永子の窓

趣味の世界

枕草子を読んできて  (9)

2017年12月30日 | 枕草子を読んできて
三   正月一日は   その2  (9) 2017.12.30

 八日、人々よろこびして走りさわぐ車の音も、常よりはことに聞こえて、をかし。
◆◆八日、叙位で加階した人々であろう、お礼を申し上げに走りさわぐ車の音も、いつもよりは違って聞こえて、おもしろい。◆◆



 十五日は餅かゆの節供まゐり、かゆの木ひき隠して、家の子の君達、若き女房のうかがふ、打たれじと用意して、常にうしろに心づかひしたるけしきもをかしきに、いかにしてけるにかあらむ、打ち当てたるは、いみじう興ありと、うち笑ひたるも、いとはえばえし。ねたしと思ひたるも、ことわりなり。
◆◆十五日は餅かゆのお食事を主上に差し上げ、一方、貴族の家では、かゆの木を隠して、一族の姫君たちや若い女房がうかがっているのを、打たれまいと用心して、いつも後ろに心を配っている様子もおもしろいのに、いったいどうしてやったものだったのであろうか、うまく打ち当てているのは、とてもおもしろいと、皆で笑っているのも、たいへん引き立って華やかな感じがする。くやしいと打たれた人が思っているのも、もっともである。◆◆



 去年よりあたらしうかよふ婿の君など内へまゐるほどを、心もとなく、所につけてわれはと思ひたる女房ののぞき、奥の方にたたずまふ。御前にゐたる人は心得て笑ふを、「あなかま、あなかま」とまねきかくれど、君見知らず顔にて、おいらかにてゐたまへり。「ここなるもの取りはべらむ」など言ひ寄り、走り打ちて逃ぐれば、ある限り笑ふ。男君も、にくからず愛敬づきてゑみたる、ことにおどろかず顔すこし赤みてゐたるもをかし。また、かたみに打ち、男などをさへ打つめる。いかなる心にかあらむ、泣き腹立ち、打ちつる人をのろひ、まがまがしく言ふもをかし。内わたりなどやんごとなきも、今日はみな乱れたるかしこまりなし。
◆◆去年から新しく姫君の家に通うようになった婿の君などが、そのお邸から宮中へ参内する時刻なのを、待ち遠しがって、それぞれの家で得意顔で幅をきかせている女房が、今か今かとのぞいて、奥の方にたたずみつづけている。姫君の御前に座っている女房は、気づいて笑っているのを、「しっ、しずかに」と手まねで知らせるけれども、姫君は気づかない様子で、おっとりとして座っていらっしゃる。「ここにあるものを取りましょう」などと言って近寄って、走って姫君の腰を打って逃げると、そこにいる人々はこぞって笑う。男君も、かわいらしく愛想よい様子でにこにこしているのが、特別に驚きもせず顔が少し赤らんで座っているのも、おもしろい。また女房同士がお互いに打ち、男性などをまで打つようであるよ。いったいどういう気持ちなのであろうか。泣いて腹を立て、打った人をのろい、不吉なまでに言うのもおもしろい。宮中あたりなどの尊い所でも、今日はみなうちとけて乱れていることについてのお咎めはない。◆◆



 除目のほどなど内わたりはいとをかし。雪降り氷りなどしたるに、申文持てありく四位五位、わかやかに、心地よげなるは、いとたのもしげなり。老いて頭白きなどが、人にとかく案内言ひ、女房の局に寄りて、おのが身のかしこきよし、心をやりて説き聞かするを、若き人々はまねをして笑へど、いかでかは知らむ。「よきに奏したまへ」など言ひても、得たるはよし、得ずなりぬるこそ、いとあはれなれ。
◆◆除目のころなど、宮中のあたりはとてもおもしろい。雪が降り凍ったりしている時に、上申の手紙などを持ってあちこちしている四位や五位の人の、若々しく、心地さわやかに元気がよさそうなのは、とても頼もしい様子に見える。だが、年とって頭の白い人などが、人に何やかやと自分の内情を話して頼み、女房の局に寄って、自分の身の立派である由来を、いい気になって説明して聞かせるのを、若い女房たちはまねをして笑うのだけれど、本人はどうして知ろうか。「どうぞよろしく主上に申し上げてくださいませ」などと言って、それでも、思いの官を得ているのはよい。得ないでしまったのこそは、ひどく気の毒である。◆◆ 


