今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

プロ野球誕生の日

2004-12-26 | 記念日
今日(12月26日)は、「プロ野球誕生の日,ジャイアンツの日」
1934(昭和9)年、アメリカのプロ野球との対戦の為、日本初のプロ野球チーム・大日本東京野球倶楽部(読売巨人軍の前身)が12月26日に創立され、日本プロ野球の歴史がはじまった。
まさに、日本のプロ野球の歴史は巨人の歴史といっても過言ではないだう。1934(昭和9)年、当時人気の六大学野球に対して、「職業野球」と蔑視されながら、ノーヒットノーランを3回達成した豪腕沢村、初の三冠王中島らを擁し、高い技術を見せ付けて次第にファンを獲得。太平洋戦争で中断されるまでの9年間で8回の優勝(1936年は秋季、1937年は春季、1938年は秋季優勝、その後は一シーズン制)を飾り、第一期黄金時代を築いた。
そして、混乱期の中、ジャイアンツは快進撃を続ける。1940年代こそ優勝は一回だけだが、1950年代に入ると第二期黄金時代が幕を開ける。1951年からは日本シリーズ3連覇、一年おいて1955年にも日本一になるなど、その強さは別格であった。しかし、私を含めて、日本中の人々が、巨人の試合に興味を持ち始めたのは1958(昭和33)年からではないだろうか。立教大学時代、すでにプロ野球選手より人気のあった長嶋茂幾が巨人に入団した。長嶋は、もう、入団した時からスターだった。オープン戦9試合に7ホーマーとファンの期待に応え、その後、4月5日の国鉄スワローズとの開幕戦。国鉄のエース金田正一は、試合前「長嶋だけがプロ選手じゃーない」と言ってのけ、長嶋は見事4連続三振を食らった。さっそく、不名誉なプロ野球新記録の達成である。しかし、終わってみれば、長嶋はこの年、ホームラン王、打点王の2冠を取り、打率も2位。ミスタープロ野球の誕生であった。
1959(昭和34)年に王貞治も巨人に入団し、ON時代が始まる。この1959年6月25日の巨人VS阪神戦。この日プロ野球初の天覧試合が行われた。そして、同点で迎えた9回裏、長嶋は村山のこん身のストレートをスタンドへ運んだ。正に、スターの本領発揮であった。戦後の苦しみから立ち直り、これからの高度経済成長時代をむかえて、長嶋はその時代の牽引車となり、国民のヒーローとしてファンを魅了し続けた。それに対し、デビュー当初の王はパッとしなかったが、恩師・荒川の指導を得て一本足打法を開拓、1962年から1974年まで本塁王を独占することになる。そして、この時期ジャイアンツは、ONを軸に堀内、高橋(一)を中心とした投手陣、スピードに優れる柴田、高田ら脇役陣も充実し、それぞれが個性を発揮。圧倒的な強さで他チームを蹴散らし、1965(昭和40)年~1973(昭和48)年まで、巨人は9年連続日本一に輝いた。そういえば、この時期、終盤のピンチには必ず登板し、ピタっと反撃を抑えこんだ宮田征典投手は「8時半の男」と呼ばれていた。
この時代のジャイアンツは本当に魅力的であり、相撲や高校野球は大好きであったが、プロ野球にはそれほど興味のなかった私も、長嶋が巨人で選手とし在籍していた間は、ジャイアンツのファンであった。
しかし、その長嶋も、1974(昭和49)年10月14日、「巨人は永久に不滅です」の名言を残して引退してしまった。
長嶋が巨人に入団した1958年からスタートしたセ、パ6球団の12球団2リーグ制度。2004年・アテネ五輪で金メダルを獲得すべく「史上初・オールプロ」の長嶋ジャパンで試合に臨んだにもかかわらず、試合前に長嶋監督が脳梗塞(こうそく)で倒れ、オリンピックでの目的も達成出来なかった今年、プロ野球の12球団2リーグ制度が崩壊を始めたのは、偶然ではないかも知れないな~。記録だけ見るならば、川上や王、金田といった大物がずらりといる。しかし、プロ野球史上、彼ほどファンを沸かせた選手はいなかったものな~。
(画像は、公式戦デビュー第1打席はついに三振。長嶋は大きく腕を振って悔しがる。朝日クロニクル・週間20世紀より)
参考:
読売巨人軍
http://www.giants.jp/
プロ野球70年 みんな野球が好きだった (公式ページ)。
http://www.npb.or.jp/love/npb70tvprogram2.html
Sports-J Virtualプロ野球博物館
http://www.sports-j.net/museum/1_top.html

