八六 頭中将のそぞろなるそら言にて (99) その2 2018.10.28
「あやしく、いつのまに何事のあるぞ」と問はすれば、主殿寮なり。「ただここもとに人づてならで申すべき事なむ」と言へば、さし出でて問ふに、「これ頭中将殿の奉らせたまふ。御返りとく」と言ふに、いみじくにくみたまふを、いかなる御文ならむと思へど、ただいまいそぎ見るべきにあらねば、「いま聞こえむ」とて、ふところに引き入れて、ふと入りぬ。
◆◆たったいま参上したばかりなのに、いつの間に何の用事が出来たのか」と聞かせると、それは主殿寮の男である。「ただ私の方で、人づてではなく直接に申し上げるべきことが…」と言うので、出て行って尋ねると、「これは頭中将殿があなたにお差しあげさせになります。お返事を早く」と言うけれど、ひどくお憎みになっているのに、いったいどうのようなお手紙だろうかと思うけれど、すぐに今急いで見るべきでもないので、「おっつけお返事申し上げましょう」と懐に入れてすっと中に入ってしまった。◆◆
なほ人の物言ひなど聞くに、すなはち立ち帰りて、「『さらば、そのありつる文を給はりて来』となむ仰せられつる。とくとく」とは言ふにぞ、あやしく「いせの物語」なりやとて、見れば、青き薄様に、真名にいと清げに書きたまへるを、心ときめきしつるさまにもあらざりけり。「蘭省の花の時の錦の帳のもと」と書きて、「末はいかにいかに」とあるを、「いかがはすべから。御所のおはしまさば、御覧ぜさすべきを、これが末知り顔に、たどたどしき真名に書きたらむも見苦し」など思ひまはすほどもなく、責めなどはせば、ただその奥に、炭櫃の、消えたる炭のあるして、「草の庵をたれかたづねむ」と書きつけて取らせつれど、返事も言はず。
◆◆そのまま、やはり人がはなしているのを聞いていると、その主殿寮の男が引き返してきて、「『ご返事がないのなら、その、さっきの手紙を頂戴して来い』とお命じになりました。早く急いで」とは言うので、妙に「いせの物語」(変な話)だと思って、見て見ると、青い薄様の紙に、漢字でたいへん綺麗にお書きになっているのだが、心がときめくような中身ではなかった。「蘭省の花の時の錦の帳のもと」と書いて、「あとの句はどうだどうだ」とあるのを、「いったいどうしたらよいのだろうか。中宮様がいらっしゃったなら、御覧あそばすようにおさせするはずのものを、この句のあとをいかにも知ったふうに、おぼつかない漢字で書いておこうのも見苦しい」など、あれこれ思案するひまもなく、その男が早くと責めたてるので、ただその手紙にの奥の余白に、炭櫃の、消えている炭があるのを使って、「草の庵をたれかたづねむ」と書きつけて渡してしまったけれど、それっきり向うから返事も来ない。◆◆
■「いせの物語」=未詳。急なこと。えせごと。変な話。などか。
■真名(まな、まんな)=仮名に対して漢字をさす。
■「蘭省の花の時の錦の帳のもと」=『白氏文集』)の中の詩句。友は尚書省に奉職して花の候には天子の錦帳の下で栄えているが、自分は廬山の草庵で雨夜も独りわび住いしている。
「あやしく、いつのまに何事のあるぞ」と問はすれば、主殿寮なり。「ただここもとに人づてならで申すべき事なむ」と言へば、さし出でて問ふに、「これ頭中将殿の奉らせたまふ。御返りとく」と言ふに、いみじくにくみたまふを、いかなる御文ならむと思へど、ただいまいそぎ見るべきにあらねば、「いま聞こえむ」とて、ふところに引き入れて、ふと入りぬ。
◆◆たったいま参上したばかりなのに、いつの間に何の用事が出来たのか」と聞かせると、それは主殿寮の男である。「ただ私の方で、人づてではなく直接に申し上げるべきことが…」と言うので、出て行って尋ねると、「これは頭中将殿があなたにお差しあげさせになります。お返事を早く」と言うけれど、ひどくお憎みになっているのに、いったいどうのようなお手紙だろうかと思うけれど、すぐに今急いで見るべきでもないので、「おっつけお返事申し上げましょう」と懐に入れてすっと中に入ってしまった。◆◆
なほ人の物言ひなど聞くに、すなはち立ち帰りて、「『さらば、そのありつる文を給はりて来』となむ仰せられつる。とくとく」とは言ふにぞ、あやしく「いせの物語」なりやとて、見れば、青き薄様に、真名にいと清げに書きたまへるを、心ときめきしつるさまにもあらざりけり。「蘭省の花の時の錦の帳のもと」と書きて、「末はいかにいかに」とあるを、「いかがはすべから。御所のおはしまさば、御覧ぜさすべきを、これが末知り顔に、たどたどしき真名に書きたらむも見苦し」など思ひまはすほどもなく、責めなどはせば、ただその奥に、炭櫃の、消えたる炭のあるして、「草の庵をたれかたづねむ」と書きつけて取らせつれど、返事も言はず。
◆◆そのまま、やはり人がはなしているのを聞いていると、その主殿寮の男が引き返してきて、「『ご返事がないのなら、その、さっきの手紙を頂戴して来い』とお命じになりました。早く急いで」とは言うので、妙に「いせの物語」(変な話)だと思って、見て見ると、青い薄様の紙に、漢字でたいへん綺麗にお書きになっているのだが、心がときめくような中身ではなかった。「蘭省の花の時の錦の帳のもと」と書いて、「あとの句はどうだどうだ」とあるのを、「いったいどうしたらよいのだろうか。中宮様がいらっしゃったなら、御覧あそばすようにおさせするはずのものを、この句のあとをいかにも知ったふうに、おぼつかない漢字で書いておこうのも見苦しい」など、あれこれ思案するひまもなく、その男が早くと責めたてるので、ただその手紙にの奥の余白に、炭櫃の、消えている炭があるのを使って、「草の庵をたれかたづねむ」と書きつけて渡してしまったけれど、それっきり向うから返事も来ない。◆◆
■「いせの物語」=未詳。急なこと。えせごと。変な話。などか。
■真名(まな、まんな)=仮名に対して漢字をさす。
■「蘭省の花の時の錦の帳のもと」=『白氏文集』)の中の詩句。友は尚書省に奉職して花の候には天子の錦帳の下で栄えているが、自分は廬山の草庵で雨夜も独りわび住いしている。