永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(1221)

2013年02月27日 | Weblog
2013. 2/27    122Ⅰ

五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その13

浮舟はさらに思い出すことは、

「いときよげなる男の寄り来て、『いざ給へ、おのが許へ』と言ひて、抱く心地のせしを、宮と聞えし人のし給ふ、と覚えし程より、心地惑ひけるなめり、知らぬ所にすゑ置きて、この男は消え失せぬ、と見しを、つひにかく本意のこともせずなりぬる、と思ひつつ、いみじう泣く、と思ひし程に、その後のことは、絶えて、いかにもいかにも覚えず、人の言ふを聞けば、」
――たいそう綺麗な男が寄って来て、「さあいらっしゃい、わたしのところへ」と言って、抱かれた心地がして、それが匂宮と申し上げた方がなさるのだと思った、その時から正気が無くなってしまったらしい…。その男はわたしを見知らぬ所に置いたまま消えてしまったようで、結局こうして決心したことも果たせずの終わってしまったと思い、ひどく泣いたことは覚えているが、その後のことは全く何も覚えていない。人の話を聞きますと――

「多くの日ごろも経にけり、いかに憂きさまを、知らぬ人にあつかはれ見えつらむ、と、はづかしう、つひにかくて生き返へりぬるか、と思ふもくちをしければ、いみじう覚えて、なかなか、しづみ給へつる日ごろは、現心もなきさまにて、ものいささかまゐる折もありつるを、つゆばかりの湯をだにまゐらず」
――(人の話では)あれからずいぶん日数も経ってしまったようだ。意識を失ってしまっている間に、どんなに厭な姿を、知らない他人から介抱されたり、見られたりしたことだろう。と思うとひどく辛い気がして、また、ついにこうして生き返ったのかと思うのも口惜しく、ただただ悲しく打ちひしがれて、かえって気を失っていた頃には、それなりに少しは食物(あがりもの)なども口にされましたのに、今ではほんの少しの薬湯も召しあがりません――

「『いかなれば、かくたのもしげなくのみはおはするぞ。うちはへぬるみなどし給へることは醒め給ひて、さわやかに見え給へば、うれしく思ひきこゆるを』と、泣く泣く、たゆむ折なく添ひ居てあつかひきこえ給ふ」
――(尼君は)「どうして、こう心細げなご様子なのでしょう。引き続き高かった熱などは下がられて、さっぱりなさったようですので、うれしく思っていますのに」と泣きながらも、怠るときなく付き添って介抱されます――

「ある人々も、あたらしき御さま容貌を見れば、心をつくしてぞ惜しみまもりける。心には、なほいかで死なむ、とぞ思ひわたり給へど、さばかりにて生き留まりたる人の命なれば、いと執念くて、やうやう頭もたげ給へば、ものまゐりなどし給ふにぞ、なかなか面痩せもていく」
――側にいる女房達も、惜しいほど美しい浮舟のご容姿を見ては、まごころを込めて大事に看病するのでした。浮舟の気持ちとしては、やはり何とかして死にたいと思いつづけておられますが、あれほどの重態で取りとめた程の命だけに、たいそう粘り強くて、しだいに頭をもたげる程に良くなられたので、物なども召しあがるようになりましたが、物思いはとめどもなく、却って面やつれが目立ってくるのでした――

「いつしかとうれしう思ひきこゆるに、『尼になし給ひてよ。さてのみなむ生くやうもあるべき』とのたまへば、『いとほしげなる御さまを、いかでかさはなしたてまつらむ』とて、ただ頂きばかりをそぎ、五戒ばかりを受けさせたてまつる。心もとなけれど、もとよりおれおれしき人の心にて、えさかしく強ひてものたまはず。僧都は、『今はかばかりにて、いたはりやめたてまつり給へ』と言ひ置きて、のぼり給ひぬ」
――(尼君は)早く快くおなりになるようにと楽しみにしていますのに、浮舟は「尼にしてくださいませ。生きていくにはそれより他に道はないのです」とおっしゃるので、尼君は「あなたのようなおいたわしい方を、どうして尼などになどおさせ申せましょう」と言って、頂(いただき)のお髪を少しばかり削いで、五戒だけをお授けになります。それだけでは、浮舟は何とも物足りないご様子ではありますが、もとよりたおたおとした気質ですので、偉そうにそれ以上はおっしゃらない。僧都は、「今のところ、この程度の作法にして、もっぱら病気を治すようにしてあげてください」と言い置いて、山へお上りになりました――

