今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

性交禁忌の日

2005-05-16 | 記念日
今日(5月16日)は「性交禁忌の日」
江戸時代、この日の夜は、特に性交禁忌の日とされ、禁忌を破ると3年以内に死ぬとまで言われていたそうだ。
今日の記念日の中に、こんな記念日、つまりは「シテはいけない日」があった。なんでも、江戸時代に発売された艶本『艶話枕筥』(つやばなしまくらばこ)という本に「五月十六日房内禁事、犯すときは三年を出ずして死す。」とあるのだそうだ。では、一体なんでシタらいけないのかは色々調べてみたがよく判らない。この話は、平安時代の医学書「医心方」(いしんほう又いしんぼう)に由来しているのだという。この「医心方」の名だけは、歴史の本を読んで知っている。
「医心方」は、平安時代の代表的な医書にして、日本最古の医術書である。著者は、後漢の渡来人の子孫と伝えられる丹波康頼(たんばのやすより)という人物で、康頼は、仏教とともに日本に伝わった隋・唐の医書約80冊から大切な部分を抜き出し、総論、針灸、内科、外科、製煉製剤法、石薬、婦人科、産科、小児科、延年法、養生法、房内、食養法などを、30巻の『医心方』にまとめ、永観2年(982年)に当時の朝廷に献上したものだそうだ。この書は、重要文化財として京都・御室の仁和寺に保存されているとか。ちなみに、俳優の丹波哲郎氏は彼の子孫にあたるのだそうだ。
この「医心方」には、”第二十八巻”に医学書らしからぬ「房内編」なる部分がある。房内は言うまでもなく「閨房」(けいぼう)であり、言い換えれば、寝室、ねま、特に、夫婦の寝室をいい、王侯貴族の奥まった部屋でおこなわれる男女交接の教科書といったものらしい。私は、この本を、実際に読んだことがないので、泉書房 の「医心方第二十八巻房内編 」の解説を見ると、”現代医学にも通じるこのシリーズのうち、とくに「秘本中の秘本」と言われる「房内編」を現代訳。男女の夜の営みを通して、「男がいつまでも強くある法」「接して漏らさずの法」「女性を“倡女”のように嬉戯させる法」「交接で得られる長寿の秘訣」などを公開。”とあり、性的効力や、実行方法、医術的な効果療法などにまで細かく説いてあるようだ。どんなことが書いてあるかなど興味ある方は、以下参考の[日記 :セクシャル・バリエーションその1」を覗いてみるとよい。
ちょっと、話はそれるかも知れないが、あの俳人の小林一茶は五十代の句日記に自分の交合(媾合とも書く。性交のこと)の記録をのこしており、それによると、ほとんど連日のごとく、同一の女(妻)との「三交」とか「五交」とかいうことが書かれている。「交」は、交合のことだから、現代人の目からみると「毎晩なんて」それも、三交」「五交」か・・・すごいなと思うかも知れないが、江戸時代の農民夫婦はみな一茶のような生活を送っていたそうだね~。電気もない時代、暗くなったら寝るしかないものね~。だから、江戸時代の農民夫婦はみな一茶のような生活を送っていたのである。・・・いや、農民だけではなく江戸の町の人たちだって同じだっただろう。しかし、そんなに、毎日イタシてたら人口がすごく増えただろうと思うのだがそんなに江戸の人口が増えている訳ではない。それは、今の時代と違って、死亡率が高かったから、いくらシテも死亡率の高さで調整されていたんだよね。
結局、「性交禁忌の日」の根拠については、よく分らないままだったが・・・ま!そんな日もあって、良かったんじゃ~ないかと思うが、1年に一度では仕様がないよね~。
実際、当時には、「庚申(こうしん)の日」と言うものがあった。60日に一度、年に6回ってくる庚申の日の庚申講・庚申信仰によるものだが、もともとのはじまりは中国の道教だと言われている。この日、いくつかの守るべき禁忌の中に同衾を忌むこと。つまり性交を行ってはいけないというものがあった。詳しくは、以下参考の「庚申講とは」を見て欲しいが、江戸時代の民間信仰として根付いていた。・・・これも、2ヶ月に一回だけのものだが、江戸時代の人にとってはこの禁忌は辛かったのだろうね。私なんか、自分が、江戸時代に生まれていたら早死にしてたか知れないよ・・。でも、医心方の「第二十八巻房内編 」だけは、読んでみたい誘惑にかられるね・・・。今度、図書館へ行ったら探してみようっと・・・。
(画像は、泉書房 「 医心方第二十八巻房内編」)
参考:
blog「白夜の夢」:やってはいけない
http://peace.tea-nifty.com/shiro/2004/05/post_22.html
日記:セクシャル・バリエーションその1
http://plaza.rakuten.co.jp/tokidokiya/diary/2002-01-24/
雑穀食・農耕民族の旺盛な性能力~小林一茶の交合記録~
http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/eating11-20/issa1.html
庚申講とは
http://www.koshindo.com/whats.html

