今日(1月26日)は、「帝銀事件の日」
1948(昭和23)年、東京・豊島の帝国銀行椎名町支店で帝銀事件が起こった。
同年1月26日午前3時過ぎ、東京都の腕章をつけた50歳前後の衛生課員と名乗る男が、閉店直後の帝国銀行椎名町支店(東京都豊島区)を訪れ、「近くで赤痢が発生した。行内の大消毒を行うのでその前に予防薬を飲んでもらう」と言い、行員と用務員の家族ら16人に青酸化合物を飲ませた。内12人が死亡。現金16万4千円と円と1万7千円の小切手を奪って逃走した。捜査当局は当初、青酸化合物の扱いに熟知した旧陸軍細菌部隊関係者を中心に捜査していたが、同じ手口で他の銀行を狙った未遂事件で使われた名刺の操作から、その年の8月21日にテンペラ画家・平沢貞通を逮捕、平沢氏は犯行を否認、決定的な物証もなかったが、3回自殺を図った後、自白した。しかし、後半では別件の詐欺罪以外は一貫して否定した。検察側は青酸化合物の入手先を「かねて所持したる青酸カリ」と曖昧なまま、裁判で明らかに出来なかったが、東京地裁は1950年(昭和25)年死刑を言い渡し、その5年後の1955(昭和30)年8月に死刑が確定した。平沢氏とその支援者からは審理に不審な点が多く、冤罪であるとしてその後何度も再審請求が出された。しかし、これらの再審請求受け入れられずに、平沢貞通は刑を執行されないまま1987(昭和62)年5月10日に獄中で病死したが、現在でも支援者が名誉回復の為の再審請求を続けている。この事件のことについては、以下参考の「帝銀事件ホームページ(平沢貞通氏を救う会) 」が詳しい。
逮捕から39年、死刑囚として我が国最長の32年間を獄中で過ごした、刑執行の恐怖にさらされ続けた平沢貞通氏が1987(昭和62)年重態に陥る間際に漏らした最後の言葉は「シャバで一杯やりたいね」だったという。私には、真実のことは分からないが、もし、冤罪であったなら、どれほど、悔しかっただろうか。この事件は、この年の7月に新刑事訴訟法が公布(翌1949年1月1日施行)される前の事件であった。1945(昭和20)年戦争が終わって、戦火の都市は焼け後となり、生産設備も被害を受け、消費財の設備は戦前の水準の3~4割になり、設備を動かそうにも原材料もない。鉱工業生産は戦前の水準の1割にまで激減その後2割程度で低迷していた。そこへ旧軍人の復員者ときょうう領土の満州などからの引揚者が660万人も戻ってきた。しかも敗戦の年は大凶作。当然悪性のインフレが猛威を振るっていた。戦後4年目を迎えた1948(昭和23)年は、引揚は思うように進まず、外地からの未帰還者がまだ数百万人もいたといわれ、戦争の傷が残っており、世相はまだまだ暗かった。この年、1月15日には乳幼児103人を餓死させ、ミルク代をくすねていた東京・新宿の産院が発覚(寿産院事件)、26日には、この帝銀事件があるなど年明け早々社会を震撼させる事件が相次いだが、2月に入ると新宿の別の産院で61人、駒込で22人とまたもや大量の乳幼児殺しが明るみに出た。そうした凶悪事件にあいられるようにこの年には刑事事件が続発し、総計160万件近い数となり、これは、史上最悪の記録でその後破られていないという。そのうち87.8%は強盗と窃盗でこれまた新記録で、世の中は殺伐としており、他人のものを盗んだり、弱いものを踏みつけにして生きるという風潮が根強くはびこっていた。この頃から、日本人のモラルが崩れかけたのであろうと思う。今日この頃、何かこの時代とよく似た感じの犯罪が見られるが、ただ、経済発展を遂げた後の最近の贅沢な世の中での犯罪と異なり点は、当時は、世の中の誰もが食べるものもなく飢えていたときの犯罪だった点である。このようなときに出来たのが、現在の新刑法であり、それが為、犯罪に対しての罰則は非常に甘くなってるといえるだろう。何せ、この時代は、犯罪者を収容できるだけの刑務所すら十分でなかった時代なのだから・・・。ちょっと、話はそれたが、兎に角、このころのアメリカの漫画「ブロンディ」の世界はまぶしいものであった。主人公が喰べる特大の厚さのサンド・イッチがうらやましい。街を通るジープもアロハシャツもアメリカ文化が光って見えた。だからこのころ、アメリカ発のものなら何でも受け入れた。戦後、GHQは日本の非軍事化と民主化を図るための指令を次々に出し、経済関係では財閥解体指令、農地改革指令、好ましからざる人物に対する公職追放指令などを1945年から1949年にかけて次々と実行した。