昭和の日

2004-12-25 | 記念日
今日は「昭和の日」
1926(大正15,昭和元)年12月25日、大正天皇が崩御し、皇太子であった裕仁親王が践祚した。
昭和の始まりは、大正天皇の崩御と共にあった。大正15年12月25日午前1時25分葉山御用邸で大正天皇は崩御。翌日(昭和元年12月26日)昭和天皇即位。
昭和(しょうわ)は、日本の元号の一つであるが、東京日日新聞(現在の毎日新聞)は、早くから「新しい元号は『光文』になるらしい」という情報を得ていたため、政府の公式発表の前に「元号は『光文』に決定」と報じた。しかし政府は元号を「昭和」と発表したため、この「大特ダネ」は「大誤報」となってしまい、編輯主幹の木戸元亮は責任をとって辞任した。「光文」は新元号の候補の中にあったが、政府内では既に「昭和」に決定していた。しかし、東京日日新聞の報道から政府の公式発表までの時間があまりに短かったことから、「元々『光文』に決定していたものが、新聞で先に報道されてしまったため『昭和』に急遽変更した」という噂も生まれたという。このときの様子などは、参考の「元号に賭ける」に詳しく書かれている。
昭和天皇は、1901年4月29日、大正天皇と貞明皇后の第一皇子として青山の東宮御所に生まれる。称号は迪宮(みちのみや)。生後70日で枢密顧問官の伯爵 川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。 1908年、学習院初等科に入学。学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受けた。1916年に立太子礼をおこなって皇太子となる。1921年11月25日摂政に就任。1924年に久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)とご成婚。 1926年12月25日、大正天皇の死去により践祚し即位。そして、昭和の時代が始まる。
昭和(しょうわ)は、昭和天皇の在位期間であった西暦1926年12月25日から1989年1月7日までの時代をいい、日本の元号のなかで64年(厳密には62年と2週間)間も長く続いた元号であり時代である。
この元号が、昭和と決まった時から子供の名前に「昭」の字をつけるのが流行した。それは、この年の12月26日まで、「昭」を使った名詞、動詞、形容詞がそれまでの日本語に存在しなかった為、国民は「昭」の字の存在を殆ど知らなかったからだという。
元号「昭和」の出典 は、『書経』(※印参照)「百姓昭明、協和万邦」であり、”国民の平和と世界の共存繁栄を願った”ものである。
しかし、今思い起こせば、昭和の前半は戦争の歴史であり、実に多難続きの時代だった。元号昭和の出典の趣旨、期待を少々裏切った元号だったといえるかもしれませんね~。
現在、国民の祝日の中に、4月29日「みどりの日」がある。この日は、昭和の「天皇誕生日」だった。昭和天皇が亡くなった1989年に、政府はこの日を「みどりの日」とする祝日法改正案を国会に提出し成立させた。「昭和」と聞くと、先にも述べた暗い戦争の時代を思い起こす人も多く、野党からの反対意見が出るのを懸念して「昭和の日」とすることを避けたものだったが、今、国会では、「祝日」の持つ意義を再度考え直し、昭和という”激動の時代をいつまでも心に留めておく”意味で、今ある祝日を見直し、「みどりの日」については「昭和の日」にしようと議論されている模様だ。もともとが、昭和天皇の誕生日をもって、祝日とするのであれば、確かに、みどりの日などという中途半端な名前の記念日は可笑しいとおもうが、国民の民意を十分に尊重した上で行って欲しいものである。
「昭和」は長い時代であり、前半の30年間位は確かに戦争と戦後の暗く辛い思い出が残る。しかし、戦後の発展は目覚しいものであり、特に昭和30年代~40年代は尤も華やいだ充実した時代でもあった。今、歌謡曲をはじめ様々な分野で「昭和ブーム」が静かに広がっているようだ。 東京のお台場に昭和30年代をイメージした商店街が作られ人気を呼んでいるようであり、各地にも同様の街並みやこの時代をテーマにした博物館、資料館が出来ているという。この時代は、戦後の復興期から高度経済成長期をむかえ所得も倍増し、衣・食・住ともに大きな変貌を遂げた時代であり、生活がどんどん便利に、そして豊かになってゆく時代であった。私もそうだが、このような時代に多感な子供時代から青春時代を過ごした人達が、中高年世代となり、先行き不透明な今の時代と比べるととても懐かしく、心地よい古き良き時代として思い起こされるのも無理ないことであろう。そして、また、この時代を経験していない若者達にとっても、この時代に新鮮さと興味が感じられるからであろう。 私にも、戦争での辛い思い出が多くあるが、そのような時代に青春を過ごし、充実した生活を送れたことは、本当に幸せだったと思っている。
※=『書経』 五経の一つ。上は尭舜から下は秦の穆公(ぼくこう)にいたる政治史・政教を記した中国最古の経典。
(画像は、昭和天皇の即位礼。昭和3年11月10日。京都御所の紫神殿・高御座。AsahisimbunWeeklyAERAより)
参考:
[PDF] 元号に賭ける
猪瀬 直樹. いのせ なおき. 評論家. 長野市に生まれ. 1946.11.20. る。. 昭和六十二年( )『ミカドの肖像』で大宅壮一ノ. 1987. ... 四章の第三章に当たる。. -鴎外の執着と増蔵の死. 元号に賭ける
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/pdf/inosenaoki02.pdf

