七 うへに候ふ御猫は その2 (17)2018.1.30
「忠隆、実房なむ打つ」と言へば、制しにやるほどに、からうじて鳴きやみぬ。「死にければ、門のほかに引き捨てつ」と言へば、あはれがりなどする夕つかた、いみじげに腫れ、あさましげなる犬の、わびしげなるが、わななきありけば、「あはれ、翁まろか。かかる犬やはこのごろは見ゆる」など言ふに、「翁まろ」と呼べど、耳にも聞き入れず。「それぞ」と言ひ、「あらず」と言ひ、口々申せば、「右近ぞ見知りたる。呼べ」とて、しもなるを、「まづ、とみの事」とて、召せば、まゐりたる。
◆◆「忠隆と実房が打っている」と言うので、止に人をやるうちに、どうやらようやく鳴きやんだ。「死んだので、門の外に引っ張っていって捨てた」というので、可哀そうだと思っている夕方、ひどい様子に腫れあがり、あきれるまでの姿をした犬が、気力を失った様子で、ぶるぶる震えて歩き回っているので、「まあ、翁まろかしら。でもこの犬はいまごろいるはずがない」などと言うので、「翁まろ」と呼ぶけれど、耳に聞き入れもしない。「翁まろだ」と言い、「そうではない」とも言い、口々に申すので、皇后様は「右近が見知っている。呼べ」ということで、自分の部屋に下がっていたのを、「何をさておいても、急用だ」と言って、お呼び寄せにあそばすので、参上しました。◆◆
「これは翁まろか」と見せさせたまふに、「似てはべるめれど、これはゆゆしげにこそはべるめれ。また、『翁まろ』と呼べば、よろこびてまうで来るものを、呼べど寄りて来ず。あらぬなンめり。『それは打ち殺して捨てはべりぬ』とこそ申しつれ。さる者どもの二人して打たむには生きなむや」と申しば、心憂がらせたまふ。
◆◆「これは翁まろか」と定子皇后がお見せあそばされると、「似ておりますようですが、これは見るからにひどい様子でございますようです。また、『翁まろ』と呼べば、喜んでくるものを、呼んでも寄ってきません。違うように見えます。『翁まろは打ち殺して捨ててしまいました』とちゃんと申しました。ああいた者が二人で打ちますなら生きおおせましょうか」と申し上げるので、皇后さまは心苦しいことだとお思いあそばされる。◆◆
暗うなりて、物食はせたれど、食はねば、あらぬものに言ひなしてやみぬるつとめて、御けづり櫛にまゐり、御手水まゐりて、御鏡持たせて御覧ずれば、候ふに、犬の柱のもとについゐたるを、「あはれ昨日翁まろをいみじう打ちしかな。死にけむこそかなしけれ。何の身にか、このたびはなりたらむ。いかにわびしき心地しけむ」とうち言ふほどに、この寝たる犬ふるひわななきて、涙をただ落としに落とす。いとあさまし。「さは、これ翁まろこそありけれ。昨夜は隠れしのびてあるなりけり」と、あはれにくくて、をかしきこと限りなし。御鏡をもうち置きて、「さは、翁まろ」と言ふに、ひれ伏して、いみじく鳴く。
◆◆暗くなって、物を食べさせたけれど、食べないので、別な犬だと言い決めて、そのままで終わってしまった翌朝、皇后さまの御調髪に参上し、お手洗の水をおつかいあそばして、わたくしに御鏡を持たせて御髪の様子をご覧あそばすので、おそばにお付き申しあげていると、犬が柱のもとにうずくまっているので、わたしが、「ああ、きのう翁まろをひどく叩いたのだわねぇ。多分死んでしまっただろうが、ほんとうにかわいそうだこと。いったい何の身に今度はなっているかしら。どんなにつらい気持ちがしたことだろう」とふと言っている間に、この寝ている犬がぶるぶる震えて、涙をぽろぽろひたすら流す。ひどく意外である。「それでは、これこそ翁まろだったのだ。昨夜は隠れて我慢していたのだった」と、しみじみとその気持ちがにくらしい一方、またおもしろいことは限りもない。持っていた鏡もうち置いてわたしが、「それでは、翁まろなの」と言うと、ひれ伏して、ひどく鳴く。◆◆
■右近=右近の内侍。主上付きの女房だが、定子皇后の信任も厚かったらしい。
