大吟醸ケーキのラベルデザインの仕事の時、
蝋型鋳金(ろうがたちゅうきん)の技術保持者・宮田藍堂(みやたらんどう)さんの自宅や
本間琢斎(ほんまたくさい)さんの生家を描かせていただいたこともあって
漠然と鋳金に興味を持ち始めていました。
「見てみたいな~」と。
そんな時、金井・泉の「杜(もり)の広場」で、蝋型鋳金(ろうがたちゅうきん)の
展示会が催されるという折込チラシを見つけ、早速出かけてみました。
蝋型鋳金とは、ものすご~く大雑把に言うと、
蜜蝋(みつろう)で作品の原型を作って、型を作り、それに溶かした銅合金
(銅・鉛・錫・亜鉛など)を入れて作品を作る、というものです。
(本当に大雑把ですが…)
元々は、大砲を作るための技術だったらしいのですが
戦争が終わり平和な世になってからは、
民芸品(といっていいのかな?)などの作品を中心に技術が継承されていったそうです。
この歴史はおもしろい!
戦争のための殺生の技術が、民芸品の技術として転換されていき、さらに
無形文化財、さらには人間国宝の誕生(佐々木象堂氏)にまでつながっているのですから。
これは平和が生み出した技術でもあるんじゃないかな、などと思いました。
会場では50点以上もの作品が一同に見られる中々ない機会でした。
東京の美術館だったら間違いなくガラス越しに見なくてはいけないだろう作品の数々が
手に触れられる位置に置かれていました。
佐渡のルーズなところであり、いいところでもあると思います
そんな中で私が一番心魅かれた作品はこちら。
おそらく錫(すず)で作られた(と思われる)茶托です。
雀と稲が描かれているのですが、こんな小さな茶托に
なんとも細部に至るまで生き物が細かく細かく描かれています。
手のひら大の大きさにすぎない茶托に、羽の模様までわかるように
細かく描こうとする、これを作られた方はどんな人だったのだろう、と興味がわきます。
木や竹のような素材を愛する日本人にとって、錫や銅というと「冷たい」イメージを持つもの
素材なのですが、この作品にはそうした冷ややかさを感じさせません。
触れたら温かいのではないか、と思わせるくらいの暖かみを感じるのは
描かれた被写体の素朴さもさることながら、
作った人の暖かさもあるのではないかな、などと想像します。
他に、魯山人を思わせる蟹が遊ぶ壺や…
西洋を思わせるゴージャスな「手洗い」など…
(でも、カエルや蟹が蕗の葉っぱで遊んでいるところなどは和を感じさせます)
一見の価値ありの作品が沢山です。
「蝋型鋳金」というと、聞きなれない単語というだけでなく
その芸術の説明を読むと、
「無形文化財」だったり、技術保持者が「国宝」だったり、と敷居の高さばかりが
先に立ってしまいがちですが、
(だから私は中々興味を持てませんでした)
そうした「ブランド」の色眼鏡を外すと、不思議なことに「素朴さ」さえ感じます。
大砲を作る技術から、壺や茶托、香炉などを作り始めた頃は
当然無名な一職人に過ぎなかったのですよね。
そう思えば、こうした芸術作品も
「暮らし」と密接につながった日用品と見ても失礼にはあたらないのではないかと
思います。
日々の生活の糧を得るために、磨き上げた技術は遊び心も手伝って、
芸術という高みまで登ることができたのだろうなあ、と想像しました。
※この展示会は2月末頃まで金井・泉の「杜の広場」で開催されています。
入場無料です。おススメです。
蝋型鋳金(ろうがたちゅうきん)の技術保持者・宮田藍堂(みやたらんどう)さんの自宅や
本間琢斎(ほんまたくさい)さんの生家を描かせていただいたこともあって
漠然と鋳金に興味を持ち始めていました。
「見てみたいな~」と。
そんな時、金井・泉の「杜(もり)の広場」で、蝋型鋳金(ろうがたちゅうきん)の
展示会が催されるという折込チラシを見つけ、早速出かけてみました。
蝋型鋳金とは、ものすご~く大雑把に言うと、
蜜蝋(みつろう)で作品の原型を作って、型を作り、それに溶かした銅合金
(銅・鉛・錫・亜鉛など)を入れて作品を作る、というものです。
(本当に大雑把ですが…)
元々は、大砲を作るための技術だったらしいのですが
戦争が終わり平和な世になってからは、
民芸品(といっていいのかな?)などの作品を中心に技術が継承されていったそうです。
この歴史はおもしろい!