■餅かゆの節供まゐり=正月十五日望(もち)の日に七種の穀物の粥を食べて邪気を払う。節日に奉る供御(食事)。

■かゆの木=粥を煮た焚き木を削ったもので腰を打つと男児を懐妊するという。

■除目(じもく)=官吏任命の儀式。前官の名(目)を除き当任の名を記すの意。毎年春秋二回行われたが臨時のもあった。ここは春の除目。正月九日から三日間行われるのが古例だが、一定していない。

■申文(もうしぶみ)=任官を申請する文書。
                  

枕草子を読んできて (8)

2017年12月27日 | 枕草子を読んできて
三   正月一日は   その1  (8)  2017.12.27

 正月一日は、まして空のけしきうらうらとめづらしく、霞みこめたるに、世にある人は、姿、かたち心とにつくろひ、君をもわが身をもいはひなどしたる、さまことにをかし。
◆◆正月一日は、まして空のようすはうららかにいつもと変わって清新な感じで、あたりのものを、霞んでこもらせている折から、世の中にいる人はだれでも、身なりや顔を念入りにつくり飾って、主君をも自分の身をも祝いなどしているのは、いつもは見られない様子で、たいへんおもしろい。◆◆



 七日、雪間の若菜摘み青やかに、例は、さしも、さるもの目近からぬ所に、もてさわぎ、白馬見むとて、里人は車清げにしたてて、見に行く。中御門の戸閾、引き出づるほど、頭ども一所にまろびあひて、さし櫛も落ち、よそいりなど、わづらふもをかし。
◆◆七日、雪の間からのぞいている若菜摘みは、青々としていて、普段は、そんなに、そうした見慣れりしているわれわれは牛車をきれいに装い立てて、見に行く。その牛車を待賢門(たいけんもん)のしきいのところで、引き出す時に、みなの頭がひとところにぶつかりころがり合って、挿し櫛も落ち、ヨソイリ(?)など苦しみ悩むのもおもしろい。◆◆



 左衛門の陣などに殿上人もあまた立ちなどして、舎人の馬どもを取りておどろかして笑ふ。はつかに見入れたれば、立蔀などの見ゆるに、立蔀などの見ゆるに、主殿司、女官などの行きちがひたるこそ、をかしけれ。いかばかりなる人、九重をならすらむと思ひやらるるに、うちにも、見るはいとせばきほどにて、舎人が顔のきぬもあらはれ、白きものの行きつかぬ所は、まことに黒き庭に雪のむら消えたる心地し、いと見苦し。馬のあがりさわぎたるも、おそろしくおぼゆれば、引き入れられてえよくも見やられず。
◆◆建春門の外側にある衛府の役人の詰所などに殿上人も大勢立ったりして、舎人の馬どもを取って、舎人をはっとさせて笑うのを、牛車の簾の隙間から、門内をちらっと覗き込んだところが、向うに立蔀などが見えるのに、そのあたりを主殿司(とのもりづかさ)や女官などが行ったり来たりしているのこそおもしろい。いったい、どれくらい前世からの果報にめぐまれたしあわせな人が、宮中をなれなれしくふるまっているのであろうかと自然はるかに想像されるのであるが、宮中でも、今見るのはたいへん狭い範囲で、舎人の顔の地肌も現れ、おしろいが行きわたらないところは、ほんとうに黒い土の庭に雪がまだらになって消えているような感じがして、とても見苦しい。馬が躍り上がってあばれているのも、恐ろしく感じられるので、自然に身体が車の中に引きいれられて、十分にも外を見ることができない。◆◆