クリスマス・イヴ

2004-12-24 | 行事
今日(12月24日)は、「クリスマス・イヴ」。クリスマスの前夜。
12月25日、クリスマス(キリスト降誕祭)は、イエス・キリストの降誕記念日。西暦336年にイエス・キリストの降誕の日とされているが、キリストがこの日に生まれたという確証はなく、昔、ローマ帝国内では、太陽崇拝が広く行われており、ローマ暦では12月25日が冬至で、この日を太陽誕生の祝日として祝っていた為、教会がこの祭日を取り入れ、「正義の太陽」であるキリストの誕生の日として祝うようになったそうだ。
クリスマスの人気者のサンタクロースは、実在で、そのモデルは、3~4世紀にリキュア(現トルコ)のミュラの司教だった聖ニコラウスだといわれていることは、今は、殆どの人が知っていることだろう。しかし、聖ニコラウスがサンタさんのモデルなら何故、あんなに赤い服を着てるんだろうね~。
サンタクロースといえば、赤い帽子に赤い服の白いひげのおじいさんであるが、このまっ赤な姿は、昔から悪魔のイメージとして民衆に定着していたものだそうだ。ニコラウス司教の肖像画は、ミトラと呼ばれる司教冠とミサで着る祭服姿で、聖ニコラウスの日には、ミトラに祭服という司教の扮装をしたニコラウス役の男性と、赤い装束に身を包んだ悪魔役の若者が一組になって、二人とも大きな袋を担いで家々を回る。良い子には、ニコラウス役がプレゼント入り袋からからプレゼントを出して与え、悪い子には、悪魔役がカラ袋をかつぎ、そのカラ袋に放り込んで地獄へ連れて行くと脅す。子供たちは両親の言いつけを守ってよい子になると約束し、贈り物をもらうのだそうだ。それが、アメリカに、サンタクロースの習慣が入ったとき、若いアメリカ社会では、ヨーロッパの悪魔の古いイメージはなかったので、まずカトリックの司教の衣装がなくなり、かわりに悪魔の赤い装束が、サンタクロースの衣装に変わったということらしい。・・・これは、参考のカトリック中央協議会HPに書かれてたことだが、なかなか面白い話でしょう。
日本では、開国をし文明開化間なしの1874(明治7)年には、もう、日本で最初のクリスマス祝会が東京築地・東京第一長老協会で催され、サンタクロースも登場したというが、そのサンタは、わざわざ純日本風に、裃をつけ、大小脇差しをさし、大森カツラをかぶり、殿様ふうのいかつい扮装であったというのが面白いですね~。それに、こんな面白い記事も見た。
1920(大正9)年12月25日讀賣新聞随筆として:
「今は片山里の児供にまでもクリスマスが待たれておる。俳句の季題となったほど日本の生活化して、銀座や日本橋の商店がクリスマスの装飾を年中行事とするはおろか、郊外の淋しい町の小さな翫具屋の店先にまでクリスマス御進物の建札を見掛ける。それほどクリスマスは年々盛んになって、教会へ行く者が一人も無い家庭でも聖樹を飾って児供と共に無邪気な一夜を面白く遊ぶ風俗が次第に殖えて来た。
 仏教徒が一年中の最好季たる花見時に乗じて仏誕祭を盛んにしようと一生懸命になっても、葦に釣るした花御堂を嬉しがるのは児供だけで、門徒や法華の偏信者でもお釈迦様を祀ろうとはしない。が、児供にパヽさんマヽさんと呼ばせる家は信者でなくてもクリスマスをして、歳暮の贈品や奉公人に遣る仕着せまでをクリスマスと称する。欧化の大勢であるが基督教的空気はこれと一緒に段々濃黒に浸潤して来るので、聖書を一行も読んだ事の無い人がクリスマスの翫具を児供に頒ち、救世軍の社会鍋に銀貨や白銅を投込んで行く。」・・・・今、日本では、宗教を越えた年末の国民的行事となっているが、このころから、すでに、今と同じような風潮があったんですね~。それにしても、自分の家の仏や神さんも祭らない人達がクリスマスをお祭り騒ぎで祝うのには、聖ニコラウスさんも、驚いていることだろうね~。
ま!、不況の世の中で、日本の国民がどこかの土光さんじゃ~ないけれど、メザシばかり食べてたのでは、益々、不況になるので、高額なプレゼントを買ったり、酒飲んで今年の憂さを晴らしてお金を使うのも、景気のためには良いことであり、国家に貢献していることになるんでしょう。
そういう、私も、仏教徒ではあるが、孫のためには、安くはないクリスマスプレゼントをもう、済ませたよ・・・。(ーー゛)
讀賣新聞随筆の記事などは、参考に掲載のクリスマスと正月(1)から引用させてもらった。今日は、クリスマスの前夜祭、日本経済活性化のためにも大いに賑わうといいね~。
(画像のサンタは素材の小路からお借りしてます。)
参考:
カトリック中央協議会
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/index.htm
今日は何の日12月24日「クリスマスイブ」
http://www.nnh.to/12/24.html
クリスマスと正月(1)
http://juntak.c.u-tokyo.ac.jp/2001/aoyama/1204/handout1204.html
AArts at Dorian[聖書物語」
http://www.ne.jp/asahi/art/dorian/Bible/JBible.htm
音楽ひめくり「世界中のクリスマス・ソング」
http://www2.yamaha.co.jp/himekuri/view.html?ymd=19981224
ここで素敵なクリスマスソングが試聴できます。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/thwin/Xmas/index.html

