断捨離本や片付け本は、積極的に読むほうです。
図書館でそういうタイトルの本を見るとすぐに借りてしまいます。
最近は、汚部屋ルポや、そういう部屋に住むに至る精神的な傾向なんていう
社会学的な本にも手をだしています。
何冊か読んだ本の中で、
「1日1品ずつ手放す」ことを推奨している本がありました。
「どんな小さなものでも1日1品のカウントにしてオーケー」
「手放したものは写真に撮って自分を納得させる」
というのがあり、なるほどそれはやりやすいかもしれない、と思いました。
例として、それぞれの年代(20代から60代まで10代ずつそれぞれ)で、
1日1品手放す品物の写真が20品目くらいずつ、
スタイリッシュに並んでいたのですが、特徴があっておもしろかった。
60代の男性は、陶器でできた人形やこけしや健康グッズ、
50代の女性は、趣味の手芸用品や花瓶。
40代の男性は、パソコンの本とかその部品。
30代の女性は、子供の使わなくなったお弁当やハンカチ。
20代の女性は、香水とかコスメ試供品。
なるほどなあ、と思った。その年代だから持っているもの、というのがわかって
学術的にも興味深いのでは、などと思ってしまった。
つまり自分が欲しいものがあるならば、そういう年代の人に声をかけてみるというのも
手法としてありなのではないか、と。
「自分がいらないものは、他人もいらないもの」
日本だとこのフレーズが主流だが、案外そうでもないケースもある。
自分は持っていてもなかなか出番のない祝儀袋も、
鬼太鼓が回ってくる集落に住んでいる人は毎年使うもの、
その地域に住む人にとっては「必ず定期的にいるもの」
だからくれるならいただく、
なんていう話は目がウロコだった。
アイラップやサランラップは、誰の家でも必要なもので購入するものだと
思っていたけれど、手放したい人もいるということを聞いた。
「使う量よりも、定期的に粗品で家に入ってくる量に追いつかない」という。
なるほど。人によってはそういうこともあるだろう。
ドアのストッパーやS字フックなんていうものは、小さいけれども
かゆいところに手がとどく商品だ。
くれるというなら、もらうという人もいる。
私にとってはもういらないものも
誰か(どこか)にとってのいるものであったらいいなあ、と思って写真をとっている。
●ぽち袋。(いただきもの。子どもにお年玉をあげる習慣がなく使えず)
●クッキー缶の空き缶。(かわいくてずっと捨てられなかった。)
●4年くもんの小学ドリル。(いただきもの。娘、使わないまま6年に進級。)
●ミッキーの貯金箱(いただきもの。大きくなって使わなくなりました。数回使ったくらい?)
●フリーイラストCDロム(時代もの。20年以上も昔のもので大枚はたいて購入。今ならきっと簡単に検索できるものでしょう。半端ない量のイラストが入っていた)
●シール(いつのまにか増えていく娘のかわいい系シール。仕事で使うことに)
●リング式メモ帳(息子が小さい頃のらくがき帳になっていたもの。思い出もあるけど、分別してリサイクルに。
さびたリングをペンチでとるのに、すごく時間がかかった…)
●娘のサイズアウトしたアウターと長袖Yシャツ(ひきとってくれるお店に。リサイクル繊維になるとか)
●靴下(ゴムがきれた靴下。ウエスに)
アラフォーの生態が垣間見えるでしょうか?
