徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

おてもやんの ヒ・ミ・ツ!

2014-01-08 13:41:38 | 音楽芸能
 「ふるさと寺子屋」の中に収められている小山良先生(小山音楽事務所主宰)の講話「おてもやん」によれば、「民謡おてもやん」誕生の裏には、作者の永田イネとモデルのチモにまつわる次のような隠された物語があったという。

 「おてもやん」が生まれるにあたって一人の女性が浮かび上がりました。富永登茂(チモ)です。チモは安政二年十二月五日に飽田郡横手手永の北岡村(現・春日町一丁目)に小作農家の長女として生まれました。五反(現・春日町五丁目)にイネが稽古場を構え、そこで二人は出会ったのだと思います。ウマのあった二人が意気投合して仲良くなることに時間はかからなかったでしょう。しかし、チモがモデルになったのは仲が良かったからだけではありません。イネには萬吉という子どもがいました。そしてチモには孝という母親代わりになって育てた子どもがいました。私は萬吉と孝は同一人物ではないかと思っています。なぜ、それが明らかになっていないかというと、萬吉の父親が誰であるかということを秘密にされているからです。そこで、萬吉は県外へでていってしまったとして、チモに預けられたのです。ただし、チモの子だとすると五十八歳の頃の子となるのでチモの妹のトジュの子として戸籍を作ったのでしょう。
 「おてもやん」のモデルはチモ、そしてイネ自身ではないでしょうか。イネは最後までこのモデルについては「公表できない」と言っていました。公表することは、「孝」の出生のことが判ってしまうのではないか、という恐れを抱えることになるからです。

 という内容である。

 ここから先はこの物語を踏まえた僕の推論である。

 「登茂(トモ)」がなぜ「チモ」と呼ばれ、歌ではなぜ「ても」になったのだろうか。「トモ」が「チモ」と呼ばれたのは、熊本弁によくありがちな「母音の変化」だろうと考えていた。例えば僕の祖母が、「○○しよう」を「○○しゅー」と言ったり、「魚(うお)」を「いを」と言ったり、「煮びたし」を「にぶたし」と言っていた類の方言の一種だと考えていた。しかし、この物語を読んだ時、ひょっとしたらこれは子どもの発音じゃないかという思いが湧き起った。イネとチモという二人の母にとって可愛くてしかたなかったであろう一人の男の子の姿が浮かぶのである。
 そして、歌を作るにあたって実名を使うことが憚られたイネは、「チモ」の語感を残す別の名に知恵を絞ったに違いない。その結果「ても」が選ばれた。そこに僕はイネの長唄や歌舞伎舞踊の師範としてのセンスとユーモアを感じるのである。「ても」というのは「さても」の省略形。「なんとまあ」という意味の感動詞である。「さても」という言葉を使った長唄は山ほどある。例をあげると
【舌出し三番叟】
  花が咲き候 黄金の花が てんこちない 今を盛りと咲き匂ふ てもさても 見事な黄金花
【藤音頭】
  うちの男松に からんでしめて てもさても 十返りという名のにくや かへるという 忌み言葉

 チモさんには、他人を驚かせ、感動させるようなところがあったのかもしれない。「ても」という名前にはそんな意味合いも込められているのかもしれない。