今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

帝銀事件の日

2006-01-26 | 記念日
今日(1月26日)は、「帝銀事件の日」
1948(昭和23)年、東京・豊島の帝国銀行椎名町支店で帝銀事件が起こった。
同年1月26日午前3時過ぎ、東京都の腕章をつけた50歳前後の衛生課員と名乗る男が、閉店直後の帝国銀行椎名町支店(東京都豊島区)を訪れ、「近くで赤痢が発生した。行内の大消毒を行うのでその前に予防薬を飲んでもらう」と言い、行員と用務員の家族ら16人に青酸化合物を飲ませた。内12人が死亡。現金16万4千円と円と1万7千円の小切手を奪って逃走した。捜査当局は当初、青酸化合物の扱いに熟知した旧陸軍細菌部隊関係者を中心に捜査していたが、同じ手口で他の銀行を狙った未遂事件で使われた名刺の操作から、その年の8月21日にテンペラ画家・平沢貞通を逮捕、平沢氏は犯行を否認、決定的な物証もなかったが、3回自殺を図った後、自白した。しかし、後半では別件の詐欺罪以外は一貫して否定した。検察側は青酸化合物の入手先を「かねて所持したる青酸カリ」と曖昧なまま、裁判で明らかに出来なかったが、東京地裁は1950年(昭和25)年死刑を言い渡し、その5年後の1955(昭和30)年8月に死刑が確定した。平沢氏とその支援者からは審理に不審な点が多く、冤罪であるとしてその後何度も再審請求が出された。しかし、これらの再審請求受け入れられずに、平沢貞通は刑を執行されないまま1987(昭和62)年5月10日に獄中で病死したが、現在でも支援者が名誉回復の為の再審請求を続けている。この事件のことについては、以下参考の「帝銀事件ホームページ(平沢貞通氏を救う会) 」が詳しい。
逮捕から39年、死刑囚として我が国最長の32年間を獄中で過ごした、刑執行の恐怖にさらされ続けた平沢貞通氏が1987(昭和62)年重態に陥る間際に漏らした最後の言葉は「シャバで一杯やりたいね」だったという。私には、真実のことは分からないが、もし、冤罪であったなら、どれほど、悔しかっただろうか。この事件は、この年の7月に新刑事訴訟法が公布(翌1949年1月1日施行)される前の事件であった。1945(昭和20)年戦争が終わって、戦火の都市は焼け後となり、生産設備も被害を受け、消費財の設備は戦前の水準の3~4割になり、設備を動かそうにも原材料もない。鉱工業生産は戦前の水準の1割にまで激減その後2割程度で低迷していた。そこへ旧軍人の復員者ときょうう領土の満州などからの引揚者が660万人も戻ってきた。しかも敗戦の年は大凶作。当然悪性のインフレが猛威を振るっていた。戦後4年目を迎えた1948(昭和23)年は、引揚は思うように進まず、外地からの未帰還者がまだ数百万人もいたといわれ、戦争の傷が残っており、世相はまだまだ暗かった。この年、1月15日には乳幼児103人を餓死させ、ミルク代をくすねていた東京・新宿の産院が発覚(寿産院事件)、26日には、この帝銀事件があるなど年明け早々社会を震撼させる事件が相次いだが、2月に入ると新宿の別の産院で61人、駒込で22人とまたもや大量の乳幼児殺しが明るみに出た。そうした凶悪事件にあいられるようにこの年には刑事事件が続発し、総計160万件近い数となり、これは、史上最悪の記録でその後破られていないという。そのうち87.8%は強盗と窃盗でこれまた新記録で、世の中は殺伐としており、他人のものを盗んだり、弱いものを踏みつけにして生きるという風潮が根強くはびこっていた。この頃から、日本人のモラルが崩れかけたのであろうと思う。今日この頃、何かこの時代とよく似た感じの犯罪が見られるが、ただ、経済発展を遂げた後の最近の贅沢な世の中での犯罪と異なり点は、当時は、世の中の誰もが食べるものもなく飢えていたときの犯罪だった点である。このようなときに出来たのが、現在の新刑法であり、それが為、犯罪に対しての罰則は非常に甘くなってるといえるだろう。何せ、この時代は、犯罪者を収容できるだけの刑務所すら十分でなかった時代なのだから・・・。