戦争のための殺生の技術が、民芸品の技術として転換されていき、さらに
無形文化財、さらには人間国宝の誕生(佐々木象堂氏)にまでつながっているのですから。
これは平和が生み出した技術でもあるんじゃないかな、などと思いました。
会場では50点以上もの作品が一同に見られる中々ない機会でした。
東京の美術館だったら間違いなくガラス越しに見なくてはいけないだろう作品の数々が
手に触れられる位置に置かれていました。
佐渡のルーズなところであり、いいところでもあると思います
そんな中で私が一番心魅かれた作品はこちら。
おそらく錫(すず)で作られた(と思われる)茶托です。
雀と稲が描かれているのですが、こんな小さな茶托に
なんとも細部に至るまで生き物が細かく細かく描かれています。
手のひら大の大きさにすぎない茶托に、羽の模様までわかるように
細かく描こうとする、これを作られた方はどんな人だったのだろう、と興味がわきます。
木や竹のような素材を愛する日本人にとって、錫や銅というと「冷たい」イメージを持つもの
素材なのですが、この作品にはそうした冷ややかさを感じさせません。
触れたら温かいのではないか、と思わせるくらいの暖かみを感じるのは
描かれた被写体の素朴さもさることながら、
作った人の暖かさもあるのではないかな、などと想像します。
他に、魯山人を思わせる蟹が遊ぶ壺や…
西洋を思わせるゴージャスな「手洗い」など…
(でも、カエルや蟹が蕗の葉っぱで遊んでいるところなどは和を感じさせます)
一見の価値ありの作品が沢山です。
「蝋型鋳金」というと、聞きなれない単語というだけでなく
その芸術の説明を読むと、
「無形文化財」だったり、技術保持者が「国宝」だったり、と敷居の高さばかりが
先に立ってしまいがちですが、
(だから私は中々興味を持てませんでした)
そうした「ブランド」の色眼鏡を外すと、不思議なことに「素朴さ」さえ感じます。
大砲を作る技術から、壺や茶托、香炉などを作り始めた頃は
当然無名な一職人に過ぎなかったのですよね。
そう思えば、こうした芸術作品も
「暮らし」と密接につながった日用品と見ても失礼にはあたらないのではないかと
思います。
日々の生活の糧を得るために、磨き上げた技術は遊び心も手伝って、
芸術という高みまで登ることができたのだろうなあ、と想像しました。
※この展示会は2月末頃まで金井・泉の「杜の広場」で開催されています。
入場無料です。おススメです。
くしくも、前回コメントの羽織の持ち主は、わたしが働いていた大学の金工の先生なのです。
その先生に鋳金の作業も見学させてもらいました。
専門は鍛金(銅板を叩いて器などを作る)の方です。
とても素敵な先生で、わたしはその先生に工芸の素晴らしさを教わりました。
工芸って本当に豊かな世界ですよね。そしてそれが生活の中から生まれたというのがとても素敵だと思います。
今は、高くて手が出ない、使えない、っていうのが現実の面もあると思いますが・・・。
平和が生み出した技術、っていいですね。
以前、どっかの博物館で、コンピューターの歴史の展示を見ました。初期の電子計算機から、パソコン、スーパーコンピュ―ターに至るまで。ただ、ずっとたどっていくと、あるところから、戦争の道具として重宝され、発展してきた様が色濃くなっていくのです。背筋が寒くなる思いがしました。
平和とつながる技術の方を、平和と繋げる心の方を大切にしていかなければなぁ、と思います。
けいちゃんの文章読んでいると、いろんなこと思い出して考えるなぁ。
鋳金のお値段は書いていなかったので、逆に純粋に作品を見ることができたんだなあ、と思います。
工芸は本当に豊かだね。人の手から生み出される豊かさがあるね。国宝級じゃなくてもどんなものにも多かれ少なかれ、そういう豊かさがあるように思います。一生懸命に作ったものなら。
町のお店売っている農家のおばちゃんが農閑期に作った陶芸を売っているお店があるんだけれど、そこも時々「おっ」というようなのが売ってたりするよ。
平和につながる技術…、そうだね~。
豊かに発達した文化にはそれにつながるものが必ずあるように思うな。
人のほうの精神面が、人がもっともっと利口になれば、そっちの方面を掘り下げることに力をそそげるんじゃないかなあ、と思ったりします。うまく言えないけど、なんとなくそう思ったりします。はい。
佐渡の蔵を見る目が変わりました。やっぱり佐渡にお宝鑑定団が来るのもわかります。いや私のほうこそくだらないことを書いてしまいました。失礼いたしました。