◆五戒(ごかい)=仏教で、「殺生、偸盗、邪婬、妄語、飲酒の5つの戒め

◆2/28~3/4までお休みします。では3/5に。

源氏物語を読んできて(1220)

2013年02月25日 | Weblog
2013. 2/25    1220

五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その12

「月ごろいささかもあらはれざりつる物の怪、調ぜられて、『おのれは、ここまでまうで来て、かく調ぜられたてまつるべき身にもあらず。昔は行ひせし法師の、いささかなる世にうらみとどめて、漂ひありきし程に、よき女のあまた住み給ひし所に住み着きて、かたへはうしなひてしに、この人は、心と世をうらみ給ひて、われいかで死なむ、といふことを、夜昼のたまひしにたよりを得て、いと暗き夜、一人ものし給ひしを取りてしなり。されど、観音とざまかうざまにはぐぐみ給ひければ、この僧都に負けたてまつりぬ。今はまかりなむ』とののしる」
――この幾月もの間、少しも現れなかった物の怪が調ぜられて、(物の怪が)「自分は、こんなところまで来て、このように調伏させられなければならない身ではない。昔は修行一途に励む法師であったが、この世にちょっとした恨みを現世に残して成仏出来ず、ふらふらしているうちに、美しい女が大勢住んでいらっしゃる所に住みつくようになったのだ。一人は取り殺してしまったが、この人(浮舟)は自分からこの世をはかなんで、何とかして死にたいということを、夜昼おっしゃっていたので、それにつけこんで、真っ暗な真夜中に、たった一人でおいでの時に取り憑いたのだ。しかし初瀬の観音様があれやこれやとこの人をお守りになるので、とうとうこの僧都の法力にも負けてしまった。もう退散しよう」と大声でわめく――

「『かくいふは何ぞ』と問へば、憑きたる人、ものはかなきけにや、はかばかしうも言はず」
――(僧都が)「そう申すのは何者だ」と問うと、招人(よりまし)は気力が尽きたものであろうか、はきはきとも名も言わない――

「正身の心地はさわやかに、いささかもの覚えて見廻したれば、一人見し人の顔はなくて、皆老い法師ゆがみおとろへたる者どものみ多かれば、知らぬ国に来にける心地して、いと悲し。ありし世のこと思ひ出づれど、住みけむ所、誰と言ひし人とだに、たしかにはかばかしうも覚えず」
――正身(しょうじみ・本人すなわち浮舟)の気分はさっぱりして、少し正気づいてあたりを見廻しますと、一人として知っている顔はなく、みな老法師の腰の曲がった者ばかりが多く、まったく見知らぬ国にきたような心地がして、言いようもなく悲しい。以前の事を思い出そうとしますが、住んでいたところの名はもとより、そこに居た人の名さえも、定かには思い出すことができません――

「ただわれはかぎりとて身を投げし人ぞかし、いづくに来にたるにか、と、せめて思ひ出づれば、いといみじ、とものを思ひ歎きて、皆人の寝たりしに、妻戸を放ちて出でたりしに、風烈しう、川波も荒う聞えしを、一人ものおそろしかりしかば、来し方ゆく末も覚えで、簾子の端に足をさし下ろしながら、行くべき方も惑はれて、帰り入らむも中空にて、心強くこの世に亡せなむ、と思ひ立ちしを、をかがましうて人に見つけられむよりは、鬼も何も食ひて失ひてよ、と言ひつつ、つくづくと居たりしを…」
――(浮舟は心に思うことは)自分は、いよいよ最後だと思って身を投げた筈だった。それが一体どこに来たのかしら、と無理に思い出してみますと、あの時は大そう悲しいと思うことがあって女房達みなが寝静まったあと、妻戸を開けて外に出てみたら、風が烈しく吹き、川波の音も荒々しく聞こえてきて、一人ではもの恐ろしくて、前後の見境いもつかず、簾子の端に足をおろしたまま、どこへ行っていいのか分からず、そうかといって引き返す心にもならず、ふわふわとした気持ちでただぼんやりしていたのでした。折角固い決心でこの世から消え失せようと思いたったものを、見ぐるしく仕損じて、人に見つけられるよりは、鬼でも何でもよいから、食い殺してもらいと言いながら、つくづくと考え込んで居ましたところ…――