ちょっと、話はそれたが、兎に角、このころのアメリカの漫画「ブロンディ」の世界はまぶしいものであった。主人公が喰べる特大の厚さのサンド・イッチがうらやましい。街を通るジープもアロハシャツもアメリカ文化が光って見えた。だからこのころ、アメリカ発のものなら何でも受け入れた。戦後、GHQは日本の非軍事化と民主化を図るための指令を次々に出し、経済関係では財閥解体指令、農地改革指令、好ましからざる人物に対する公職追放指令などを1945年から1949年にかけて次々と実行した。これが、その後の日本の基本的な制度を形づくったといえるだろう。「進駐軍の命により」が幅を利かせていた時代である。帝銀事件では、犯人が「総司令部の者とジープ」で来た。薬も総司令部の支給だ。MPが来るから早く飲め」と言ったという。銀行員達が疑いもなく毒薬を飲んでも何の不思議もなかったのである。この事件については松本清張が『小説帝銀事件』『日本の黒い霧』で旧陸軍細菌部隊(731部隊)関係者の犯行を示唆している。当時の時代背景を考えれば、不思議はない。「日本の黒い霧」は、帝銀事件だけでなく、「下山事件」や「松川事件」「『もく星』号遭難事件」など、戦後GHQの支配下にあった日本で起きた数々の事件を取り上げ、そこに隠蔽された真実へ迫る衝撃作である。興味のある方は読まれるとよい。
また横溝正史の『悪魔が来たりて笛を吹く』の推理小説も、帝銀事件を題材にして書かれたものである。銀座にある宝石商 天銀堂に現れた都の衛生係を装った井口と名乗る男が店員達に『伝染病の予防薬』と偽り飲ませた物は青酸カリであった。のたうちまわる店員達を尻目に宝石を奪い逃亡した犯人。その容疑を掛けられたフルート奏者 椿 元子爵の失踪!子爵の遺書に記された耐えがたき屈辱、不名誉とは?・・・この小説は映画化もされた。横溝正史と言えば、あのおどろおどろした妖しいロマンと、論理的に構築された本格推理が売り物の作家であるが、その横溝が、作者をして、「私は、この恐ろしい小説だけは映画にしたくなかった」と言わしめたほど、この原作は数ある横溝作品のなかで最も陰惨な物語だといわれている。私は、この小説のタイトル『悪魔が来たりて笛を吹く』に興味がある。ここに出てくる『悪魔』とは関係があるのかないのかは知らないのだが、現代の裁判においては、”疑わしきは罰せず”であり、これは、「疑わしきは被告人の利益に(in doubio pro reo)」ともいわれるもので、刑事裁判における原則である。しかし、旧刑法などでは、そうではなかった。裁判用語に、『悪魔の証明』と言うものがある。悪魔の証明とは、モノ・行為の存在を巡って、「あること」に比較して「ないこと」を証明することが極めて困難であることを比喩する言葉である。鬼の証明ともいう。それは、「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すれば済む。よく裁判などで、検事側が犯行を証明するための証拠物件を提示している。しかし、「ないことの証明」は、全ての存在・可能性について、「ないこと」を示さねばならない。もし、犯罪を犯していない人間が犯罪をしていないことを証明するのは非常に困難なことである。よく、アリバイを実証せよ言われるが、独り者が犯罪の有った時間に家で1人でいた場合、それを証明する人がいてくれれば良いがいない場合、自分が家にいて犯罪をしていないことを証明するのは極めて難しい。冤罪を受けた人間が無実を証明するのは難しいので、それをしろといわれることは正に悪魔が来たりて「悪魔の証明 」を強要しているようなものだ。
(画像は映画『悪魔が来たりて笛を吹く』(1979年) 角川映画。パンフレット表紙より)
帝銀事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%8A%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
帝銀事件ホームページ(平沢貞通氏を救う会)
刑事訴訟法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%91%E4%BA%8B%E8%A8%B4%E8%A8%9F%E6%B3%95
