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古代日本のルーツ・長江文明の謎(その5)

2021-11-21 08:58:16 | 日本文化の源流

〇日本列島へ渡った「羽人」の痕跡

二二ギノミコトが笠沙に着いたとの安田教授の記述は、やや疑問に思うものの、以下の記述内容は同感である。

二二ギノミコトが笠沙に着いたという神話(ココ参照)からも伺い知ることができるが、その根本には高い航海技術があった。長江文明を担った人たちは、高度な航海の技術を持っていた。その証拠は日本列島で見つかっている。

鳥取県米子市淀江町の角田遺跡は弥生時代中期の遺跡であり、この遺跡から羽飾りをつけた人と船が描かれた土器が出土している。羽飾りをつけた人は羽人(うじん)と呼ばれていて、羽人は出雲大社のような巨大な木造建築に向かって船を漕いでいる。

(角田遺跡出土土器文様)

この羽人こそ、日本と長江文明をつなぐ存在である。羽人は、雲南省の滇王国の青銅器にも彫像されている。すでに述べたように、滇王国は長江文明の末裔である。長江の羽人は、東シナ海をわたって日本へやって来ていたのである。そのことを、淀江町の角田遺跡から発掘された土器は物語っている。

この羽人については、もう一つ話がある。羽人は中国の越の人であった。越と云うのは中国の長江下流域を指すが、その地名が日本に残っている。越前、越中、越後という北陸・新潟地方の「越」がそうである。長江下流の越人が日本列島に渡ろうとして対馬海流に乗ったとき、漂着しやすい場所は九州南部とともに、出雲・北陸・能登方面だった。そして日本にやって来た越人たちは、故郷の越の名を地名に残したのである。

(荒尾南遺跡出土線刻絵画土器 出典・岐阜県HP)

また、岐阜県荒尾南遺跡から発掘された土器は、弥生時代後期のものである。この土器には船が描かれているが、じつに大きなものである。オールが何本もあり、100人近い人たちが乗り込めると思われる。そんな巨大な船を作り出し、運航させる技術が、長江文明にあったことを物語っている。彼らは、そんな巨大な船で日本にやって来ていたのではあるまいか。”・・・以上である。

三国志の時代を遡る後漢の時代に、日本からの遣使は存在した。『後漢書・東夷伝』によれば、”建武中元二年(西暦57年)倭の奴国、貢を奉じ朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜ふに印綬を以てす(これが志賀島出土の『漢奴委國王』)。安帝永初元年(西暦107年)、倭の国王師升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。”・・・とある。

生口とは奴隷のこと。その160人であるが、どのように160人も渡海したのか? 当然ながら遣使とともに随行者もいたはず。総勢200人は下らないであろう。当時の大型船といえば準構造船でせいぜい40人程度の定員かと思われる。総勢200人ならば、準構造船で5-6隻となる。この5-6隻が一糸乱れず同一地点に着岸できるとは思えない。それこそ100名前後が乗船できる大型船が存在したであろうが、考古学的には証明できていない。古代史の不思議の一つである。

<不定期連載にて続く>

 



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1 コメント

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mash1125さんへ (Dr.K)
2021-11-22 10:04:54
そんな古代に、100人近い人が乗り込めると思われる巨大な船を作り、運航させる技術があったのですね。
ロマンですね(^-^*)

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