3週間前の水曜日、家族で海辺の居酒屋でランチを食べている時に
NHKニュースで、その報を知りました。
県議会審議に必要とされる3万9084筆を大きく上回る
6万7356筆を集めながらも、
議員の過半数の賛成を上回ることができず、県民投票実施に至りませんでした。
署名をお願いするブログを何度かアップし、その声にこたえていただいた方も
多くいらっしゃいました。
今さらながら、心からありがとうございました、と伝えたいです。
と、同時に今回の結果、に対して、私自身どう思うか伝えなくてはいけないなあ、と思いつつ
のびのびになってしまい、ごめんなさい。
あれから数週間、ずっと考えていました。
県民投票が実施されればよいなあ、と思っていました、もちろん。
そのために、1歳に満たない子どもを抱えてビラをまき、街頭署名に立ちました。
繰り返しになりますが3万9084筆を大きく上回る
6万7356筆を集めたのです。
県内で6万人もの人間が、原発の存在に対し疑問を持っているのです。
だから、原発に対し「原発を持つべきか」「持たぬべきか」
その真意を問いただしたかった、のです。
この数字は決して軽くみてはいけないと、今も思っています。
実施に対し、反対議員は44名、賛成議員は7名でした。
圧倒的多数です。
議会に提出した「民意」と真逆の結果です。
「原発は国策だから地方では決められない」というのが
主な否決理由ですが、真意と誠意がありません。
「県民投票が実施されて、これから何でも県民投票しようと言い出したらどうする。」
と発言した議員もいたそうで、
「政治のことは政治家にまかせておけ」とする態度には、
「政治の貧困」という言葉がぴったりくる発言でした。レベルが低すぎる発言でした。
貧しすぎるんですね、政治が。
まかせておけるならまかせたいのですが、まかせておけないことばかりしているのです。
民衆が毎週デモをしているこの状況は、異常事態といえる社会状況だとある海外記者は報じています。
「国策」を作る自民党は原発を支持し続けた、そして今も支持し続ける党です。
「自民党が原発を支持するから国民もそれに従え」と言っているわけです。
「国策だから、どんなものでも従わねばならない」という考え方には、
日本が太平洋戦争に突入していった時の社会的ムードを想像させます。
「何故、日本があの無謀な戦争に進んでいったのか」という疑問に対し、
何冊も読んだ本から想像される、あの社会的空気を。
ナチスがユダヤ人は強欲だからいなくなったほうがよい、とした考え方を
不景気という社会状況に便乗して主張し、
それに大衆が「合意」した社会状況にも似ているように感じます。
原発事故によって自殺した酪農家がいること、
原発事故によって住んでいた場所にすら帰れない被災者が今も大勢いる状況も全く変わっていません。
福島県で甲状腺ガンになった方が3人と公表されました。
子ども(の甲状腺ガンの発症率)は100万人に1人と言われている中での数字です。
それでもなお、
景気を最優先することを明言し、国の借金を増やして公共事業を増やし、
生活保護費を2割削減する、とするその政治の方向性は「貧乏人は生きている価値はなし」と言っていることと
なんら変わりありません。
国には被災者の「生きる場」「住む場」を保障する姿勢責任を垣間見ることもできません。
行政は、民意によって支えられています。
私にはこの民意が、「作られた民意」に思えてなりません。
6万7356筆もの署名は、ただそこに事務局があるから自動的に集まったものではありません。
これまで社会的な運動というものと全く無縁であった若い人たちが
全て手弁当で、善意によるカンパだけに支えられて、事務局運営をしていきながら
はいつくばるような想いで集めた署名です。
後半にはカンパは途切れ、通信の郵送のお金すら捻出できない状況の中での運動でした。
その活動を共に支えた古くからの反原発活動家の友人は
「これまでの活動の空気とは明らかに違うものがあった」と振り返り、
新しい世代の到来を喜んでいます。
若い世代が、はじめて、なんとかしなくてはいけない、と立ち上がり、
そしてその声を見事に権力が足蹴にした、と感じます。
この結果に対し、あるいは、脱原発の声を封じ込めたいとする想いが新潟県議会から感じ取れます。
でも、それはいけない。
と感じます。
何を目的にして、
どう表現し、どんな風に発信し、
何ができるのか、
今、誰もが考えなければいけないのではないか、と思います。
「残念だった」の一言で終わらせるような、そんな民意じゃないぜ、ということで。
静岡県、大阪、東京、新潟・・・。住民投票をやろうとした全ての県全滅という事実を前にすると、どうもこの国は民主国家とは言いがたい。
歴史をもっとしっかり見据えたい、と思う母に1クリックを