映画『ウエストサイド物語』の封切り日

2004-12-23 | 歴史
1961(昭和36)年の今日(12月23日)は、映画『ウエストサイド物語』の封切り日。「トゥナイト」を含むサウンドトラック盤が大ヒット。
「ウエストサイド物語」を私が観たのは、私が大阪本町にある会社に勤めていた頃なので、たしか、難波の南海劇場だったと思うな~。
映画は、70ミリの大画面の中、ニューヨークの摩天楼のビルが林立するマンハッタンを、上空から俯瞰した映像から、ゆっくりとズームアップアップしていき、一転、スラム街の片隅でバスケットボールに興ずる少年達へ、そこから二つのグループの少年達が街へ繰り出していく・・・ダイナミックな音楽が、これから始まるドラマを暗示するかのように観客を誘う。冒頭のシーンからすばらしい。
この映画は、シェーピクピア原作の「ロミオとジュリエット」を現代版に置き換え製作されたミュージカルである。ただ、あの古典の趣きとは異なり、ニューヨークに住む二つの対立する若者集団のリアルな抗争としてストーリーは展開していく。
そして、これまでのミュージカル映画は、夢や愛があり、明かるく、華やかで、ハッピーエンドで終わるといった展開のもであったが、この映画の舞台は大都会ニューヨークのスラム街であり、登場人物も不良少年達であり、結末も悲劇的であるなど、色んな面でそれまでのミュージカルの概念を覆したミュージカル映画であった。人種問題や社会問題を痛烈に批判するところなどもあるが、そういった部分は、あえてコミカルに仕上げるなどの工夫をしている。兎に角、この映画の魅力は、あくまでも、ストーリーではなく、歌とダンスの素晴らしさにある。ニューヨークの下町で、パチッ、パチッと指をならすフィンガー・スナップをしながら街を歩くゴロツキたち。一人また一人と、どこからともなく仲間たちが集まり、やがて路上で高々と足を上げ、踊りだす・・・有名なこのシーンを思い出しただけでもゾクゾクする。若き日のジョージ・チャキリス素敵でしたね~。彼は、アカデミー助演男優賞を受賞したが、因みに、この年のアカデミー賞で「ウエストサイド物語」は実に11部門も受賞している。映画の大ヒットもあり、おそらく日本で最も有名なミュージカルといえるだろう。日本でも色々舞台上演されているが劇団四季や宝塚の定番作品ともなっている。 それに最近は、ビデオが販売され、いつでも家で好きなときに見れるようになった。しかし、この映画は映画館の70mmの大画面で見てこそ、その迫力、躍動感、音響の素晴らしさが味わえる映画ではないだろうか。あの大画面で是非、もう一度、観たいものである。
(画像は、WEST SIDE STORYサウンドトラック盤ジャケット)
参考:
音楽日めくり
http://www2.yamaha.co.jp/himekuri/view.html?ymd=19981223
onight トゥナイト「ウエストサイド物語」
トゥナイト -1961年のミュージカル映画「ウエストサイド物語」 の挿入歌でステファン・サンドハイムとレオナルド・ バーンスタインの作です。・・・ちょっとトゥナイトを聴いてみる・・
http://wagesa.cool.ne.jp/music/movie/tonight.html

