最近、自動的に配信される雑誌のメールマガジンにて
ロハス・ピープルと名づけられた女性の方のエッセイを読みました。
「生ゴミ処理機を使うようになった」という文章から始まるエッセイでした。
「へえ、うん、いいんじゃない」と思う私。
その後の文章は
「生ゴミを処理するようになってから、食事を残すことへの罪悪感がなくなった。
これらは全部大地へのご飯になるのです」
というようなことが書いてあり、勢いこんでつっこみたい気持ちがこみ上げてきました。
最初はキレイな言葉で表現されていたので「え?これでいいのか?」と
考え込んでしまいましたが、考えてみて「やっぱり違うなあ」と。
皆さんはわかります?
この方は「生ゴミを自分で処理するなら自分にだされた食事は残していい」と断言しているわけです。
食事を残すことへの免罪符になっているわけです。
人間のために作られた野菜も肉も、市場にだされたもののほとんどが(とりあえず日本は)多くの農薬と、多くの人の労力の上で成立されているもの。
(有機無農薬野菜だって石油を使って運ばれてお店に並んでいるはず)
その石油、労力、農薬の末にできている野菜を食べきれない、
その時点でもうアウトなはずじゃないですか。
それなのに、それを土にかえせば万事OKというのは自分側の差し引きの部分が多すぎるように思うわけです。
しかもそれを「大地へのご飯」と美しく自己礼賛しているのです。
何故、この方がこういう風に言ってしまうのか。
それはこの方は、おそらく「自分がかけた労力しか見えていない」からなんじゃないかな、と思います。
自分が食べているものの影にある労力を見てない、あるいは見ようとしていないからなのではないでしょうか。
「エコ行動」を起こしている理由が「罪悪感」からだけなのではないでしょうか。
哀しいのは、この方の勘違いよりも、この文章は全国に配信されているものだから
これを見て「そうか、生ゴミ処理機を使えば、残飯はだしてもいいのね」と
勘違いする読者の方がきっといるはず、という部分。
昨日は、8月29日のブログにも書いたストップ温暖化フェスでスタッフとしてでかけました。
その中で、スタッフにだされたお弁当の分別をしている場所の画像です。
これも、「大地へのご飯」?
それはあまりに人側の横暴というものではないかしら?
ロハス・ピープルと名づけられた女性の方のエッセイを読みました。
「生ゴミ処理機を使うようになった」という文章から始まるエッセイでした。
「へえ、うん、いいんじゃない」と思う私。
その後の文章は
「生ゴミを処理するようになってから、食事を残すことへの罪悪感がなくなった。
これらは全部大地へのご飯になるのです」
というようなことが書いてあり、勢いこんでつっこみたい気持ちがこみ上げてきました。
最初はキレイな言葉で表現されていたので「え?これでいいのか?」と
考え込んでしまいましたが、考えてみて「やっぱり違うなあ」と。
皆さんはわかります?
この方は「生ゴミを自分で処理するなら自分にだされた食事は残していい」と断言しているわけです。
食事を残すことへの免罪符になっているわけです。
人間のために作られた野菜も肉も、市場にだされたもののほとんどが(とりあえず日本は)多くの農薬と、多くの人の労力の上で成立されているもの。
(有機無農薬野菜だって石油を使って運ばれてお店に並んでいるはず)
その石油、労力、農薬の末にできている野菜を食べきれない、
その時点でもうアウトなはずじゃないですか。
それなのに、それを土にかえせば万事OKというのは自分側の差し引きの部分が多すぎるように思うわけです。
しかもそれを「大地へのご飯」と美しく自己礼賛しているのです。
何故、この方がこういう風に言ってしまうのか。
それはこの方は、おそらく「自分がかけた労力しか見えていない」からなんじゃないかな、と思います。
自分が食べているものの影にある労力を見てない、あるいは見ようとしていないからなのではないでしょうか。
「エコ行動」を起こしている理由が「罪悪感」からだけなのではないでしょうか。
哀しいのは、この方の勘違いよりも、この文章は全国に配信されているものだから
これを見て「そうか、生ゴミ処理機を使えば、残飯はだしてもいいのね」と
勘違いする読者の方がきっといるはず、という部分。
昨日は、8月29日のブログにも書いたストップ温暖化フェスでスタッフとしてでかけました。
その中で、スタッフにだされたお弁当の分別をしている場所の画像です。
これも、「大地へのご飯」?
それはあまりに人側の横暴というものではないかしら?
自分のうまく言えない部分をブログで書いててくれて、そうっ、そうだよね~!!とすっごく共感しましたし、とても勉強になります。
いつもありがとう!
そして思いました。
「本当に食べ残しが多いこと」。ひどい時はパスタの具だけを食べてあとは全部残したり、ハンバーグセットを注文してそのハンバーグの5分の1くらいしか食べずに帰った人。。りっぱな大人のしたことです。片付ける(処分する)ときのあのやるせなさといったらありません。
なにもおいしくないからと文句をつけられたわけではありませんし持ち帰りだってできます。なのに本当にたくさんの食べ残しを「私が」捨ててきました。おいしく食べてもらうためにつくった料理を…。
日本人はおいしいものをこんなにたくさん食べられるようになったのに、大切なことを忘れている気がして同じ人間としてくやしいです。
いつも楽しくブログを読ませていただいてます。
「生ゴミを処理するようになってから、食事を残すことへの罪悪感がなくなった。」
この文章に「ん!?」と引っかかってしまい、
思わずカキコミしてしまいました。
たった一口。
でも、その一口のために頑張る人がいるんです。
なんだか色々ひっくるめて残念でなりません。
毎日が慌しく過ぎる中で、
改めて大事な事にハッと気づかされるステキなブログですね。
嬉しいです。自分の中でもこうして言葉にするのに時間がかかりました。いくつも理由があるから、思いがつまって言葉にしにくかったのかな。
こうした文章が普通に書かれること、流されることにものすごく不思議さを感じてしまいますねえ。
生ゴミのコンポスト化がどんなに進んでも、やっぱり
忘れてはいけないことのひとつですね。
でも、必ずどこかでしっぺ返しはきます。
どんな形でくるかはわからないけれど、やはりくるような気がします。せっせと食事や食べ物を作っているとそんな気がするもんです。
ひっかかりを感じてくれてありがとうございます。
慌ててしまう日々の中で、ぽつんと取り残されているブログでありたいです。
確かにこんな文面(「大地のご飯~」)が全国に配信されて、読む方がなんとなくそれに流されちゃったら、と思うと悲しいやらせつないやら。
我が家は農家なので、「規格」に合わない野菜がはじかれたり、全く泥のついていない形の揃った野菜がスーパーで売られているのを見て、「おかしくない?」とずっと思っていました。
逆に「無農薬野菜なのにどうして虫がくっているの?」と言う人もいて、この国の食への無関心ぶりはひどすぎる、と落胆続きです。
ちょっと話の逸れるコメントで申し訳ありません。
こうして、ブログで同じ気持ちの人に出会えると嬉しくなります。もっと声を出していこうと思いました。
こうした真面目すぎるような(笑)ブログに真剣に思い、考えてくださる人が多いことに救われます。
嬉しいです。
規格外の野菜や果物に対しもっと大らかであれば、農薬使用量もある意味簡単に減るでしょうし、結果的に農業人口も増えるのではないか、と思えます。
連れ合いが農に踏み込めないのは、やはり「農薬」がネックなのです。
農家の方からの発信は、私などのような家庭農園みたいなものしか作っていない人間よりもずっと伝わるものがあると思います。