蜻蛉日記 上巻 (49)の1 2015.6.29
「三月ばかり、ここに渡りたるほどにしも苦しがりそめて、いとわりなう苦しと思ひまどふを、いといみじと見る。言ふことは、『ここにぞ、いとあらまほしきを、何ごともせんにいと便なかるべければ、かしこへものしなん。つらしとなおぼしそ。にはかにも、いくばくもあらぬ心地なんするなん、いとわりなき。あはれ、死ぬともおぼし出づべきことのなきなん、いとかなしかりける』とて泣くを見るに、ものおぼえずなりて、又、いみじう泣くかるれば、」
◆◆三月ごろのこと、あの人がこちらに来ていたときに、ひどく苦しがりはじめて、又一層油汗をかいて苦しみ出しましたので、大変なことになったとおろおろしながらいますと、言い出されたことは、「ここにこのまま居たいとはおもうけれど、何につけても不便なことなので、自邸に戻ろうと思う。薄情だと思わないでほしい。急に、あといくらも生きられないような気がするのがとても辛い。ああ、私が死んでも、あなたが私を思い出してくれないだろうことが、ひどく悲しいのだ」と言って泣かれるのを見るにつけ、わたしは気も転倒してしまい泣くばかりなので、◆◆
「『な泣き給ひそ。苦しさまさる。よにいみじかるべきわざは、心はからぬほどに、かかる別れせんなんありける。いかにし給はんずらむ。ひとりは世におはせじな。さりとも、おのが忌みのうちにし給ふな。もし死なずはありとも、限りと思ふなり。ありともこちはえまゐるまじ。おのがさかしからん時こそいかでもいかでもものし給はめとおもへば、かくて死なばこれこそは見たてまつるべき限りなめれ』など、臥しながらいみじう語らひて泣く。」
◆◆あの人は、「そんなに泣かないで。いよいよ苦しさが増してくる。何よりも辛く感じるのは思いがけず、急な死に方で別れることだ。そうなったらあなたはどうなさるのだろう。よもや再婚せずに過ごされることはないだろうが、そうだとしても、私の死後一周忌の間はなさるな。たとえ死なずに命があっても、この体ではもうこちらへは来られまい。自分がまだこうしているうちは、何としてでも私の側から離れないでいただきたい。それで、もしも死んだならば、それこそ見納めというものだから」などと、横たわったまま苦しそうに話されては泣かれるのでした。◆◆
「これかれある人々呼びよせつつ、『ここにはいかに思ひきこえたりとか見る。かくて死なば、又対面せでや止みなんと思ふこそいみじけれ』と言へば、みな泣きぬ。みづからは、ましてものだに言はれず、ただ泣きにのみ泣く。」
◆◆居合わせた侍女たちを呼び寄せては、「わたしがあなた達をどんなに大切に思ってきたかお分かりか。こうして死んでしまったならば、もう二度と会うこともないと思うとたまらない」とおっしゃると皆泣いてしまいました。ご自分ではもう何も言えず、ただただ泣かれるばかりでした。◆◆
■心はからぬほどに=「思いがけず」と、通常は訳するが、この言葉に誤脱ありか。
「三月ばかり、ここに渡りたるほどにしも苦しがりそめて、いとわりなう苦しと思ひまどふを、いといみじと見る。言ふことは、『ここにぞ、いとあらまほしきを、何ごともせんにいと便なかるべければ、かしこへものしなん。つらしとなおぼしそ。にはかにも、いくばくもあらぬ心地なんするなん、いとわりなき。あはれ、死ぬともおぼし出づべきことのなきなん、いとかなしかりける』とて泣くを見るに、ものおぼえずなりて、又、いみじう泣くかるれば、」
◆◆三月ごろのこと、あの人がこちらに来ていたときに、ひどく苦しがりはじめて、又一層油汗をかいて苦しみ出しましたので、大変なことになったとおろおろしながらいますと、言い出されたことは、「ここにこのまま居たいとはおもうけれど、何につけても不便なことなので、自邸に戻ろうと思う。薄情だと思わないでほしい。急に、あといくらも生きられないような気がするのがとても辛い。ああ、私が死んでも、あなたが私を思い出してくれないだろうことが、ひどく悲しいのだ」と言って泣かれるのを見るにつけ、わたしは気も転倒してしまい泣くばかりなので、◆◆
「『な泣き給ひそ。苦しさまさる。よにいみじかるべきわざは、心はからぬほどに、かかる別れせんなんありける。いかにし給はんずらむ。ひとりは世におはせじな。さりとも、おのが忌みのうちにし給ふな。もし死なずはありとも、限りと思ふなり。ありともこちはえまゐるまじ。おのがさかしからん時こそいかでもいかでもものし給はめとおもへば、かくて死なばこれこそは見たてまつるべき限りなめれ』など、臥しながらいみじう語らひて泣く。」
◆◆あの人は、「そんなに泣かないで。いよいよ苦しさが増してくる。何よりも辛く感じるのは思いがけず、急な死に方で別れることだ。そうなったらあなたはどうなさるのだろう。よもや再婚せずに過ごされることはないだろうが、そうだとしても、私の死後一周忌の間はなさるな。たとえ死なずに命があっても、この体ではもうこちらへは来られまい。自分がまだこうしているうちは、何としてでも私の側から離れないでいただきたい。それで、もしも死んだならば、それこそ見納めというものだから」などと、横たわったまま苦しそうに話されては泣かれるのでした。◆◆
「これかれある人々呼びよせつつ、『ここにはいかに思ひきこえたりとか見る。かくて死なば、又対面せでや止みなんと思ふこそいみじけれ』と言へば、みな泣きぬ。みづからは、ましてものだに言はれず、ただ泣きにのみ泣く。」
◆◆居合わせた侍女たちを呼び寄せては、「わたしがあなた達をどんなに大切に思ってきたかお分かりか。こうして死んでしまったならば、もう二度と会うこともないと思うとたまらない」とおっしゃると皆泣いてしまいました。ご自分ではもう何も言えず、ただただ泣かれるばかりでした。◆◆
■心はからぬほどに=「思いがけず」と、通常は訳するが、この言葉に誤脱ありか。