中には、ひきとってくれる場所があったのが幸いです。
ちまちまと、こうしたものを見聞しながら紙袋に入れていくと、
当然だが、わずかずつ重みが増していく。
それを測ってみると、簡単に1キロとか1、5キロと目盛りがふれるのには、軽い驚きがある。
自分が存在すら忘れていたようなものなのに、1キロ2キロとカウントされている事実。
それが、この家の中にあり、家の重みとしてのしかかっている。
自分の体ならば、1キロや2キロなんて増えようものなら、確実に重さを感じ、動きにくく
なっているだろうに。
無自覚のうちに自分の家には、こんなにも重たいものが無自覚のうちにカウントされているのか。
体ほどではなくても、動きがにぶくなってしまうのではないだろうか、と想像できる。
おそらく、気をつけて探してみれば不要になったものは、もっとあるだろう。
家の断捨離を頑張ってしてみたら、4トントラックいっぱいに廃棄する結果になり、
それでもまだ家の中にはモノがある、という作家さんのエッセイを読んだが、これは決して
例外ではないのだろう。
これからも、コツコツと使い切るような形で、手放していこうと思っている。
ありがたいことに、ためいてた紙袋やビニール袋は少しずつ在庫が減ってきている。
無造作には捨てずに、地道に使い回していた成果でもあるので満足している。
私の場合は、引き取り手がないと手放せないという大きなネックがあり、
いつも作業ははかどらない。けち臭い性分はこれからもなおらないだろう。
どうにも廃棄処分しかないという時には、紙などで包んで、お礼を口にだして
から捨てることにしている。
時には、会話もしてしまう。あやしい限りである。
メルカリも利用している。
意外な品物が売れた時には、狂喜乱舞している。
滅多にはないが。
最近の一番の悩みは、底のコーティングがはがれたル・クルーゼの鍋の処分である。
5年以上愛用していた鍋だが、コーティングの剥がれを夫が見つけた。
修理は不可能、捨てるしかないとわかった時は軽く絶望した。(矛盾した言葉の羅列)
一生使うつもりでいた調理器具が使えなくなったショックは、なかなかのものだ。
誰だ、この鍋は世代をこえることもできる一生ものだとか言った奴は。(やつあたり)
燃えないゴミの日が来るたびに(1ヶ月に1回)、出さなくちゃと思うのに躊躇している。
外見はどこもひび割れていないだけに余計に。
子供のおもちゃにするには、あまりに重くて危険だ。
このル・クルーゼは、フタだけでも3キロを超えていて、手をすべらせた夫の足の爪に直撃して
深手をおわせた、凶器な鍋でもある。
幼児が使おうものなら命の危険にさらされてしまうので、おままごととしての利用は不可だ。
重すぎる鍋である自覚はあった。
高齢になれば、きっと手放す決心もつくだろう。
持った瞬間ぎっくり腰にでもなるだろうからその時に思い知ることだろう、
と思っていたのだが、思っていた以上に早い別れになってしまった。
今はル・クルーゼを使う場面では、家にあった安いアルミ鍋で代用している。
早いところ次の鍋を買いたいが、いろいろとふんぎりがつかないでいる。
捨てるにしても買うにしても、鈍くさい。
欠点だらけな自分を、そろそろ飼い慣らしてもいい頃だと思うのだが。
図書館でそういうタイトルの本を見るとすぐに借りてしまいます。
最近は、汚部屋ルポや、そういう部屋に住むに至る精神的な傾向なんていう
社会学的な本にも手をだしています。
何冊か読んだ本の中で、
「1日1品ずつ手放す」ことを推奨している本がありました。
「どんな小さなものでも1日1品のカウントにしてオーケー」
「手放したものは写真に撮って自分を納得させる」
というのがあり、なるほどそれはやりやすいかもしれない、と思いました。
例として、それぞれの年代(20代から60代まで10代ずつそれぞれ)で、
1日1品手放す品物の写真が20品目くらいずつ、
スタイリッシュに並んでいたのですが、特徴があっておもしろかった。
60代の男性は、陶器でできた人形やこけしや健康グッズ、
50代の女性は、趣味の手芸用品や花瓶。
40代の男性は、パソコンの本とかその部品。
30代の女性は、子供の使わなくなったお弁当やハンカチ。
20代の女性は、香水とかコスメ試供品。
なるほどなあ、と思った。その年代だから持っているもの、というのがわかって
学術的にも興味深いのでは、などと思ってしまった。
つまり自分が欲しいものがあるならば、そういう年代の人に声をかけてみるというのも
手法としてありなのではないか、と。
「自分がいらないものは、他人もいらないもの」
日本だとこのフレーズが主流だが、案外そうでもないケースもある。
自分は持っていてもなかなか出番のない祝儀袋も、
鬼太鼓が回ってくる集落に住んでいる人は毎年使うもの、
その地域に住む人にとっては「必ず定期的にいるもの」
だからくれるならいただく、
なんていう話は目がウロコだった。
アイラップやサランラップは、誰の家でも必要なもので購入するものだと
思っていたけれど、手放したい人もいるということを聞いた。
「使う量よりも、定期的に粗品で家に入ってくる量に追いつかない」という。
なるほど。人によってはそういうこともあるだろう。
ドアのストッパーやS字フックなんていうものは、小さいけれども
かゆいところに手がとどく商品だ。
くれるというなら、もらうという人もいる。
私にとってはもういらないものも
誰か(どこか)にとってのいるものであったらいいなあ、と思って写真をとっている。
●ぽち袋。(いただきもの。子どもにお年玉をあげる習慣がなく使えず)
●クッキー缶の空き缶。(かわいくてずっと捨てられなかった。)
●4年くもんの小学ドリル。(いただきもの。娘、使わないまま6年に進級。)
●ミッキーの貯金箱(いただきもの。大きくなって使わなくなりました。数回使ったくらい?)