では2/27に。 

源氏物語を読んできて(1219)

2013年02月23日 | Weblog
2013. 2/23    1219

五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その11

「『さらに聞ゆることもなし。何か、初瀬の観音の賜へる人なり』とのたまへば、『何か、それ縁に従ひてこそ導き給ふらめ、種なきことはいかでか』などのたまひあやしがりて、修法はじめたり」
――(尼君は)「一向に噂もありません。なんのこれは初瀬の観音様がお授けくださった方です」といいますと、僧都は「いや何、仏は御縁があればこそお授けになったのでしょう。そういう縁がなくて、どうしてこんなことがありましょうか」おっしゃり、不思議にお思いになりながら、修法を始められます――

「朝廷の召しにだに従はず、深く籠りたる山を出で給ひて、すずろかにかかる人のためになむ行ひ騒ぎ給ふ、と、ものの聞こえあらむ、いと聞きにくかるべし、と思し、弟子どもも言ひて、人に聞かせじ、と隠す」
――僧都は、朝廷のお召しさえもお辞りして、深く籠っておられましたのに、その山を下りて、こういう得体の知れない女のために加持をなさると評判でも立っては、たいそう聞き苦しいことであろうと(尼君は)お思いになり、また弟子たちもそう言いますので、この御祈祷の件は、人にも知らせないようにひたすら隠しているのでした――

「『いであなかま、大徳たち。われ無慚の法師にて、忌むことの中に、破る戒は多からめど、女の筋につけて、まだ謗りとらず、あやまつことなし。齢六十にあまりて、今更に人のもどき負はむは、さるべきにこそあらめ』とのたまへば、『よからぬ人の、ものをびんなく言ひなし侍る時には、仏法の瑕となり侍ることなり』と、こころよからず思ひて言ふ」
――(僧都が)「いや、そなたたちはとやかく言うな。自分は不徳の法師で、慎むべき戒律の中でも破った戒は多くあろうが、女色のことについては、まだ非難されたことがないし、間違いを犯したこともない。齢(よわい)六十を越えて今更人の非難を受けるとしたら、それも前世の約束で仕方が無いことだ」とおっしゃると、弟子たちは、「つまらぬ者どもが変な具合に噂などいたしましては、仏法の恥にもなりかねません」と、困った事と思って言います――

「『この修法の程にしるし見えずば』といみじきことどもを誓ひ給ひて、夜一夜加持し給へる、あかつきに人にかり移して、何やうのものの、かく人をまどはしたるぞ、と、ありさまばかり言はせまほしうて、弟子の阿闇梨、とりどりに加持し給ふ」
――(僧都は)「この修法の間に効験が現れなかったなら、わが命を滅し給へ」との非常な決意を誓われて、一晩中御祈祷をなさいましたが、その明け方に、ようやく物の怪が招人(よりまし)に乗り移ったのでした。いったいどんな変化(へんげ)が、こうしてこの人をたぶらかしたのかと、その事情だけでも招人(よりまし)の口から言わせたくて、弟子の阿闇梨と共に、あれこれ手を尽して加持なさるのでした――

◆われ無慚(むざん)の法師=自分は不徳の法師で。「無慚(むざん)」は破戒無慚(むざん)で、
 僧が戒を破りながら恥としないの意。ここは卑下のことば。

◆謗(そし)りとらず=とやかく言われたことがない。

◆この修法の程にしるし見えずば=下に、「わが命を滅し給へ」が続く。

では2/25に。


源氏物語を読んできて(1218)

2013年02月21日 | Weblog
2013. 2/21    1218

五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その10

「うちはへかくあつかふ程に、四五月も過ぎぬ。いとわびしうかひなきことを思ひわびて、僧都の御許に、『なほおり給へ。この人助け給へ。さすがに今日までもあるは、死ぬまじかりける人を、憑きしみ領じたるものの、去らぬにこそあめれ。あが仏、京に出で給はばこそはあらめ、ここまではあへなむ』など、いみじきことを書き続けて、奉れ給へば、」
――引き続きこうしてお世話をするうちに、四月五月も過ぎていきました。尼君は女人の相も変わらぬ様子に、頼りなく思って、僧都の御許に、「どうぞもう一度下山してくださいませ。そしてこの人を助けてくださいませ。弱りながらも今日まで生き長らえておりますのは、死んではならない人に執念深く取り憑いている物の怪が去らないからでしょう。私の大事な御兄上、僧都の君、京にお出でになるのはいけないことでしょうが、ここ小野まででしたらよろしゅうございましょう」などと、切ない気持ちを長々と書いて差し上げましたところ――

「いとあやしきことかな、かくまでもありける人の命を、やがてうち棄ててましかば、さるべき契りありてこそは、われしも見つけけめ、こころみに助け果てむかし、それに止まらずば、業尽きにけり、と思はむ、とて、下り給ひけり」
――(僧都は)大そう不思議なことだな。こうして今まで生きた命なのに、もしあのまま放っておいたならば、どんなに心残りであろう。こういう宿縁があったればこそ自分が見つけたのであろう。出来るだけのことをして助けてみよう。それでも助からないならば、その時こそ寿命が終わったと諦めることにしよう。と山を下りてお出でになりました――

「よろこび拝みて、月ころのありさまを語る。『かくひさしうわずらふ人は、むつかしきこと、おのづからあるべきを、いささかおとろへず、いときよげに、ねぢけたるところなくのみものし給ひて、かぎりと見えながらも、かくても生きたるわざなりけり』など、あふなあふな泣く泣くのたまへば」
――(尼君は)喜び拝んで、この月頃のことをお話になります。「こうして長い間病んでいる人は、衰弱して自然ぬさくるしい点もある筈ですが、この方(浮舟)は色つやも衰えず、大そうお綺麗で見ぐるしいところなど少しもありません。今はもう最後かと見えながら、こうしてまあ生きて来られた訳なのです」などと心を込めて泣きながら話されますと、――

「『見つけしより、めずらかなる人のみありさまかな。いで』とて、さしのぞきて見給ひて、『げにいときやうざくなりける人の御ようめいかな。功徳の報いにこそ、かかる容貌にも生い出で給ひけめ、いかなる違ひめにて、かくそこなはれ給ひけむ。もし、さにや、と聞き合はせらるることもなしや』と問ひ給ふ」
――(僧都は)「見出だしたときから、不思議なほど美しいご様子でしたね。どれ」と言って覗いて御覧になり、「なるほど優れた御器量だ。前世に善根功徳を積んだればこそ、これほどのご容姿に生まれられたのであろう。一体どうした不運でこんな病気に取りつかれたのであろう。もしや、こういうわけではと、思い当たる事でもありませんか」とお訊ねになります――

◆みありさま=身有様=身の上のことか。

◆きやうざくなりける人の御ようめい=警策(きょうざく)、御容面(おんようめい)=なるほど立派な御器量だ

では2/23に。

源氏物語を読んできて(加持・祈祷)

2013年02月19日 | Weblog
◆加持・祈祷
 
 日常生活とのつよいつながりを持つのが密教の本質で、たとえば病人や産婦にとりつく物の怪(もののけ)を取り除くために修法、加持、祈祷が行われる。病気を霊怪のせいと考え、それが何の霊と診断し、それを追いだすのが効験ある加持僧の仕事である。法華経を読んで祈祷するのだが、病人にとりついた物の怪を追いだして憑坐(よりまし=霊物に感応しやすい霊媒としての童子、多くは童女)にのり移らせるべく病人を打ったり引いたり、相当手荒なこともする。
 
 当時貴族はそれぞれ特定の祈祷師を持っていた。病気や物の怪などの場合に頼むかかりつけの御祈りの師である。横川の僧都は薫の祈祷師の一人であった。横川の僧都の験はすばらしく、天台座主でもはかばかしくなかった一品の宮の物の怪を直した。
 
 壇を築いて祈るが、三、五、九、十三壇法などがある。五壇の御修法は普通、帝や国家の大事のときに行われるが、五壇を設け、中央に不動、東壇に降三世、西壇に大威徳、南壇に軍茶利夜叉(ぐんだりやしゃ)、北壇に金剛夜叉の各明王を勧請して祈り、護摩を焚いてその火によって罪業を消滅させる。
 
 この密教の本尊が摩訶毘蘆遮那(まかびるしゃな=梵語)であり、これを邦語に訳したのが大日如来である。上下四方、過去、現在、未来といたらざるところなき仏である
(源氏物語手鏡より)