http://www.gasho.net/teigin-case/
死刑確定後再審無罪事件・・・(※新刑事訴訟法について触れてういる。)
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/muzai.htm
調書偽造を暴く渾身のノンフィクション「帝銀事件 平沢は無実だ!」
http://www3.ocn.ne.jp/~izaki/hirasawa.html
悪魔が来たりて笛を吹(1979) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18924/

日本最低気温の日

2006-01-25 | 記念日
今日(1月25日)は、「日本最低気温の日」
1902(明治35)年、北海道旭川市で、日本の最低気温の公式記録-41.0℃を記録した。1978(昭和53)年2月17日に幌加内町母子里の北大演習林でこれより0.2℃低い-41.2℃を記録したが、気象庁の公式記録の対象から外れていたため、旭川の記録が公式の日本最低気温となっている。これら低温を記録する地点は、冬期は道央域、夏期は道東域に集中する。冬期に低温を記録する理由は、北海道が極域からの寒気が流れやすい位置にあることである。この冷気の流れを辿ってみると、世界の寒極があるオイミャコン(ロシア・東シベリアのサハ共和国にある市で、1933年2月6日に-72.2℃を記録した、北半球で最も寒いとされる極寒の地で平均気温が-50℃とか)を通過する。夏期の場合の理由はオホーツク海高気圧からの冷気が大きく影響しているという。
-何度と言うのは、氷点下のことだが、「氷点」とは、水が凍る温度(凝固点)。氷の融点。摂氏0度のこと。 北海道・旭川に住んで作家活動を続けていた故三浦綾子さんのデビュー作が『氷点』(1964年)。北海道旭川を舞台に人間が生まれながらにしてもつ罪「原罪」を、クリスチャン作家の立場から追求したもので、旭川を舞台に展開する物語。「罪」というのは人間誰もが持つ「弱さ」を意味している。本書には特別悪い人間は登場しないむしろ、他人から見るとうらやましい家族に悲劇が起こる。恨み、妬み、疑い、自分本位などの小さな「罪」が雪だるまのように巨大な悲劇を生んでいく。これは、人間誰もが「弱さ」を持っている、または、人間は誰もが「原罪」を背負っているということを表している。1966年映画化もされた。映画の中では吹雪のシーンもあり、陽子が自殺をはかるシーンは新雪の川岸である。日本で最も低温な地域とされる北海道地方。旭川市は北海道の中央部にある。
この1902(明治35)年と言う年を聞くと何か思い出さない・・・?。この年、対露作戦の準備の一環として、シベリアを想定した寒地作戦のため訓練が行われた。第8師団は青森の歩兵第5連隊第2大隊と弘前の歩兵第31連帯による厳寒期の八甲田山雪中行軍を企画したが、このうち青森の歩兵第5連隊第2大隊は寒波による風雪の中で道を失い、196人もの死者を出した。悲惨なこの八甲田山遭難事件は映画にもなったが、それがこの年(1902年)1月末のことであったのだ。。-40度というのは、お湯が一瞬にして煙に変わる(氷の粒になる)ような状態だとか。ちなみに2000年1月27日に起こった、北海道東部大寒波のときには陸別町(北海道)では-33.2度を観測し、そのときに道の駅「オーロラタウン93りくべつ」では、自動販売機の「あたたか~い」飲み物がすべて自動販売機の中で凍った(故障)という。八甲田山雪中行軍のときの青森の温度がいくらだったか知らないが、よくもそんな想像を絶する気温下で訓練をしたものだ。神戸に住む私なんか、考えただけで、気が狂うよ。