●フリーイラストCDロム(時代もの。20年以上も昔のもので大枚はたいて購入。今ならきっと簡単に検索できるものでしょう。半端ない量のイラストが入っていた)
●シール(いつのまにか増えていく娘のかわいい系シール。仕事で使うことに)
●リング式メモ帳(息子が小さい頃のらくがき帳になっていたもの。思い出もあるけど、分別してリサイクルに。
さびたリングをペンチでとるのに、すごく時間がかかった…)
●娘のサイズアウトしたアウターと長袖Yシャツ(ひきとってくれるお店に。リサイクル繊維になるとか)
●靴下(ゴムがきれた靴下。ウエスに)
アラフォーの生態が垣間見えるでしょうか?
中には、ひきとってくれる場所があったのが幸いです。
ちまちまと、こうしたものを見聞しながら紙袋に入れていくと、
当然だが、わずかずつ重みが増していく。
それを測ってみると、簡単に1キロとか1、5キロと目盛りがふれるのには、軽い驚きがある。
自分が存在すら忘れていたようなものなのに、1キロ2キロとカウントされている事実。
それが、この家の中にあり、家の重みとしてのしかかっている。
自分の体ならば、1キロや2キロなんて増えようものなら、確実に重さを感じ、動きにくく
なっているだろうに。
無自覚のうちに自分の家には、こんなにも重たいものが無自覚のうちにカウントされているのか。
体ほどではなくても、動きがにぶくなってしまうのではないだろうか、と想像できる。
おそらく、気をつけて探してみれば不要になったものは、もっとあるだろう。
家の断捨離を頑張ってしてみたら、4トントラックいっぱいに廃棄する結果になり、
それでもまだ家の中にはモノがある、という作家さんのエッセイを読んだが、これは決して
例外ではないのだろう。
これからも、コツコツと使い切るような形で、手放していこうと思っている。
ありがたいことに、ためいてた紙袋やビニール袋は少しずつ在庫が減ってきている。
無造作には捨てずに、地道に使い回していた成果でもあるので満足している。
私の場合は、引き取り手がないと手放せないという大きなネックがあり、
いつも作業ははかどらない。けち臭い性分はこれからもなおらないだろう。
どうにも廃棄処分しかないという時には、紙などで包んで、お礼を口にだして
から捨てることにしている。
時には、会話もしてしまう。あやしい限りである。
メルカリも利用している。
意外な品物が売れた時には、狂喜乱舞している。
滅多にはないが。
最近の一番の悩みは、底のコーティングがはがれたル・クルーゼの鍋の処分である。
5年以上愛用していた鍋だが、コーティングの剥がれを夫が見つけた。
修理は不可能、捨てるしかないとわかった時は軽く絶望した。(矛盾した言葉の羅列)
一生使うつもりでいた調理器具が使えなくなったショックは、なかなかのものだ。
誰だ、この鍋は世代をこえることもできる一生ものだとか言った奴は。(やつあたり)
燃えないゴミの日が来るたびに(1ヶ月に1回)、出さなくちゃと思うのに躊躇している。
外見はどこもひび割れていないだけに余計に。
子供のおもちゃにするには、あまりに重くて危険だ。
このル・クルーゼは、フタだけでも3キロを超えていて、手をすべらせた夫の足の爪に直撃して
深手をおわせた、凶器な鍋でもある。
幼児が使おうものなら命の危険にさらされてしまうので、おままごととしての利用は不可だ。
重すぎる鍋である自覚はあった。
高齢になれば、きっと手放す決心もつくだろう。
持った瞬間ぎっくり腰にでもなるだろうからその時に思い知ることだろう、
と思っていたのだが、思っていた以上に早い別れになってしまった。
今はル・クルーゼを使う場面では、家にあった安いアルミ鍋で代用している。
早いところ次の鍋を買いたいが、いろいろとふんぎりがつかないでいる。
捨てるにしても買うにしても、鈍くさい。
欠点だらけな自分を、そろそろ飼い慣らしてもいい頃だと思うのだが。
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