断捨離をすることで、家の中の多くのものが減りました。
その中でも特に「減ったなあ」と感じたのが、「収納スペース」です。
プリンターやファックスを置いていた収納棚を、
資料を減らすことで開いた本棚の一段分に移動したら、
巨大な収納棚がまるまるひとつ必要なくなり、
保存食を得意とする知人に譲る運びとなりました。
ジャムや瓶詰めを置く棚として使っていただいています。
古い机を本置きスペースに使っていたが、
それもなくしました。
さらに、洗濯機スペースにあった雑巾置きスペースも、
雑巾を減らし、洗剤を減らし、かつての半分以上の空間を作りました。
台所にあった収納棚も、スパイス類や多量の瓶を(使い切ることで)処分し、
半分以上のスペースがあき、
収納棚をのこぎりで半分に切って、何も存在しない壁スペースを増やしました。
これまで、ずっと「それは絶対に絶対に必要だ」と思っていた「収納スペース」が
ひとつ、またひとつと減っていくことで、
大きな気づきがありました。
それは、この家族部屋に、
明確な「夫の居場所スペースがない」ということです。
これは大きな気づきであり、同時にショッキングなことでもありました。
私のスペースは確実にあるのです。
仕事をするためのパソコン置き場となる机やら本棚がそれです。
しかし夫のスペースと呼べるような「モノ」(椅子なり机なり)が
何もないのです!
これは(夫への)人権侵害(??)ではないか??
私は夫に訪ねてみました。
「私には仕事スペースという居場所があるけれども、
あなたにはそれがどこにもないじゃないか。
いつも私にそれを譲っていたのだね?
いつもきゅうきゅうとして暮らしていたんだね。すまないね。」
(もっと長く話したような気もするが、かいつまんで)
と。
すると、夫はひどく驚いて
「妻よ、ついに気づいたか」くらいの顔で、
「そんなことに気づくことができるなんて、断捨離とはなんと素晴らしい行為だろう」
(演劇風?)
みたいなことを言った。
これまでの私は、どんなに自分のモノで自分の居場所を
動物がテリトリーを主張するように、作っても、作っても、満足することはありませんでした。
それどころか、もっともっとという感じで、モノを積んでは
自分の居場所を作り出していました。
(そのモノ積み場は、通称「堆肥場」と呼ばれていた)
だけど、いくら作っても私は、満足することはなく、
それどころか
「まだ足りない。私にはまだ自分の居場所がない」と主張していました。モノで。
資料を置くことで、本を置くことで、その主張をしていたのだから、
部屋は狭かっただろうし、
表情もツンツンしていたことだろうと思います。
「その妻が、まさか他人(夫のこと)の居場所について、
想いを巡らすようになるなんて」と感嘆しまくり。
夫は、私の先の質問に対し、
「俺は自分の居場所なんていらないから」と言い、
「どんな場所でも、自分のスペースにすることができるから」とあっけらかんと言いました。
そして「それよりも何よりも、
そんなことを気づくことができたなんて、本当に妻は別人のようになった」
とまた言った。
私はこれまで、夫が自分のテリトリーとなるような「モノ」を買うことを
極端に嫌っていました。
なぜなら、自分の居場所が減ることが嫌だったから。
それは、かなり間違った思い込みだと今なら気づけるのだけれども。
猛省。
去年の夫の誕生日には、
夫が欲しいと言っていた椅子を買いました。
(それすら小さな省スペースですむ椅子だ)
予期せぬプレゼントを、夫はとても喜んでくれました。
本当に「予期せぬ」って感じだったでしょうねえ。
時々椅子を居間に持ち込んでは、自分スペースを楽しんでいます。
その中でも特に「減ったなあ」と感じたのが、「収納スペース」です。
プリンターやファックスを置いていた収納棚を、
資料を減らすことで開いた本棚の一段分に移動したら、
巨大な収納棚がまるまるひとつ必要なくなり、
保存食を得意とする知人に譲る運びとなりました。
ジャムや瓶詰めを置く棚として使っていただいています。
古い机を本置きスペースに使っていたが、
それもなくしました。
さらに、洗濯機スペースにあった雑巾置きスペースも、
雑巾を減らし、洗剤を減らし、かつての半分以上の空間を作りました。
台所にあった収納棚も、スパイス類や多量の瓶を(使い切ることで)処分し、
半分以上のスペースがあき、
収納棚をのこぎりで半分に切って、何も存在しない壁スペースを増やしました。
これまで、ずっと「それは絶対に絶対に必要だ」と思っていた「収納スペース」が
ひとつ、またひとつと減っていくことで、
大きな気づきがありました。
それは、この家族部屋に、
明確な「夫の居場所スペースがない」ということです。
これは大きな気づきであり、同時にショッキングなことでもありました。
私のスペースは確実にあるのです。
仕事をするためのパソコン置き場となる机やら本棚がそれです。
しかし夫のスペースと呼べるような「モノ」(椅子なり机なり)が
何もないのです!
これは(夫への)人権侵害(??)ではないか??
私は夫に訪ねてみました。
「私には仕事スペースという居場所があるけれども、
あなたにはそれがどこにもないじゃないか。
いつも私にそれを譲っていたのだね?
いつもきゅうきゅうとして暮らしていたんだね。すまないね。」
(もっと長く話したような気もするが、かいつまんで)
と。
すると、夫はひどく驚いて
「妻よ、ついに気づいたか」くらいの顔で、
「そんなことに気づくことができるなんて、断捨離とはなんと素晴らしい行為だろう」
(演劇風?)
みたいなことを言った。
これまでの私は、どんなに自分のモノで自分の居場所を
動物がテリトリーを主張するように、作っても、作っても、満足することはありませんでした。
それどころか、もっともっとという感じで、モノを積んでは
自分の居場所を作り出していました。
(そのモノ積み場は、通称「堆肥場」と呼ばれていた)
だけど、いくら作っても私は、満足することはなく、
それどころか
「まだ足りない。私にはまだ自分の居場所がない」と主張していました。モノで。
資料を置くことで、本を置くことで、その主張をしていたのだから、
部屋は狭かっただろうし、
表情もツンツンしていたことだろうと思います。
「その妻が、まさか他人(夫のこと)の居場所について、
想いを巡らすようになるなんて」と感嘆しまくり。
夫は、私の先の質問に対し、
「俺は自分の居場所なんていらないから」と言い、
「どんな場所でも、自分のスペースにすることができるから」とあっけらかんと言いました。
そして「それよりも何よりも、
そんなことを気づくことができたなんて、本当に妻は別人のようになった」
とまた言った。
私はこれまで、夫が自分のテリトリーとなるような「モノ」を買うことを
極端に嫌っていました。
なぜなら、自分の居場所が減ることが嫌だったから。
それは、かなり間違った思い込みだと今なら気づけるのだけれども。
猛省。
去年の夫の誕生日には、
夫が欲しいと言っていた椅子を買いました。
(それすら小さな省スペースですむ椅子だ)
予期せぬプレゼントを、夫はとても喜んでくれました。
本当に「予期せぬ」って感じだったでしょうねえ。
時々椅子を居間に持ち込んでは、自分スペースを楽しんでいます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます