「一億総なんとか」というものの実現を、今の政府は進めているそうですね。
話はくるっと変わるようですが、私が住む集落は
むか~しの日本からあった「地域コミュニティ」が未だ残っている場所でもあります。
濃い形で、かろうじて、残っている地域です。
10年後にまだ残っているかはわかりませんが、ともかく残っていて、それを日々
体感しています。
よいところもあり、悪いところもあり、
10年も過ごしてきたので、様々な想いがありますが、
とりあえず「お金がなくても(あるいはわずかなお金で)最低限の暮らしを紡いでいける」
コミュニティの存在というものは、
非常に驚くべき、そして安心できるシステムだと思います。
さすが、何世代もかけて築き上げてきたシステムだ、と
正直心底尊敬の念を抱く部分が、確かにあります。
加えて、
「お金がなくても行きていけるかもしれない」、という精神的なバックボーンは
人の精神に大きな影響を与えるなあ、と思っています。
少なくとも「お金がなくては生きていけない」という考え方とは
まったく異なる「土台」がそこにある、と思います。
現代日本の経済社会の成立は、
この「地域コミュニティ」を崩壊させることによって、成し遂げられたものでしょう。
経済社会を、成立させるためには、
地域コミュニティの崩壊は、悲願でもあり、しなくてはいけないものでした。
だって、「お金がなくちゃ何もできない社会」にしなくては、
世界一位の経済大国になど、なりようがなかったのですから。
その象徴が、原子力ムラであり、地方の都会を模倣した町づくり、ではないかな
と思います。
今、政府は、「一億総なんとか」というものを推進しようとしています。
低下していく経済に歯止めをかけるため、
次に政府が「崩壊」させようとしているものを、想像します。
そして、とても自然で、かつ恐ろしい結論にたどりつきました。
私は、それは「家庭」ではないか、と結論づけられるからです。
女性を社会に進出させるための、要でもある
「保育園」は、数を増やすだけで保育士の質はなおざりです。
保育師の給料は、20万足らずの状態のままで(手取りで13万円という話もききました)
助手だけを増やす手法といいます。
想いのある保育師の方は、質の向上を訴えますが、
政府が「そこ」を重視してくれることは、かなりの確率でないのではないでしょうか。
「家庭」を崩壊させた上で、ようやく実現できる「一億総なんとか」です。
人的な部分にお金を投資していては、経済大国は再び巡ってはきません。
仕事に疲れて「3%あがった賃金」で、女性はいったい何を購入するでしょう。
有機食品の冷凍食品を買い、家族にとりあえずの食事をさせ、
洗濯などの家事を慌ただしくすませます。
週に3回は外食をさせ、朝食はレンジでふくらむカップケーキと野菜ジュース。
早期教育ビジネスは、うなぎのぼりです。
夏休みの宿題を代行するというビジネスも需要があがっているといいます。
朝の6時から夜の8時まで保育園に行かせ、
帰ったら、夕食を食べて眠らせるだけ。
働き盛りの独身男性のような「家」の使い方を、育ち盛りの幼少期の子どもに
させてしまっている現実が垣間見えます。
お母さん達は、その後ろめたさから、欲しいと言うモノを次から次へと買い与えていると
いいます。
病気の時も保育師さんがみてくれる、病気保育の実現を多くの母親が訴えているそうです。
こうした「育児の丸投げ」的な対応と希望は
一部の例外ではなく、「大部分」になりつつあります。
お母さんの疲労が垣間見えます。
大切な我が子を、自分で見てあげられない辛さを感じつつも
そうせざるを得ない状況が、社会に何重にもはりめぐらされています。
何年か前から、そうなってきていましたが、「一億総なんとか」が進んで行けば、
その状況にますます拍車がかかるでしょう。
そうして育てられた子ども達は、どんな大人に育つでしょう。
家庭のぬくもり、お母さんの作ってくれた味を知らずに、コンビニやチルドで
育てられた子ども達は、何を心のよりどころにして、生きていくでしょう。
暖かい家庭の温もりを、胸に残さずに生きて育って、本当に人生で辛い時に
何が自分の命をささえてくれるでしょう。
競争心?それとも支配欲?
こうして家庭を崩壊された先に、大人になった子ども達は何を思うでしょう。
「暮らしの手帖」の前編集長花森氏の言葉を借りるなら
「いっちょ大きなことをやってしまえ」などと思うのではないでしょうか。
「第二次世界大戦も、そう思う人間たちが、あそこまでの戦争をおこした、
僕は、あたたかい暮らしがそこにあったなら、そこまでの戦争にはならなかったのではないか、
と思う。」と、言いました。
「女性が要だ」
花森氏も、今の総理大臣も、同様のことを言っています。
ただ、花森氏は、平和の礎として、
総理大臣は、戦争へとかりたてる人間を育てるため(経済大国をつくる人材育成のため)
に、女性の力を借りようとしています。
「一億総なんとか」の担当大臣は、拉致対策の仕事も兼任しているそうですが、
そちらの仕事は想像以上にやってくれていないそうで、
被害者の家族の人たちが不満をあらわにしている、という報道が新潟日報でなされていました。
「家族」を犠牲にする政策であることの、証拠のひとつのような報道に思えます。
踊らされたくないのです。
賃金がどんなにあがっても、それは絶対に実りあるお金にはならず、
あぶく銭に消えていくでしょう。
バブルの再来は、しあわせな暮らし、とは直結しないでしょう。
私は、戦争を是とする子どもを育てる政策には、耳を貸したくないのです。
人らしく生きる社会で生きたいのです。
話はくるっと変わるようですが、私が住む集落は
むか~しの日本からあった「地域コミュニティ」が未だ残っている場所でもあります。
濃い形で、かろうじて、残っている地域です。
10年後にまだ残っているかはわかりませんが、ともかく残っていて、それを日々
体感しています。
よいところもあり、悪いところもあり、
10年も過ごしてきたので、様々な想いがありますが、
とりあえず「お金がなくても(あるいはわずかなお金で)最低限の暮らしを紡いでいける」
コミュニティの存在というものは、
非常に驚くべき、そして安心できるシステムだと思います。
さすが、何世代もかけて築き上げてきたシステムだ、と
正直心底尊敬の念を抱く部分が、確かにあります。
加えて、
「お金がなくても行きていけるかもしれない」、という精神的なバックボーンは
人の精神に大きな影響を与えるなあ、と思っています。
少なくとも「お金がなくては生きていけない」という考え方とは
まったく異なる「土台」がそこにある、と思います。
現代日本の経済社会の成立は、
この「地域コミュニティ」を崩壊させることによって、成し遂げられたものでしょう。
経済社会を、成立させるためには、
地域コミュニティの崩壊は、悲願でもあり、しなくてはいけないものでした。
だって、「お金がなくちゃ何もできない社会」にしなくては、
世界一位の経済大国になど、なりようがなかったのですから。
その象徴が、原子力ムラであり、地方の都会を模倣した町づくり、ではないかな
と思います。
今、政府は、「一億総なんとか」というものを推進しようとしています。
低下していく経済に歯止めをかけるため、
次に政府が「崩壊」させようとしているものを、想像します。
そして、とても自然で、かつ恐ろしい結論にたどりつきました。
私は、それは「家庭」ではないか、と結論づけられるからです。
女性を社会に進出させるための、要でもある
「保育園」は、数を増やすだけで保育士の質はなおざりです。
保育師の給料は、20万足らずの状態のままで(手取りで13万円という話もききました)
助手だけを増やす手法といいます。
想いのある保育師の方は、質の向上を訴えますが、
政府が「そこ」を重視してくれることは、かなりの確率でないのではないでしょうか。
「家庭」を崩壊させた上で、ようやく実現できる「一億総なんとか」です。
人的な部分にお金を投資していては、経済大国は再び巡ってはきません。
仕事に疲れて「3%あがった賃金」で、女性はいったい何を購入するでしょう。
有機食品の冷凍食品を買い、家族にとりあえずの食事をさせ、
洗濯などの家事を慌ただしくすませます。
週に3回は外食をさせ、朝食はレンジでふくらむカップケーキと野菜ジュース。
早期教育ビジネスは、うなぎのぼりです。
夏休みの宿題を代行するというビジネスも需要があがっているといいます。
朝の6時から夜の8時まで保育園に行かせ、
帰ったら、夕食を食べて眠らせるだけ。
働き盛りの独身男性のような「家」の使い方を、育ち盛りの幼少期の子どもに
させてしまっている現実が垣間見えます。
お母さん達は、その後ろめたさから、欲しいと言うモノを次から次へと買い与えていると
いいます。
病気の時も保育師さんがみてくれる、病気保育の実現を多くの母親が訴えているそうです。
こうした「育児の丸投げ」的な対応と希望は
一部の例外ではなく、「大部分」になりつつあります。
お母さんの疲労が垣間見えます。
大切な我が子を、自分で見てあげられない辛さを感じつつも
そうせざるを得ない状況が、社会に何重にもはりめぐらされています。
何年か前から、そうなってきていましたが、「一億総なんとか」が進んで行けば、
その状況にますます拍車がかかるでしょう。
そうして育てられた子ども達は、どんな大人に育つでしょう。
家庭のぬくもり、お母さんの作ってくれた味を知らずに、コンビニやチルドで
育てられた子ども達は、何を心のよりどころにして、生きていくでしょう。
暖かい家庭の温もりを、胸に残さずに生きて育って、本当に人生で辛い時に
何が自分の命をささえてくれるでしょう。
競争心?それとも支配欲?
こうして家庭を崩壊された先に、大人になった子ども達は何を思うでしょう。
「暮らしの手帖」の前編集長花森氏の言葉を借りるなら
「いっちょ大きなことをやってしまえ」などと思うのではないでしょうか。
「第二次世界大戦も、そう思う人間たちが、あそこまでの戦争をおこした、
僕は、あたたかい暮らしがそこにあったなら、そこまでの戦争にはならなかったのではないか、
と思う。」と、言いました。
「女性が要だ」
花森氏も、今の総理大臣も、同様のことを言っています。
ただ、花森氏は、平和の礎として、
総理大臣は、戦争へとかりたてる人間を育てるため(経済大国をつくる人材育成のため)
に、女性の力を借りようとしています。
「一億総なんとか」の担当大臣は、拉致対策の仕事も兼任しているそうですが、
そちらの仕事は想像以上にやってくれていないそうで、
被害者の家族の人たちが不満をあらわにしている、という報道が新潟日報でなされていました。
「家族」を犠牲にする政策であることの、証拠のひとつのような報道に思えます。
踊らされたくないのです。
賃金がどんなにあがっても、それは絶対に実りあるお金にはならず、
あぶく銭に消えていくでしょう。
バブルの再来は、しあわせな暮らし、とは直結しないでしょう。
私は、戦争を是とする子どもを育てる政策には、耳を貸したくないのです。
人らしく生きる社会で生きたいのです。
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