佐和田・沢根に佐渡ではじめての私塾が残されています。
名前は「励風館」(れいふうかん)といい、江戸後期の1825年に作られました。
茶室のように小さく、何も事情を知らなければ、どなたかの別荘のようでもあります。
建物内の広さから推測して、10人入れるかどうかという雰囲気で、
塾というには余りに小さい私塾、
だけど、歴史をひもといてみると、こんな小さな塾を作るために幾多もの困難を乗り越えて
作り上げた苦心の跡が残っています。
励風館が作られた江戸時代当時は、
私学(独学で何かを勉強すること、ということととらえています)
に対して奉行所のチェックが厳しく、弾圧さえもあったそうです。
そのため、この建物を拡大建築することはかなわなかった、といわれています。
この励風館を作ったのは、
沢根・五十里の酒屋主人・矢島主計(やじまかずえ)といい、
江戸の漢学の権威・亀田鵬斎(かめだ・ぼうさい)に師事しながらも、
文化の遅れている佐渡を啓発し、学問を奨励するためにこの私塾を作り、
さらに、荒野の開墾や窯業など、様々な業績を残した人物だそうです。
江戸で勉強しつつも、佐渡に戻って荒地の開墾なんていう肉体労働にも従事したというところが
個人的に、かなりぐっときてしまいました(笑)←苦労話好き
彼の人を思いつつ、励風館の玄関口で、しまやの励風最中をいただきつつ、
読みかけの本を読みました。
ちなみに励風館の意味は、
「微(び)を孤島に啓(ひら)き風を遠裔(えんえい)に励(はげ)ます」から
励風の2字をとったそうで、この塾にかけた思いの強さが感じられます。
この塾から偉人がでた、という史実はありませんが、
佐渡史実にとって、非常に大きな一歩という感じがします。
多くの史実は残されないまま、創造の余地のたくさん残した
佐渡の歴史をしのびつつ、時間を過ごすのはすごく好きな時間の過ごし方です。
今度はコーヒーでも持ってこようかな。
(注意※ 裏が竹やぶのためやぶ蚊が大変多いです。虫対策をしてお出かけください)
名前は「励風館」(れいふうかん)といい、江戸後期の1825年に作られました。
茶室のように小さく、何も事情を知らなければ、どなたかの別荘のようでもあります。
建物内の広さから推測して、10人入れるかどうかという雰囲気で、
塾というには余りに小さい私塾、
だけど、歴史をひもといてみると、こんな小さな塾を作るために幾多もの困難を乗り越えて
作り上げた苦心の跡が残っています。
励風館が作られた江戸時代当時は、
私学(独学で何かを勉強すること、ということととらえています)
に対して奉行所のチェックが厳しく、弾圧さえもあったそうです。
そのため、この建物を拡大建築することはかなわなかった、といわれています。
この励風館を作ったのは、
沢根・五十里の酒屋主人・矢島主計(やじまかずえ)といい、
江戸の漢学の権威・亀田鵬斎(かめだ・ぼうさい)に師事しながらも、
文化の遅れている佐渡を啓発し、学問を奨励するためにこの私塾を作り、
さらに、荒野の開墾や窯業など、様々な業績を残した人物だそうです。
江戸で勉強しつつも、佐渡に戻って荒地の開墾なんていう肉体労働にも従事したというところが
個人的に、かなりぐっときてしまいました(笑)←苦労話好き
彼の人を思いつつ、励風館の玄関口で、しまやの励風最中をいただきつつ、
読みかけの本を読みました。
ちなみに励風館の意味は、
「微(び)を孤島に啓(ひら)き風を遠裔(えんえい)に励(はげ)ます」から
励風の2字をとったそうで、この塾にかけた思いの強さが感じられます。
この塾から偉人がでた、という史実はありませんが、
佐渡史実にとって、非常に大きな一歩という感じがします。
多くの史実は残されないまま、創造の余地のたくさん残した
佐渡の歴史をしのびつつ、時間を過ごすのはすごく好きな時間の過ごし方です。
今度はコーヒーでも持ってこようかな。
(注意※ 裏が竹やぶのためやぶ蚊が大変多いです。虫対策をしてお出かけください)
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