今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

北大路魯山人の忌日

2004-12-21 | 人物
1959(昭和34)年の 今日(12月21日)は北大路魯山人 (陶芸家,書家,料理研究家)の忌日。<76歳> [1883(明治16)年3月2日生]
北大路魯山人(きたおうじろさんじん) は、多種多芸な異色陶芸家である。
京都上賀茂神社の北大路家に生まれたが、生後まもなく養子に出され、他家を転々とし、最後の養家・木版師福田武造の養子となり、福田房次郎を名乗る。陶芸の師は特にないが、京都の内貴清兵衛の後援を受け、多くの芸術家や数奇者との交わりが、彼の種々の才能を育て発揮させたようだ。 若い頃から書、篆刻に優れた天分を発揮した。また、生来、味覚にすぐれ料理にも通じて、大正末期には、1925(大正14)年に東京麹町の星岡茶寮の顧問兼料理長として、料理、食器などの演出にあたる。この頃から陶磁器の製作を始め、北鎌倉に「星岡窯」を築き飲食器類を盛んに制作した。専門陶工ではない趣味人ならではの類い稀なる感性と独特の創造性により、幅広い分野において、その非凡な才能を発揮させた魯山人は、また料理家・美食家でもあり、彼の名言「食器は料理のきもの」というように、調理方法・素材へのこだわりと同等に、食器のバランスにもこだわり、調和を大切にした。そのため、彼の器は手にした時、食べ物を盛り付けた時にこそ、その本領を発揮すると言われている。魯山人は人間国宝に推挙されたがこれを拒否した。
ま、北大路魯山人について、色々な本などで書かれている大筋を紹介すれば、以上のようなものである。
書家で、陶芸家で、料理人でもあった鬼才魯山人は、評判になった漫画『美味しんぼ』の料理の達人のモデルでもあるらしく、比較的若い人の間にも名前は知られているのではないか。そして、魯山人の作品は、名だたる料亭などで珍重され、多くの本などでも紹介されている。しかし、雑誌などで見ても、どうも大仰すぎて、私の趣味には合わないが、ただ、私も、陶芸には興味を持っており、「食器は料理のきもの」という彼の持論には基本的に賛成である。
魯山人が活躍する以前は、陶芸といえば鑑賞用陶器を指し、食事の器などは雑器であった。彼の美に対する鋭い感性が、そんな既成概念を払い除け、食器の世界にも芸術の幅を広げたのは凄い功績である。
酒宴などに使われている「ぐい呑み」。昔は「ぐい飲み」などなく、酒は小さな猪口か湯飲みを使用していた、しかし、猪口では小さく、湯呑みでは大き過ぎることら、大振りのお猪口を「ぐい呑」と命名したのが魯山人だといわれている。酒を楽しみ、人を楽しませたいとのサービス精神とアイデアから生まれたものであろう。
私は酒が好きで、酒の場を楽しむために、酒器のコレクションをしているが、ぐい飲みは酒を飲むのにはちょうど良い大きさの器である。「食器を作るには、食を知らなければならず、食を知るには料理の仕方を知らねばならない。」 魯山人の名言ではあるが、料理の仕方を知るためには、料理の素材を知らなければならないだろうし、料理の素材を知るためには、農地や海など自然のことまで知らなければならないだろう・・・彼のような鬼才は別として、凡人の私などには、考えただけでも気が重い。
(画像は、北大路魯山人 志野茶碗。やきもの辞典より)
参考:

京都現代美術館(「魯山人作品室」が設けられている。)
http://www.kahitsukan.or.jp/
北大路魯山人資料室:資料作成 近代芸術社
http://www5e.biglobe.ne.jp/~modern/index.htm
吉兆庵美術館 - 北大路魯山人の作品を常設展示。
http://www.kitchoan.co.jp/museum/
江戸屋美術のホームページ 北大路魯山人
http://www.edoya.co.jp/goods/rosanjin.htm

