永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(607)

2009年12月31日 | Weblog
09.12/31   607回

三十九帖 【夕霧(ゆうぎり)の巻】 その(22)

 小少将は、

「上にこの御事ほのめかし聞こえける人こそは侍るべけれ。いかなりし事ぞと問はせ給うつれば、ありのままに聞こえさせて、御障子の固めばかりをなむ、少し事添へて、けざやかに聞こえさせつる。もし然やうにかすめ聞こえさせ給はば、同じさまに聞こえさせ給へ」
――母君に昨夜のことをそれとなくお知らせした人がいるのでしょう。どうした訳かと私にお尋ねになりましたので、ありのまま申し上げて、襖を閉じておられたことだけを少し付け加えて、はっきりと申し上げました。母君がそれとなくおっしゃいましたなら、私が申し上げましたようにお答えくださいませ――

 とだけお耳にお入れして、御息所が歎いておられるご様子は申し上げずにおきます。

 落葉宮は、

「さればよといとわびしくて、物も宣はぬ御枕より雫ぞおつる。この事にのみもあらず、身の思はずになりそめしより、いみじう物をのみ思はせ奉る事と、生けるかひなく思ひ続け給ひて、この人はかうても止まで、とかく言ひかかづらひ出でむも、わづらはしう聞き苦しかるべう、よろづに思す。」
――やはり、その事なのかと非常に辛くて、ものもおっしゃれずに御枕から涙がしたたり落ちます。今度の事ばかりではなく、亡き柏木と結婚して不運な身の上になり始めてから、母君にはご心配ばかりお掛けすることよ、と、生きる甲斐もなく思い続けられて、あの夕霧は今後もきっと思い切ることなく言い寄って来ようが、それも面倒で人聞きの悪い事と、あれこれお思いになっております――

「まいて、いふかひなく、人の言によりて、いかなる名を朽たさましなど、すこし思しなぐさむる方はあれど、かばかりになりぬる高き人の、かくまでもすずろに人に見ゆるやうはあらじかし、と、宿世憂く思し屈して」
――まして、気弱く夕霧の言葉に従っていましたなら、どんなに悪い評判が立つことでしょう。せめて潔白であったことが気休めにはなりますものの、内親王という身でありながら、不用意に男に遭うなどということはあってはならないことなのに、不運なことよ、と、情けなく――

 思い沈んでおられますと、夕方になって御息所から、「やはりお出でいただきとうございます」と御催促がありましたので、宮は、中の塗籠の戸を両方からそっと開けて御息所のお部屋に行かれました。

◆敬語:この物語の時代では、身分的には母君御息所より娘の内親王(落葉宮・朱雀院の姫宮)の方が上位ですので、「やはりお出でいただきとうございます」というお話のように、万事に敬意を表します。現代では、皇室には見られますが、通常では違和感がありますね。この物語では「敬語」は、非常に大事な身分関係と文脈を表します。

◆1/1~1/3までお休みします。では1/4に。

源氏物語を読んできて(606)

2009年12月30日 | Weblog
09.12/30   606回

十九帖 【夕霧(ゆうぎり)の巻】 その(21)

 小少将は、ご病気の御息所に、何もあのようにはっきりと申し上げずとも、と後悔して、「襖は固く鍵を鎖しておられました」と、ご安心のいくように取り繕って申し上げますが、御息所は、

「とてもかくても、然ばかりに、何の用意もなく、軽るらかに、人に見え給ひけむこそ、いといみじけれ。内々の御心清うおはすとも、かくまで言ひつる法師ばら、よからぬ童べなどは、まさに言ひ残してむや。人には、いかに言ひあらがひ、然もあらぬ事と言ふべきにかあらむ。すべて心幼き限りしも、ここに侍ひて」
――何にしても、それほど不用意に軽々しく夕霧にあわれた事は、申しようもないことです。内々では潔白でいらっしゃると分かっていても、夕霧大将がここから出て行かれたなどと、はっきり言ってのけた法師たちや、口さがない童などが、どう言葉を慎むでしょうか。世間の人にどう言い訳ができますか。そうでないという証拠を立てることができましょうか。まったく気の利かない者たちばかりが此処に居て――