これが、その後の日本の基本的な制度を形づくったといえるだろう。「進駐軍の命により」が幅を利かせていた時代である。帝銀事件では、犯人が「総司令部の者とジープ」で来た。薬も総司令部の支給だ。MPが来るから早く飲め」と言ったという。銀行員達が疑いもなく毒薬を飲んでも何の不思議もなかったのである。この事件については松本清張が『小説帝銀事件』『日本の黒い霧』で旧陸軍細菌部隊(731部隊)関係者の犯行を示唆している。当時の時代背景を考えれば、不思議はない。「日本の黒い霧」は、帝銀事件だけでなく、「下山事件」や「松川事件」「『もく星』号遭難事件」など、戦後GHQの支配下にあった日本で起きた数々の事件を取り上げ、そこに隠蔽された真実へ迫る衝撃作である。興味のある方は読まれるとよい。
また横溝正史の『悪魔が来たりて笛を吹く』の推理小説も、帝銀事件を題材にして書かれたものである。銀座にある宝石商 天銀堂に現れた都の衛生係を装った井口と名乗る男が店員達に『伝染病の予防薬』と偽り飲ませた物は青酸カリであった。のたうちまわる店員達を尻目に宝石を奪い逃亡した犯人。その容疑を掛けられたフルート奏者 椿 元子爵の失踪!子爵の遺書に記された耐えがたき屈辱、不名誉とは?・・・この小説は映画化もされた。横溝正史と言えば、あのおどろおどろした妖しいロマンと、論理的に構築された本格推理が売り物の作家であるが、その横溝が、作者をして、「私は、この恐ろしい小説だけは映画にしたくなかった」と言わしめたほど、この原作は数ある横溝作品のなかで最も陰惨な物語だといわれている。私は、この小説のタイトル『悪魔が来たりて笛を吹く』に興味がある。ここに出てくる『悪魔』とは関係があるのかないのかは知らないのだが、現代の裁判においては、”疑わしきは罰せず”であり、これは、「疑わしきは被告人の利益に(in doubio pro reo)」ともいわれるもので、刑事裁判における原則である。しかし、旧刑法などでは、そうではなかった。裁判用語に、『悪魔の証明』と言うものがある。悪魔の証明とは、モノ・行為の存在を巡って、「あること」に比較して「ないこと」を証明することが極めて困難であることを比喩する言葉である。鬼の証明ともいう。それは、「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すれば済む。よく裁判などで、検事側が犯行を証明するための証拠物件を提示している。しかし、「ないことの証明」は、全ての存在・可能性について、「ないこと」を示さねばならない。もし、犯罪を犯していない人間が犯罪をしていないことを証明するのは非常に困難なことである。よく、アリバイを実証せよ言われるが、独り者が犯罪の有った時間に家で1人でいた場合、それを証明する人がいてくれれば良いがいない場合、自分が家にいて犯罪をしていないことを証明するのは極めて難しい。冤罪を受けた人間が無実を証明するのは難しいので、それをしろといわれることは正に悪魔が来たりて「悪魔の証明 」を強要しているようなものだ。
(画像は映画『悪魔が来たりて笛を吹く』(1979年) 角川映画。パンフレット表紙より)
帝銀事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%8A%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
帝銀事件ホームページ(平沢貞通氏を救う会)
刑事訴訟法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%91%E4%BA%8B%E8%A8%B4%E8%A8%9F%E6%B3%95
http://www.gasho.net/teigin-case/
死刑確定後再審無罪事件・・・(※新刑事訴訟法について触れてういる。)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/muzai.htm
調書偽造を暴く渾身のノンフィクション「帝銀事件 平沢は無実だ!」
http://www3.ocn.ne.jp/~izaki/hirasawa.html
悪魔が来たりて笛を吹(1979) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18924/