今年(2006年)1月も昨年の12月から非常に強い寒気が断続的に流れ込み、冬型の気圧配置の日が多かったため、各地で豪雪による被害が続出している。当初「暖冬」を予測していた気象庁は、「北極付近からの寒気放出の予測を誤った」として先月22日に慌てて撤回した。そして、昨年12月の地域の平均気温は、東日本で平年より2.7度、西日本で2.8度低く、統計が残る1946年以降の最低を記録したことが、1月4日まとめた気候統計で分かったとしている。北日本、南西諸島も平年より低く、全国で低温となったのは1985年以来20年ぶり。積雪の記録更新地点も106地点に上ったという。同庁は「非常に強い寒気が断続的に流れ込み、冬型の気圧配置の日が多かったため」としている。
豪雪と言えば、1963(昭和38)年1月の豪雪「三八豪雪」と呼ばれるものがある。1962(昭和37)年末から1963(昭和38)年1月末までの約1ヶ月間本州の日本海側に沿って降った豪雪である。まるで氷河時代のような気圧配置がもたらした豪雪は、世界的な異常気象が、日本と言う一地域の異常として現れたもので、これが、世界各地で異常気象の頻発する時代のひとつの幕開けとなったことで特筆されている。近年世界各地で異常気象が発生しているが、今年の豪雪は、このときの豪雪にも匹敵すると言われている。地震、津波、火山、豪雨、旱魃(かんばつ)、そして、豪雪・・・、科学は一種の人間の自然への挑戦とも言えるものであるが、いよいよ、自然の反撃が始まったと言えるのではないか?。仏教で言う末世と言うことなのだろうね。人間達が己の欲求を満たすために、自然を破壊してきたつけが回ってきたといえる。
(画像は、福井豪雨で端が流され、残った橋脚の上には2メートル近い雪が積もっていた。1月8日福井県美山町で。朝日新聞報道写真より)
参考:
気温 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E6%B8%A9
昭和38年1月豪雪 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C38%E5%B9%B41%E6%9C%88%E8%B1%AA%E9%9B%AA
気象庁 | 気象観測(電子閲覧室)・・「大雪の状況」ページを追加。1時間に1回更新します。(2005年12月16日)
http://www.data.kishou.go.jp/
Yahoo! 天気情報
http://weather.yahoo.co.jp/weather/
豪雪地帯対策特別措置法施行令
http://www.houko.com/00/02/S46/367.HTM

金の日、ゴールドラッシュデー

2006-01-24 | 記念日
今日(1月24日)は「金の日、ゴールドラッシュデー」
1846年から1848年の間アメリカはメキシコ(墨西哥)の間で戦われた戦争米墨戦争(べいぼくせんそう、アメリカではメキシコ戦争といわれる)に勝利し、カリフォルニアを獲得した。勝利した同じ年(1848年)にカリフォルニアの製材所で働くジェームズ・マーシャルが、川底に金の粒を発見(1月24日)。金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到、これが、アメリカの「ゴールドラッシュ」の始まりであった。特に1849年に急増したことから、これらの人たちは「フォーティーナイナーズ"forty-niner"」('49ers)と呼ばれた。
1840年代の始め、スイス系移民のジョン・サッター(John Sutter)が農業王国建設を夢見てサンフランシスコ近郊に「サッターの砦」(Sutter's Fort)と呼ばれる農園を造った。理想の王国を実現させる一環として、サッターは「サッターの砦」の北西50マイルにあるアメリカン河岸に部下のジェームズ・マーシャル(James Marshall)らを送り、製材所を造らせたが、そこでマーシャルは砂金を発見した。あくまで農業での成功を夢見ていたサッターとマーシャルは金の発見を喜ばず、一攫千金をねらう人々の殺到を恐れてしばらくは砂金の発見を秘密にしていたのだが、秘密は長続きせず、この噂は全米に広まり、又、これと前後してカリフォルニアを始めとした西部領土がメキシコからアメリカに割譲されたので、文字通り新天地となったカリフォルニアには金鉱脈目当ての山師や開拓者が殺到することになり、しかも、皮肉なことにマーシャル等は金の土地での彼の所有権の現実的な認可に失敗し、農業王国の夢もかなわなかった。
