今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

七五三

2004-11-15 | 行事
今日(11月15日)は「七五三」
うれしくて すぐにねむくて 七五三・・・今井 千鶴子(『ホトトギス』同人、『玉藻』所属。)
男の子は数えで3歳と5歳、女の子は3歳と7歳の年に、成長を祝って神社などに参詣する。
乳幼児の死亡率が高かった昔は、7歳位までの子供は神の子とされ、人名帳や氏子への登録なども7歳頃になって行われ、初めて社会の一員として認められたそうである。
三歳・「髪置(かみおき)祝い」・・男女とも、それまで剃っていた頭髪を伸ばし始める儀式
五歳・「袴着(はかまぎ)祝い」・・男子が初めて袴を着用する儀式
七歳・「帯解(おびとき)祝い」・・女子が着物の付帯を取り、大人と同じく、帯使いを始める儀式
もともとは武家社会に伝わっていたこれらの儀式が元になったもののようである。又、七五三の奇数は中国で縁起のいい数字とされている。そして、11月15日が七五三になった由来としては、11月15日が鬼宿日(鬼が自分の家にいるため一年で最良の日)また、霜月祭りの日(※)にあたることからなどといわれている。しかし、現代のような七五三として定着したのは明治時代になってからの様である。かつては、数え年で行われていたが、今では満年齢でお祝いするのが一般的なようで、日にちも、11月15日にこだわらず、その前後の都合のよい日に合わせて行われているようですね。又、仏教徒などは神社ではなくい寺でしている。
七五三の日に、家族そろって着物で出かけて欲しいとの願いから、全日本きもの振興会が、この日を1966(昭和41)年の設立の時に「きものの日」に制定しているが、現代では、着物のじゃなく洋服姿の子供も多くなってきましたね。
(※)霜月祭りは、旧暦の霜月(11月)に巡ってくる冬至の行事(新暦では、12/22頃 )。この頃は日照時間が短くなり、太陽の力が衰えてくる。古代の人々は、人間の生命は、魂の活動により、保持されるものだと考えていた。魂の活動は、日照時間と関連し、一年のうちでそれが最も短い旧暦11月(霜月)は、生あるものの全ての生命力が弱まるときと考えていた。霜月祭りは、太陽が再び生まれ変わる再生と、世の万物の蘇生をうながし五穀豊穣を願ったお祭りで、今でも、信州など一部の地域で行われている。
参考:
七五三お役立ちミニ知識 - 基礎知識等。
http://allabout.co.jp/family/ceremony/closeup/CU20041025B/index.htm
特集七五三 - きもの選び、着付方法等。
http://forum.nifty.com/fkimono/753/