沖縄本土復帰記念日,沖縄復帰記念日

2005-05-15 | 記念日
今日(5月15日)は「沖縄本土復帰記念日,沖縄復帰記念日」
第2次世界大戦末期にアメリカ軍に占領され、1951(昭和26)年のサンフランシスコ条約の結果、アメリカ合衆国の統治下に置かれることとなった沖縄。敗戦直後からみられた沖縄の本土への復帰運動が、沖縄での運動から全国的な国民的な展開となり、これが、日米両政府を動かし、政府間で沖縄復帰の協議が行われるようになる。そして、その後、「岸・アイゼンハワー会談」「池田・ケネディ会談」などの会談を経て、当時の首相佐藤栄作が戦後の首相としては初めて沖縄を訪問、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わらない」と演説。沖縄復帰問題はにわかに現実化し、1969(昭和44)年11月、「佐藤・ニクソン共同声明」で1972(昭和47)年の沖縄の本土復帰が確定した。そして、1971(昭和46)年6月17日、ワシントンで沖縄返還協定が調印され、翌1972(昭和47)年5月15日午前0時をもって発効し、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県 が誕生した。本土復帰を祝う政府主催の記念式典は5月15日東京・日本武道館と沖縄那覇市民会館の2箇所で、会場の飾りつけも同じにして同時に行われた。東京会場には天皇・皇后両陛下もご出席され、佐藤首相の式辞と天皇のお言葉は那覇会場にテレビ中継された。沖縄の人々にとっては、永らく待望していた祖国復帰が、実現したのであるが、この慶祝が手放しで喜べるものではなかった。それは、日本政府側も「本土並み」の復帰を目指したのではあろうが、実際には30以上の米軍基地や弾薬庫、演習場等が残されたままとなったからである。沖縄県民の心には、沖縄の米軍基地の重要性を認め、その維持に腐心する日本政府としての不信感と、「復帰」が日米安保体制強化のダシに使われたという複雑な思いが残ったからである。かって戦場の島だった沖縄は、平和を切望しながら、占領されて後、やっと、27年ぶりに祖国復帰した後も、今までと同じ「基地の島」の現状は変らなかったのであるから・・・。沖縄の米軍基地の面積は全県の12%にも上っていた。沖縄県民の気持ちはよく分る。
沖縄が日本に復帰後、使用できる通貨は、ドルから円になったが、当時ドルは、1ドル360円から305円に切り上げられていたので通貨交換により1ドル55円の目減りとなった。県民は暫く買物をするにも慣れないレート計算をしなければならず、商品の値段も混乱した。
その後、1974(昭和49)年4月、故佐藤栄作・元首相は、ノーベル平和賞を受賞した。領土返還交渉を成功させたこととともに「非核三原則」に基づく外交などが評価されての受賞だったようだが、沖縄は返還後も、米軍は、「日米安保条約」の下、沖縄をベトナム・中東などの戦役の拠点として引き続き使用。佐藤氏はベトナム戦争で米政策を全面支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たしてきた。又、佐藤氏は言っている事とは反対に、原則的には日本の核武装に反対ではなかったともいい、佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤りともいわれている。
日本における米軍基地の75%が集中する沖縄。2004年8月、沖縄国際大学構内に米軍ヘリが墜落する事故が起こったように、今でも基地による被害は絶えない。お気の毒としか言いようがない。しかし、この基地問題解決は、日本の国防力問題を抜きにしては出来ないであろう。
(画像は、本土復帰を祝う政府主催の記念式典。東京・日本武道館の模様。アサヒクロニクル・週間20世紀より)
参考:
データベース「世界と日本」/日米関係資料集1971-2005
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JPUS/index71-05.html
用語解説-(一般)
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yougokaisetu-ippann.htm
データベース『世界と日本』 戦後日本政治・国際関係データベース
[文書名] 沖縄百万同胞に贈ることば(佐藤内閣総理大臣)/[出典] 佐藤内閣総理大臣演説集(1),
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19691121.S2J.html