1848年当時のカリフォルニアは、まさに辺境の地であり、住んでいたのはネイティブアメリカン(インディアン)の他は僅かに1万4千人しか住んでいなかったという。しかし、このゴールドラッシュの結果、1852年にはカリフォルニアの人口は20万人にまで急増し、西部の開拓が急進展することになった。又、カリフォルニアやそれ以外の地域のゴールドラッシュは、ヨーロッパ中から農民、労働者、商人、乞食や牧師までもが、一攫千金を夢見た人たちが新大陸を目指したため、歴史家によっては、このことが、ヨーロッパでの1848年革命やその後の革命が、成り勝らなかった一因だとしていという。ゴールドラッシュによって大陸横断鉄道の必要性がますます叫ばれるようになり、西部の開拓を加速させ、1850年のは人口は500%も増え、カリフォルニアは31番目の合衆国の州となった。そして、1852年には、人口が22万を超えたという。
しかし、1880年~ 1890年のこの時期になると金の鉱山は一つまた一つと採掘され尽くされていった。サンフランシスコ(正式名称をサンフランシスコ・デ・アシスと言う。アッシジの聖フランチェスコの意味だ。フランシスコ会によって1776年にこの地に開かれたミッションである。)と名づけられた町のようにいくつかの町はまだ発展を続けた。しかし、そのほとんどは放棄された.。そして、その後ゴーストタウン化する。
1848年や49年の最初の頃には、金を探すのは、まったく簡単なことで、1日2000ドルの金を掘り当てた人も稀ではなかったという。これは、1日で10年分近い所得を得たことになり当時、こうした幸運に恵まれた人は、「リッチ・ストライク」と呼ばれていたそうだ。そんな話を聞きつければ、大勢の人たちが一攫千金を夢見て殺到するのは当たり前だよね~。しかし、金の採掘で大金持ちになることを夢見てカリフォルニアに来た人々の中で、その夢を実現したものは、殆どいなかった。単純な設備で一攫千金が可能だという幻想に支えられた「ゴールドラッシュ」は僅か2・3年で終りを迎え、地表部分にある金は全て取り尽くされ、個人レベルの設備ではどうにもならなくなった。その為、その地に来ることで資本を使い果たした彼らはただその場に留まり続けるしかなかったのだ。最初にきた幸運な「49ers」の一部はラッキーストライクな富豪となったが、残りの殆どはいつか成功することを妄想しつつ貧しい悲惨な生活を送ったのである。彼らの思いは、「愛しのクレメンタイン」(Clementine)に歌われている。クレメンタイン」と聞くと思い出すでしょう!あの「荒野の決闘」(英語題名: My Darling Clementine)という西部劇の傑作(1946年公開)。ジョン・フォード監督の手になるこの映画は、OK牧場の決闘を軸に、伝説の保安官ワイアット・アープと、鉱夫の娘クレメンタインとの淡い恋を描いた映画であり、私の大好きな西部劇の1つである。この映画のテーマ「愛しのクレメンタイン」(英語題名は映画と同じ)も大ヒットした。その1番は、こんな歌詞である。
In a cavern, in a canyon,
Excavating for a mine,
Dwelt a miner, forty-niner,
And his daughter Clementine.
訳すと、「洞窟で、峡谷で、金脈を求めて採掘する一人の鉱夫、フォーティナイナーがいた。彼の娘はクレメンタインといった」といったもので、この曲自体は、1884年に作られたアメリカの民謡であり、原曲は11番まである。一攫千金の夢にとりつかれ、辺境の地まで娘を連れてきたものの、苦しい生活を強いることになり、挙げ句の果てには死なせてしまったという哀しい歌である。
それでも、カルフォルニアの人口が膨れ上がるにつれ、「物資の輸送」や「郵便通信」手段の整備が進んだ。最初に発達したのは「駅馬車」だったがそれを狙う「強盗」が現れたことにより「ガンマン」という職業も生まれた。ゴールドラッシュの数10年後には「大陸横断鉄道」が完成し「駅馬車」はその存在価値を失うまで重要な立場を担い続ける。カルフォルニアは発展していったが多くの者が夢半ばにして倒れた。しかし、大勢の人が押し寄せれば、生活必需物質の需要は増大する。