 と、余りの悲しさに最後までお話になれません。ご病気の上にご心配と驚きが重なりましたので、いっそうお辛そうでいらっしゃる。御息所は落葉宮を、いつまでも内親王らしく上品にもり立てようとしておられましたのに、男との関係で浮名が立ちそうなのを、ひとかたならず歎いていらっしゃる。それから、落葉宮にこちらのお部屋に来るようにと、涙を浮かべながら小少将にお言いつけになりました。

「渡り給はむとて、御額髪の濡れまろがれたる、ひき繕ひ、単衣の御衣ほころびたる、着かへなどし給ひても、とみにもえ動い給はず。(……)」
――(落葉宮は)母君のところへお出でになろうとして、御額髪が涙にぬれて固まってしまわれたのを直し、単衣のお召し物の、昨夜のたるんでいますのを着替えなどなさっても、急にはお立ちになれません。(侍女たちはどう思っているかしら。母君も昨夜のことを聞かれたのなら、私が何も申し上げないことに何と思われていることか。ああそれにしても大変恥ずかしい)――

 そのまま、又臥せっておしまいになります。そして侍女たちに、

「心地のいみじうなやましきかな。やがて治らぬさまにもなりなば、いとめやすかりぬべくこそ。脚の気の上りたる心地す」
――気分がひどく悪いこと。このまま治らずになればどんなに良いでしょう。脚気の熱が頭にまで上ってきたようです――

 と、小少将に脚をさすり下ろさせなさる。宮はいろいろ物思いなさると、のぼせる性質でした。

◆脚の気(あしのけ)=足の病気、主に脚気。ビタミンB1欠乏による栄養失調。脚がむくみだるい。平安の貴族は生鮮食料品摂取が少なく、その上、白米を食していた。B1は胚芽などに含まれているので、庶民の玄米食の方が健康的であった。

ではまた。


源氏物語を読んできて(僧の社会④)

2009年12月30日 | Weblog
僧の社会(4)
 
 源信のような学僧ではないが、正規の寺院を離れて遍歴したり、一人で谷に庵を結んだりして勤行する僧を「聖(ひじり)」と呼んだ。長い修業のうちに、病気治癒の霊験を得たとされる者が多く、若紫の巻の北山の聖のように、わざわざ光源氏が尋ねて行ったり、柏木の病床に招かれたりする者もある。

 これらの人々は、多く孤立して隠棲していたが、ときには集団をなすこともある。比叡山の麓の大原などは「別所」といって、後には法然らを育てた。当時の実在の聖としては、紫式部の一時代前に「市の聖」と呼ばれた空也上人が著名である。    
 比叡山延暦寺の統括者を座主(ざす)、山の座主(やまのざす)といった。朝廷と比叡山の関係が深まる中で、座主も次第に貴族の子弟が占めるようになり、紫式部の頃には、摂関家の子弟が選ばれ、宗門と権門の密着は極まった感があり、源信や聖が輩出する条件は十分熟していた。   参考:源氏物語手鏡


◆写真:僧侶素絹五條袈裟姿
 素絹は僧侶の国家の祭祀の為に参内時等、仏教本来の壊色(えじき)を排として清浄の衣とし、平安時代に創案されたもの。その形は天皇の御斎衣と近く、そのちがいは御斎衣が円領となり、素絹は垂領となっている。  風俗博物館より


源氏物語を読んできて(605)

2009年12月29日 | Weblog
09.12/29   605回

三十九帖 【夕霧(ゆうぎり)の巻】 その(20)

 御息所はつづけて、「昨夜は、わたしが気分が悪く、『それでは少しお待ちします』、とおっしゃったのでお泊りになったのでしょう。あの方は真面目で堅い方ですもの」とおっしゃりながらも不審に思われて、お心の内では、

「さる事ももやありけむ、ただならぬ御気色は、折々見ゆれど、人の御様のいとかどかどしう、あながちに人の誹りあらむことは省きすて、うるはしだち給へるに、たはやすく心ゆるされぬ事はあらじと、うちとけたるぞかし、人少なにておはする気色を見て、這い入りもやし給ひけむ、」
――そんなことがあったのかも知れない。何となく懸想じみたご様子が見えないでもなかったけれど、夕霧大将のお人柄がしっかりしていらして、努めて人から非難されるような事は避け、真面目に振る舞っていらっしゃるので、まさかこちらの信頼につけ入るようなことはなさるまいと、油断しておりました。山荘ですので侍女や使用人も少なく、それをご存知で忍び込まれたのであろうか――