源氏物語を読んできて(1217)

2013年02月19日 | Weblog
2013. 2/19    1217

五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その9

「比叡坂本に、小野といふ所にぞ住み給ひける。そこにおはし着く程、いと遠し。『中宿りをぞ、設くべかりける』など言ひて、夜更けておはし着きぬ」
――(尼君たちは)比叡山西坂本にある小野というところに住んでおられるのでした。そこまでの道のりは随分と遠い。人々は「途中で一泊する所を用意しておけばよかった」と言いながら、夜もすっかり更けてからお着きになりました――

「僧都は親をあつかひ、女の尼君はこの知らぬ人をはぐくみて、皆抱きおろしつつ休む。老いの病のいつともなきが、苦しと思ひ給へし、遠道の名残りこそ、しばしわづらひ給ひけれ、やうやうよろしうなり給ひにければ、僧都はのぼり給ひぬ」
――僧都は母尼君をいたわり、妹尼君はこの見知らぬ女人を介抱しながら、共に車から抱きおろして憩われるのでした。老人の常として、いつも病気がちだった母尼君も、遠出の旅の重なったことで、しばらくは苦しんでおられましたが、だんだんと快方にむかわれましたので、僧都は山にお上りになりました――

「かかる人なむ率て来たる、など、法師のあたりにはよからぬことなれば、見ざりし人にはまねばす。尼君も、皆口がためさせつつ、もし尋ね来る人もやある、と思ふも、しづ心なし。いかで、さる田舎人の住むあたりに、かかる人落ちあふれけむ、もの詣でなどしたりける人の、心地などわづらひけむを、継母などやうの人の、たばかりて置かせたるにや、などぞ思ひよりける」
――こういう若い女人を連れて来た事などは、法師の身としては慎むべきことですので、僧都は事情を知らない人にはいっさい話していません。尼君も皆に口止めはしているものの、もし探しに来る人がいますまいかと思いますと、心が落ち着きません。それにしても、どうしてこのような人が、あのような田舎の宇治あたりに落ちぶれていたのだろうか。物詣でに出向いて病気にでもなった人を、継母のような人が騙して置き去りにでもしたのだろうか、などと思いめぐらしているのでした――

「『河に流してよ』といひし一言よりほかに、ものもさらにのたまはねば、いとおぼつかなく思ひて、いつしか人にもなしてみむ、と思ふに、つくづくとして起き上がる世もなく、いとあやしうのみものし給へば、つひに生くまじき人にや、と思ひながら、うち棄てむもいとほしういみじ」
――その人は「川に流してください」と言った一言より他に何も言いませんので、まことに心もとなく、何とかして健やかな身体にしてやりたいとは思うのですが、その人(浮舟)はただぼおっとしていて、いつ起き上がれるか分からず、ただもう妙なぐあいですので、結局は生きられない人なのかしらと、思いながらも、さすがに諦めてしまうのも可哀そうでならないのでした――

「夢語もし出でて、はじめより祈らせし阿闇梨にも、忍びやかに芥子焼くことせさせ給ふ」
――初瀬詣での折の夢のお告げまで打ち明けて、はじめから祈祷させていた阿闇梨に、そっと芥子を焚く護法を試みてもらったりもしてします――

では2/21に。


源氏物語を読んできて(法華経と観音信仰)

2013年02月18日 | Weblog

◆法華経と観音信仰

天台宗の根本経典である法華経は、当時の貴族に最も信じられ、持経は法華経であることが多かった。
法華経は女人の成仏の可能性をも説いている経典であるために、特に女性の信仰を得ていた。
衆生済度のための観世音菩薩は、三毒(貪欲、瞋恚(しんに=怒る)、愚痴)七難(火難、水難、風難、杖難、鬼難、枷鎖難、怨賊難)をのがれ、二求両願(男女子を産む願い)を満足さす。三十三身に化現して、衆生を救う。仏菩薩のうちでもっとも優しいと感じられた観音である。

「源氏物語」では、清水観音、石山観音、初瀬(長谷)観音が描かれ、特に大和の初瀬寺は霊験あらたかとの評判が高く、王朝の貴族階級に人気があり、貴族の女性たちは、ほとんどが皆一度は初瀬に参った。(源氏物語手鏡より)