そのような中で、「金の発見」の意味を正しく理解し、適切に行動し成功した人々がいた。この「ゴールドラッシュ」で儲かったのは「金を掘り当てた」人達ではなく「金を目当てにやってきた人間を相手に商売した」人達だった。まず儲かったのはシャベルと斧と金桶など「砂金取りに必要な道具」を売りさばいたサンフランシスコの「サム・ブラナン」だった。次に儲かったのは「生活必需品」を売る商人でありこの中で最も成功したのは有名なリーバイス・ジーンズの創始者「リーバイ・ストラウス」である。荒仕事をするフォーティナイナーにテント用のキャンパス地で頑強なズボンを作り販売したのが受けたのである。兎に角このようにして、,ゴールドラッシュをきっかけに金儲けをしたのは、「金を掘り当てた」人達ではなく「金を目当てにやってきた人間を相手に商売した」人達だったというのが面白い。日本では、昨日、ライブドアーの堀江社長他幹部3名が、証券取引法違反容疑で逮捕されたが、違法な方法でM&Aを繰り返す錬金術が破綻したということだろう。又、最近の現状は、地道に汗をかいた仕事をして金儲けをせず、ネット業界での成功や株取引などで、一発当てて、金儲けをしようとするような、一攫千金を夢見ている若者が増えてきている様な兆候が見られる。恐らく、インターネット業界や株取引などによっても、成功する極少数の「リッチ・ストライク」が出るだろうが、殆どは、失敗するのではないか・・・?このブログを書いていて、私には、このゴールドラッシュの当時の状況とダブって見えた。
以下参考の「21世紀のゴールドラッシュ」に当時のことが詳しく書かれているので、興味のある方は御覧あれ・・・。お金儲けの興味のある人には面白い話が一杯だよ。
話変って、映画大好き人間の私には、ジーンズの話が出てくると、「帰らざる河」を思い出す。舞台は1875年頃のカナディアン・ロッキー。町の酒場女性と賭博師が巻き起こす騒動に、巻き込まれた親子が繰り広げる、人間ドラマを描く、1954年製作・オットー・プレミンジャー監督の傑作西部劇。モンロー唯一の西部劇で、最も有名な作品のひとつと言えるだろう。
ゴールド・ラッシュに湧くある町に、預けた息子を引き取りに1人の男マット(主演:ロバート・ミッチャム)が登場、息子を引き取り開拓地に落ち着く。そんなある日、筏で河を下る酒場女性ケイ(主演:マリリン・モンロー)と賭博師ハリー(主演:ロリー・カルホーン)が立ち寄る。賭博で手に入れた鉱山(金鉱)の登記で先を急ぐハリーは、馬と食料を奪い逃走する。3人は筏で激流を下り追跡するが・・・。
♪~耳を澄ませば聞こえるわ 悲しい水音が 人はそれを“帰らざる河”と呼ぶ 時には穏やかに 時には猛り立つ 恋は“帰らざる河”の旅人~♪
モンローは紅い酒場女ルックでセクシーさを出し、歌まで披露してくれているが、それよりもその後のさっぱりとしたジーンズ姿が逆に魅力的だったな~。
(画像は、映画「帰らざる河」で、酒場の芸人ケイ(マリリン・モンロー)が、後に大ヒットした主題歌を歌うシーン。アサヒクロニクル・週刊20世紀より)
参考:
ゴールドラッシュ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
21世紀のゴールドラッシュ
http://www.noguchi.co.jp/archive/goldrush/bn.php
米墨戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%A2%A8%E6%88%A6%E4%BA%89



真白き富士の嶺の日

2006-01-23 | 記念日
今日(1月23日)は「真白き富士の嶺の日」
1910(明治43)年1月23日、神奈川県の逗子開成中学のボート部の生徒等12人の乗ったボートが遭難。七里ヶ浜で全員溺死。遺体操作には5日もかかったという。この事件は社会的事件として新聞で大々的に扱われた。2月6日同行校庭で大追弔会が開かれ12人の霊を弔った。式後、この悲報に接した姉妹校・鎌倉高女の三角教諭が作詞した「真白き富士の根 緑の江ノ島」を三角自身がオルガンを弾き、鎌倉高女生が合唱した。