1948(昭和23)年、東京・豊島の帝国銀行椎名町支店で帝銀事件が起こった。
同年1月26日午前3時過ぎ、東京都の腕章をつけた50歳前後の衛生課員と名乗る男が、閉店直後の帝国銀行椎名町支店(東京都豊島区)を訪れ、「近くで赤痢が発生した。行内の大消毒を行うのでその前に予防薬を飲んでもらう」と言い、行員と用務員の家族ら16人に青酸化合物を飲ませた。内12人が死亡。現金16万4千円と円と1万7千円の小切手を奪って逃走した。捜査当局は当初、青酸化合物の扱いに熟知した旧陸軍細菌部隊関係者を中心に捜査していたが、同じ手口で他の銀行を狙った未遂事件で使われた名刺の操作から、その年の8月21日にテンペラ画家・平沢貞通を逮捕、平沢氏は犯行を否認、決定的な物証もなかったが、3回自殺を図った後、自白した。しかし、後半では別件の詐欺罪以外は一貫して否定した。検察側は青酸化合物の入手先を「かねて所持したる青酸カリ」と曖昧なまま、裁判で明らかに出来なかったが、東京地裁は1950年(昭和25)年死刑を言い渡し、その5年後の1955(昭和30)年8月に死刑が確定した。平沢氏とその支援者からは審理に不審な点が多く、冤罪であるとしてその後何度も再審請求が出された。しかし、これらの再審請求受け入れられずに、平沢貞通は刑を執行されないまま1987(昭和62)年5月10日に獄中で病死したが、現在でも支援者が名誉回復の為の再審請求を続けている。この事件のことについては、以下参考の「帝銀事件ホームページ(平沢貞通氏を救う会) 」が詳しい。
逮捕から39年、死刑囚として我が国最長の32年間を獄中で過ごした、刑執行の恐怖にさらされ続けた平沢貞通氏が1987(昭和62)年重態に陥る間際に漏らした最後の言葉は「シャバで一杯やりたいね」だったという。私には、真実のことは分からないが、もし、冤罪であったなら、どれほど、悔しかっただろうか。この事件は、この年の7月に新刑事訴訟法が公布(翌1949年1月1日施行)される前の事件であった。1945(昭和20)年戦争が終わって、戦火の都市は焼け後となり、生産設備も被害を受け、消費財の設備は戦前の水準の3~4割になり、設備を動かそうにも原材料もない。鉱工業生産は戦前の水準の1割にまで激減その後2割程度で低迷していた。そこへ旧軍人の復員者ときょうう領土の満州などからの引揚者が660万人も戻ってきた。しかも敗戦の年は大凶作。当然悪性のインフレが猛威を振るっていた。戦後4年目を迎えた1948(昭和23)年は、引揚は思うように進まず、外地からの未帰還者がまだ数百万人もいたといわれ、戦争の傷が残っており、世相はまだまだ暗かった。この年、1月15日には乳幼児103人を餓死させ、ミルク代をくすねていた東京・新宿の産院が発覚(寿産院事件)、26日には、この帝銀事件があるなど年明け早々社会を震撼させる事件が相次いだが、2月に入ると新宿の別の産院で61人、駒込で22人とまたもや大量の乳幼児殺しが明るみに出た。そうした凶悪事件にあいられるようにこの年には刑事事件が続発し、総計160万件近い数となり、これは、史上最悪の記録でその後破られていないという。そのうち87.8%は強盗と窃盗でこれまた新記録で、世の中は殺伐としており、他人のものを盗んだり、弱いものを踏みつけにして生きるという風潮が根強くはびこっていた。この頃から、日本人のモラルが崩れかけたのであろうと思う。今日この頃、何かこの時代とよく似た感じの犯罪が見られるが、ただ、経済発展を遂げた後の最近の贅沢な世の中での犯罪と異なり点は、当時は、世の中の誰もが食べるものもなく飢えていたときの犯罪だった点である。このようなときに出来たのが、現在の新刑法であり、それが為、犯罪に対しての罰則は非常に甘くなってるといえるだろう。何せ、この時代は、犯罪者を収容できるだけの刑務所すら十分でなかった時代なのだから・・・。ちょっと、話はそれたが、兎に角、このころのアメリカの漫画「ブロンディ」の世界はまぶしいものであった。主人公が喰べる特大の厚さのサンド・イッチがうらやましい。街を通るジープもアロハシャツもアメリカ文化が光って見えた。だからこのころ、アメリカ発のものなら何でも受け入れた。戦後、GHQは日本の非軍事化と民主化を図るための指令を次々に出し、経済関係では財閥解体指令、農地改革指令、好ましからざる人物に対する公職追放指令などを1945年から1949年にかけて次々と実行した。