温度計の日

2005-05-14 | 記念日
1686年の今日(5月14日)は「温度計の日」
水銀温度計を発明し、華氏温度目盛り(°F)に名前を残すドイツの物理学者ファーレンハイト(Fahrenheit, Gabriel Daniel、1686年~1736年)の、1686年の誕生日。
温度計の歴史を辿ると、世界で最初に温度計を作ったのは、あの有名なガリレオ・ガリレイだった。1603年にガリレオ・ガリレイが作った温度計は、気体である空気の膨張・収縮を利用したものであった。しかし、その空気を封じ込めている水が外気にさらされた構造だったため、温度を示す水面の高さが気圧の影響を受けてしまった。その後、液体を管に封じ込めた温度計が開発され、気圧の影響を受けずに温度変化を観察することができるようになった。ところが、精度のよい温度計ができても基準となる温度が定められていないため、18世紀初頭まで温度計の目盛は使用者によってマチマチだったそうだ。そこで、1724年に、ファーレンハイトは生活により密着した温度の基準として華氏を提唱した。華氏という表記は、ファーレンハイトの中国語における音訳「華倫海」から来ている。 ファーレンハイトは氷に塩化アンモニウムを寒剤として混ぜて得られる氷点下の温度を0点とし、氷の融点(水の氷点)を32度(°F)、健康な男性の体温を96度(°F)とする水銀温度計をつくった。これが初の標準温度計であるカ氏温度計である。水銀はアルコールや水とは違って、ガラス管の壁をぬらさず、付着することがないため、同じ熱さの時にはいつも同じ目盛りを指す。ファーレンハイトの死後、若干修正されて「氷の融解点32度」「水の沸騰点212度」とした。この目盛りは、現在でもアメリカ、カナダなどで使われているそうだ。
その後、スウェーデンの天文学者・物理学者セルシウスは、気圧計の目盛りが一定の時、水の 沸騰する温度がつねに一定であることに気づき、一気圧のときの水の沸騰点と、氷の 融解点との間を100等分した目盛りを提唱した。これが、セルシウスの水銀温度計であり、今日、世界的に採用されているセ(摂)氏温度といわれるものである。(摂氏も中国でセルシウスに“摂爾修”の字を当てたことに由来している)。今では、目に見えない光(赤外線)を利用した温度計へと発展し、測りたいもの(測定物体)に直接触れなくても、離れた位置から温度が測れる非接触型温度計と呼ばれているものもでてきているそうだ。
どこの家庭でも馴染みの深い体温計。私の家の体温計など古い水銀体温計だから、腋の下に挟んで測っているが、私の測り方が下手なのか、風邪など引いて高熱を出しているのに、正確な温度が測定できず、いつも家人から子供のようだと叱られている。家人などに言わせると最近は、耳の中に入れて測る「耳式体温計」が流行っているそうだ。水銀体温計では5分間位かかるのに、わずか1秒ほどで検温することができるそうだ。又、病院などでは、電子体温計なるものが使われており、1分ほどで測れるという。しかし、私は、めったに医者にかからないし、近所のかかりつけの病院では、我が家と同じ水銀体温計を使用しているので、他のものがどんなものか知らない。病院で測るといつもちゃんと測定できるのに、何故か、家で測ると正確に測れない。どうしてだろう。家人に怒られながらそのとおり、測っている積りなんだけれどもね~。買いなおさなければいけないかな~。
(画像は昔ながらの水銀体温計)
参考:
温度ってなんだろう
http://www.sksato.co.jp/temp/temp01.html
温度と温度計の科学史 
http://www.tdk.co.jp/techmag/museum/museum43.htm
温度の昔話
http://okumedia.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/~masako/exp/netuworld/syoutai/ondo2.html
体温計のページ
http://mall.realint.com/4090201/

メイストームデー(5月の嵐の日)