「真白き富士の根」
真白き富士の根 緑の江の島
  仰ぎ見るも 今は涙
  帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
  捧げまつる 胸と心
ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
  風も浪も 小(ち)さき腕に
  力もつきはて 呼ぶ名は父母
  恨は深し 七里が浜辺
この歌は、6番まで続くが、このボート転覆事故の死者を弔うために作られた歌であるため、別名「七里ヶ浜の哀歌」といわれるが、当時は単に「哀歌」という題名だったそうだ。
作詩は、オルガン伴奏をする同校の教諭、三角壽々(みすみすず)。後に、常盤松女学校(現・トキワ松学園)を創立した女性運動家の三角錫子(すずこ)のことである。
当時逗子に住んでいてこの悲報に接した三角は一夜で作詩。メロディは1890(明治23)年の「明治唱歌 五」 に大和田建樹によって「夢の外(ほか)」として訳出されていたもので、当時女学校では非常に人気のあったアメリカ人作曲の讃美歌の曲に合わせ、鎌倉女学校の生徒が合唱したものである。と言うよりも、「夢の外(ほか)」として訳出ていたものの詩をアレンジして作ったものらしい。この、「夢の外(ほか)」の原曲は、イギリスの舞踏曲のひとつであり、アメリカの作曲家であるジェレミー・インガルス(Jeremiah Ingalls)が1805年に賛美歌集「クリスチャン・ハーモニー」の中に 「GARDEN(讃美歌)」の曲名として採集して紹介していたものだった。
「真白き富士の根」は、大正期に入って、当時の「演歌(バイオリン演歌)」の世界でも好んで歌われ、メロディも短調に移されるなどの変化が加えられた。題名も元はただの「哀歌」であったものが、その後「哀悼の歌」「七里ヶ浜の仇浪」「真白き富士の嶺」などさまざまな題名がつけられた。
又、歌詞詩の「真白き富士の根」はよく「富士の嶺」と書かれるが「富士の根」が原作だそうで、元の賛美歌の作曲者がガーデンとするものは歌のタイトルと混同した誤りである。
遭難した中学生といっても、当時、義務教育は4年制の尋常小学校までであり、一般の子供達は通常、ここで学業を終え働きに出た。その後、裕福な家庭の子だけが、さらに4年の高等小学校に上がり、6年生の中学に進むわけだから、中学生はエリートである。そしてこのとき亡くなったのは中学5年生くらいと言うから19歳くらいになる。そして、死亡した12人のうち4人は徳田家の兄弟で、この中の1人は兄に連れられて乗った小学生(高等小学2年生10歳)だった。エリートとよばれた最愛の息子たち4人を失った父の徳田省三は、実業家として著名人だったそうだ。彼等の遺体が発見されたとき、兄は前から弟を抱きしめ、弟は兄の首にしがみついた姿で収容され、2人を引き離すのに苦労したという。前途有望な少年達の死は世間を大いに騒がせた事件であったが、彼等の遺体が発見されるに及んで深い感銘を人々に与え、稲村ヶ崎の遭難碑の上には、徳田兄弟が抱き合うブロンズ像が立ち、肉親愛の感動を今に伝えている。そして、その台座にはこの「七里ヶ浜の哀歌」の詩が刻まれている。逗子開成のOBには、徳間康快氏(徳間書店、大映社長、逗子開成学園理事長)や、谷啓さん(元クレージーキャッツ、「ガチョーン」で有名)、吉村明宏さんがいるそうだ。
逗子開成中学のボート遭難事件とそれにまつわる映画は、1935(昭和10)年、松竹が「真白き富士の根」 の名で映画化。戦後の1954(昭和29)年には大映が「真白き富士の嶺」として映画化をしており、ここでも、”根”と”嶺”の違いがある。どちらが正しいのかは知らないが、今のところは、”根”に統一されているようだ。
この歌は私も学生時代歌った記憶があるが、物悲しい歌だがしんみりといい歌だよね。以下にMIDIがあるので歌ってみる・・・?