デパート開業の日

2004-12-20 | 記念日
今日は、「デパート開業の日」
1904(明治37)年12月20日は、東京・日本橋の三越呉服店が、日本で初めての欧米のデパート形式での営業を開始した日。
三越呉服店の前進の三井呉服店を始めたのは、伊勢松阪出身の三井高利である。始めは京都の呉服仕入れの店を開き、江戸(本町1丁目・今の三越本店の北あたり)でも「越後屋」の屋号で開業していたが、1683(天保3)年に、江戸の店を駿河町に移した。「越後屋」は、その後、1893年(明治26年)に合名会社「三井呉服店」に改称、1904年(明治37年)には、欧米式百貨店をめざし、株式会社「三越呉服店」を設立した。それまでは、業界の常識だった「座売り」を廃し、陳列販売に踏み切るなど、常に日本の商法の先端をいく試みを展開してきたが、呉服の他に、小間物の扱いをはじめ、「今後一層、販売商品を増加し、凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて用弁相成る様設備し、結局、米国に行わるるデパートメントストアの一部を実現する」と報道されたという。
1914(大正3)年の、新しい建物は、鉄筋コンクリート造による大規模なもので、ルネサンス様式の鉄筋5階建てで、日本で最初のエレベーター、全館暖房等が完備され、この時に、おなじみの青銅のライオン(ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像を模したもの)が東玄関の左右に飾られ話題を集めた。その後、西館を増築、1927年(昭和2年)には、関東大震災で焼かれた全館を修復、その翌1928(昭和3)年に、「三越呉服店」を「三越」と改め、大百貨店への道を着実に歩んできた。
1935(昭和10)年に大規模な増改築を行い、現在見られる建物となっている。建物中央部の吹き抜けホールは、アーチ状の天窓からの光りがホール全休を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐり、アール・デコ風のデザインが見事な歴史的建造物である。
わが国の百貨店は、老舗の呉服店から出発したものと、後発の私鉄のタ-ミナル利用から出発したものと大きく二つの系統に分けられるが、三越、高島屋、大丸、十合、松阪屋などの大呉服店は、明治40年前後に店舗を増改築し、揃って百貨店に生まれ変わった。これらの百貨店は、呉服を中心に高級品や贅沢品を扱い、知識層である上流・中流階級を顧客としていた。
江戸時代初期の城下町には、同業が同じ場所に集る形をとったものが多く、江戸の駿河町には、呉服の店が多く集っていた。越後屋は、江戸に店を出してから、直ぐに、駿河町に移転している。呉服など大店が多数並んでいる所に店を出したことにより、江戸庶民から「大店のひとつ」として認知されるとともに「現金掛値なし」の店先(みせさき)での商売が成功し大繁盛。そして、当時の庶民、中でも知識層である上流・中流階級の圧倒的な支持を受けるが、他の大店からは嫉妬され、嫌がらせを受けるようになったところで、さっと日本橋に移転したが、店の顧客は移転先にちゃんとついてきてくれたそうで、もし、最初から日本橋に店を出していたら、三越が成功したかどうかはわからなかったといわれている。その後越後屋は大量の小銭を処理する必要から店の隣に両替屋も併設。呉服店は「三井」「越後」から「三越」に、両替屋は「三井銀行(現三井住友銀行)」になり、戦前は、三井財閥を形成するまでになった。
こんな、日本を代表する名門百貨店で、1982(昭和57)年10月29日、大不祥事が発生した。三越の岡田茂前社長(当時68歳)が自宅改修工事費に約5000万円の社費を流用したなどの特別背任容疑で、警視庁に逮捕されたのである。これに先立って、岡田前社長と個人的にも深い関係にあった三越納入業者の竹久みち容疑者も、脱税容疑で東京地検に逮捕されていた。その後、2人が三越を私物化していた実態が明らかになり、捜査当局は、2人を約18億7000万円にのぼる特別背任罪などで追起訴。2人は、一、二審で有罪判決を受けてともに上告。岡田被告は1995年07月に死亡し、控訴棄却となった。
岡田前社長は、三越の定例取締役会で社長解任案が提出され、16対0で社長解任が決定した席上思わず「なぜだ」と叫んだと言いう。当時、この一言は流行語にもなり、世間の関心である三越の女帝”とも呼ばれた竹久みちと岡田茂るの愛人関係は、映画や小説にも描かれた。しかし、この、岡田茂前社長の解任劇は、竹久みちと岡田茂るの愛人関係をネタに仕掛けられたクーデターだという説も有る。
この事件は、数々の先進的な改革によって成功し三井財閥を形成する基になった三越も、戦後の財閥解体によって三井家の手からは離れたが、三越の社長になり、自動的に筆頭株主になって強大な権限を手にした岡田茂の、ワンマンな経営手法が招いた結果と言えるかも知れないですね~。
(画像は、絵葉書:昭和ノ大東京大建築「日本橋 三越」。戦前のものである)
参考:
東京考察:日本橋三越本店
http://www.f-banchan.net/tokyo/mitsukoshi/mitsukoshi.htm
ぎゃらりー「日本橋・八重洲・京橋かいわい」:東京駿河町三ッ井正写之図
http://www.iijnet.or.jp/ynp/gallery/nishikie02.html
三越HP
http://www.mitsukoshi.co.jp/corp_info/profile/index.html
株式会社三越呉服店(現株式会社三越) 元会長 日比翁助氏
http://www.sw.nec.co.jp/kpass/035.html
安全地帯
竹久みち著『罪名 女』(ごま書房・2004年5月 ... その偏見が著者が「女」ゆえに起こり、「愛人関係」を最大限に利用したと邪推され、裁判官までも判断を誤らせる不幸を招いたといえる。
http://ginnews.hb-arts.co.jp/041201/safe.htm