2005-05-13 | 記念日
今日(5月13日)は、「メイストームデー(5月の嵐の日)」
「バレンタインデー」から88日目、「八十八夜の別れ霜」ということで、別れ話を切り出すのに最適とされる日。2月14日の「バレンタインデー」、3月14日の「ホワイトデー」、4月14日の「オレンジデー」と、14日あたりは恋人に関連した記念日が続く。これを乗り切れば、6月12日には「恋人の日」が待っているのだとさ・・・。
何故こんな日が設定されたのかは、よく知らないが、なんとなく他の記念日よりも、日本的で、情緒的で、面白いね~。「バレンタインデー」から88日目、「八十八夜の別れ霜」というのがいいよ・・・・。
八十八夜は、暦の上では「雑節」と言われるものの一つ。
立春の日から数えて88日目の日。現在の暦では5月2日か3日頃がこれに当たる。暦の上の二十四節気や七十二候は中国生まれだが、この「八十八夜」は、日本での実生活上の必要性から記載されるようになった日本生まれの言葉だそうである。日本の正式な暦に八十八夜が記載されるようになったのは、渋川春海による貞享の改暦(1684年)からだといわれているそうだ。
「八十八」と言う字を組み合わせると「米」と言う字になることから、この日は農業に従事する人にとって特別重要な日とされてきた。
昔から、「夏も近づく八十八夜」「八十八夜の別れ霜」などといわれ、八十八夜は霜のなくなる安定した気候の訪れる時期。春から夏へ移る境目の日として重要視されてきた。農家にとって遅霜は恐ろしい。育ち始めた作物の若い芽、若い葉に霜が降りて作物がだめになってしまってはそれまでの苦労が水の泡となる。春も終盤となって、油断していると危ないよと言った一種の警告の日なのだ。そして、この八十八夜の3日後が立夏。暦の上ではもう夏は目の前なのである。
八十八夜からは新茶の摘み取りが行われる。尋常小学唱歌に『茶摘(ちゃつみ)』がある。
夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る
  あれに見えるは茶摘みじゃないか  茜襷に菅の笠
作詞・作曲者は不詳であるが、かつての日本の夏前の季節感を浮かび上がらせる秀作として知られている。この唱歌は、1912年(明治45)年、『尋常小学唱歌 第三学年用』に発表されたものである。
5月というと風薫る5月、薫風・・など、穏やかですがすがしい天気を思い浮かべるが、その一方で荒れた一面を見せるのも5月の天候の特徴である。今日を、「メイストームデー(5月の嵐の日)」としているが、4月の後半から5月頃にかけて、低気圧が日本付近で急発達して、大風、雷を伴った大雨などが降り、海や山は大荒れの天気となって、遭難事故が起こることもある。
このような、メイストームや八十八夜の別れ霜を「バレンタインデー」に引っ掛けて、こんな、「別れ話を切り出すのに最適とされる日」など、考え出した奴は、しゃれっ気タップリで面白い奴ですね~。それとも、もてもて野郎かな・・・。しかし、この日の来るのを待ち構えている人がいる反面、この日を過ぎるのをじっと、息を殺して待っている人もいるのだろう。これを乗り切れば、6月12日には「恋人の日」が待っている。さ~、どのようにして過ぎていくんだろう・・ね。(^^;; ヒヤヒヤ、(^^;; アセアセ・・(^^;; ドキドキ・・。
(補)『茶摘(ちゃつみ)』の歌は、京都府宇治田原町の茶摘み歌が基になったという説が流布しているようなのでそう書いたが、これが信頼できる根拠のないことだというご指摘をいただいた。
参考:
八十八夜の別れ霜
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0765.htm
お天気豆知識 - goo 天気
http://weather.goo.ne.jp/information/05/08.html
茶摘(ちゃつみ) 文部省唱歌 歌詞・MIDI
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/chatsumi.htm
茶摘み - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6%E6%91%98%E3%81%BF
文部省唱歌 「茶摘(ちゃつみ) 」
http://www.truveo.com/%E6%96%87%E9%83%A8%E7%9C%81%E5%94%B1%E6%AD%8C-%E3%80%8C%E8%8C%B6%E6%91%98%EF%BC%88%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%A4%E3%81%BF%EF%BC%89-%E3%80%8D/id/1714371715
ふるさと歴史倶楽部
http://www.geocities.jp/uji_tawara/