女優・乙羽信子の忌日

2004-12-22 | 人物
1994年の今日(12月22日)は、女優・乙羽信子【本名 新藤(加治)信子=映画監督・進藤兼人夫人】の忌日。(1924年10月10日生まれ)
宝塚時代“おカジ”の愛称で呼ばれたお姫様スター。同期生に越路吹雪、月丘夢路などがいる。乙羽信子は、1950(昭和25)年“百万ドルのえくぼ”のキャッチフレーズで大映に入社。「処女峰」でデビュー。
翌1951(昭和26)年、後に夫となる新藤兼人の第1回監督作品「愛妻物語」に主演。この映画は進藤が戦争中に死別した妻との短い日々を描いた傑作で、乙羽は感動的な演技を示し、この作品が新藤との生涯の結びつきにもなった。その後、着実に力をつけ、大映の看板女優となった音羽信子は、新藤の脚本・監督による「原爆の子」に出演。原爆の後遺症に苦しむ広島市民の姿を熱演した。その後、そのまま進藤の主宰する独立プロ近代映画協会に移り、彼とともに歩むようになり、新藤作品のほとんどに出演。“100万ドルのえくぼ”とは、正反対のシリアスな役、汚れ役を演じ、演技派の実力第1の名女優になった。そして、1978(昭和53)年、長い恋愛生活の後に終生のコンビでもある新藤と正式に結婚した。
1994(平成6)年、夫・進藤兼人監督作品「午後の遺言状」(近代映画協会 )へ出演した。この作品は、女優で進藤兼人の愛妻でもあった乙羽の生涯最後の作品となった。彼女の余命が、1年半と医者に告げられた進藤監督は、女優として生きた乙羽の人生最後の時を、女優として生き抜いてほしいと願い撮影に入った。乙羽も監督の思いに賭けて、競演の杉村春子もそれと気づかないほど自然にこなし、無事完成した映画を観た数週間後の平成6年12月22日、70年の人生の幕を下ろした。この映画は、互いに尊敬を抱きながら人生のパートナーとして時を重ねてきた二人が、いかに、最後の時まで共に生きたかを描いたドキュメントである。この作品は女性客を集め大ヒット、映画賞を独占した。
新藤 兼人の「愛妻記」(岩波現代文庫)では、妻の肝臓がんの手術が終り,余命1年余と告げられたとき、夫は妻主演の映画を撮ろうと決意。人は老いをいかに生きるべきか、火花を散らす2人の老仕事師夫妻の凄絶な愛と慈しみを哀惜をこめて描いている本であり、そして、完成した映画が「午後の遺言状」である。本当の大人の愛というものは、こういうものを言うんだろうな~。今、若い人達が、愛・愛と言っている薄っぺらな愛に比べて 、どれだけ深い愛であろうか。
(画像は、映画「午後の遺言状」のチラシ)
参考:
CinemaScape-映画批評空間-
乙羽信子 Nobuko Otowa
http://cinema.intercritique.com/person.cgi?name=%B2%B5%B1%A9%BF%AE%BB%D2
1996年 第19回日本アカデミー賞
http://www.japan-academy-prize.jp/allprizes/1996/index.html