芭蕉
よく見れば薺(なずな)花さく垣根かな
半紙
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これぞ、野草愛好家の原点ですね。
日本近代文学の森へ (153) 志賀直哉『暗夜行路』 40 自然との対峙 「前篇第二 一」その2
2020.5.24
謙作は船でオーストラリアの若者と出会う。若者はトランプをしようなんて言ってくるが、謙作は面倒がって相手にしない。それでも、「富士山を是非見たい」などという若者と、ポツポツと話していると、若者はこの船でオーストラリアのシドニーに帰るのだという。え? 神戸行きじゃなかったの? って思って読んでいくと、謙作が横浜から乗った船は、オーストラリア行きだったのだ。その船が途中で神戸に寄るわけである。そういう航路は別に不思議じゃないのだろうが、横浜からオーストラリアに行くというと、なんか、真下(真南)に下るような感覚があって、神戸に行くのでは「遠回り」じゃなかろうかなんて思っていると、この船は神戸のあと、マニラに向かうとある。まあ、どこへ寄ろうと勝手だが、悠長な話である。
三崎の沖を廻る頃から、彼は和服に着かえ寝床へ入ると、直ぐぐっすりと眠った。そして再び眼を覚ました時は四時過ぎていた。和服の上に外套を羽織って、甲板へ出た。夕方の曇った灰色の空に富士山がはっきりと露われていた。それが、海を手前に、伊豆の山々の上に登え立ったエ合が如何にも構図的で、北斎のそういう富士を憶い出さした。
喫烟室では下手なピアノが響いていた。そしてそれが止むと若い外国人が其処から出て来た。その男は「初めて富士山を見た」と満足らしくいった。
大島はもう後ろになっていた。風が寒いので彼は喫姻室から外の景色を見ていた。伊豆の七島が一つ一つその数を増して行った。若い外国人はまた下手なピアノを弾き始めた。そして、ブライアの烟管(きせる)を横ぐわえにしたまま何か小声で唄っていた。その間々にパデレウスキーを聴いたとか、自分の女同胞(きょうだい)にヴァイオリンの名手がいるというような事を話した。
船旅もいいものである。といっても、飛行機同様、船もまず乗らないのだが。そういう個人的なことは別として、風景がパノラミックに展開していく様は、鉄道よりもダイナミックで、ゆったりしている。島々がだんだん数を増していく、なんていうあたりは、昔乗った宇高連絡船から見た瀬戸内海の島の姿を思い出させる。
それに「和服に着替える」というのがいい。寝台列車に乗ると、真っ先に浴衣を来て、サラリーマンで溢れるホームの方を眺めるのが好きだったが、「和服」はすでに「非日常」を感じさせるからだったのだろう。駅という世俗まっただ中の場所の、わずか数メートルを隔てた場所に、「和服」(しかも浴衣!)と「洋服」が相対する。この面白さもあった。
若い外国人が、本を忘れて来て弱った、しかし明日は船のライブラリーを開けてもらうはずだといった。謙作はガルシンの英訳本を持っていたので、それを貸してやった。
寒い晩になった。晩になると、習慣からかえって謙作の眼はさえて来た。彼は大きな薄ら寒い食堂で、今日新橋まで送ってくれた人たち、信行、咲子、緒方たち、それから、お栄と宮本と、それから今頃丁度ペナンあたりまで行っているだろう竜岡に巴里の大使館気付で端書を書いた。
竜岡と別れた事は何といっても彼には淋しい事だった。竜岡は芸術には門外漢らしい顔を何時もしていたが、自身の仕事、飛行機の製作、殊にその発動機の研究に就いては、そしてそれに対する野心的な計画を話す時などには彼は腹からの熱意を示し、よく亢奮した。謙作は仕事は異っていたが、そういう竜岡を見る事で常にいい刺激を受けた。今そういう友を近くに失った彼は本統に淋しい気がされたのである。
