝説から生まれた俗称だったのだ。
 開基嶽誉上人が常陸国土浦城主松平信吉の帰依をえて慶長11年(1606)に建立されたもので、嶽誉上人は浄土宗捨世派の祖、称念上人に私淑景仰し、同上人を開山としてその名を冠し寺号を称念寺と定めた。当時300石の寺領を得て寺は栄えたという。しかし松平信吉が没すると共に、松平家と疎遠の仲となり、300石の寺領も途絶え、寺観は急激に色あせていく。

 信吉は元和6年(1620)8月1日に没し、当寺に葬られている。信吉の母は、徳川家康の御妹で信吉と家康公義兄弟に当り、当寺の寺紋として三ッ葵が許された。
 猫伝説について紹介しておくと、三代目の住職還誉上人の頃の話となるが、和尚は1匹のかわいい猫を飼っていた。寺禄を失った和尚の日課のほとんどは、その毎日を托鉢によ
る喜捨にたよるしかありませんでした。しかし、猫を愛した和尚は自分の食をけずっても愛猫を手放すことはなかった。

 そんなある日の名月の夜、和尚は疲れた足をひきずるようにして托鉢を終え寺へ帰ってきて、山門をくぐり本堂に近づいた時、ギョッとしてそこへ棒立ちになった。世にも美しい姫御前が優美な衣装を身にまとい月光をあびながら、扇をかざし優雅に舞っていた。本堂の障子には、月光により姫御前の後姿が愛猫の影として映し出されてた。愛猫の化身ときづくと和尚は、「自分はこんなに苦労しているのに、踊り浮かれている時ではあるまい」と立腹し、心ならずとも愛猫を追い出してしまった。
 姿を消した愛猫は数日後、和尚の夢枕に立ち、「明日、寺を訪れる武士を丁重にもてなせば寺は再び隆盛する」と告げた。翌朝その通りに松平家の武士が訪れ、亡くなった姫がこの寺に葬ってくれるよう遺言したと伝え、以後松平家と復縁した寺は以前にも増して栄えたという。

 和尚が境内に愛猫を偲んで植えたと伝えられる老松がある。一本の太い枝が地面と平行に20メートルにも及び、横にのびた姿は猫が伏した姿を表わすといい、猫松とも呼ばれている。山門は老朽化により平成10年に再建された。

 所在地:京都市上京区寺之内通浄福寺西入上る西熊町275。
 交通:ます京都駅より市バス206号系統(北大路回り)「乾隆校前(けんりゅうこうまえ)」下車、徒歩6分。
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 「安楽寿院」(あんらくじゅいん)

2009年01月11日 22時06分43秒 | 古都逍遥「京都篇」
 正月も近くなった師走29日、ぶらりと古刹取材に出かけた。
 お目当ては「安楽寿院」で、名神高速道路京都南インターチェンジに近い京都市伏見区竹田にある真言宗智山派の古刹で、山号を持たない寺院である。境内に接して鳥羽天皇と近衛天皇の陵がある。
 付近一帯は平安時代末期(11~12世紀)、院政の舞台となった鳥羽離宮の跡地である。

 鳥羽離宮(鳥羽殿)は、応徳3年(1086)、白河天皇が退位後の居所として造営を始めたもので、平安京の南に位置する鳥羽の地は桂川と鴨川の合流点にあたり、交通の要衝であるとともに風光明媚な土地でもあったという。東西約1・2~1.5km、南北約
1kmの中に御所、庭園、仏堂などがあった。その後、北殿、泉殿、馬場殿、東殿、田中殿などが相次いで建設され、白河・鳥羽・後白河の三代の院政の舞台となった。
 当時栄華を誇った貴族たちは連日のようにこの地を訪れ、舟遊びや歌合わせなどに興じ、華やかな貴族文化の舞台になっていたという。離宮の東殿に保延3年(1137)に御堂が建てられ、保延5年(1139)に右衛門督藤原家成によって三重塔が建てられた。後に本御塔(ほんみとう)と呼ばれるこの塔は上皇が寿陵(生前に造る墓)として造らせたものであり、上皇(康治元年・1142年に落飾して法皇となる)が保元元年(1156)に没した際、この本御塔が墓所とされている。
 
 現在の安楽寿院の本尊である阿弥陀如来像は、この本御塔の本尊として造られたものと推定されている。当時の寺領は日本各地に膨大な荘園が寄進され、これらは安楽寿院領(後に娘の八条院子に引き継がれて八条院領と称される)として、天皇家(大覚寺統)の経済的基盤となっていた。
 現在茨城県から九州の間に散在し、最盛期には32国63ヶ荘に及んでいたという。
 その後、南北朝争乱により寺領の多くを失った。桃山時代になり豊臣秀吉より近辺の五百石分の寺領が保証され、江戸時代も徳川歴代将軍より寺領を安堵された。江戸期には12院5坊の塔頭を要する学山として多くの学匠を輩出しているという。幕末には安楽寿院が鳥羽・伏見の戦いの本営となった。

