蜻蛉日記 中卷 (112)の1 2016.3.29
「暑ければ、しばし戸おしあけて見わたせば、堂いと高くて立てり。山めぐりて、ふところのやうなるに、木立ちいと繁くおもしろけれど、闇のほどなれば、ただ今暗がりてぞある。初夜行ふとて法師ばらそそけば、戸おしあけて念誦するほどに、時は山寺わざの螺四つ吹くほどになりにたり。」
◆◆暑いので、しばらく戸を開けて辺りを見わたすと、この御堂はたいそう高いところに立っています。山が回りを取り囲んでいて、その懐のようになっているところで、木立がこんもりと繁っていて風情のあるところですが、何分闇夜のころなので、今は丁度暗くなっていてよく見えません。初夜の勤行を行うということで、法師たちが忙しく立ち働いているので、私も戸を押し開けて念誦しているうちに、時刻は山寺にしきたりの法螺貝を四つ吹く(午後十時)時分になっていまったのでした。◆◆
「大門の方に、『おはします おはします』といひつつののしる音すれば、上げたる簾どもうちおろして見やれば、木間より火二ともし三ともし見えたり。をさなき人経営して出でたれば、車ながら立ちてある、『御迎へになんまゐり来つるを、今日までこの穢らひあればえ下りぬを、いづくにか車は寄すべき』と言ふに、いと物くほしき心ちす。」
◆◆大門の方で、「お越しです お越しです」と言いながらやかましく騒ぐ声がするので、上げてあった御簾を下ろして見ると、木の間から松明の火が二つ三つ見えています。幼い人(道綱)が取次ぎの労を引き継いで急いで出て行くと、(兼家は)車に乗ったまま、境内に入らないで動かずに、「お迎えに参ったのだが、今日までこの穢れがあって、車から降りるわけにはいかないのだ。いったいどこに車を寄せたらいいのか」と言うので、(物忌み中の外出とはなんと非常識なことかと)随分常軌を逸した振る舞いだと感じたのでした。◆◆
「返りことに、『いかやうにおぼしてか、かくあやしき御ありきはありつらん。こよひばかりと思ふことはべりてなん上りはべりつれば、不浄のこともおはしますなれば、いとわりなかるべきことになん。夜ふけはべりぬらん、とくとく帰らせ給へ』と言ふをはじめて、ゆきかへることたびたびになりぬ。」
◆◆返事に「どうお考えになってこのようなとっぴなご外出をなさったのでしょうか。今夜だけのつもりで上って参りましたし、あなたは穢れのこともおありのようでございますから、とんでもないことでございます。夜も更けてまいりました。急いでお帰りくださいませ」と言ってやったのを始めとして、取り次ぐ子どもが、母と兼家との間の往来が度重なったのでした。◆◆
■経営(けいめい)して=精を出しておこなう。転じてここは急ぐ意
「暑ければ、しばし戸おしあけて見わたせば、堂いと高くて立てり。山めぐりて、ふところのやうなるに、木立ちいと繁くおもしろけれど、闇のほどなれば、ただ今暗がりてぞある。初夜行ふとて法師ばらそそけば、戸おしあけて念誦するほどに、時は山寺わざの螺四つ吹くほどになりにたり。」
◆◆暑いので、しばらく戸を開けて辺りを見わたすと、この御堂はたいそう高いところに立っています。山が回りを取り囲んでいて、その懐のようになっているところで、木立がこんもりと繁っていて風情のあるところですが、何分闇夜のころなので、今は丁度暗くなっていてよく見えません。初夜の勤行を行うということで、法師たちが忙しく立ち働いているので、私も戸を押し開けて念誦しているうちに、時刻は山寺にしきたりの法螺貝を四つ吹く(午後十時)時分になっていまったのでした。◆◆
「大門の方に、『おはします おはします』といひつつののしる音すれば、上げたる簾どもうちおろして見やれば、木間より火二ともし三ともし見えたり。をさなき人経営して出でたれば、車ながら立ちてある、『御迎へになんまゐり来つるを、今日までこの穢らひあればえ下りぬを、いづくにか車は寄すべき』と言ふに、いと物くほしき心ちす。」
◆◆大門の方で、「お越しです お越しです」と言いながらやかましく騒ぐ声がするので、上げてあった御簾を下ろして見ると、木の間から松明の火が二つ三つ見えています。幼い人(道綱)が取次ぎの労を引き継いで急いで出て行くと、(兼家は)車に乗ったまま、境内に入らないで動かずに、「お迎えに参ったのだが、今日までこの穢れがあって、車から降りるわけにはいかないのだ。いったいどこに車を寄せたらいいのか」と言うので、(物忌み中の外出とはなんと非常識なことかと)随分常軌を逸した振る舞いだと感じたのでした。◆◆
「返りことに、『いかやうにおぼしてか、かくあやしき御ありきはありつらん。こよひばかりと思ふことはべりてなん上りはべりつれば、不浄のこともおはしますなれば、いとわりなかるべきことになん。夜ふけはべりぬらん、とくとく帰らせ給へ』と言ふをはじめて、ゆきかへることたびたびになりぬ。」
◆◆返事に「どうお考えになってこのようなとっぴなご外出をなさったのでしょうか。今夜だけのつもりで上って参りましたし、あなたは穢れのこともおありのようでございますから、とんでもないことでございます。夜も更けてまいりました。急いでお帰りくださいませ」と言ってやったのを始めとして、取り次ぐ子どもが、母と兼家との間の往来が度重なったのでした。◆◆
■経営(けいめい)して=精を出しておこなう。転じてここは急ぐ意