日本初飛行の日

2004-12-19 | 記念日
今日は「日本初飛行の日」
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。
1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行に成功したのを知った軍が「臨時軍用気球研究会」を設立し、1910(明治43)年4月、飛行機研究と購入のために、日野熊蔵歩兵大尉をドイツに、徳川好敏工兵大尉をフランスへ派遣した。この2人が同年10月に操縦術を学んで帰り、12月11日から19日にかけて、東京・代々木練兵場で、2人による「日本での最初の飛行」公開をするすることになり、12月14日は、地上滑走試験の予定だったが、日野大尉の操縦するグラーデ単葉機は2メートルの高さに浮上し、100mの距離を飛んだ。しかし、徳川大尉のファルマン複葉機はエンジン不調などで飛べなかった。そして、ようやく、本飛行予定の19日の朝、高さ70m、距離3000mの飛行に成功した。この午後には、日野大尉の乗った機も高さ20m、距離1000mを飛んでいる。
だから、本当の初飛行は、12月14日の日野熊蔵がしたことになるのだが、日本の航空史では、日野熊蔵の飛行は、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤って離陸」したものとして記録は認められず、徳川大尉を「日本発の動力飛行者」としている。
徳川好敏工兵大尉は、1884(明治17)年生まれ。徳川篤守(清水家・旧御三家)の長男であり、陸軍が徳川に名をなさしめたいと願ってのこという説もあるが、とにかく、ライト兄弟が初飛行に成功してから、わずか、7年後に徳川、日野の両名によって日本で初めて動力飛行に成功したのは記念すべきことである。
その後、徳川好敏は、飛行学校教官、飛行連隊長等々を経て、航空仕官学校長で敗戦を向かえ、1963年4月死去している(78歳)。
(画像等は、朝日クロニクル・週間20世紀No051より借用)
参考:
Yoyogi Park, 2001
http://www.campus.ne.jp/~a0ri/afterglow/yoyogi2001.html
所沢航空公園・航空発祥記念館
http://tam-web.jsf.or.jp/cont/index.htm