謙作が「ガルシンの英訳本」を持っていたというのが面白い。当時よく読まれていたのだろうか。このガルシンというロシアの作家は、たしか高校時代、国語の教科書に「あかい花」という小説が載っていたはずだ。内容は覚えていないのだが、この題名と作者名だけはよく覚えている。どういう話だったんだろう。読み返してみようか。
国語の教科書というのは、馬鹿にできない。教科書に載ると小説も面白くなくなる、なんてことを言う人がいるけれど、それは文学青年の言うことで、文学に縁のない者にとってはそれが唯一の文学との接点になりうるのだ。
実は今こうして読んでいる「暗夜行路」も、最初の出会いは、教科書だった。この小説の一部が載っていたのだ。子どもが丹毒という病気になって、親があたふたする。シューベルトの「魔王」が聞こえてくる、、、とかいった内容で、これもよく覚えていないのだが、「暗夜行路」という題名だけはしっかりと頭に刻み込まれた。その授業から発展して、「暗夜行路」を全部読むというような殊勝な生徒ではなかったけれど、その後何年かして通読することになり、そしてまた今、再読することになっているというわけである。
教科書作りは、現在のぼくの唯一の「仕事」だが、やはり、こういう経験があるので、あだやおろそかにはできないと気を引き締めている次第だ。
それはそれとしても、謙作にとって、芸術を目指す同好の士ではなくて、まったく別のジャンルの仕事をしている竜岡が大事な友だったというのも面白い。「熱意」とか「情熱」とかいったものを介した「尊敬」が、友達というものの大事な要素だということだろう。
彼は何枚かの端書を書き終ると、寝る前にもう一度、外の景色を見ようと思って、甲板へ出て行った。真暗な夜で、見えるものは何にもなかった。ただマストの高い処に小さな灯が一つ、最初星かと思ったほどに遠く見えただけだった。人っ子一人いない。ヒューヒューと風の叫び、その風に波がしらを折られる、さあさあというような水音、それだけで、汽缶の響も、鎖の音も今は聴えなかった。船は風に逆らい、黙って闇へ突き進む。それは何か大きな怪物のように思われた。
彼は外套にくるまって、少し両足を開いて立っていた。それでも、《うねり》に従う船の大きい動揺と、向い風とで時々よろけそうになった。風は帽子を被らずにいる彼の髪を穿つように吹きつけた。そして、睫毛が風に吹き倒されるので眼がかゆくなった。彼は今、自分が非常に大きなものに包まれている事を感じた。上も下も前も後も左も右も限りない闇だ。その中心に彼はこうして立っている。総ての人は今、家の中に眠っている。自分だけが、一人自然に対し、こうして立っている。総ての人々を代表して。と、そういった誇張された気分に彼は捕えられた。それにしろ、やはり何か大きな大きなものの中に自身が吸い込まれて行く感じに打克てなかった。これは必ずしも悪い気持とはいえなかったが何か頼りない心細さを感じた。彼は自身の存在をもっと確めようとするように殊更下腹に力を入れ、肺臓一杯の呼吸をしていたが、それをゆるめると直ぐ、また大きなものに吸い込まれそうになった。
(《 》は傍点を示す)
真っ暗な闇の中、甲板に立ってヒロイックな気分に襲われる。こうした気分というのは、若い頃にはよくとらわれるものだ。ぼくも、いつ、どこで、とまでは分からないが、こんな気分になったことはある。「自分だけが、一人自然に対し、こうして立っている。」という気分。「総ての人々を代表して」とまではいかないけれど、「自分」と「自然」が一対一だという感覚。
と同時に、その自然に「吸い込まれる」ような「心細い」気分。どんなに頑張っても、所詮はこの大きな自然の前では、砂の一粒ほどのものでもないという一種の絶望、あるいは安らぎ。
この船上の場面は、「暗夜行路」において、一つの「画期」となるのだろう。