■正月一日=宮中では四方拝、朝拝、節会など、一般には年始の礼がある。

■姿(すがた)=きちんと着物を着た様子。「そ(衣)型」の転かという。

■若菜つみ=七種の菜。なずな・はこべら・せり。なずな・ごぎょう・すずしろ・ほとけのざ。

■白馬(あをむま)=白馬の節会。馬は陽の獣、青は春の色で、正月七日に青馬を見ると、年中の邪気を除くという中国の習俗によって、当日宮中で天覧があった。青馬とは青白雑毛の馬なのでのちに白馬とも書いたとも、全くの白馬に代えられたので白馬と書いたともいう。

■中御門の戸閾(なかのみかどのとじきみ)=大内裏の東面の待賢門。

■よそいり=意味不明。

■立蔀(たてじとみ)=蔀のように格子の裏に板を張り、目隠しのため庭に立てるもの。

■主殿司(とのもりづかさ)=灯油・薪炭などを司る。

■女官(にょうかん)=命婦以上の上級の女官を「ニョカン」と呼ぶのに対し、下級のを「ニョウカン」と呼びならわすという。ここでは下級。

              

枕草子を読んできて(6)(7)

2017年12月23日 | 枕草子を読んできて
一  春はあけぼの   (6) 2017.12.23

 春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。
 夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ蛍とびちがひたる。雨などの降るさへをかし。

◆◆春はあけぼの。だんだん白んでゆく山ぎわが、少し明るくなって、紫がかった雲が細く横になびいているの。夏は夜がいい。月のあるころはいうまでもない、月のないころのやみもやはり蛍が入り乱れて飛んでいるのはいい。ふつう嫌われる雨などの降るのまでおもしろい。◆◆



 秋は夕暮れ。夕日花やかにさして山ぎはいと近くなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など。
◆◆秋は夕暮れがいい。夕日が華やかにさして山ぎわにたいへん近くなっている時に、烏がねぐらへ行くというので、三つ四つ二つなど、飛んで行くのまでしみじみとした感じがする。まして雁などの列を作っているのが、たいへん小さく見えるのは、たいへんおもしろい。日がすっかりはいってしまって、風の音や虫の音などがするのも。◆◆



 冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず。霜などのいと白く、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行けば、炭櫃、火桶の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。
◆◆冬は早朝がいい。雪が降った朝などは言うに及ばない。霜などがたいそう白く、またそうでなくてもたいへん寒い折に、火などを急いでおこして、炭火を持って廊下などを通るのも、折にかなっていていい。昼になって、だんだん寒気もうすらいでゆるむようになると、いろりや火鉢の火も、白い灰がちになってしまうのは、劣った感じがする。◆◆


■春はあけぼの=春は曙をかし、などの略。
■紫だちたる=今の赤紫色 
■をかし=明るく心楽しい感動を示す。
■あはれなり=しみじみとした感動をいう。
■つとめて=早朝。名詞。
■炭櫃(すびつ)=いろり。一説に角火鉢。
■わろし=「あし」が善悪に当たるのに対し、「わろし」は優劣に当たるという。見劣りがする。




二   ころは   
 
 ころは、正月、三月、四五月、七八月、九十一月、十二月。すべてをりにつけつつ、一年ながらをかし。
◆◆ころは、正月、三月、四五月、七八月、九十一月、十二月。すべて季節季節に応じて、一年そっくりおもしろい。◆◆



枕草子を読んできて  (4)(5)

2017年12月19日 | 枕草子を読んできて
枕草子を読んできて 読む前に (4)(5) 2017.12.19

「作品の背景について」その2  (4)

 作者が定子のもとに出仕してから一年半ほどたった長徳元年(995)四月十日、定子の父の関白道隆は病没した。この後継者の座をだれが占めるかということが、中宮の運命を決するのであった。大まかに言えば、道隆の息子と、道隆の弟との間でこの座は争われ、息子たちの側が敗退するに及んで、定子の悲運は決定的なものとなったのである。

 定子の兄伊周は内大臣であったが、帝の生母東三条院詮子の力によって、兼家の次男道兼が伊周を押しのけて関白となった。ところがわずか十日ほどのちの五月八日に、疫病のために道兼も病没し、この折にも伊周は敗れて、五月十一日に道長に内覧の宣旨が下ったのである。
 
 以後、道長の伊周らに対する攻撃ははげしいものとなり、長徳二年(996)花山院に対して従者が矢を射かけ奉った、という罪状をもって、伊周は太宰の権の帥に、その弟のう隆家は出雲の権の守として宮中から追われることとなる。
 
 中宮定子も宮中から、里邸である二条の宮に移られた。このころ清少納言は、道長方の人であるということで中宮の女房たちから敵視され、しばらく里に籠っていたらしい。
 
 更に六月八日には里邸二条の宮が焼失し、中宮は二条の高階明順の邸に移られるなどの不幸があった。
十月には定子の母貴子が心痛の中に世を去ってしまう、といった悲しみにたえて、中宮は十二月に第一皇女脩子を出産された。

                  


「作品の背景について」その3  (5)

 長徳三年(997)大赦によって伊周、隆家は罪を赦されて入京したが、すでに昔日の面影はなくなっていた。しかし中宮も宮中に帰り、職の御曹司にはいられ、清少納言もお供をした。一条天皇のもとには数人の女御が次々入内するのであるが、てんのうとしては中宮定子を最も寵愛しておられたようである。
  
 長保元年(999)十一月七日、中宮は大進生昌(だいじんなりまさ)の家で第一皇子敦康親王を出産された。これより先十一月一日に入内した道長のむすめ彰子は、この敦康親王生誕の同日に女御となった。
 
 長保二年(1000)二月には、定子は皇后に、彰子は中宮となって、彰子の力はついに定子の存在をおびやかすものとなる。同年十二月十五日、皇后となった定子は第二皇女を御産になったが、翌十六日、二十四歳(または二十五歳)の短い生涯を閉じた。

  以上のように、ほぼ八年ほどの作者の宮仕えの中で、光輝にあふれた後宮であった時期はわずか一、二年にすぎない。この明暗の時期を宮仕え前期、宮仕え後期と呼び分けることもあるが、確かにこの面から作品を細かく読み分けることは必要な手続きであろう。ただし描かれた記事の年時と、それを回想して執筆した年時とは当然へだたりがあることが多く、また、ほとんどこうした年時の手がかりのない段が大部分でもある。したがってわれわれとしては、なぜこうした暗さが見られないのかという疑問にまたも立ち帰らざるを得ないのである。


枕草子を読んできて 作品の背景その1

2017年12月15日 | 枕草子を読んできて
「作品の背景について」その1  (3) 2017.12.15
 
作者の仕えた定子中宮なくして、『枕草子』は生まれ得なかったであろう。
平安中期に藤原兼家が政権をとるに及んで、藤原氏の位置は不動のものとなった。更に、兼家の長子道隆が関白となってからは、この一門は政治の中枢を占めると同時に、当時の文化全体をになう立場に置かれることともなって、まさに全盛をきわめたのである。
 
この道隆の一門を、同じ兼家の息でも道兼や道長の家と区別して、中関白家と称している。その道隆のむすめである中宮定子は、こうした中関白家の栄華と権威とを土台として、一条天皇ののとに入内したのであるが、むしろ定子の入内によって中関白家の基盤は定まったと表現すべきかもしれない。
 
こうした場合問題となるのは、中宮その人の資質のいかんであるが、幸いにも定子は稀にみる
お最高の美質を備えた女性であったからである。その中宮のもとに、清少納言は宮仕えしたのである。
 
ところが、宮仕え後、しばらくして不幸にも道隆は病没し、これを契機として中関白家は没落の一途をたどることになる。ついには道長の勢力に押しひしがれた形のうちに、定子は二十四歳の生涯を閉じ、それと同時に『枕草子』の中宮をめぐる記事にも終止符が打たれた。「をかし」や「めでたし」の語に代表される、中宮に対する明るく快い感動や賛美が全体の色調であって、われわれは主として外側の他の資料から、上述したような政治的な暗い背景を知らせれてむしろ驚くのである。
 