源氏物語を読んできて(1216)

2013年02月18日 | Weblog
2013. 2/17    1216

五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その8

「二日ばかり籠り居て、二人の人を祈り加持する声絶えず、あやしきことを思ひ騒ぐ。そのわたりの下衆などの、僧都に仕まつりける、かくておはしますなりとて、とぶらひ出で来るも、ものがたりなどして言ふを聞けば、『故八の宮の御女、右大将の通ひ給ひし、殊になやみ給ふこともなくて、にはかにかくれ給へりとて騒ぎ侍る。その御葬送の雑事ども仕うまつり侍るとて、昨日はえ参り侍らざりし』といふ」
――二日ばかり籠っておりましたが、母尼とその女(実は浮舟)のために加持祈祷する声が絶え間なく聞こえますので、院内の人々は、その女の怪しいことなどを囁きあっています。近くに住む下々で、かつてこの僧都にお仕えしていた者が、こちらに逗留していらっしゃることを聞きつけてご挨拶に来ましたが、その者の問わず語りを聞いていますと、「亡き八の宮の御娘で、右大将(薫)の通っていらっしゃった方が、これというご病気でもないのに、俄かにお亡くなりになったとのことで、たいそうなお取り込みでした。昨日はその御葬送の雑用などお勤め申しまして、お伺いも出来ませんでした」と言います――

「さやうの人の魂を、鬼のとりもて来るにや、と思ふにも、かつ見る見る、あるものとも覚えず、あやふくおそろし、と思す。『昨夜見やられし火は、しかことごとしきけしきも見えざりしを』と言ふ。『ことさらことそぎて、いかめしうも侍らざりし』と言ふ。けがらひたる人とて、立ちながら追ひ返しつ」
――それでは、あの女は、そうした人の魂を鬼が持ち運んで来たのだろうかと思いますと、僧都は目の前のこうした実際の姿を見ながらも、まことに生きた者とも思えず、消えて無くなりはしないかと不安で恐ろしく思うのでした。(女房達が)「昨夜こちらから見えました火は、御葬送のように仰々しくもありませんでしたが」と言いますと、その男は、「わざわざ質素になさいまして、そう立派なお葬式でもありませんでした」と言います。このけ下人どもは、死の穢れに触れた人だというので、内にも入れず立ち話で追い帰したのでした――

「『大将殿は、宮の御女もち給へりしは、亡せ給ひて年ごろになりぬるものを、誰を言ふにかあらむ。姫宮を置きたてまつり給ひて、世に異心おはせじ』など言ふ」
――(人々は)「大将殿(薫)は、八の宮の姫君(大君)にお通いになっておられたのは、もう大分前のことで、その方が亡くなられてから数年たつものを、いったい誰のことを言うのでしょう。正妻の女二の宮をさし置いて、まさか他に好きな女人にお通いになることはありますまいに」などと言います――

「尼君よろしくなり給ひぬ。方もあきぬれば、かくうたてある所に久しうおはせむもびんなし、とて帰る。『この人は、なほいと弱げなり。道の程もいかがものし給はむ。いと心苦しきこと』と言ひあへり。車二つして、老人乗り給へるには、仕うまつる尼二人、次のにはこの人を臥せて、かたはらにいま一人乗り添ひて、道すがら行きもやらず、車とめて湯まゐりなどし給ふ」
――母尼は大分快方に向かわれました。塞がっていた方角も空きましたので、このような不気味な所に長逗留するのも良くない、というので帰り支度をします。人々が、「この女人はまだたいそう弱っておいでになります。道中もいかがでしょう。痛々しいことです」と言い合っています。車を二輌用意して、母尼が乗られる方にはお仕えしている尼が二人、次の車には、この女人を寝かせて妹尼君の外にもう一人の女房が付き添い、道中もゆっくりと時折りは車を止めて、薬湯などを飲ませなどなさいます――

では2/19に。


源氏物語を読んできて(天台宗と真言宗)