 重要文化財に指定されている「木造阿弥陀如来坐像」は、像高87.6cmの寄木造。平安時代末期に皇族・貴族に人気があったという定朝様(じょうちょうよう)の穏やかな趣が漂う仏像である。胸の中央に卍を刻むことから「卍阿弥陀」の称がある。光背の中心部分と台座の大部分も当初のものという。台座は各所に宝相華文を浮き彫りし、像表面だけでなく胎内にも金箔を押す入念な作である。台座内に天文23年(1554)の修理銘があり、そこに「西御塔本尊」とあることなどから、保延5年に建てられた三重塔(本御塔)の本尊として造られたものと推定されている。作者は不明とあるが、鳥羽離宮内の勝光明院などの造仏を手がけた仏師・賢円の作と推定されているようだ。

 鐘楼は慶長11年(1606)に豊臣秀頼の命により大修復されたときに建立されたもので、現在は柱、梁に当時の材を残すのみ。梵鐘は元禄5年(1692)に鋳造されたもので、除夜の鐘の時にのみ撞くと言う。
 大師堂は、慶長元年(1596)、山城、伏見に大地震が起き、新御塔が倒壊した。そのとき散在した材料で、とりあえず本尊を祀るために建てたものだという。現在も本尊の他、大日如来、薬師如来、聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、歓喜天など旧塔頭の仏像を安置している。

 石造五輪塔は、鎌倉時代の弘安10年(1287)の年号が刻まれており、3mもある堂々としたもので、鎌倉時代の典型的な優れた形の五輪塔で重要文化財に指定されている。観光寺ではないため境内は自由に出入りできる(仏像拝観は要事前申込み、075-601-4168)。当院から城南宮が近いため併せて散策されるとよい。

 所在地:京都市伏見区竹田中内畑町74。
 交通:近鉄京都線・京都市営地下鉄烏丸線竹田駅下車、徒歩約7分。
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「宝積寺」(ほうしゃくじ)

2008年11月18日 15時13分54秒 | 古都逍遥「京都篇」
 地元の人らしき人に宝積寺を尋ねると、よく分からない様子。そこで、“竜神が授けたという打出の小槌を祀ってあるお寺と”と聞くと、「ああ、それなら宝寺だね」と言い、行き道を詳しく教えてくれた。小槌を宝とするというところから土地の人は「宝寺」呼んでいるようで、大黒天宝寺とも称されている。

 当寺は、木津川、宇治川、桂川の三川が合流するところで、天正10年(1582)羽柴秀吉と明智光秀が天下をかけて戦った「天王山」の中腹に建っている。天王山の中腹ながら境内は広い。山門から一直線にのびる参道の右側に重要文化財の三重塔。この塔は、秀吉が山崎の戦いの勝利記念に一晩で建立したと言われる三重塔、通称「一夜之塔」と伝承されている。

 塔の傍に17烈士の塔が見られる。元治元年(1864)の蛤御門の変の時、長州藩に加わった久留米水天宮の真木和泉守(まきいずみのかみ)ら十七名が敗走しこの宝積寺へこもったが、討伐軍に包囲されたことから自決。住持が最期を哀れみ、忍んで天王山の中腹に埋葬した。
 さらに参道を進むと本瓦葺の本堂がある。本尊の十一面観音菩薩(国重文)が安置。本堂左横にある「小槌宮」に大黒天が祀られ、打出と小槌もこの堂に祀られている。本堂と小槌宮の間の奥に、聖武天皇の供養のために建てられた九重の石塔がある。また、本堂右後方の池畔には、弁才天堂がある。

 宝積寺は貞永元年(1232)の火災で焼失しており、現存する仏像等はこれ以降のものである。それ以前の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995-999年)寂昭が中興したという。寂昭は俗名を大江定基といい、『今昔物語集』所収の説話で知られる。それによれば、彼は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、世をはかなんで出家したという。11世紀末から12世紀初めの成立と思われる『続本朝往生伝』(大江匡房著)には早くも当寺の通称である「宝寺」の名が見える。また、藤原定家の日記「明月記」には建仁2年(1202)に宝積寺を訪れたことが記されており、近年では明治時代に、夏目漱石が「漱石日記」に宝積寺について記している。

 ここで「宝寺」と呼称する由来を紹介しておこう。
 奈良時代の養老7年(723)、第42代文武(もんむ)天皇の皇子の夢枕に竜神(雨をいのままにする竜神)が現れ、打出と小槌を出して「これで左の手のひらを打てば果報が授かる」と言って天へ舞い上がった。
 翌朝、皇子が目を覚ますと枕元に打出と小槌が置かれていた。皇子は半信半疑で竜神が言ったとおり左手のひらを打った。翌年、皇子は即位、第四15代聖武天皇となったという。聖武天皇は竜神を崇敬し故事に則って恵方(乾・北西)の方に小槌を奉納することになった。平城京(奈良)からの恵方(北西)が山崎村で、打出と小槌を奉納する宝積寺が建立され、その後、大黒天神が祀られたことから、いつしか大黒様の打出の小槌の神話にあわせ、この寺を「宝寺」と呼ぶようになったという。

 所在地:京都府乙訓郡大山崎町大山崎銭原1。
 交通:阪急電鉄河原町線「大山崎駅」下車・JR東海道線「山崎駅」下車、北へ徒歩約8分。
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