川端茅舎
頬白やひとこぼれして散り散りに
半紙
●
近ごろホオジロにはまったくお目にかかっていません。
どこに行ってしまったのか。
こんなホオジロの姿を昔はよく見たように思うのですが。
川端茅舎
頬白やひとこぼれして散り散りに
半紙
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近ごろホオジロにはまったくお目にかかっていません。
どこに行ってしまったのか。
こんなホオジロの姿を昔はよく見たように思うのですが。
木洩れ日抄 65 くろうみやまのホトトギス
2020.5.31
大学時代の友人で国文学者の柏木由夫先生が、最近、日本気象協会のホームページ(tenki.jp)に、古典文学における花や鳥についてのエッセイを連載している。サクラから始まって、ヤマブキ、ショウブと来て、最新はホトトギスだった。
ホトトギスが古典文学の中で、どのように扱われてきたのか、和歌や和泉式部日記などを例に分かりやすく、興味深く書かれていてとても面白かった。
で、メールで、「水前寺清子の「涙を抱いた渡り鳥」の冒頭「ひと声ないてはたびからたびへ、くろうみやまのほととぎす」を思い出すね。」なんて書いたのだが、書いていて、ふと、「くろうみやまの」って何だろうと思った。
こう書いても、この歌を知らない人にはちんぷんかんぷんだろうから、歌詞を1番だけ引いておく。(著作権がうるさそうなので。2番以降は「涙を抱いた渡り鳥」で検索してください。すぐに出てきます。)
ひと声ないては旅から旅へ
くろうみやまのほととぎす
今日は淡路か明日は佐渡か
遠い都の恋しさに
濡らす袂のはずかしさ
いいさ 涙を抱いた渡り鳥
水前寺清子はそれほど好きな歌手ではない。というか、「365歩のマーチ」がどうも好きじゃなくて、敬遠してきたのだが、このデビュー曲「涙を抱いた渡り鳥」は大好きで、カラオケでも歌ったことがあるような気がする。しかし、この「くろうみやまの」の意味について真剣に考えたことはなかった。まあ、歌詞というのはそういうもので、これ、いったいどういう意味なんだろうなあ、と頭の片隅でぼんやり考えながら、歌っているということが多いものである。それでいて、歌そのものの意味を大きく取り違えるということもあんまりない。
「くろうみやまの」は、いちおう「苦労深山の」であろうとはすぐに推測できる。では「苦労深山のホトトギス」って何? ってことになるわけだが、「くろうみやまの」でネット検索すると、すぐに「「くろうみやま」ってなんだ?」とか「「くろうみやまの」の意味は?」といった記事が出てきた。やっぱりこういうことを考える人は一定数いるものなのだ。
その中の一つの記事は、どうも読売新聞のコラム記事(「編集手帖」2011年ごろらしい)のようで、全文が載っていた。ちょっと紹介する。
水前寺清子さんが歌ってヒットした『涙を抱いた渡り鳥』は、ひと声ないては 旅から旅へ/くろうみやまの ほととぎす…と、始まる。子供の頃、「くろうみやま」の意味が分からず、首をひねった覚えがある。
日本国語大辞典には「みやま」(見山)とは〈(「山」はしゃれて添えたことば)見ること。見物〉とある。「くろうみやま」は「苦労見物」のことで、作詞家の故・星野哲郎さんが残した言葉の至芸のひとつだろう。
体力を消尽させた長旅の果てに、「季節の使者」ならぬ「わざわいの使者」を見るような困惑の視線で迎えられる──渡り鳥には気の毒なご時世である。
島根、宮崎、鹿児島、愛知…確認されたもの、疑いのあるものを含めて、鳥インフルエンザの感染が広がっている。中国や韓国などから飛来した渡り鳥が持ち込んだものとみられ、各地の養鶏場では野鳥の侵入を防ぐ網の点検や整備に追われている。
政府が技術と資金の両面から防疫を支援し、感染の拡大を封じ込めるしかない。渡り鳥たちも、生活が根底から脅かされる養鶏農家の「くろうみやま」は、したくないはずである。
どうやら、鳥インフルエンザがはやっている頃の記事らしく、話がそっちへズレていっているが、「くろうみやまの」の解釈がどうにも変だ。
「日本国語大辞典」で「みやま」を調べたら「深山」だけじゃなくて「見山」も出てきた。その意味に「見物」がある。そこで、筆者は「苦労見物」だったのかと膝を打ったらしいのだが、いったい「苦労見物」って何だ? とは思わなかったらしい。それどころか、「作詞家の故・星野哲郎さんが残した言葉の至芸のひとつ」と絶賛している。
となると、このホトトギスは、旅を続けながら「苦労」を「見物」してきたということなる。これはどう考えてもおかしい。苦労してきたのは、ホトトギス自身であって、それはまたこの歌の「主人公」のことでもあるはずだ。
今日は淡路か、明日は佐渡かと、渡り歩いてきた私は、さんざん苦労してきたホトトギスだわ、ってほどの意味になるはずなのだ。そうじゃないと、2番以降が分からなくなる。つまり、「歌全体の意味」は、この「くろうみやまの」が厳密に分からなくても、ほぼ分かるのだ。そこからすれば、ここには「見物」なんて客観的な立場はどこにも入る余地はないことは明白なのだ。このエッセイの筆者は、細部にこだわりすぎて、全体を見失ったということになるだろう。
でも、それはそれとして、「みやま」っていったい何なのさ? ってことは依然として残る。しかし、これは実は簡単なことなのだ。
最近の若い人は言わないだろうが、まあ、昭和生まれなら「感激しまくら千代子」とか「当たり前だのクラッカー」とか、そんなシャレをさんざん言ってきたはずだ。これもまたそのひとつ。
「くろうみ」までが「くろうみる」の意味を担い、「みやま」が「深山」の意味を担う。つまり「み」がダブっていて、掛詞(シャレ)となっているわけだ。この掛詞は、また、古典和歌以来の伝統でもある。
つまり、「くろうみやまのほととぎす」っていうのは、さんざん苦労を見物してきたホトトギスではなくて、さんざん苦労を重ねてきたホトトギス、ということなのだ。
そうぼくは解釈したのだが、ただ「苦労を見る」という言い方があるのか不安だったので、柏木先生に尋ねたところ、「「苦労を見た」は、「苦しい目を見た」の「見た」、つまり経験したということで良いと思います。」との明快な返事が来た。やはり学者は違うね。
2番・3番で、さらに明らかになるように、この女主人公は、まさに「歌手」で、恋人とも別れ、故郷も捨てて、心の傷を抱えてただただ歌を歌う人生──これが水前寺清子のデビュー曲である以上、これからの彼女の歌手人生への覚悟を示すものだろう──それをホトトギスになぞらえているわけだ。
「ひと声ないては旅から旅へ」と、透明感溢れる声で歌いだす、デビュー当時の水前寺清子は、ほんとうに清々しい魅力に溢れていた。「涙を抱いて」いるのに、その「涙」さえ忘れさせる清々しい歌唱。思えば、当時のぼくは、その「歌」に魅了されたのだった。
ところで、メールのやりとりの中で、柏木先生は、こんなことも書いていた。
ホトトギスの声なんて気にも止めてないのに、何の気なしに聞いている、ちょっとした古い言葉の言い回しに、古今集の伝統は染み付いているんですね。歌謡曲の歌詞は侮れません。同じ星野の乱れ髪の歌詞、「春は二重に巻いた帯、三重に巻いても余る秋」は万葉集の言葉と聞きました。