凡兆
渡りかけて藻の花のぞく流れかな
16×33cm
日本近代文学の森へ (152) 志賀直哉『暗夜行路』 39 船の別れ 「前篇第二 一」その1
2020.5.11
冬にしては珍らしく長閑(のどか)な日だった。謙作の乗った船は何時か岸壁を離れていた。下には群集に混ってお栄と宮本とが立っていた。彼は神戸で降りるのに見送りは仰々しいからと止めたが、船が見たいからとお栄は宮本に頼んで連れて来てもらったのだ。鐘が鳴って見送人が船から降りねばならぬ時に、お栄は「身体を大切にね」とか「お便りは始終して下さいよ」とかいった。謙作はちょっと感傷的な気持になった。
「暗夜行路」前篇の「第二」の冒頭である。実に簡潔な描写で、これだけで、出港の様子が手に取るように分かる。見事なものだ。
まず最初の一文で、季節と天候が述べられる。これだけで、そのときの登場人物のだいたいの気分が分かる。「長閑な日」というのは、天候が「長閑」ということもあるが、人間の気分の反映でもあるからだ。次の一文では、すでに謙作の乗った船は岸壁を離れつつある。ここがやっぱり非凡なところ。船が動き出す前から動き出す瞬間まで、どうしても書きたくなるのを抑えて、その後を書く。次に、「下」の様子を描く。そこには、「群集」と「お栄」と「宮本」がいる。お栄はわかるが、なぜ宮本もいるのか。その理由が次に書かれる。さてその次は、時間がちょっと戻る。お栄と宮本が「下」にいる時間より前の、船上での別れが書かれるのだ。そして最後の一文「謙作はちょっと感傷的な気持になった。」は、船上でのお栄との別れの気持ちなのだが、もちろん、その気持ちは続いているのである。
たった6つの文だが、時間がいったり来たりしていて複雑な構造になっている。
そして、この後、更に詳しい描写が、今度は時間の経過を追って続く。
船は一方の推進機で水を後ろへ、もう一つのでそれを前へやり、時々はそれを止めなどしながら段々と岸壁を離れて行った。三人は時々微笑しながら手を振り合っていた。その内謙作はそうして両方でいつまでもいつまでも見送っているのが苦しくなった。船の方向が定まり船尾が岸壁を三、四十間離れた処で彼は口の中で「じゃあ」といいながら頭を下げ、具合悪いような気持を無理に二人へ背を向けて自分の室(しつ)へ下りて来た。
船がスクリューを動かして方向を変えたりしながら岸壁を離れていく様だが、いつも横浜港でそんな船を見ながら、こんな簡単な文章でそれを描けるとは思わなかった。なるほどなあ、こう書けばいいのかというお手本のような文章だ。
船はなかなか岸壁を離れないから、船上と岸壁との距離がなかなか縮まらず、送る者と送られる者とは、妙な間の悪さを感じるものだが──と言ってもそういう船での別れを体験したことはないが──その間の悪さは、鉄道でもある。新幹線でも、乗り込んでしまった乗客が、窓の外の見送りの人と手を振っているのに、数十秒ほど発車しないと、これも間が持たない。別れのテープを持っているわけでもないし、声も届くわけもないから、口の動きで何か伝えたりして間を持たせるが、妙にその数十秒が長く感じられる。それが船だとほんとに長い。謙作は、気が短いのか、照れ屋なのか、相手が見えているのに、船室の入ってしまう。これはこれで、妙な行動だ。自分勝手というべきか。
船室に入ったはいいが、することがない。そのうち、岸壁の二人が気になるので、もう一度甲板に出た。
彼はまた甲板へ出て行った。案(おもい)の外、船は進んでいて、もう人々の顔は分らなかった。しかし群集を離れて、左の方に二人立っている、それがそうらしかった。つぼめた日傘を斜にかざしているのはお栄に違いなかった。彼は手を挙げて見た。直ぐ彼方(むこう)でも応じた。宮本が大業(おおぎょう)に帽子を振ると、お栄も一緒に日傘を細かく動かしていた。顔が見えないと謙作も気軽な気持でハンケチが振れた。そして船が石堤(せきてい)の間へかかる頃には二人の姿も全く見えなくなった。薄い霧だか烟りだか港一杯に拡がっていて、船が進むにつれ、陸の方は段々ぼんやりと霞んで行った。そしてちょっと傍見(わきみ)をしても今出て来た岸壁を彼は見失った。艦尾にミノタワと書いた英国の軍艦が烟突から僅ばかりの烟りをたてながら海底に根を張っているかのようにどっしりと海面に置かれてあった。その側を通る頃はもう、岸壁に添うて建並んだ、大きな赤煉瓦の建物さえ見えなくなった。
彼は今は一人船尾の手すりにもたれながら、推進機にかき廻され、押しやられる水をぼんやり眺めていた。それが冴えて非常に美しい色に見えた。そして彼は先刻自分たちの通って来た、レールの縦横に敷かれた石畳の広場を帰って行くお栄と宮本の姿を漠然と想い浮べていた。
船室にいたのが何分ほどだったか分からないが、謙作が再び甲板に出てみると、二人はまだ岸壁にいる。なんだ、もう中にはいちゃったんだ、じゃ行こう、っていって、さっさとその場を離れたわけではなかったのだ。宮本は行こうって言ったのだろうが、お栄が承知しなかったに違いない。その辺の描き方もうまい。
「宮本が大業に帽子を振ると、お栄も一緒に日傘を細かく動かしていた。」なんて、お栄の心の動きが震えるように感じられて、せつなくなる。
船が横浜港を進むにつれて見える光景は、映画でもみるかのような臨場感があって、うれしい。「赤煉瓦の建物」なんかも出てくるのもいい。
そしてまたふと時間が戻る。「そして彼は先刻自分たちの通って来た、レールの縦横に敷かれた石畳の広場を帰って行くお栄と宮本の姿を漠然と想い浮べていた。」の味わいも深い。三人で歩いてきた石畳は、謙作の前にすでになく、今そこをお栄と宮本の二人が歩いて行く。その姿を想像するのだ。重なる時間。
この「第二」の冒頭部を読むと、ここから今までとはまったく違った世界が展開する予感があって、先を読むのが楽しみになってくる。