小さな庭

デジタルな仕事について20数年、だからという訳でもありませんが、アナログな世界に惹かれます。

日光街道第8回目 宇都宮宿(野沢町)~ 日光鉢石宿(ゴール)

2014-05-29 | 日常

いよいよ最終回、暑い熱い夏の前に、できれば梅雨の前に、最終回としたいと思い
先週末、お天気も安定していた2日間で日光街道最終回を決行しました。

                   

この日は、JR宇都宮駅から関東バスで30分、「下金井」というバス停がスタート地点です。
今回で街道をピストンすることも終わりかと思うと、少し寂しい気もしますが・・・。
最後は周りの景色を楽しみながら歩こうと決めました。

東北自動車道の宇都宮ICの下を潜ります。
しばらく行くと、右手の土手に八角形のレンガ造りの建物が見えてきました。
第六接合井と言って、送水管にかかる水圧を調整する施設で、宇都宮市近代化水道施設の遺構の一つと
説明がありました。日光より流れる豊かな水は、この25キロに及ぶ送水管を流れているのでしょうか。

すでに街道すがらの田んぼには水も張られ、田植えも終えているところもありました。

徳次郎宿
すっかり囲まれた植え込みの中に大谷道への道標があり、脇には「下徳次郎宿へ」と刻まれているようですが
不鮮明で読むことはできません。
大谷道追分を過ぎると、徳次郎宿に間もなく付きます。人の名前読みだと「とくじろう」ですが、
これを当時は「とくじら」と読んでいたそうです。このあたりもまた、大谷石の塀、蔵、住居が続きます。

街道を北上すると、右手に大きな徳次郎宿の総鎮守「智賀都(ちかつ)神社」が見えてきます。
ここの2本のケヤキは樹齢700年という立派な大木で「長寿の夫婦ケヤキ」と呼ばれ、
県の天然記念物にも指定されているそうです。
日光の名品「日光たまり漬け」の看板もみえ始めました。

周りの景色は水田の多い牧歌的な景色に変わり、日光の山々が近くに見えてきました。
上徳次郎宿の街並みを抜けて、石那田の一里塚、日本橋より30里(120Km)の一里塚となります。


ランチをもとめて
田川(鬼怒川支流)を渡ります。このあたり石那田集落でちょうどお昼、一帯はリンゴ農家が多く、すでに季節ではないものの
地場産の野菜を売っているお店があったので、ランチができるところがないか聞いてみると、大きく首をかしげ
3つほど先の信号の近くにお蕎麦屋さんがあるという情報に、元気を奮い立たせて歩いてみることにしました。
並木道は寸断しながらも続き、時には歩道がないので、一段高い細い道を歩くことになります。
ところが期待していたお蕎麦屋さんはすでに廃業となり、なんとか手持ちのクッキーや飴で腹ごしらえ、
日本どこでもあると思っていたコンビニも見当たりません。


宇都宮市から旧今市(現日光市)
歩いても歩いても、宇都宮市から抜け出せないと思っていましたが、その宇都宮市の最西端に赤い帽子によだれかけの
大きなお地蔵さん「うらない地蔵」がありました。
手前にある石のいずれかを持ち上げて軽く感じれば願いが叶うというもの、
これは空腹の私でも持ち上げられるほどのものでした。


街道はやっと宇都宮市から旧今市市(現日光市)にはいりました。
午後2時、やっと一軒のお蕎麦やさんを見付け、遅いランチとなりました。お腹がすいていたとは言え、
ここの手打ちそばのおいしかったこと、街道中食べたなかで一番おいしかったのではと言うのが私たちの感想!


本格的な杉並木へ 大沢宿
みごとな杉並木が続きます。
並木寄進碑があり、松平正綱、信綱父子が寛永2年から20数年かけて、20万本の杉の苗を植えて、
東照宮に寄進したと書かれていました。日光道中19番目の大沢宿に入ります。
昼間でもうっそうとして、陽が落ちてしまったら、ちょっと怖いかなとも、当時の人は時に真っ暗な杉並木も歩いたことでしょう。


杉並木は現在の幹線道路に阻まれて途切れたりもしますが、東照宮まで続きます。
中には「さくらすぎ」という珍しい杉があり、桜の種が杉の割れ目に入って根を下ろし、
一本の木に桜と杉が共存しているものでした。

延命地蔵尊と石仏5体、風雨にさらされながらも、いい顔をしています。

うっそうとした杉並木に入ります。ここに七本桜一里塚があるようですが、見付けることができませんでした。
杉並木の中、東武日光線が杉並木を横断します。このガードを潜ると、いよいよ日光道中20番目の宿場、今市宿に入ります。

まもなく3本の道が合流する日光例幣使街道追分。左から旧日光街道、真ん中が現日光街道、右側が例幣使街道、
この合流地点に追分地蔵尊があり、巨大なお地蔵さんは、東日本有数の大きさなのだそうです。

