徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

僕が日本舞踊にハマったわけ

2014-01-16 21:39:17 | 音楽芸能
 僕が日本舞踊にハマったのは「ザ・わらべ」と出会ってからだからまだ4年とちょっとに過ぎない。それまで日本舞踊の舞台など一度も見たことがなかったのになぜ?と思う。もちろん、「ザ・わらべ」の踊りの達者さや可愛らしさに心を奪われたことが最大の理由であることは間違いないのだが、最近、もともと僕自身にその素地があったのではないかと思うようになった。僕が小学生の頃から洋画好きでよく見ていたことは、先日の淡路恵子さんの記事でも書いたが、好きなジャンルはというと、当時の男の子はみんなそうだったようにまず西部劇だった。僕にはその他、照れくさくて友だちにはあまり言わなかったが、ミュージカルが好きだった。小中学生の頃はNHKテレビがクラシック映画をよく放映していて、なかでもフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのコンビの映画にハマったのが最初のきっかけだったかもしれない。二人で踊るタップダンスなんか今見てもたまらない。映画館でも「雨に唄えば」や「南太平洋」などで感動したものだ。そして高校生になった頃、「ウエスト・サイド物語」がやって来た。これは衝撃的だった。ミュージカルを観る眼が変わった。その後も「サウンド・オブ・ミュージック」をはじめ「メリー・ポピンズ」「マイ・フェア・レディ」など数多くのミュージカル映画を楽しんだ。
 時は流れて今ハマっている日本舞踊。歌舞伎舞踊ともいう。つまり日本のミュージカルなのである。洋の東西は異なっても音楽や踊りによって物語を展開させていくことには変わりない。つまりそれが僕が何の違和感もなく受け入れた理由に違いないと思うのである。


フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの「スウィング・タイム」



「ウエスト・サイド物語」より「アメリカ」



阿国歌舞伎夢華

草枕 ~ 能 ~ シェークスピア

2014-01-15 23:30:02 | 文芸
 先日、BS朝日の「にほん風景物語」で、夏目漱石の「草枕」の背景となった熊本の水や緑、そして熊本市内から小天温泉までの「草枕の道」を、作家・文芸評論家の高橋源一郎が自ら辿りながらレポートしていた。
 僕は「能」に興味を持ち始めてから、「能」的な小説だと言われる「草枕」を、そういう視点から読み直しているところだが、何度か読んでいるのにとても新鮮な感動がある。
 最近、「能」関係の文献を読んでいて気づいたのだが、「能」と「シェークスピア」の世界の共通点について書かれたものを度々目にする。そう言われてみると、たしかに「草枕」にも「ハムレット」のオフィーリアの絵の話が出てくるし、シェークスピア作品からの引用は他の漱石作品の中にも見られる。「能」と「シェークスピア」の共通性に気づき、ともに題材として取り込み始めたのは漱石が嚆矢だったのだろうか。
 シェークスピアといえば、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」は「マクベス」を、「乱」は「リア王」を下敷きにした物語だが、そのいずれにも「能」的な表現があるという。両作品とも随分前に観ているのだが、その頃はそんなことには全く気付かなかった。さすが黒澤監督、「能」と「シェークスピア」の共通性に気付いていたのだろう。DVDでもう一度見直してみたい。


エッ! 白寿!?

2014-01-14 21:31:06 | 文芸
 岩本澄さんから年賀状をいただいた。もうしばらくお会いしていない。たしか昨年いただいた時はご自宅からの発信となっていたが、今年は特別養護老人ホームからの発信となっていた。お年からしてしかたのないことだと思った。5月には「白寿」を迎えると書いてあった。ちょっとびっくりした。なぜなら、荒尾市の海達公子顕彰会の方の情報では、海達公子の生誕百年は再来年と聞いていたからだ。そうか、祝い事は数え年でやることが多いからそうなることもあるわけだ。
 岩本澄さんは旧姓を規工川澄という。大正から昭和初期にかけ、北原白秋や若山牧水から目をかけられ、天才少女詩人と謳われた海達公子の同級生で親友だった方だ。「評伝 海達公子」などの著者、規工川祐輔先生の叔母でもある。おそらく海達公子について、生存する唯一の生き証人だろうと思う。僕らのような海達公子を研究する者にとって残された時間は少ない。さっそく聞いておきたいことを再度整理しておこう。 


中央が海達公子、右側が澄さん

熊本のどんどや(左義長)

2014-01-13 18:47:59 | 歴史
 今日はわが町恒例の「壷川校区どんどや」が京陵中学校グラウンドで行なわれた。この校区のどんどやは40年ほど前に復活したものだが、旧藩時代、熊本の「左義長」は武道と結びついて大がかりなものだったようで、全国的にも熊本の名物行事の一つに数えられていたらしい。
(熊本の左義長について「津々堂のたわごと日録」さんに詳しくご紹介いただいています。)

▼どんどやの由来
 どんどやの歴史は古く、今から約1000年前(平安時代)の記録に、三毬杖(さぎちょう)、左義長として知られ、これは宮中に於ける正月の年中行事で、三本の竹や木を組んで三脚にし、その上で、かがり火のように火を燃やした。
 後年、宮中では正月十五日に清涼殿の東庭で天皇の吉書を焼き、それに扇子や短冊などを添えて焼いたが、その間、童が棒を振ったり、大鼓、鉦鼓を打って歌い囃して舞った。
 また、この火祭りの行事は、日本中の極めて広い村やでも行われ、その呼び名も所によって、ドンド焼、サギチョウ等と様々であるが、人々はこの火を神聖視し、大きな力をみとめて次のような風習が信じられてきた。
1.年の初めに迎えた“年の神”を門松や注連飾りを燃やして、天へ送り返す。
2.この火で暖まると、子供達は益々元気に、老人は益々若返る。
3.この火に書初めを燃やし、その燃えさしが天高く揚がると手の上がるしるしとして喜んだ。
4.この火で餅や団子を焼いて食べると年中病気しない。
(壷川校区どんどや実行委員会)


童謡「左義長(さぎちょう)」 北原白秋(赤い鳥 大正14年1月号)

どんどや、左義長、
ぼうぼうの山で、
燃せ燃せ、どんど。

どんどや、左義長、
山ん坊の風に、
燃せ燃せ、どんど。

どんどや、左義長、
囃せや子供、
燃せ燃せ、どんど。

どんどや、左義長、
しゃっぎりこっぎり練れや、
燃せ燃せ、どんど。

どんどや、左義長、
斎の神の勧進だ、
燃せ燃せ、どんど。

どんどや、左義長、
注連縄、松、小笹、
燃せ燃せ、どんど。

どんどや、左義長、
今年の餅ゃ うまいな、
燃せ燃せ、どんど。

どんどや、左義長、
子供は風の子、
燃せ燃せ、どんど。

どんどや、左義長、
爺さん婆さん火の子、
燃せ燃せ、どんど。

※歌詞は13番まであり。


火をつけたとたん、紅蓮の炎が駆け上る


餅をつるした竹棹を持って燃え落ちるのを待ち構える

アメリカ映画で見た最初の日本人女優

2014-01-12 19:15:15 | 映画
 昨日亡くなった女優の淡路恵子さんは僕にとって特別な女優さんだった。何が特別だったかというと、アメリカ映画の中で初めて見た日本人の女優だったからである。母親の知人に映画館主がいたおかげで、僕は小学校に入った頃から、親同伴だったり時には一人で通町筋にあった映画館大劇に頻繁に洋画を見に行くようになった。そして高学年になる頃にはいっぱしの洋画通になっていた。4年生になった昭和30年(1955)、一本の戦争映画を見た。「トコリの橋(1954)」というアメリカ映画だった。当時、人気絶頂だったウイリアム・ホールデンとグレイス・ケリーという2大スターの共演が話題となっていた。この映画は朝鮮戦争に従軍している空軍パイロットの話で、横須賀の基地が舞台となっていた。主人公のパイロットを演じるのがウイリアム・ホールデン、その妻をグレイス・ケリーが演じていた。そしてパイロットの相棒を名優ミッキー・ルーニーが演じ、その恋人として登場したのが淡路恵子さんだった。その颯爽とした姿にちょっと誇らしい気がしたものだ。淡路さんのデビュー作である黒澤明監督の「野良犬」を見たのはずっと後で、他にも何本もの映画やドラマを見たが、いつ見ても必ず若かりし頃の「トコリの橋」の姿を想い出した。合掌


左から淡路恵子、アール・ホリマン、ミッキー・ルーニー、ウィリアム・ホールデン

鏡開き ~ 猪の爪鹿の爪 ~

2014-01-11 20:08:08 | ファミリー
 今日1月11日は「鏡開き」。しかし、わが家ではずっと昔から「猪の爪鹿の爪(いのつめかのつめ)」という。それは「ぜんざい」に付け合せる「たくあん漬け」のことだ。もともと「鏡開き」は武家社会の慣習となっていた「具足開き」が一般化したものだという。具足というのは武士がいくさの時に身に着ける「甲冑(かっちゅう)」のこと。正月には床の間に飾った甲冑に神饌である餅や酒、魚、野菜などを供えたという。1月11日の「具足開き」にそれらの供え物を食べた慣習が「鏡開き」になったわけだが、「猪の爪鹿の爪」の由来がどうもわからない。生前の父や祖母に聞いたことがあるような気がするが憶えていない。多分、ずっと昔は猪や鹿の肉を供えていて、それが形だけ残り、猪や鹿の爪の形状に切った「たくあん漬け」が使われるようになったのではないかと思っている。それにしても、甘い「ぜんざい」を食べた後の削り節をまぶした「たくあん漬け」の美味いこと。


人知れず ひっそりと佇む 記念碑たち(その2)

2014-01-10 15:50:28 | 熊本
■宮部鼎蔵旧居跡
 僕の幼稚園時代の通園路だった内坪井の、「夏目漱石内坪井旧居」と目と鼻の先にあるのが、幕末の勤王の志士、宮部鼎蔵の旧居跡の碑。碑文には次のように記されている。

 文政3年(1820)~元治元年(1864)
鼎蔵は七瀧村(御船町)の医師の家に生まれたが、叔父丈左衛門について
山鹿流の兵学を学び、嘉永3年(1850)その跡を継いで藩の兵法指南役と
なった。のちに江戸に出て諸国の志士と交遊し、帰国後は林桜園について
国学を学んだ。
 藩の勤王党の重鎮として文久3年(1863)京に上り、全国の勤王派の中心
となって国事に奔走した。池田屋で倒幕の密議中、新撰組に襲われて自刃
した。ここは鼎蔵が兵法指南役の頃の旧居で吉田松陰も訪れたことがある。





■藤田嗣治(レオナール・フジタ)旧居跡
 旧国道3号線を京町から出町に入り、往生院の前から右折すると住宅街が続く。その奥まった一角に、熊本で育ち、芸術の都パリで活躍した画家・藤田嗣治(レオナール・フジタ)の旧居跡の碑がある。民家の庭に入り込まなければ見えないので、初めての人は見つけにくい。僕は小学生の時、よく遊びに行った同級生の家がすぐ近くだったのでとても懐かしい場所だ。


人知れず ひっそりと佇む 記念碑たち(その1)

2014-01-09 18:46:12 | 熊本
 街の中を歩いていると意外なところに意外な記念碑があったりする。人知れずひっそりと佇んでいるそんな記念碑たちをご紹介していきたい。今回はまずわが京町界隈から二つ。


 (きのしたいそん じゅくあと)
 京町2丁目の交差点傍の公園脇に、江戸末期の儒学者、教育者である木下い村が開いた塾の跡がある。碑には次のように記されている。

熊本の師聖木下い村先生は天保7年(1836年)
32歳の時内坪井に木下塾を設けられ
続いて安政4年(1857年)此の地に塾を移し
慶応3年(1867年)63歳の逝去の時迄
32年間子弟を教育せらる
明治時代の熊本の人材殆ど此処より出づ
            木下い村先生顕彰会

 文部大臣など明治政府の要職を歴任した井上毅や漢学者・元田永孚など多くの人材を育て、次男の広次は法学者で京都帝大初代総長を務めた。




■加藤神社旧鎮座地之碑

 市役所方面から旧国道3号線を北上すると、磐根橋を渡って30mほど行った右側のマンション脇にあるのが、かつてこの地に加藤神社が鎮座していたことを示す「加藤神社旧鎮座地之碑」。



 この地に明治7年から昭和37年までの88年間鎮座していた加藤神社の鳥居前石段。ここが豊前・豊後街道の追分のところまで切り通され、旧国道3号線が直線化した。


おてもやんの ヒ・ミ・ツ!

2014-01-08 13:41:38 | 音楽芸能
 「ふるさと寺子屋」の中に収められている小山良先生(小山音楽事務所主宰)の講話「おてもやん」によれば、「民謡おてもやん」誕生の裏には、作者の永田イネとモデルのチモにまつわる次のような隠された物語があったという。

 「おてもやん」が生まれるにあたって一人の女性が浮かび上がりました。富永登茂(チモ)です。チモは安政二年十二月五日に飽田郡横手手永の北岡村(現・春日町一丁目)に小作農家の長女として生まれました。五反(現・春日町五丁目)にイネが稽古場を構え、そこで二人は出会ったのだと思います。ウマのあった二人が意気投合して仲良くなることに時間はかからなかったでしょう。しかし、チモがモデルになったのは仲が良かったからだけではありません。イネには萬吉という子どもがいました。そしてチモには孝という母親代わりになって育てた子どもがいました。私は萬吉と孝は同一人物ではないかと思っています。なぜ、それが明らかになっていないかというと、萬吉の父親が誰であるかということを秘密にされているからです。そこで、萬吉は県外へでていってしまったとして、チモに預けられたのです。ただし、チモの子だとすると五十八歳の頃の子となるのでチモの妹のトジュの子として戸籍を作ったのでしょう。
 「おてもやん」のモデルはチモ、そしてイネ自身ではないでしょうか。イネは最後までこのモデルについては「公表できない」と言っていました。公表することは、「孝」の出生のことが判ってしまうのではないか、という恐れを抱えることになるからです。

 という内容である。

 ここから先はこの物語を踏まえた僕の推論である。

 「登茂(トモ)」がなぜ「チモ」と呼ばれ、歌ではなぜ「ても」になったのだろうか。「トモ」が「チモ」と呼ばれたのは、熊本弁によくありがちな「母音の変化」だろうと考えていた。例えば僕の祖母が、「○○しよう」を「○○しゅー」と言ったり、「魚(うお)」を「いを」と言ったり、「煮びたし」を「にぶたし」と言っていた類の方言の一種だと考えていた。しかし、この物語を読んだ時、ひょっとしたらこれは子どもの発音じゃないかという思いが湧き起った。イネとチモという二人の母にとって可愛くてしかたなかったであろう一人の男の子の姿が浮かぶのである。
 そして、歌を作るにあたって実名を使うことが憚られたイネは、「チモ」の語感を残す別の名に知恵を絞ったに違いない。その結果「ても」が選ばれた。そこに僕はイネの長唄や歌舞伎舞踊の師範としてのセンスとユーモアを感じるのである。「ても」というのは「さても」の省略形。「なんとまあ」という意味の感動詞である。「さても」という言葉を使った長唄は山ほどある。例をあげると
【舌出し三番叟】
  花が咲き候 黄金の花が てんこちない 今を盛りと咲き匂ふ てもさても 見事な黄金花
【藤音頭】
  うちの男松に からんでしめて てもさても 十返りという名のにくや かへるという 忌み言葉

 チモさんには、他人を驚かせ、感動させるようなところがあったのかもしれない。「ても」という名前にはそんな意味合いも込められているのかもしれない。


最近 最も感動した話!