パチンコの日

2004-11-14 | 記念日
2001年の今日(11月14日)は「パチンコの日」
パチンコ業者の集まりである全国遊技業協同組合連合会が1979(昭和54)年に制定。1966(昭和41)年、全国遊技業協同組合連合会が発足した。当時は、インベーダーゲームの進出でファン離れが起きたため、人気挽回をねらって制定されたという。「パチパチ」の語呂合せで8月8日にするという案もあったそうだが、8月は2月とともに「ニッパチ月」と呼ばれて客の数が減る月であるため、ボーナス期を控え客の増加が見込まれる11月を記念日としたという。
今やパチンコは、世界に冠たる日本の大衆娯楽と言えるかも知れない。
このパチンコは大正時代にアメリカから入ってきたコリントゲーム機(今でも、田舎の温泉とかでスマートボールとして残っている)を、 横型から縦型に作りかえた機械のようだが、「パチンコ」の語源については確たる定説はないようだ。
戦前に子どもの遊びとして生まれ、戦後大衆娯楽として花開いたパチンコ産業がここまで大きくなった要因には、いろいろあるだろうが、基本的には「楽しい」からであり、パチンコ産業の経営努力もあったのであろう。
平成14年の余暇市場全体 は、82兆9660億円。その中、パチンコ業界の市場規模は、29兆2250億円。パチンコ業界は余暇市場全体の約28%を構成するまでになっていると言う。(「レジャー白書2003」)
戦後の昭和20年代の物資不足の当時、タバコやちょっとした景品をとるのが庶民の楽しみでもあった。昭和40年代、左手で玉を持ち、右手で打つ形から、上皿に入れたままで右手だけで玉が打てるようになった。この頃は、私も時々遊びに行っていたよな~。そして、昭和50年代には、電動で玉が打ち出せるようになり、それまでは玉を手ではじいていたのが、丸い形のハンドルを握るだけでよくなった。それに、今まで、立ってしていたものが、椅子に座って出きるようになった。それから、数字がそろうと玉が一時にでるようなフィーバ台と呼ばれる台になっていく。上手く行くとあっという間に玉が溜まる反面、負けるときは、あった言う間に玉がなくなる。次第に、遊ぶという感覚よりは、賭博性の方が強くなってきた。私などは、この頃から、パチンコはしなくなったので、その後のことはパチンコ好きの仲間やマスコの報道などからの情報でしか知らない。しかし、それらの、情報からでは、まさに、もう、遊びではなく、賭博の一種としか思われない。友人たちの話でも、今日は3万負けたとか5万負けたとかの話である。このパチンコについては、前から、景品を得るのではなく景品を換金所でお金に換金していることから、なにかと警察問題になった。しかし、パチンコの換金の方法など、賭博性はあるのだが、法的に巧みに逃れており、それを刑事事件として立証するのが困難なようにできている。そして、いつの間にかうやむやになってきている。それにはいろいろな社会的なことが絡んでいるようである。パチンコ業界がコンピューターなど、時代の先端のモノをいち早く取り入れ活用し、成長。大きくなった会社は上場まで果たすようになった。それにより、今まで、どちらかと言うと、暴力団との関係も噂され、ダーティーであった産業のイメージが変ってきた。産業が成長するとそこには、資金を融資する銀行や機会、商品などを納入する関連する企業がその産業をバックアップするようになる。又、今まで、手を出さなかった大手の異業種産業までがパチンコ産業に進出するようになった。そして、パチンコ産業を取り締まっていたはずの、警察官僚が今では、パチンコ業界に数多く天下りしていると言われており、これらが、射幸心を煽る機種の規制が出来ないことと無関係ではないと考えられている。しかも、最近は、パチンコ産業の広告などがテレビや雑誌広告などでもどうどうとされるようになっている。日頃、何かと批判ばかりしているマスコミからも、CM収入は無視できないのか、これらの産業への意見は余り聞かれない。そして、最近は、「パチンコ症候群」などと言う新種の深刻な病気が発生し、増えてきているという。賭博性の高いパチンコから脱却ができず、サラ金から借金を重ね、自己破産を申請している人が増えていると言う。更に、サラ金業者は、このようなパチンコに使う金であることを知っていてもそのような人に金を貸し、お金を貸すところのない銀行はそんなサラ金業者が重要な貸出先になっているといった構図になっているようだ。・・・。賭博などする勇気のない私は、テレビゲームかネットのパチンコゲームででも遊んでおこうか!
参考:
日本遊技関連事業協会
http://www.nichiyukyo.or.jp/
せいろん談話室(産経新聞社)
あなたはテレビとどう付き合っていますか  ・・・パチンコCMと ...
http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/kiji_display.cgi?thread_id=200312-003&kiji_id=00166
熱闘パチンコ道場
パチンコゲームです。台は数多くありますよ。
http://aririn7.cool.ne.jp/sample/open.htm

サトウハチロー

2004-11-13 | 人物
1973年の今日(11月13日)は、サトウハチロー (詩人,歌謡作家)の忌日。<70歳>
1903(明治36)年5月23日、東京に生れる。本名は佐藤八郎。作家・佐藤紅緑(こうろく)の長男として生まれる。佐藤愛子は異母妹(紅緑の末子・作家)。
このサトウハチローには逸話が多く、落第3回、転校8回、勘当17回(自称)など、放蕩(ほうとう)の青春を送ったという。その彼が後年、西条八十に師事し、『爪色の雨』(1926=大正15年)で詩壇に登場。童謡・歌謡曲などを数多く作詞。歌謡曲『リンゴの唄』( 昭和21年歌:並木路子) 『長崎の鐘』(昭和24年、歌:藤山一郎)などの詩作で人気を得るようになる。1954(昭和29)年には、詩集『おかあさん』で、文部大臣賞を受賞、1962(昭和37)年には童謡「ちいさい秋みつけた」で日本レコード大賞童謡賞も受賞した。日本童謡協会初代会長、日本音楽著作権協会会長。1966(昭和41)年紫綬褒章、1972(昭和47)年勲三等瑞宝章を受けている。佐藤一家の歴史は、佐藤愛子の大河小説「血脈」に描かれている。佐藤愛子のライフワークとも言うべき、この私小説は第48回菊池寛賞を受賞している。酒好き、女好きで、放蕩の青春を送った中で「母よゆるしたまへ/ゆるしたまへ」と・・・。「おかあさん」の詩を最も多く書いたと言われる詩人サトウハチロー。素朴でやさしい詩には、ファンが多い。
「おかあさんの匂い 」
おかさんの匂いは どんな どんな匂い
朝はかまどの けむりの匂い
 昼はおべんとの おかずの匂い
 晩にはかすかな おふろの匂い