時間は夕方の5時30分。この日光例幣使街道追分で今夜の宿に入ります。

なんと、泊まった宿は
宿泊は、前日にネットで街道筋のホテルに予約を入れておきました。
ビジネスホテルのような外観ですが、清潔でアットホームなホテルでした。
そしていろいろ今市近辺の話を伺っているうちに、このホテルは延宝5年(1677年)に創業、
江戸時代には日光参拝や商いの人々が宿泊した旅籠で当時の講中看板は現在も玄関ホールに掲げられていました。
日光街道で数多くあった旅籠の中でも、江戸の時代から旅館を経営しているのは、多分この1軒だそうです。
私達は、何も知らずに予約したにも関わらず、日光街道踏破の思い出深いできごととなりました。


今市宿
翌日は、いよいよゴールです。多分、午前中にはゴール地点日光神橋に到着できるのではと、8時にスタートを切りました。
今市の街を散策しながら、先に進みます。

報徳二宮神社があり、二宮尊徳は小田原で生涯を閉じたのかと思っていたのですが、
日光山領の農政指導を熱心に行ったあと、ここで没し、お墓もこの神社裏に葬られていました。

杉並木と平行して杉並木公園があり、いくつかの水車が展示されていました。
水の豊富な日光は、今も水車を利用して名産の線香の粉を引いているそうです。
日光連山がぐっと近くに見えてきました。

瀬川の杉並木
ここは車も入らずに、昔のままの杉並木が保存されています。どの木もりっぱでまっすぐ伸び、
この景観はいつまでも残しておきたい未来への遺産という思いを強くしました。
木の中には名前が入ったプレートがついているものもあり、日光杉並木オーナー制度によって杉並木を後世に残すために
保護事業がおこなわれているそうです。


旅の醍醐味
今市から日光市野口の杉並木に入ります。
ここに薬師堂があり、ちょうど花まつりの準備が地域の人によって進められていました。(この地では、花まつりは農繁期が
ひと区切りついた頃おこなわれるのだそうです。)
街道を歩いている私達にも声をかけてくれ、お釈迦様の尼茶かけも進められ、お茶まで御馳走になりました。
親切で心温まる、こんな出合いはやはり街道歩きの醍醐味のひとつと思います。


最後の宿 鉢石(はついし)宿
やがて杉並木は、車道となり、観光地も近くなったことで車も多く、歩行者は車に気を付けながら歩かなくてはなりません。
杉並木にもその姿形を競う品評会でもあるのでしょうか。「並木太郎」と名付けられた木があり、
私にはどれも同じように見えるのですが、形が美しく、その枝ぶりなどから、「並木太郎」に相応しいと説明がありました。

杉並木の間から、JR日光線のガードが見えてきました。JR日光駅がもうすぐ、ということはゴールも目前にせまって
きたことになります。

ガードをくぐるとまもなく、右手にJR日光駅、少し先に東武日光駅となり、旧日光街道も現日光街道と合流して、
道幅も広く、杉並木はここで消滅、最後の宿場・鉢石に入ります。

そしてゴール
ゴール地点「神橋」までの道はまっすぐな広い通りで、観光客や土産物店で賑わい、すっかり観光地に入りました。

近くの観光情報センターで日光東照宮のパンフレットをもらい、ゴールする前に腹ごしらえ、やっぱり日光は湯葉!
湯葉蕎麦にするか、湯葉定食にするか、迷ってこの地はお蕎麦がおいしいということで湯葉蕎麦を食べました。

いよいよ、ゴールです。大谷川にかかる日光橋、その先にある朱色の神橋が最終地点、この橋を渡ることはできませんが
300円を払うと橋を往復することができます。ここは記念ですから、橋の上の人となって記念撮影となりました。
正式名は「二荒山神橋」、日本三大奇橋のひとつで、石の橋脚に支えられた木製の橋で、全体が漆で塗られています。

無事でなんとか歩き通した35里19町(140.5キロ)、
交通機関を頼らずに自分の足だけが頼りの大変さ、しかし、歩いてこそ見えてくる歴史と人々の生活の営みと、自然。
やはり感慨深いものがありました。

そして、一緒に歩き通してくれた、連れに感謝!

ほっとしたこともあって、さすがにここで少し疲れが・・・。
東照宮は今まで何度か訪れたこともあり、2時間ほどでひとまわりしてきました。


表参道から東照宮


神厩舎のなげしに彫られた「見ざる言わざる聞かざる」


陽明門は現在修復中で覆いがかぶせられていました。ここを潜って坂下門にある、左甚五郎の眠り猫

長くなりました。読んでくださってありがとうございます。
東海道53次、日光街道と2街道を歩き、3街道目の挑戦はまだ未定です。少し時間がたってから考えたいと思います。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする