永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(1237)

2013年04月05日 | Weblog
2013. 4/3    1237

五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その29

「『笛の音にむかしのこともしのばれてかへりしほどぞも袖ぞ濡れにし』あやしう、もの思ひ知らぬにや、とまで見侍るありさまは、老人の問はず語りにも聞し召しけむかし」とあり。めづらしからぬも見どころなき心地して、うち置かれけむかし」
――(尼君のお返事は)「(歌・貴方の笛の音に亡き娘のことも偲ばれて、お帰りになったあとも、涙で袖がぬれたことでした)、不思議なほど、もののあわれも解しないのかしらと思える姫君の態度は、母尼の問わず語りでもお分かりでしょう」とありました。珍しくもないありきたりのお文なので、中将はしみじみとも読みもせず、すぐに下に置いてしまったようでした――

「荻の葉におとらぬ程々におとづれわたる、いとむつかしうもあるかな、人の心はあながちなるものなりけり、と、見知りにし折々も、やうやう思ひ出づるままに、『なほかかる筋のこと、人にも思ひ放たすべきさまに、とくなし給ひてよ』とて、経習ひて誦み給ふ。心のうちにも念じ給へり」
――荻の葉を渡る絶え間ない風の音にも劣らぬ程に、中将から引き続きお文が来るのは、ほんとうに煩わしい。男心というものは、いつもこのように執拗で無理強いなものだった、と、昔、匂宮と逢い初めて身に覚えた折折のことなども、だんだんに思い出されるにつけて、「やはり、こういう色恋のことを男に諦めさせるためにも、早く出家させてください」と言って、浮舟は経を習ったり、誦したりして、こころの内でもひたすら仏を念じていらっしゃる――

「かくよろづにつけて世の中を思ひ棄つれば、若き人とてをかしやかなることも殊になく、結ぼほれたる本性なめり、と思ふ。容貌の見るかひありうつくしきに、よろづの咎見ゆるして、あけくれの見ものにしたり。すこしうち笑ひ給ふ折は、めづらしくめでたきものに思へり」
――このように何事につけても世の中のことを思い捨てていられるので、若い女らしく、これといって華やかな事もないのは、塞ぎがちなご性分なのでしょう。しかし、ご器量がいかにも鬱っくしく、見る甲斐のある方なので、大方の疵は見過ごして、尼君は朝夕の慰めに飽かずながめていらっしゃる。浮舟のちょっと笑ったりなさると、それがたいそう珍しく素晴らしくも思えるのでした――

「九月になりて、この尼君長谷に詣ず。年ごろいと心細き身に、こひしき人の上も思ひやまれざりしを、かくあらぬ人とも覚え給はぬなぐさめを得たれば、観音の御しるしうれし、とて、かへり申しだちて、詣で給ふなりけり」
――さて、九月になってから、この尼君は再び初瀬詣でにお出かけになりました。心細い年月を重ね、恋しい娘のことも諦めきれないでいましたのを、このように別人とも思われない浮舟を慰めとして得ましたので、観音様のご利益もうれしく、この度は、その御礼参りの形で参詣されるのでした――

「『いざ給へ。人やは知らむとする。おなじ仏なれど、さやうの所に行ひたるなむ、験ありてよき例多かる』と言ひて、そそのかし立つれど、昔母君乳母などの、かやうに言ひ知らせつつ、たびたび詣でさせしを、かひなきにこそあめれ、命さへ心にかなはず、たぐひなきいみじきめを見るは、と、いと心憂きうちにも、知らぬ人に具して、さる道のありきをしたらむよ、と、そらおそろしく覚ゆ」
――(尼君が浮舟に)「さあ、行きましょう。人は気付きませんよ。同じく仏様でも、長谷のようなお寺で勤行してこそ霊験あらたかな、よい例も多いというものですよ」と言って、しきりに進めますが、浮舟は、昔も母君や乳母からこのように言い聞かされては、度々お参りもさせられましたが、何の甲斐もなかったようで、死にたいと願ったことさえままならず、例もないみじめな目を見ようとは、何と言う辛い運命であろうと思うにつけても、尼君のようなよく知らない人と一緒にそのような旅をするなどとは、とんでもない空恐ろしい心地がするのでした――

では4/3に。


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