おかあさんの匂いは どんな どんな匂い
春はうれしい ちょうじの匂い
 秋はやさしい もくせいの匂い
 冬はひなたの ふとんの匂い

おかあさんの匂いは どんな どんな匂い
ひざにだかれりゃ くず湯の匂い
 おはなしなされば おも湯の匂い
 うたをうたえば レモンの匂い

おかあさんの匂いは どんな どんな匂い
ねえさんかいもうとに よくにた匂い
 おもどに いろりに ただよう匂い
 わかった わたしの おうちの匂い
(詩集 おかあさん サトウハチロー著)

※画像は「おかあさん―サトウハチロー・いわさきちひろ詩画集 」(出版社: 講談社 )
サトウハチローの詩から約20編を選び、いわさきちひろの絵とあわせた美しい詩画集です。
参考:
サトウハチロー(さとう はちろう)
【童謡】 『秋にさよならする日』 『秋の子』 『雨がしずかに』 『うれしいひな祭り』他詩とMIDI。
http://www.interq.or.jp/japan/k3j/sakusisya/satou%20hatirou.htm


洋服記念日

2004-11-12 | 記念日
今日(11月12日)は「洋服記念日」
1872(明治5)年、「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告が出され、軍人や警官に続き文官の礼服にも洋式が採用され、それまでの公家風・武家風の和服礼装(裃や束帯)が廃止され、政府役人に大礼服、通常礼服の着用が義務づけられる事となった。この日を記念して、1929(昭和4)年に、東京都洋服商工協同組合が、1972(昭和47)年に全日本洋服協同組合連合会が、この日を「洋服記念日」と定めた。しかし、この時の太政官布告では男性の礼服が洋装とされただけであり、女官服に洋服が採用されたのは1886(明治19)年のことだそうである。
 1853年のペリー来航 以来、欧米人の来航が頻繁になり、西洋文化の先進性を見せつけられた日本人は、今までは一部の蘭学生、医師、その他出島にいるオランダ人とともに生活している人々の中で模倣されていた服装が武士、町人など新思想の人々に部分的に取り入れられるようになった。そして、1855年、オランダ政府が海軍伝習派遣部隊を幕府に献納。日本から参加した勝麟太郎(勝海舟)他170名の伝習生たちの制服として、オランダから洋服が輸入された。
1859年、横浜が開港。幕末の動乱期、尊攘派と開国派の対立が深まるにつれ、洋服を着用する人が暗殺の対象となり、洋装は一部の武士を除いて敬遠される時期が暫く続いた。また、幕府による部分的衣服禁止令(急進的な異国への傾倒を牽制するため)も発令されたが、軍事訓練の必要から服装を改良、実情を考慮し幕府艦乗組員(御軍艦方)に対する洋服着用禁止令の解除が行われ、1861年、武家服装の長裃廃止、洋装化が本格的に始まった。
1864年 には、第一次長州征伐の為の軍装作りなども有り、この頃から、足袋屋や仕立屋の職人など、日本人の手で洋服が作られるようになったという。そして、1867年、大政奉還。1872(明治5)の太政官布告に至るというのが、大まかな日本の洋服史のようである。
神戸は、1868(慶応3)年に開港し、王政復古は神戸で外国に通告(慶応4年)された。同時に、外国人居留地が設定され、この居留地に移住してきた外国人によって、洋風文化がもたらされたが、1869(明治2)年に、英国人カペル氏が居留地16番地に開店したのが神戸における洋服店の起こりである。そして、日本人では同年に泉小十郎が開業したのが始まり。又、明治16年には、日本初の注文服店「柴田音吉洋服店」が元町に開業し、伊藤博文や昭和天皇の洋服も仕立てたという。(現在4代目が引継ぐ)
以来、地元神戸や、近郊の修行者の他に、開港神戸の名に魅せられて集まってきた従来の仕立て屋、足袋職人からの転職者達が多く就業するようになり、神戸の近代洋服隆盛の基盤が築かれた。神戸は洋行基地、また帰朝の玄関口となり、ヨーロッパ先進国の流行がそのまま上陸した為、ハイカラムードは極めて自然に市中に浸透し、特に神戸の紳士服は、ファッションの最先端として、洋行帰りのトップクラスの人に受け継がれた。中でも、オーダーメイドで仕立て上げられる紳士服のデザイン技術は日本でもトップレベルであり、「神戸洋服」と言われる固有名詞が生まれるまでになった。、昭和48年には、東遊園地(中央区)に「日本近代洋服発祥の地」顕彰稗が建立されている。
参考:
東京都洋服商工共同組合
http://www.yohfuku.or.jp/index.html
神戸元町商店街/元町点描
http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont06/tenbyo-08.html
大礼服の制定とその推移,服業界記者クラブ「日本洋服史刊行委員会」発行
「日本洋服史 一世紀の歩みと未来展望」から抜粋
http://www.setsunan.ac.jp/~tosho/external/daireifuku/daireifuku.htm