2013年02月15日 | Weblog
2013.2.15

◆天台宗と真言宗

平安時代の仏教は最澄のひろめた天台宗、空海のひろめた真言宗の二教が勢いを張っていた。
天台宗は法華経を根本とし、精細に経典を修め教理を究めて、仏教の根底にいたろうとする、いわゆる顕教である。
真言宗は大日経を根本とし、修法、加持・祈祷によるところの、いわゆる密教であり、壇を立て、護摩を焚いて、現世利益(げんぜりやく)のための祈祷をするのであった。
(ただし、天台宗も本来の学問的な仏教だけでなく、この密教を加えるようになり、その点、行事として区別がつかいないようになる)

源氏物語を読んできて(1215)

2013年02月15日 | Weblog
2013. 2/15    1215

五十三帖 【手習(てならひ)の巻】 その7

「僧都もさしのぞきて、『いかにぞ、何のしわざと、よく調じて問へ』とのたまへど、いと弱げに消えもていくやうなれば、『え生き侍らじ』『すずろなるけがらひに、籠りてわづらふべきこと』『さすがにいとやむごとなき人にこそ侍るめれ。死に果つとも、ただにやは棄てさせ給はむ。見苦しきわざかな』と言ひあへり」
――僧都もさし覗いて、「どうだ、何物のしわざか十分に物の怪を調伏して訊ねよ」とおっしゃいます。けれども弱々しく消え入ってしまいそうな様子に、阿闇梨や弟子たちは、「これではどても生きられまい」とか、「思いがけぬ穢れのために、ここに籠って難儀をするとはまあ」とか、「しかし、この人はたいへん身分の高い方でございましょう。たとえ亡くなってしまったとしても、このままいい加減に放ってお置きになるわけにもゆきますまい。どうも弱ったことになりました」と言い合っています――

「『あなかま。人に聞かすな。わづらはしきこともぞある』など口がためつつ、尼君は、親のわづらひ給ふよりも、この人を生け果てて見まほしう惜しみて、うちつけに添ひ居たり。知らぬ人なれど、みめのこよなうをかしげなれば、いたづらになさじ、と、見るかぎりあつかひ騒ぎけり」
――「静かにしなさい。決して人に言ってはなりません。厄介なことになりかねませんから」などと口止めをしながら、尼君は、親のご病気よりもこの人を何とか行き返らせたいものと、いとおしんで、ぴったり側についています。見も知らぬ人ではありますが、顔だちがあまりに美しいので、空しく死なせまいと、皆が皆、大騒ぎして介抱するのでした――

「さすがに時々目見あけなどしつつ、涙のつきせず流るるを、『あな心憂や。いみじく悲しと思ふ人のかはりに、仏の導き給へる、と思ひきこゆるを、かひなくなり給はば、なかなかなることをや思はむ。さるべき契りにてこそ、かく見たてまつるらめ。なほいささかもののたまへ』と言ひ続くれど、からうじて、『生き出でたりとも、あやしき不用の人なり。人に見せで、夜この河に落し入れ給ひてよ』と息の下に言ふ」
――そうしているうちに、その人は時々目を開いたりして、とめどもなく涙を流すのを、尼君は、「まあ、どうしたものでしょう。いまだに可愛いと思う亡き娘の代わりに仏様が授けて下さった方だとお思いしますのに、もし亡くなってしまわれたら、却って悲しい思いがしますものを。前世からの宿縁があったればこそ、こうしてお目にかかったのでしょう。せめて一言でもなにかおっしゃってください」と言いつづけますが、女はやっとのことで、「生き返ったとしましても、見ぐるしいばかりで、この世には無用の人間です。人には知らせず、夜、この川に投げ込んでくださいまし」と息も絶え絶えに言います――

「『まれまれ物のたまふをうれしと思ふに、あないみじや。いかなればかくはのたまふぞ。いかにして、さる所にはおはしつるぞ』と問へども、ものも言はずなりぬ。身にもし疵などやあらむ、とて見れど、ここはと見ゆるところなくうつくしければ、あさましく悲しく、まことに、人の心まどはさむとて出で来たる仮のものにや、と疑ふ」
――尼君が「やっとのことで物をおっしゃったのを、嬉しいと思いましたのに、どうしてそんな事をおっしゃるのですか。それにしても、なぜあのような所にいらしたのです」とお訊ねになりますが、もう何も言わなくなってしましました。身体に怪我でもありますまいかと調べてみますが、何も無く綺麗なので、不思議でもあり悲しくもあって、実際、人の心をたぶらかそうとして現れた魔性の者だろうか、と疑ってもみるのでした――

では2/17に。