東京駅の日

2004-12-18 | 記念日
今日は、「東京駅の日」1914(大正3)年12月18日、東京駅の完成式が行われた。
日本の首都、東京の駅。すべての鉄道は東京に向かって敷かれており、東京駅に向かう列車のことを「上り列車」と言っていたが、「上り」「下り」という表現は、差別だと言うので、「○○方面」と表現することになった。しかし、今でも、上り(○○方面)などと書いてある時刻表もよくみる。ま、上り、下りはの表現方法は別としても、東海道・東北・上越などの新幹線の発着駅であり,在来線では東海道本線・中央線・総武線・京葉線・横須賀線などの発着駅となる、日本を代表するマンモス駅には違いない。この駅は南北に長い駅である。
"お千代さん"の愛称で親しまれている島倉千代子の名曲「東京だよおっ母さん」(和32年)は、東京に出てきた娘が,久しぶりに田舎から出てきた母親をつれて東京見物をするうたであるが、まず最初に登場するのが皇居に架かる「二重橋」である。皇居は、東京駅の西向にある。
設計者は、辰野金吾。大正3年に東京の玄関口として建設された。設計は明治36年に開始(39年とも)され、同41年起工。事実上の明治という時代の最後を飾る国家的建築といえるもので、辰野金吾の特徴とも言える煉瓦式の建築である。赤レンガの駅舎は、オランダのアムステルダム中央駅をモデルにしたといわれる建物で、ルネッサンス様式の、明治文化の面影をとどめる貴重な歴史的建造物のひとつとして【重要文化財】にも指定されている。
今のJR東京駅丸の内口は、戦災で3階部分が焼け、2階部分までを応急処置を施して復興したものである。
もともと新橋が玄関口であったが、新たな帝都の玄関口として建設されたものであるが、初めの頃は、皇居側にしか出入口がなく、中央の出入り口は皇室専用だったらしいが、現在は使用されていない。当時の屋根の上のドームの部分は、今、三角屋根になっている。
(画像は、絵葉書より、大正~昭和初期のドームのある東京駅)
参考:
東京の近代建築
http://members.aol.com/nk10jo/kiko1/tokin/tokin00.html
東京
戦前と今の建物を対比:戦前の建物にはドームがある。
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/tokyo/tokyo.htm
アムステルダム観光・1(アムステルダム中央駅 )
レンガ作りのどっしりとした建物で、東京駅はこの駅をモデルに建てらたといわれている。
http://ethnicdaisuki.cool.ne.jp/turkey-ams1.htm

絵物語作家・山川惣治

2004-12-17 | 人物
今日(12月17日)は絵物語作家・山川惣治(やまかわそうじ)の忌日。(1908年~1992年)福島県出身。<84歳>
今の若い人は知らないと思うが、山川惣治は1940~50年代に日本の少年雑誌に絵物語というジャンルを確立した、空前の人気作家であった。
学校卒業後、多くの紙芝居を制作、昭和初期の紙芝居ブームを作った。
昭和13年文部省主催の日本紙芝居コンクール入選を機に、雑誌「少年倶楽部」で、絵物語作家としてデビュ。戦後は、紙芝居や少年雑誌で作品を発表したが、特に「少年王者」「少年ケニヤ」などの密林冒険物が人気を呼んだ。特に、「少年ケニヤ」は、1951(昭和26)年から1955(昭和30)年の4年に渡って産経新聞に連載されたことにより、少年雑誌の読者だけでなく、日本全国に大人のファンをも獲得した。
絵物語というのは、挿し絵画家による絵と、挿し絵画家自身、あるいは小説家による文が組み合わされたもので、紙芝居の雑誌版のようなものである。「少年ケニヤ」は、アフリカのケニヤで動物調査中の父と離ればなれになってしまった少年ワタルが、その地で少年ケニヤとなり、そこで出会った少女ケイトや酋長のゼガらとともにケニヤの広大な原野や、鬱蒼とした密林で活躍する姿を描たものであり、日本版・少年ターザン物といったところか・・・。兎に角、その頃のアフリカは、現在の宇宙と同じような未知の世界であった。
戦後間なしの焼け跡しかなかった時代、子供の頃に、このカラーの緻密画による冒険物語の大自然の迫力や動物たちの躍動がとても新鮮で、興奮し、胸躍らせて読んでいたことを思い出す。
(画像は、「少年ケニヤ」DVD)
参考:
山川惣治と絵物語の世界
http://www5f.biglobe.ne.jp/~shingo21/index.html