ザ゛・ピーナッツ

2004-11-11 | 人物
今日(11月11日)は「ピーナッツの日」
全国落花生協会が1985(昭和60)年に制定。新豆を使った落花生が市場に出始めるのがこの頃で、ピーナッツは1つの殻に2粒の豆が同居する双子であることから、11のぞろ目の日を記念日にした。
今日は、お豆のピーナッツの日だが、私には、ピーナッツといえば、お豆のピーナッツではなく、あの双子の姉妹歌手「ザ・ピーナッツ」を思い出すんだよな~。
ザ・ピーナッツは伊藤日出代(エミ)、月子(ユミ)姉妹のデュオで、1959(昭和34)年に「可愛い花」でデビュー、同年スタートしたフジテレビ『ザ・ヒット・パレード』に進行役として出演。司会はミッキー・カーチスと、デビューしたばかりのザ・ピーナッツをレギュラーに、踊る指揮者スマイリー小原とスカイライナーズ、渡辺晋とシックス・ジョーズの演奏。・・・懐かしいな~こう書いていても当時の放映が目に浮かんでくるよ・・・。この番組で双子の美人姉妹歌手として一躍人気者となって、以来、数々のヒット曲を出すと共に「シャボン玉ホリデー」などのテレビ番組で人気者となり、映画でも「モスラ」など20本以上出演しているが、エミが歌手の沢田研二と結婚した1975(昭和50)年に解散。解散後ユミはファッションデザイナーの道に入り、エミは沢田研二と離婚したといわれるが、その後のことは余りマスコミの話題にもならずとんと判らない。
ピーナッツが登場した頃はまだ、テレビ草創期であり、双子の姉妹ならではの息の合ったハーモニー、歌の上手さもさることながら、可愛い双子の姉妹であることも相まって一気に人気者となったが、歌のほうも、当時としては、かなり洗練されたジャパニーズ・ポップスともいえる曲が、ザ・ピーナッツのハーモニーと相まってとってもエキゾチックなムードをかもし出していた。
映画ではなんといっても、『モスラ』に出てくるインファント王国・国歌 「モスラの歌 」ですね~。作詞は由起こうじ 、作・編曲は古関裕而 。何のことやら意味の分からない歌詞「モスラ~ヤ モスラ~ ドゥンガン カサクヤン インドゥムウ~ ルスト ウィラードア・・・」は、インドネシア語で、「モスラよ早く来て助けてください、平和を取り戻してください。」という意味なのだそうだ。怪獣映画だから主役はモスラだが、主演はフランキー堺で、その他小泉博、香川京子、ザ・ピーナッツなどが出演していた。映画「ゴジラ」と同じように原水爆実験を非難する反核映画でもあり、怪獣映画ではあるが、ストーリーのしっかりした映画であった。しかし、何が印象に残っているかと言うと、小さな双子の妖精に扮するザ・ピーナッツが歌っていたこのわけの判らない歌だよね~。本当に彼女達、可愛かったよな~・・・。最近、キングレコードから「ザ・ピーナッツ・レア・コレクション」(CD)が売り出され、この中に、「シャボン玉ホリディのテーマ 」や「モスラの歌 」「ふりむかないで」「恋のフーガ 」など当時の懐かしい歌が組み込まれているよ。
(※写真は 「ザ・ピーナッツ・レア・コレクション」のカバー)
参考:
歌い継がれるメロディー 「モスラの歌」と古関裕而
http://www7.plala.or.jp/edih/melody/mothra.html
おんがく日めくり
双子の歌手、ザ・ピーナッツ(伊藤エミとユミ)誕生(1941~)。懐かしい「恋のフーガ」の曲が聴けますよ・・・。
http://www2.yamaha.co.jp/himekuri/view.html?ymd=20000401
PEANUTUHORLIDAI
http://peanuts-holiday.m78.com/index.html