「忠隆、実房なむ打つ」と言へば、制しにやるほどに、からうじて鳴きやみぬ。「死にければ、門のほかに引き捨てつ」と言へば、あはれがりなどする夕つかた、いみじげに腫れ、あさましげなる犬の、わびしげなるが、わななきありけば、「あはれ、翁まろか。かかる犬やはこのごろは見ゆる」など言ふに、「翁まろ」と呼べど、耳にも聞き入れず。「それぞ」と言ひ、「あらず」と言ひ、口々申せば、「右近ぞ見知りたる。呼べ」とて、しもなるを、「まづ、とみの事」とて、召せば、まゐりたる。
◆◆「忠隆と実房が打っている」と言うので、止に人をやるうちに、どうやらようやく鳴きやんだ。「死んだので、門の外に引っ張っていって捨てた」というので、可哀そうだと思っている夕方、ひどい様子に腫れあがり、あきれるまでの姿をした犬が、気力を失った様子で、ぶるぶる震えて歩き回っているので、「まあ、翁まろかしら。でもこの犬はいまごろいるはずがない」などと言うので、「翁まろ」と呼ぶけれど、耳に聞き入れもしない。「翁まろだ」と言い、「そうではない」とも言い、口々に申すので、皇后様は「右近が見知っている。呼べ」ということで、自分の部屋に下がっていたのを、「何をさておいても、急用だ」と言って、お呼び寄せにあそばすので、参上しました。◆◆
「これは翁まろか」と見せさせたまふに、「似てはべるめれど、これはゆゆしげにこそはべるめれ。また、『翁まろ』と呼べば、よろこびてまうで来るものを、呼べど寄りて来ず。あらぬなンめり。『それは打ち殺して捨てはべりぬ』とこそ申しつれ。さる者どもの二人して打たむには生きなむや」と申しば、心憂がらせたまふ。
◆◆「これは翁まろか」と定子皇后がお見せあそばされると、「似ておりますようですが、これは見るからにひどい様子でございますようです。また、『翁まろ』と呼べば、喜んでくるものを、呼んでも寄ってきません。違うように見えます。『翁まろは打ち殺して捨ててしまいました』とちゃんと申しました。ああいた者が二人で打ちますなら生きおおせましょうか」と申し上げるので、皇后さまは心苦しいことだとお思いあそばされる。◆◆
暗うなりて、物食はせたれど、食はねば、あらぬものに言ひなしてやみぬるつとめて、御けづり櫛にまゐり、御手水まゐりて、御鏡持たせて御覧ずれば、候ふに、犬の柱のもとについゐたるを、「あはれ昨日翁まろをいみじう打ちしかな。死にけむこそかなしけれ。何の身にか、このたびはなりたらむ。いかにわびしき心地しけむ」とうち言ふほどに、この寝たる犬ふるひわななきて、涙をただ落としに落とす。いとあさまし。「さは、これ翁まろこそありけれ。昨夜は隠れしのびてあるなりけり」と、あはれにくくて、をかしきこと限りなし。御鏡をもうち置きて、「さは、翁まろ」と言ふに、ひれ伏して、いみじく鳴く。
◆◆暗くなって、物を食べさせたけれど、食べないので、別な犬だと言い決めて、そのままで終わってしまった翌朝、皇后さまの御調髪に参上し、お手洗の水をおつかいあそばして、わたくしに御鏡を持たせて御髪の様子をご覧あそばすので、おそばにお付き申しあげていると、犬が柱のもとにうずくまっているので、わたしが、「ああ、きのう翁まろをひどく叩いたのだわねぇ。多分死んでしまっただろうが、ほんとうにかわいそうだこと。いったい何の身に今度はなっているかしら。どんなにつらい気持ちがしたことだろう」とふと言っている間に、この寝ている犬がぶるぶる震えて、涙をぽろぽろひたすら流す。ひどく意外である。「それでは、これこそ翁まろだったのだ。昨夜は隠れて我慢していたのだった」と、しみじみとその気持ちがにくらしい一方、またおもしろいことは限りもない。持っていた鏡もうち置いてわたしが、「それでは、翁まろなの」と言うと、ひれ伏して、ひどく鳴く。◆◆
■右近=右近の内侍。主上付きの女房だが、定子皇后の信任も厚かったらしい。