これが、その後の日本の基本的な制度を形づくったといえるだろう。「進駐軍の命により」が幅を利かせていた時代である。帝銀事件では、犯人が「総司令部の者とジープ」で来た。薬も総司令部の支給だ。MPが来るから早く飲め」と言ったという。銀行員達が疑いもなく毒薬を飲んでも何の不思議もなかったのである。この事件については松本清張が『小説帝銀事件』『日本の黒い霧』で旧陸軍細菌部隊(731部隊)関係者の犯行を示唆している。当時の時代背景を考えれば、不思議はない。「日本の黒い霧」は、帝銀事件だけでなく、「下山事件」や「松川事件」「『もく星』号遭難事件」など、戦後GHQの支配下にあった日本で起きた数々の事件を取り上げ、そこに隠蔽された真実へ迫る衝撃作である。興味のある方は読まれるとよい。
また横溝正史の『悪魔が来たりて笛を吹く』の推理小説も、帝銀事件を題材にして書かれたものである。銀座にある宝石商 天銀堂に現れた都の衛生係を装った井口と名乗る男が店員達に『伝染病の予防薬』と偽り飲ませた物は青酸カリであった。のたうちまわる店員達を尻目に宝石を奪い逃亡した犯人。その容疑を掛けられたフルート奏者 椿 元子爵の失踪!子爵の遺書に記された耐えがたき屈辱、不名誉とは?・・・この小説は映画化もされた。横溝正史と言えば、あのおどろおどろした妖しいロマンと、論理的に構築された本格推理が売り物の作家であるが、その横溝が、作者をして、「私は、この恐ろしい小説だけは映画にしたくなかった」と言わしめたほど、この原作は数ある横溝作品のなかで最も陰惨な物語だといわれている。私は、この小説のタイトル『悪魔が来たりて笛を吹く』に興味がある。ここに出てくる『悪魔』とは関係があるのかないのかは知らないのだが、現代の裁判においては、”疑わしきは罰せず”であり、これは、「疑わしきは被告人の利益に(in doubio pro reo)」ともいわれるもので、刑事裁判における原則である。しかし、旧刑法などでは、そうではなかった。裁判用語に、『悪魔の証明』と言うものがある。悪魔の証明とは、モノ・行為の存在を巡って、「あること」に比較して「ないこと」を証明することが極めて困難であることを比喩する言葉である。鬼の証明ともいう。それは、「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すれば済む。よく裁判などで、検事側が犯行を証明するための証拠物件を提示している。しかし、「ないことの証明」は、全ての存在・可能性について、「ないこと」を示さねばならない。もし、犯罪を犯していない人間が犯罪をしていないことを証明するのは非常に困難なことである。よく、アリバイを実証せよ言われるが、独り者が犯罪の有った時間に家で1人でいた場合、それを証明する人がいてくれれば良いがいない場合、自分が家にいて犯罪をしていないことを証明するのは極めて難しい。冤罪を受けた人間が無実を証明するのは難しいので、それをしろといわれることは正に悪魔が来たりて「悪魔の証明 」を強要しているようなものだ。
(画像は映画『悪魔が来たりて笛を吹く』(1979年) 角川映画。パンフレット表紙より)
帝銀事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%8A%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
帝銀事件ホームページ(平沢貞通氏を救う会)
刑事訴訟法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%91%E4%BA%8B%E8%A8%B4%E8%A8%9F%E6%B3%95
http://www.gasho.net/teigin-case/
死刑確定後再審無罪事件・・・(※新刑事訴訟法について触れてういる。)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/muzai.htm
調書偽造を暴く渾身のノンフィクション「帝銀事件 平沢は無実だ!」
http://www3.ocn.ne.jp/~izaki/hirasawa.html
悪魔が来たりて笛を吹(1979) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18924/