ナイチンゲールデー

2005-05-12 | 記念日
今日(5月12日)は「ナイチンゲールデー」
赤十字社が、1820年のナイチンゲール(1820~1910)の誕生日に因んで制定。フローレンス・ナイチンゲール。両親が新婚旅行中のイタリアのフィレンツェ(英語名フローレンス)で生まれたことからこの名がつけられたとか。彼女は、イギリスの上流階級の裕福な家庭の生まれで、フランス語、ドイツ語、イタリア語、歴史、哲学など、社交界の貴婦人にふさわしいとみなされる以上の教育を父親から与えられているという。彼女は、イギリスの看護婦・看護婦長又、近代看護学の始祖として有名であるが、同時に優れた統計学者、病院建築家でもあり、又、ギリシア哲学についても造詣が深かったというすごい才女だったのですね~。
ナイチンゲールの名を歴史に残したのは、彼女が看護婦を志して10数年後、クリミア戦争(1853年~1856年)勃発の翌年38名の看護婦を率い、スクタリの英国陸軍病院の臨床現場に立ち、同病院の看護の総責任者として活躍したことである。彼女が最初に見たスクタリの病院は収容過剰で混乱し、設備・手当のための物品も不足していた。又、兵舎病院も極めて不衛生であった。官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった病院の兵士たちの生活と衛生の改革を手のつけられるところから進めるが、現場では、なかなかナイチンゲールの意見は聞き入れられなかったようである。ナイチンゲール着任後、死亡率は上昇(42%)したという。1855年になり、戦時省と陸軍省が合併して出来た新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣。そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死者は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明したという。兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生によるものだったと後に推測された。その当時の働きぶりからナイチンゲールは「クリミアの天使」とも呼ばれた。統計による分析は実際は帰国後に行われたのがほとんどであった。
帰国後ナイチンゲールは、収集分析した統計資料により病院の状況分析を行い、数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出した。このためイギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としているそうだ。
ただ、ナイチンゲールは、クリミア戦争終結後、体調を崩してひそかに帰国した。それに加えて、兵舎病院で亡くなった多くの兵士たちへの追悼の意を、陸軍の衛生状態の改善という、具体的な形にして示そうという意図もあったのだと思われるが、帰国後の36歳以降、彼女は二度とユニホームを着て臨床現場に立つことはなかった。そして、その後150点にも及ぶ著作を書き残しているという。
クリミアから帰還した彼女が、国民的支持や賞賛の陰で、しばらくのあいだひっそりと沈黙を守った裏には、虚脱状態に陥るほどの衝撃と屈辱があったのではないかと言う説がある。
ナイチンゲールが、スクタリの病院に到着してからの活動を見ると、当初、衛生面よりも不足する物資の補給に努力していたように思われる。これは、兵士が死亡するのは、兵士が極度の栄養失調にかかり、かつ風雨にさらされ続けて疲労困憊した末、手遅れとなって野戦病院に送られてくるためであり、又、手当をするための物資不足によるものと信じていたようである。それが、戦後になって、統計を使って、このことを実証する作業をしている過程で、死なせた主な原因が、戦傷や兵士の疲労困憊によるよりも兵舎病院の過密さと不衛生な状況が病気を蔓延させたことにあったという結論を得て愕然としたのではないか。そして、当初、病院の衛生管理の初歩的な事項の注意を怠った責任が、誰でもない、自分自身にあったと感じたからでないだろうか。そして、「異常な死亡率の要因」という真実をできるだけ多くの人々に知らせることで再び同じ過ちが繰り返されるのを防ごうと決心し「真実の公開」の為には、客観的なデータに基づく説得力が必要であり、ナイチンゲールが統計学と衛生統計へ並々ならぬ情熱を傾注した。そうすることで、自らの責任をとろうとしたのだと言うのである。
私も、以下参考の生涯の仕事一覧などで時系列的に彼女の仕事ぶりを見ていると、なんとなく、そのような気がする。しかし、たとえそうであっても、自分の判断の過りを認め、「真実を公開」し、その責任を、取るための仕事をきっちりとすると言うことは、なかなか凡人に出来ることではなく、立派なことだよね。
(画像はナイチンゲール。ウイキペディアより借用)
参考:
ナイチンゲール看護研究所:ナイチンゲール5つの顔他
http://www.nightingale-a.com/
ナイチンゲールと統計学
http://www.washimo.jp/Report/Mag-Nightingale.htm
ナイチンゲール、時期別・生涯の仕事一覧
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/8452/naitinngerusigotoitirann.htm
ナイチンゲール誓詞
http://www1.neweb.ne.jp/wb/achi/study/hipo/hipo.html

※ナイチンゲール(1820~1920)となっていましたが、(1820~1910)の誤りでしたので修正しておきました。2010・4・12。