 阿闇梨がお帰りになってから、御息所は小少将(こしょうしょう=御息所の甥の妹)を召され、昨夜何があったのかを詰問なさる。小少将は御息所に初めからのありようや、今朝の御文や、落葉宮のお言葉などを申し上げます。

「年頃忍びわたり給ひける心の中を、聞こえ知らせむとばかりにや侍りけむ。有難う用意ありてなむ、明かしも果てで出で給ひぬるを、人はいかに聞こえ侍るにか」
――ここ何年も、お心に秘めておられたことをお知らせしようという事でしたでしょう。とても慎み深くお気を使って、夜も明けないうちにお帰りになりましたのを、人はどのように申し上げたのでしょうか――

 と、まさか阿闇梨が申し上げたとは知らず、小少将は他の侍女がそっとお知らせでもしたのかと思うのでした。御息所はご病気の上に、このようなご心配まで加わってひどくお苦しみのご様子で、涙をほろほろとこぼされたのでした。
 
◆うるはしだち給へる=麗しだつ=取り澄ました様子。生真面目に振る舞う。

◆這い入りもやし給ひけむ=這い入り・も・や・し給ひけむ=忍び込みなさったのか。「も」は強調。「や」は反語。

ではまた。


源氏物語を読んできて(僧の社会③)

2009年12月29日 | Weblog
僧の社会(3)
 
 こうした宗教界の堕落に見切りをつけて、既成の寺院に属さないで、山奥へ入り込んで修業をつづける僧も少なくなかった。叡山でいえば、まず根本中堂のある東塔が開けたが、そこを捨てた僧が西塔を開き、さらにその奥の横川に籠り下界には降りないということになる。

 これからの『源氏物語』の「手習の巻」に出てくる横川の僧都(よかわのそうず)は、実在の横川の恵心院にいた源信僧都をモデルにしたと言われている。源信は恵心僧都とも呼ばれ、紫式部と同時代人で、彼女よりも長く生きた。式部の幼少の頃には、すでに『往生要集』を発表していたと思われる。彼女が出仕した寛弘二.三年ごろは、道長が病に罹り、源信を招こうと使いを送ったものの、応じず、まもなく少僧都も辞し、以後道長の日記に彼の名はあらわれない。

 源信は長い籠山・著述をつづけ、最後まで貴族には近づかなかった。
                       ◆参考『源氏物語手鏡』より

◆写真:法親王球代五條袈裟姿
 
 平安時代の僧服には、法会用法服装束と、国家行事の儀式に用いる鈍色装束、ならびに平常家居、宿直(とのい)の用としての宿装束、それに加行(げぎょう)の律(りつ)装束が用いられた。     風俗博物館より


源氏物語を読んできて(604)

2009年12月28日 | Weblog
09.12/28   604回

三十九帖 【夕霧(ゆうぎり)の巻】 その(19)

 阿闇梨は「追い風に、薫きしめたお香のかおりで頭痛がするくらいでしたので、ああ夕霧大将だと、得心したわけです」と、つづけて、

「この事いと切にもあらぬことなり。人はいと有職にものし給ふ。なにがし等も、童にものし給うし時より、かの君の御為の事は、修法をなむ、故大宮の宣ひつけたりしかば、一向にさるべきこと、今に承る所なれど、いと益なし」
――夕霧大将をお通わせなさるなど、まったくもって、とんでもないことです。あの方は大そうな有職(ゆうそく=知識人)でいらっしゃる。私なども御幼少の頃からあの方の御為には、加持を故・祖母君の仰せつけで、専らそのほうの御用を今も承っておりますが、それにしましても困ったことです――

「本妻強くものし給ふ。さる時にあへる族類にて、いとやむごとなし。若君たちは七、八人になり給ひぬ。え皇女の君おし給はじ」
――何しろ、後本妻の雲井の雁がしっかりしておられます。ご実家はあれほどの当代一流の権門でいらっしゃって、大したものです。たしか、男のお子たちが七、八人いらっしゃるとか。内親王であられます落葉宮でも、雲井の雁の上にお立ち出になることはご無理でしょう――