2014-01-07 15:53:46 | テレビ
 最近、NHK-Eテレの「スーパープレゼンテーション」でクラシック指揮者、ベンジャミン・ザンダーが語った話に感動した。それはザンダーがある女性から聞いて感銘を受けたという話で、自身の教訓にしているという。
話を要約すると・・・

 彼女は15歳の時に8歳の弟と一緒にアウシュビッツに送られた。姉弟の両親はとうに亡くなっていた。彼女がアウシュビッツへ向かう列車の中で、ふと弟の足元を見ると靴を履いていないことに気付いた。彼女は「あなたはなんてバカなの!どうしてキチンと自分の持物を持っておくことができないの?」と弟をなじった。これが弟にかけた最後の言葉となった。彼女は幸運にもアウシュビッツから生還できたが、弟は帰らなかった。彼女は後悔した。そして誓った。誰かに言葉をかける時、もしそれがその人への最後の言葉になったら後悔するような言葉は絶対にかけまいと。

1970年8月29日 東京・国立競技場

2014-01-06 12:27:25 | スポーツ一般
 その夜、東京・国立競技場を埋め尽くした大観衆の視線は一人のサッカー選手に注がれていた。大阪万博に合わせて来日したポルトガルの強豪プロサッカークラブ、ベンフィカ・リスボンのエースストライカー、エウゼビオ(当時はオイセビオと表記)選手だった。この夜はベンフィカ・リスボンと日本代表との第2戦、東京には初お目見えとあって、世界のスーパースターを見んものと大観衆が国立に押し掛けた。僕もこのゲームは見逃すわけにはいかないと、当時、在勤中だった横浜から出かけて来た。
 僕が、というよりほとんどの観客がそうだと思うが、この「モザンビークの黒豹」と呼ばれたエウゼビオに注目したのは、その4年前、イングランドで行われたワールドカップ1966におけるエウゼビオの活躍が鮮烈な印象を残したからだ。サッカーの母国イングランドが地元開催で初優勝したこの大会で、エウゼビオを擁したポルトガルは3位の好成績を残したが、何といってもこの大会の最大のスターは大会通算9得点で得点王になったエウゼビオだった。
 そしてこの夜、エウゼビオはその実力をいかんなく発揮、2年前のメキシコ五輪で銅メダルを獲った日本代表を4対1と圧倒した。その4点すべてがエウゼビオが叩きだしたものだった。とんでもない怪物の大暴れに最初は日本代表の反撃を期待していた大観衆も、そのうちこの怪物がいったい何点取るだろうという期待感に変わっていったのを憶えている。
 エウゼビオの訃報に接し、今夜は、まさに精悍な黒豹のごとき在りし日の勇姿を偲びたい。合掌

加藤神社と藤崎八旛宮

2014-01-05 15:50:15 | 歴史
 今年も加藤神社と藤崎八旛宮に初詣をした。わが家のある京町は、明治7年から昭和37年までの88年間、加藤神社が鎮座していて、とてもゆかりが深い。僕自身も子供の頃、加藤神社の境内が遊び場の一つでもあったから、加藤神社が熊本城内に再び遷宮される時には寂しさを感じたものだ。
 一方の藤崎八旛宮だが、祖母の生家が現在の藤崎八旛宮にほど近いところにあった。祖母が生まれた明治16年には既に藤崎台から井川淵に遷宮していて、祖母は幼い頃から藤崎宮への信仰が強かったらしく、七五三参りなどは藤崎宮で行うことがわが家の慣わしとなっている。そんなわけで、今でも何かお詣りする時に、どちらを優先すべきか迷うことがある。
 しかし、藤崎八旛宮は加藤清正公とゆかりの深い神社。熊本最大の祭り、藤崎八旛宮秋季例大祭は清正公の祭りと言ってもけっして過言ではないような祭りだ。清正公の八幡信仰が強かったのは、主祭神の応神天皇が武運の神とされることや、宇佐八幡宮に伝わる鍛冶翁の言い伝えなどから、清正公の出自である鍛冶の神でもあるとされることなどといわれている。
 ちょっと余談になるが、慶長15年に清正公が塩屋三丁目で催した能と歌舞伎の勧進興行の目的の一つは、藤崎八旛宮のためではなかったかと、だからこそ「八幡の国」などという他の史料では見い出せない名前が登場するのではないかと僕は推測している。
 それはさておき、これからもわが一家の産土神として、この二社を崇敬して行くことになるのだろう。


