マチンガのノート

読書、映画の感想など  

リーブ・ノー・トレース(原題)/ Leave No Trace :デブラ・グラニック監督

2018-10-07 22:17:36 | 日記

戦争のトラウマによるPTSDものですが、本作では原因となったことなどには
直接触れられていません。
しかしながら、「ウィンターズ・ボーン」を監督した、デブラ・グラニック脚本、監督
なので、内容的には濃いです。
戦争をするとどれだけ後が大変なのかは、本作でも解りますが、
米国より経済力や自然環境に恵まれていない国などではどうなのかは
推して知るべしです。

このような作品としては、ロバート・デニーロ主演の「ジャックナイフ」などが
良かったですが、ロシアやドイツや日本ではこのような作品がほとんどない様なのは、
消化するのがそれだけ大変なことだからでしょう。

米国でも「ランボー」などが作られましたが、2作目からはエンタメ路線に行ったのも、
同じ理由でしょう。

最近では米軍のネット上の新聞に「Kevlar for the mind」などの連載がありますが、
それらを翻訳するなども、様々な理由で必要なのではないでしょうか?

参考文献:身体はトラウマを記録する ベッセル・ヴァン・デア・コーク著


肉中の哲学:ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン 計見一雄訳

2018-10-06 22:08:03 | 日記
身体の周りにあるものは、明確にではなくても認識されていて、
それらを見る、近付く、掴むなどで自身との関係が出来てくる。
それらの身体的あり方が、それに関する言語と認識や把握の仕方に
反映されているとのこと。
言語に対しては動きや位置関係が比喩を通じて取り込まれていて、それにより様々な物事を
認識、把握し、理解していっていると本書は言う。
共通の言語本能や、高いところから与えられた理性ではなく、
あくまでも身体運動から言語は成り立って行くのではないかとのこと。

そのような事柄は、臨床心理関係者の言う、
「山中康裕氏の治療は動的で、織田尚生氏の治療は静的」
とのことや、中井久夫氏が山中康裕氏と自閉症児がプレイルームに入ったのを
見ていて、自閉症児の顔から普通の顔に近くなり、あれこれやり取りをしていたが、
セッションが終わって外に出るとまたもとの顔に戻っていったとのこと
(山中康裕教授退官記念論文集・「山中先生の超能力」)や、さらに、
中井久夫氏が山中康裕氏とスイスに旅行した際、山の中でマイナーな方言を話す老人と、
多言語に詳しい中井久夫氏が会話しようとしても通じなかったが、
山中康裕氏が身振り手振りと片言であれこれやり取りをして、
お互いに肩を叩いて笑い合っていたなどの事と共通のところがあるのだろう。

京大臨床心理の本などでは、発達障害者の事を、「境界のない世界に住む人」等
書いていたりするが、そもそもその人にとっての境界は日常生活の中で
身に着けていくものだろう。
小さければ小さいほど、身体運動に深く関連しているのだろう。

また、小脳は運動を調整している部分とされていたが、最近では、
言語にも関与していることが解明されてきている。
「小脳に学習で獲得される内部モデル」川人光男


現代精神医学批判:計見一雄  平凡社

2018-10-04 20:58:20 | 日記
著者によると、考えるとは運動することの一面が大きいとのことで、
統合失調症などではそれまでのやり方が、様々な理由で出来なくなって行き、
動きも思考も止まってしまったり、さらに混迷状態などになり、
そこから様々な症状に繋がるとのこと。
そこから考えると、発達障害はもともと自分から身体を使って動いて試してみる、
なんとなくやってみる、などの身体を使って動いた体験の積み重ねが少なく、
様々なことを仕方がないから不承不承やっている、という所が多いのではないだろうか?
自分から動いて試した経験が少ないので、周囲のものに気づきにくい等で、
人の表情などへ注意が向かず、空気を読めない、などの特性に繋がるのでは
ないだろうか?
自分から動いていく体験の積み重ねが少ないと、本人にとって周囲との様々な境界が
生成されないのではないだろうか。

欧米の場合、ギリシャからの哲学の流れとキリスト教の影響で、
意識は唯一の至高の存在が与えた様な考え方が強いが、
著者によると様々な概念は体の運動に起源をもち、メタファーを通じて
概念として成り立つのではないかとのこと。

精神の哲学・肉体の哲学 形而上思考から自然的思考へ:木田元 計見一雄

現代精神医学批判:計見一雄