 七里ケ浜の哀歌」
(画像は、2月6日逗子開成中学校庭での大弔会の模様。毎日新聞。朝日クロニカル・週刊20世紀より)
参考:
真白き富士の根ーd-score
http://www.d-score.com/ar/A02112001.html
ああ我が心の童謡~ぶらり歌碑巡り第25回『七里ヶ浜の哀歌』
http://www.maboroshi-ch.com/old/edu/ext_34.htm
童(どう).謡(よう).のなぞ 12(フナハシ学習塾)
http://homepage3.nifty.com/funahashi/sonota/hoka18.html
演歌師による七里ヶ浜の仇浪(七里ヶ浜の哀歌)(真白き富士の根)
http://blogs.yahoo.co.jp/teds3d/5402558.html
真白き富士の嶺(1954)ーgoo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD24099/comment.html


カレーの日

2006-01-22 | 記念日
今日(1月22日)は「カレーの日」
1982(昭和57)年、全国学校栄養士協議会で1月22日の給食のメニューをカレーにすることに決められ、全国の小中学校で一斉にカレー給食が出された。
カレーのルーツはインドで、英語の「カレー(curry)」の語は、南インドのタミール語で各種スパイスの入ったソースを総称する「カリ」に由来している。イギリス経由で日本にカレーが登場したのは明治のはじめである。日本では、明治維新後、 1872(明治5)年、長年の肉食禁忌を打破。牛肉食は文明開化の象徴になる。肉は滋養の素という日本人の概念に変化。簡便な肉食法としてカレーライス愛好の基盤になる。 そして、1877(明治10)年、風月堂で洋食を始め、カレーライス、カツレツ、オムレツ、ビフテキなどを8銭均一で売ったのが最初だとか。当時もりそば1枚1銭だったというから、今の感覚では3000~4000円くらいの高級料理だね。日本人が初めてカレーと出会ってから14年後のことである。
即席カレー誕生は、1906(明治39)年、東京神田「一貫堂」が「カレーライスのタネ」(お湯で溶くだけ)を売り出したのに始まるそうだ。
1941(昭和16)年~1945(昭和20)年、食糧統制のため、カレーの製造、販売は中止されたが、終戦後の1946(昭和21)年カレー業界も製造再開、ただし原料入手難であった。
そして、1982(昭和57)年、1月22日、初めての学校給食(小・中学校)の全国統一献立にカレーライスが選ばれる。子供たちの好きな料理ベストワンでもあり、圧倒的な支持をえていることを証明。以来、カレーは今や日本人の国民食となっっている。
日本のカレーは、とろみをつけるため小麦粉を使用するのがほとんど。インド直伝のカレー渡来国であるイギリスではカレー料理が盛んであっるが、一般には、小麦粉を加えるいわゆる英国風カレー料理がポピュラーである。そのため、日本も英国のように、小麦粉を使用するのが一般的となっているのだろう。
カレーといえばやっぱりインド。日本では「インドカレー」とひとくくりにしてしまうが、実は地方ごとの特色も豊かで、南インドのカレーは、北インドのものと比べると、辛みが強くてスパイシー。ただ、どちらも、とろみづけの小麦粉を使わない。ベジタリアンのインドでは、多量の野菜や果物を煮込むことで独特のサラっとしたとろみを得、これに良質のスパイスがあいまって、スパイス特有の豊潤な香りや辛さ、素材ひとつひとつの持つ旨味を感じさせるのが特徴。
私は昔、大阪の本町に勤めている頃、インドネシア風のさらさらのスープのようなカレーを喰べた。スパイスが効いていて辛いが、とろみづけの小麦粉も使っていないのであっさり、サッパリとしていて美味しかった。以来、家で作るときには、小麦粉を使用せずに作ってもらう。造り方は、家人が我流でやっているが非常に美味しい。あっさりとしているのでいくらでも食べれる感じ。しかし、息子が結婚して新居を建て家を出て行って家人と2人だけの食事になってからは、余り作ってくれなくなった。兎に角、おおきなな鍋で丸一日朝から晩まで最低12時間位はコトコト煮込むので、他のことができないからである。
しかし、市販のカレーの基だけで、作っていない限り、スパイスの使い方によって、それぞれに味の異なるのがカレーだな~。
よく、カレーライスとライスカレーの違いは何か?なんて話があるが・・・。カレーライスは同じ皿でライスの上にカレーのルーをかける。ライスカレーはライスとカレーのルーが別々で、 ライスはお皿に、カレーのルーはソースポットに入れてお客に出すのだとか聞いたが本当かな~。
カレーライスに福神漬が付いているがどうしてだと思う?本場インドでは、カレーにチャッツネ (chutney) という果実や薬草などの甘酸っぱい材料に香辛料を加え、砂糖で煮たものをカレーに添えるそうだが、それが、福神漬の風味ににてることから、日本ではカレーに福神漬を添えるようになったのだとか・・・。1927(昭和2)年、「資生堂パーラー」がオープンした時、高級路線のカレーライスに別盛りで薬味にしょうが、福神漬、らっきょう等をつけたのが初めてと言われている。
講釈は別にして、食欲のないときなど、スパイスの効いたカレーなら食欲が出るよね~。
(画像は、カレー。以下参考のカレー資料館より)
参考:
カレー資料館(ハウス食品)
http://housefoods.jp/data/curry/index.html