加藤神社


藤崎八旛宮


老ドクターと松田聖子

2014-01-04 22:43:24 | 音楽芸能
 今年いただいた年賀状の中で最高齢の方は、今年93歳を迎えるS先生。文面には相変わらず「無為徒食の輩」などと先生一流の自虐ネタが書かれていた。もう30年ほど前になるが、横浜工場で産業医を務めておられたS先生のところへ仕事で度々お伺いした。お伺いすると必ず、終業後は横浜の街へ繰り出すのがお決まりだった。行きつけの店へ行くと先生は必ず、財布を店の女将に預ける。精算は女将にまかせていて店を出る時、財布を受け取って帰るというのが慣わしだった。ある時、何軒か回った後、カラオケバーに行った。そこで先生は病院に出入りしている製薬会社のプロパーさんを呼び出した。呼び出したわけはその若い男性のプロパーさんはおそろしく歌が上手い人で、先生は僕にそれを聞かせたかったのかもしれない。特に松田聖子の「SWEET MEMORIES」や「赤いスイートピー」などは絶品だった。松田聖子はその頃デビューして5、6年経っていたと思うが、実は僕の会社の大先輩に久留米の出身で、かつて松田聖子のお父さんと職場が一緒だったという人がいて、彼女がデビューする時、「応援をよろしく!」などと頼まれたりして、彼女にはずっと注目していたこともあり、この夜のプロパーさんの歌は特に印象深かった。毎年、S先生の年賀状を見る度にあの夜のことを想い出す。


1964年の想い出

2014-01-03 22:01:26 | 歴史
 昨年9月、2020年のオリンピック開催地が東京に決まったこともあり、また今年でちょうど50年という節目の年となることで最近メディアで盛んに取り上げられる1964年の東京オリンピック。いろんなテレビ番組やドラマもあったが、見ていると番組制作の人たちも1964年の東京オリンピックを知らない世代になったことを強く感じる。うまく言葉で言い表せないが、番組で描かれたり、語られたりする空気感が実際の当時と微妙に違うのだ。
 僕にとって1964年は人生の中で最も想い出深い年。この年、大学に進学したのだがスポーツ推薦だったので、高校の卒業式も待たず、2月に入ると上京して大学水泳部の合宿所に入った。まだ、温水プールなど数えるほどしかない時代で、オリンピック対策のために神宮プールにテントを張った仮設温水プールや東大の地下温水プールなどでの猛練習が始まった。僕らはオリンピックとは縁遠かったが、チーム内には代表選手を狙っている選手もいたので例年よりも早いシーズンインとなっていたのだった。水泳に限らず、ほとんどのスポーツが同じような態勢に入っていたと思う。この年は、スポーツ界に限らず、全ての国民が10月のオリンピックへ向け、多かれ少なかれ参画意識を持っていたような気がする。
 そんな1964年の初めからFENなどのラジオ放送でイギリスのロックバンドが頻繁に流されるようになった。ビートルズである。当初はその独特のヘアスタイルや一風変わったシャウトなどから、“キワモノ”的な扱い方が多かった。一度聞くと耳に付いて離れないという感じで段々人気を博して行った。しかし、この年の後半あたりまでは多くのロックバンドのワン・オブ・ゼムでしかなかったと思う。僕自身、当時はアメリカのリズム&ブルースの方がよく聞いていたし、他にも魅力的な楽曲がいっぱいあった。そんな中の一つがデイブ・クラークファイブの「ビコーズ(Because)」である。


初詣と邦楽と感動の舞

2014-01-02 21:37:56 | 音楽芸能
 もう何年か続いて正月2日は加藤神社の初詣と熊本城本丸御殿での「冬のくまもとお城まつり」見物が恒例となった。昨年同様、好天にも恵まれ、熊本城や加藤神社の人出は例年以上に賑わっているように見えた。
 本丸御殿では吟詠と日本舞踊で初春にふさわしい演目が披露され、本丸御殿の大広間にぎっしり入った観客を喜ばせた。
 今日の演目の中で最も印象に残ったのが、舞踊団花童の小堀ゆりあちゃんが踊った「長唄 越後獅子」。もともと好きな曲目でもあるが、ゆりあちゃんの入魂の芸に感動した。