まず定子中宮のこうした運命の変転をもう少し具体的に述べておこう。定子中宮は貞元二年(977)才学のほまれ高い高内侍(高階成忠のむすめ貴子)を母として生まれた。『枕草子』にみえる伊周、隆家、隆円、淑景舎女御原子、御匣殿などは同母のきょうだいである。
 
定子は正暦元年(990)十四歳の折に、十一歳の一条天皇のもとに入内したが、一条天皇も道隆の妹東三条院詮子を母としているので、いとこ同士ということになる。正暦四年初出仕説に従えば、作者は二十八歳前後のころに、約十歳年下の中宮に宮仕えしたわけである。



枕草子を読んできて(読む前に) 作者について1.2    2017.12.12

2017年12月12日 | 枕草子を読んできて
枕草子を読んできて
 
読む前に。  2017.12.12
 
参考文献:日本古典文学大系19 岩波書店刊行 『枕草子 紫式部日記』
     日本の古典12 小学館 『枕草子』一、二


「作者について」その1 (1)

『枕草子』の作者は、清少納言一人の女性である、という点については、今日ほとんど異論がないといってよかろう。しかしそれではその清少納言は、どのような生涯をたどったかということになると、この当時の女性の通例として必ずしも明らかではない部分が非常に多いのである。
(中略)
 しかし近年、『枕草子』をめぐるさまざまの研究が進むにつれて、そのおぼろげな輪郭はどうにかたどることができるようになってきた。そうした先賢の研究の成果の一端をふまえて、まず清少納言の生涯を概観しておきたい。
 清少納言の父は清原元輔である。元輔は延喜八年(908)に生まれ、正暦元年(990)に八十三歳で没した。官位は肥後の守どまりでさほど高くはなかったが、和歌所寄人の一人として『後撰和歌集』の撰う進にあずかり、また『万葉集』に訓点をほどこす仕事にたずさわりなどして、歌人としては著名な人であった。また軽快洒脱で自在な人柄であった。そうした面は清少納言にもそのままあらわれているようである。母については全く不詳といってよい。
(中略)
 清少納言は康保三年(966)に生まれたものと推定されている。父元輔はすでに五十九歳であった。天元四年(981)、橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、翌五年二人の間に一子則長が誕生したものと考えられる。十六、十七歳のころのことである。(中略)二人は間もなく別れ、その後は「いもうと」「せうと」といった義兄妹の間柄として親しく交際していたらしい。



                    
「作者について」その2  (2)
定子の許に出仕したのは正暦四年(993)のころであろう。この年作者は二十八歳、女房としてはかなり年かさであった。中宮定子よりほぼ十歳年上ということになる。
「清少納言」なる呼名は、宮仕えに出仕することによって与えられた女房名である。はどうして宮仕えするに至ったのであろうか。その動機に関しても直積的な資料はもとより残されてはいないが、やはり『枕草子』の内容から作者側におけるその素地のようなものが窺えるようである。
中宮側における何らかのを契機として宮仕えを実現に至らしめたものであろう。これより以前、正暦元年六月に、父元輔は八十三歳で没している。このとき清少納言は二十五歳前後であった。父の死や則光との結婚生活の失敗を宮仕えに踏み切った原因とみる説もある。
清少納言は、長保二年(1000)十二月十六日、中宮定子崩御まで宮仕えをつづけていたことはほぼ確実である。以後宮仕えの生活はなかったとみてよいであろう。
そののちの、晩年の清少納言に関しては、もとより資料に乏しいのであるが、全体としてさびしい姿がうかがわれるようである。孤独な晩年を伝える歌がわすかに見えている。『清少納言集』に拠ると、一時摂津国に住んでいたらしいが、晩年は京都の郊外の月の輪に居住していた模様である。没年はもとより不明というよりほかない。



蜻蛉日記を読んできて(次回のお知らせ)

2017年12月09日 | Weblog
蜻蛉日記を読んでくださっているみなさまへ。

12月中旬から、タイトル「枕草子を読んできて」を掲載します。
通読するのは私もはじめてです。ご一緒によんでいきましょう。
こんごともよろしくお願いいたします。