 阿闇梨はつづけて、

「また女人の悪しき身をうけ、長夜の闇に惑ふは、ただかやうの罪によりなむ、さるいみじき報いをも受くるものなる。人の御怒り出できなば、長きほだしとなりなむ。専らうけひかず」
――また女性が罪深い身に生まれ、あの世で永劫に成仏できないのは、ただこうした愛欲の罪によって、そのような悪い報いを受けるものなのです。ご本妻のご嫉妬が生じましたなら、永劫の罪障となるでしょう。全く私は賛成できませんな――

 と、頭を振って、遠慮もなく言ってのけますので、御息所は、

「いとあやしき事なり…」
――それは、おかしなお話ですこと…――

◆族類(ぞうるい)=一族

◆長夜(ちょうや)の闇に惑ふ=救いようの無い永劫の罪障

ではまた。



源氏物語を読んできて(僧の社会②)

2009年12月28日 | Weblog
僧の社会(2)
 
 僧正、僧都などは、学徳や修業の優れた者を各宗門から推挙するが、決定は太政官なので、自然に高官貴族との縁の深い者は有利で、貴族の加持・祈祷に呼ばれたり、朝廷や摂関家の法会の役僧に任命されたりするのを、最も名誉とするようになった。藤原道長に追従して、政敵の定子皇后御産の祈祷を、仮病をつかって断った高僧もいたという。

 霊験のあらたかな僧は権門が競って招聘し、お布施には、米、絹、法衣をはずんだので、僧は物欲強く、仲間同士の競争も激しかった。ある権門の法事の導師になりそこねた僧正の弟子たちが、相手のところに乱入する事件も記録にあり、陰湿なところもあったようだ。  ◆参考『源氏物語手鏡』より

◆写真:僧侶鈍(純)色五條袈裟姿
 鈍色は平安時代に創案された無紋単の白の法衣で、衣服令の礼服(らいふく)に近い袍裳(ほうも)は、位階に応ずる当色であったが仏教が日本古俗に融合し日本仏教を成立させる時、神道的行事にふさわしいものとしてつくられた。風俗博物館より。


源氏物語を読んできて(603)

2009年12月27日 | Weblog
09.12/27   603回

三十九帖 【夕霧(ゆうぎり)の巻】 その(18)

「物の怪にわづらひ給ふ人は、重しと見れど、さわやぎ給ふ隙もありてなむ、物おぼえ給ふ」
――物の怪に患っていらっしゃる方(御息所)は、正気を失うほどかと思いますと、ご気分の良い時もありますようで、今は正気に返られたようです――

 昼の頃、日中の御加持が済んだ後、阿闇梨が一人残って、なお、陀羅尼を読んでおります。御息所の快方に向かわれましたのを喜んで、申し上げますには、

「大日如来虚言し給はずは、などてか、かくなにがしが心をいたして仕うまつる御修法に、験なきやうはあらむ。悪霊は執念きやうなれど、業障にまつはれたる、はかなきものなり」
――大日如来が偽りを仰せにならないからこそ、私が心を尽くしてお勤め申し上げます御修法に験(しるし)があるというものです。悪霊は執念深いようですが、もともと自分の罪障に纏わりつかれているつまらぬ者どもなのです――

 と、声もかすれるほどに物の怪を叱りつけております。この阿闇梨は仙人めいて至って飾り気のない人で、それが突然、

「そよや。この大将は、いつよりここに参り通ひ給ふぞ」
――そうそう、あの夕霧大将は、いつからこの宮にお通いですかな――

 びっくりなさった御息所は、「婿の柏木亡きあと、故人が頼んで行かれた約束に背くまいと、あの夕霧大将は、年来何かにつけてお世話くださり、私へのお見舞いにもお立ち寄りくださったので、ほんとうに有難いと思っているのですが…」とおっしゃいますと、阿闇梨は、

「いであなかたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。今朝後夜に参うのぼりつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしき男の出で給へるを、霧深くて、なにがしはえ見わい奉らざりつるを、この法師ばらなむ、大将殿の出で給ふなりけり、昨夜も御車もかへして泊まり給ひにける、と口々申しつる。…」
――いやはや、私にお隠しになる必要はございません。今朝、後夜(ごや)のお勤めに参上しました折、あの西の妻戸からたいそうご立派な男の方がお立ち出でになりましたのを、霧が深くて私はどなたとも見分けがつかなかったのですが、供の法師どもが、「大将がお帰りになるようだ。昨夜も御車を帰されてお泊りになりました」と口ぐちに申しておりましたので…。――

◆業障にまつはれたる=貪欲、瞋恚(しんい=怨み怒り)、愚痴、の惑いの為に、仏果が得られず迷っている。つまり物の怪自身が、自分の罪障に纏わりつかれている。

ではまた。

源氏物語を読んできて(僧の社会①)

2009年12月27日 | Weblog
僧の社会(1)
 
 奈良時代の南都七大寺の影響力を逃れようと、山城の国(京の都)に遷都いたといわれるほどだが、藤原時代にもなると、叡山や東寺の僧の勢力は侮りがたく、貴族生活の内部に深くかかわりを持ってくる。

 すでに僧尼の数も多く、独自の社会を形成していたので、朝廷は秩序維持のため、僧侶の官職を制定し任命していた。これを僧綱(そうごう)という。僧正、僧都(そうず)、律師がある。

僧正には、大僧正、僧正、権僧正。
僧都には、大僧都、権大僧都、僧都、少僧都、権少僧都。
律師
阿闇梨(あじゃり、あざり)=弟子を指導し、経文を教授する律師に次ぐ高官。
◆参考『源氏物語手鏡』より

◆写真:僧侶袍裳七條袈裟姿
 法服ともいわれ、法衣として最高の儀式服。養老の衣服令の礼服(らいふく)の系列をひく。袍裳は同色同裂で、袍の襟は僧網襟といわれる広襟を頭の背後で方立(ほうたて)にした形式、これは本来僧網(そうごう)職にのみ許されたものであった。    風俗博物館より。

源氏物語を読んできて(602)

2009年12月26日 | Weblog
09.12/26   602回

三十九帖 【夕霧(ゆうぎり)の巻】 その(17)

 落葉宮は、

「あやしう何心もなきさまにて、人にかばかりにても見ゆるあはつけさの、自からの過に思ひなせど、思ひ遣りなかりしあさましさも、なぐさめ難くなむ。え見ずとを言へ」
――思いがけぬことではあっても、ついうっかりしていて、ほんの少しでも人に姿を見せてしまった軽々しさは私の落度ですが、あの方の、あの無遠慮な呆れたお振舞いを思いますと、とても我慢ができません。この御文は拝見できないと、そう言いなさい――

 と、ひどく機嫌が悪く、臥せってしまわれました。
ところで夕霧のお手紙には、そう憎げもなく、心が込められていて、(歌)

「『たましひをつれなき袖にとどめおきてわが心からまどはるるかな』外なるものはとか、昔も類ありけりと思ひ給へなすにも、さらに行く方知らずのみなむ」
――「わたしの魂は、無情なあなたの袖に留めてきて、わが心からとはいえ、どうしてよいか分かりません」思案の外とか申すように、昔の人もこういう思いをした人があったのかと思ってみましても、いったい自分の心の行方が分かりません――

 などと綿々と書かれているようながら、侍女たちも遠慮がちのために、ところどころしかは拝見できませんが、どうも普通の後朝の御文(きぬぎぬのお文)とは違うようで、昨夜お二人がどうであったのかはっきりしません。
お側近く侍っています女房たちは、宮のご様子のお労しいのを嘆かわしくお見上げ申して、

「いかなる御事にかはあらむ、何事につけても、あり難うあはれなる御心ざまは、程経ぬれど、かかる方に頼み聞こえては、見おとりやし給はむ、と思ふもあやふく、など、睦まじうさぶらふ限りは、」
――いったいどういうことなのでしょう。夕霧の君は何かにつけて世にも稀なほどご親切にお世話してくださいますので、有難く思って年月を過ごして来ましたものの、夫としてお頼りするには、思った程ではないのかしら――

 などと、お互いに心配し合っています。御息所はこのことはゆめにもご存知ないのでした。

◆あはつけさ=軽々しい、浮ついている。

ではまた。