NHKニュースで、その報を知りました。
県議会審議に必要とされる3万9084筆を大きく上回る
6万7356筆を集めながらも、
議員の過半数の賛成を上回ることができず、県民投票実施に至りませんでした。
署名をお願いするブログを何度かアップし、その声にこたえていただいた方も
多くいらっしゃいました。
今さらながら、心からありがとうございました、と伝えたいです。
と、同時に今回の結果、に対して、私自身どう思うか伝えなくてはいけないなあ、と思いつつ
のびのびになってしまい、ごめんなさい。
あれから数週間、ずっと考えていました。
県民投票が実施されればよいなあ、と思っていました、もちろん。
そのために、1歳に満たない子どもを抱えてビラをまき、街頭署名に立ちました。
繰り返しになりますが3万9084筆を大きく上回る
6万7356筆を集めたのです。
県内で6万人もの人間が、原発の存在に対し疑問を持っているのです。
だから、原発に対し「原発を持つべきか」「持たぬべきか」
その真意を問いただしたかった、のです。
この数字は決して軽くみてはいけないと、今も思っています。
実施に対し、反対議員は44名、賛成議員は7名でした。
圧倒的多数です。
議会に提出した「民意」と真逆の結果です。
「原発は国策だから地方では決められない」というのが
主な否決理由ですが、真意と誠意がありません。
「県民投票が実施されて、これから何でも県民投票しようと言い出したらどうする。」
と発言した議員もいたそうで、
「政治のことは政治家にまかせておけ」とする態度には、
「政治の貧困」という言葉がぴったりくる発言でした。レベルが低すぎる発言でした。
貧しすぎるんですね、政治が。
まかせておけるならまかせたいのですが、まかせておけないことばかりしているのです。
民衆が毎週デモをしているこの状況は、異常事態といえる社会状況だとある海外記者は報じています。
「国策」を作る自民党は原発を支持し続けた、そして今も支持し続ける党です。
「自民党が原発を支持するから国民もそれに従え」と言っているわけです。
「国策だから、どんなものでも従わねばならない」という考え方には、
日本が太平洋戦争に突入していった時の社会的ムードを想像させます。
「何故、日本があの無謀な戦争に進んでいったのか」という疑問に対し、
何冊も読んだ本から想像される、あの社会的空気を。
ナチスがユダヤ人は強欲だからいなくなったほうがよい、とした考え方を
不景気という社会状況に便乗して主張し、
それに大衆が「合意」した社会状況にも似ているように感じます。
原発事故によって自殺した酪農家がいること、
原発事故によって住んでいた場所にすら帰れない被災者が今も大勢いる状況も全く変わっていません。
福島県で甲状腺ガンになった方が3人と公表されました。
子ども(の甲状腺ガンの発症率)は100万人に1人と言われている中での数字です。
それでもなお、
景気を最優先することを明言し、国の借金を増やして公共事業を増やし、
生活保護費を2割削減する、とするその政治の方向性は「貧乏人は生きている価値はなし」と言っていることと
なんら変わりありません。
国には被災者の「生きる場」「住む場」を保障する姿勢責任を垣間見ることもできません。
行政は、民意によって支えられています。
私にはこの民意が、「作られた民意」に思えてなりません。
6万7356筆もの署名は、ただそこに事務局があるから自動的に集まったものではありません。
これまで社会的な運動というものと全く無縁であった若い人たちが
全て手弁当で、善意によるカンパだけに支えられて、事務局運営をしていきながら
はいつくばるような想いで集めた署名です。
後半にはカンパは途切れ、通信の郵送のお金すら捻出できない状況の中での運動でした。
その活動を共に支えた古くからの反原発活動家の友人は
「これまでの活動の空気とは明らかに違うものがあった」と振り返り、
新しい世代の到来を喜んでいます。
若い世代が、はじめて、なんとかしなくてはいけない、と立ち上がり、
そしてその声を見事に権力が足蹴にした、と感じます。
この結果に対し、あるいは、脱原発の声を封じ込めたいとする想いが新潟県議会から感じ取れます。
でも、それはいけない。
と感じます。
何を目的にして、
どう表現し、どんな風に発信し、
何ができるのか、
今、誰もが考えなければいけないのではないか、と思います。
「残念だった」の一言で終わらせるような、そんな民意じゃないぜ、ということで。
静岡県、大阪、東京、新潟・・・。住民投票をやろうとした全ての県全滅という事実を前にすると、どうもこの国は民主国家とは言いがたい。
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