2012. 8/31 1151
五十一帖 【浮舟(うきふね)の巻】 その59
右近は、返事もできずに奥へ入って、
「『さりや、聞えさせしにたがはぬことどもを聞し召せ。もののけしき御覧じたるなめり。御消息も侍らぬよ』と歎く。乳母はほのうち聞きて、『いとうれしく仰せられたり。盗人多かんなるわたりに、宿直人もはじめのやうにもあらず、皆、身のかはりぞ、と言ひつつ、あやしき下衆をのみ参らすれば、夜行をだにえせぬに』とよろこぶ」
――「やはりそうでございました。私が申し上げたとおりになりました模様をお聞きなさいませ。殿は何かお気づきになったのでございましょう。道理でお便りがございませんでしたよ」と歎いています。乳母はそれを片耳に聞いて、「良い事を言ってくださった。この辺は盗人が多いと聞いていますのに、宿直人も初めのようによく番をしてくれず、みな、自分の代理だと称しては、賤しい下衆ばかり宿直に伺わせるので、夜回りさえできないのですもの」と喜んでいます――
「君は、げにただ今いとあしくなりぬべき身なめり、と思すに、宮よりは、『いかにいかに』と、苔の乱るるわりなさをのたまふ。いとわづらはしくてなむ。とてもかくても、一方一方につけて、いとうたてあることは出で来なむ、わが身ひとつの亡くなりなむのみこそやすからめ」
――浮舟は、なるほど右近が言ったとおり、たった今にも破滅してしまうに違いないわが身であるらしい。匂宮からは、「どうしますか、どうしますか」と逢う日を待ち切れない遣る瀬無さを言ってお寄こしになります。まったくどうしようもなく、匂宮に従っても、薫の方に従っても、どちらにしてもひどく面倒な事が起きるに違いない。自分一人が消えてしまうのが一番無難であるらしい――
さらに、浮舟は煩悶して、
「昔は、懸想する人のありさまの、いづれとなきに思ひわづらひてだにこそ、身を投ぐるためしもありけれ、ながらへばかならず憂きこと見えぬべき身の、亡くならむは、なにか惜しかるべき、親もしばしこそ歎きまどひ給はめ、あまたの子どもあつかひに、おのづから忘れ草摘みてむ、ありながらもてそこなひ、人わらへなるさまにてさすらへむは、まさるものおもひなるべし、など思ひなる」
――昔は、想いを寄せた二人の男を、どちらをどうと決めかねて、ただそれだけで身を投げた女の例もあったらしい。それなのに自分は、すでに二人の御方に身をまかせた上、そのいずれと定めかねている。この先、生き長らえて辛い目に遭うにちがいない身であれば、死んで何の惜しい事があるだろうか。母君も、私が死んだら当分は悲嘆なさろうが、大勢の子どもの世話に紛れて、自然私のことを忘れてしまうだろう。このまま生き長らえて身を持ち崩し、物笑いのまま流浪するとしたなら、死に増さる歎きをおかけすることになる。などと考えるのでした
「児めきおほどかに、たをたをと見ゆれど、けだかう世のありさまをも知るかたすくなくて、おふし立てたる人にしあれば、すこしおずかるべきことを、思ひ寄るなりけむかし」
――(浮舟は)子供っぽく、おうようで、たおやかに見えますが、親が田舎者でしたので、ただ上品にとばかり、世間のことを知らさずに育て上げられた人なので、普通なら怖がりそうなこと(自殺のような)も、気強く考えついたのでしょう――
◆9/10まで休みます。では9/11に。
五十一帖 【浮舟(うきふね)の巻】 その59
右近は、返事もできずに奥へ入って、
「『さりや、聞えさせしにたがはぬことどもを聞し召せ。もののけしき御覧じたるなめり。御消息も侍らぬよ』と歎く。乳母はほのうち聞きて、『いとうれしく仰せられたり。盗人多かんなるわたりに、宿直人もはじめのやうにもあらず、皆、身のかはりぞ、と言ひつつ、あやしき下衆をのみ参らすれば、夜行をだにえせぬに』とよろこぶ」
――「やはりそうでございました。私が申し上げたとおりになりました模様をお聞きなさいませ。殿は何かお気づきになったのでございましょう。道理でお便りがございませんでしたよ」と歎いています。乳母はそれを片耳に聞いて、「良い事を言ってくださった。この辺は盗人が多いと聞いていますのに、宿直人も初めのようによく番をしてくれず、みな、自分の代理だと称しては、賤しい下衆ばかり宿直に伺わせるので、夜回りさえできないのですもの」と喜んでいます――
「君は、げにただ今いとあしくなりぬべき身なめり、と思すに、宮よりは、『いかにいかに』と、苔の乱るるわりなさをのたまふ。いとわづらはしくてなむ。とてもかくても、一方一方につけて、いとうたてあることは出で来なむ、わが身ひとつの亡くなりなむのみこそやすからめ」
――浮舟は、なるほど右近が言ったとおり、たった今にも破滅してしまうに違いないわが身であるらしい。匂宮からは、「どうしますか、どうしますか」と逢う日を待ち切れない遣る瀬無さを言ってお寄こしになります。まったくどうしようもなく、匂宮に従っても、薫の方に従っても、どちらにしてもひどく面倒な事が起きるに違いない。自分一人が消えてしまうのが一番無難であるらしい――
さらに、浮舟は煩悶して、
「昔は、懸想する人のありさまの、いづれとなきに思ひわづらひてだにこそ、身を投ぐるためしもありけれ、ながらへばかならず憂きこと見えぬべき身の、亡くならむは、なにか惜しかるべき、親もしばしこそ歎きまどひ給はめ、あまたの子どもあつかひに、おのづから忘れ草摘みてむ、ありながらもてそこなひ、人わらへなるさまにてさすらへむは、まさるものおもひなるべし、など思ひなる」
――昔は、想いを寄せた二人の男を、どちらをどうと決めかねて、ただそれだけで身を投げた女の例もあったらしい。それなのに自分は、すでに二人の御方に身をまかせた上、そのいずれと定めかねている。この先、生き長らえて辛い目に遭うにちがいない身であれば、死んで何の惜しい事があるだろうか。母君も、私が死んだら当分は悲嘆なさろうが、大勢の子どもの世話に紛れて、自然私のことを忘れてしまうだろう。このまま生き長らえて身を持ち崩し、物笑いのまま流浪するとしたなら、死に増さる歎きをおかけすることになる。などと考えるのでした
「児めきおほどかに、たをたをと見ゆれど、けだかう世のありさまをも知るかたすくなくて、おふし立てたる人にしあれば、すこしおずかるべきことを、思ひ寄るなりけむかし」
――(浮舟は)子供っぽく、おうようで、たおやかに見えますが、親が田舎者でしたので、ただ上品にとばかり、世間のことを知らさずに育て上げられた人なので、普通なら怖がりそうなこと(自殺のような)も、気強く考えついたのでしょう――
◆9/10まで休みます。では9/11に。