2013. 8/7 1282
五十四帖 【夢浮橋(ゆめのうきはし)の巻】 その16
「あるじぞ、この君に物がたりすこし聞こえて、『もののけにやおはすらむ、例のさまに見え給ふ折なく、なやみわたり給ひて、御容貌も異になり給へるを、尋ねきこえ給ふ人あらば、いとわづらはしかるべき御こと、と、見たてまつり嘆き侍りしもしるく、かくいとあはれに心苦しき御ことどもの侍りけるを、今なむいとかたじけなく思ひ侍る。日ごろも、うちはへなやませ給ふめるを、いとどかかることどもに思しみだるるにや、常よりももの覚えさせ給はぬさまにてなむ』と聞ゆ」
――庵主の尼君が、小君にお話を少し申して、「姉君は、物の怪のせいでしょうか、どうも正気にお見えの折がなく、ずっとご病気続きで、お姿も普通でなくなられたものですから、もし、尋ねていらっしゃる方がおありでしたら、たいそう困ることになりましょうと、ご案じ申しておりましたところ、案の定、このような身にしみてお気の毒なご事情がございましたとは、いまこそ本当にもったいなく存じます。今までもずっとご病気がちのようでしたが、このたびの出来事で、いっそうお苦しみのせいか、普段以上に正体もない有様でしてね」といいます――
「所につけてをかしき饗応などしたれど、をさなき心地には、そこはかとなくあわてたる心地して、『わざと奉れさせ給へるしるしに、何事をかは聞こえさせむとすらむ。ただ一言をのたまはせよかし』など言へば」
――山里は山里なりに風流なおもてなしをしましたが、幼い小君の気持ちとしては、何となく気持ちが落ち着かず、「わざわざ私を使者に御使わされましたしるしには、何とお返事したらよろしいでしょうか。ほんの一言でもおっしゃってくださいませ」などといいます――
「『げに』など言ひ、かくなむ、と移し語れども、ものものたまはねば、かひなくて、『ただ、かくおぼつかなき御ありさまを聞こえさせ給ふべきなめり。雲の遥かに隔たらぬ程にも侍るめるを、山かぜ吹くとも、またも必ず立ち寄らせ給ひなむかし』と言へば」
――(尼たちは)「ごもっとも」などと答えて、そのまま浮舟にお伝えしますが、何もおっしゃいません。仕方なく、妹の尼君が、「仕方がありませんから、ただもう、このように頼りないご様子を、薫の君に申し上げていただくほかありませんでしょう。ここは都からそれほど遠く離れた所でもありませんから、山は深くとも、また必ずお立ち寄りくださいませ」といいますと――
「すずろに居くらさむもあやしかるべければ、帰りなむとす。人知れずゆかしき御ありさまをもえ見ずなりぬるを、おぼつかなくくちをしくて、心ゆかずなりながら参りぬ」
――(小君は)用もないのに暮れるまで待っているのも変ですので、帰ろうとします。心ひそかに慕っていた姉君ですのに、そのお姿も見ることが出来ずじまいだったのも残念で、不満のまま薫のところへ帰って参りました――
「いつしかと待ちおはするに、かくたどたどしくてかへり来たれば、すさまじく、なかなかなり、と、思すことさまざまにて、人の隠しすゑたるにやあらむ、と、わが御心の思ひ寄らぬ隈なく、落とし置き給へりしならひに、とぞ本に侍るめる」
――(薫の君は)今か今かと待ち遠しく待っておられるところでしたのに、小君がこうも訳の分からぬ状態で帰ってきましたので、すっかり気落ちなさって、なまじ使いなど出さなければよかったと、あれやこれやと気を回されて、挙句の果てには、もしや誰かが、あの女(ひと)を小野に匿っているのではないかと、疑ってみたりもなさるのでした。それというのも、ご自分が抜け目なく気を配って、あの女(ひと)を宇治の山里に密かに囲ってお置きになった来し方に照らして、気を回してお考えにもなったとやら――
◆とぞ本に侍るめる=もとの本にそう書いてありました(写した人の注記で、鎌倉時代以後古形を示す意図から、度々慣用された)
―完― 長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。
五十四帖 【夢浮橋(ゆめのうきはし)の巻】 その16
「あるじぞ、この君に物がたりすこし聞こえて、『もののけにやおはすらむ、例のさまに見え給ふ折なく、なやみわたり給ひて、御容貌も異になり給へるを、尋ねきこえ給ふ人あらば、いとわづらはしかるべき御こと、と、見たてまつり嘆き侍りしもしるく、かくいとあはれに心苦しき御ことどもの侍りけるを、今なむいとかたじけなく思ひ侍る。日ごろも、うちはへなやませ給ふめるを、いとどかかることどもに思しみだるるにや、常よりももの覚えさせ給はぬさまにてなむ』と聞ゆ」
――庵主の尼君が、小君にお話を少し申して、「姉君は、物の怪のせいでしょうか、どうも正気にお見えの折がなく、ずっとご病気続きで、お姿も普通でなくなられたものですから、もし、尋ねていらっしゃる方がおありでしたら、たいそう困ることになりましょうと、ご案じ申しておりましたところ、案の定、このような身にしみてお気の毒なご事情がございましたとは、いまこそ本当にもったいなく存じます。今までもずっとご病気がちのようでしたが、このたびの出来事で、いっそうお苦しみのせいか、普段以上に正体もない有様でしてね」といいます――
「所につけてをかしき饗応などしたれど、をさなき心地には、そこはかとなくあわてたる心地して、『わざと奉れさせ給へるしるしに、何事をかは聞こえさせむとすらむ。ただ一言をのたまはせよかし』など言へば」
――山里は山里なりに風流なおもてなしをしましたが、幼い小君の気持ちとしては、何となく気持ちが落ち着かず、「わざわざ私を使者に御使わされましたしるしには、何とお返事したらよろしいでしょうか。ほんの一言でもおっしゃってくださいませ」などといいます――
「『げに』など言ひ、かくなむ、と移し語れども、ものものたまはねば、かひなくて、『ただ、かくおぼつかなき御ありさまを聞こえさせ給ふべきなめり。雲の遥かに隔たらぬ程にも侍るめるを、山かぜ吹くとも、またも必ず立ち寄らせ給ひなむかし』と言へば」
――(尼たちは)「ごもっとも」などと答えて、そのまま浮舟にお伝えしますが、何もおっしゃいません。仕方なく、妹の尼君が、「仕方がありませんから、ただもう、このように頼りないご様子を、薫の君に申し上げていただくほかありませんでしょう。ここは都からそれほど遠く離れた所でもありませんから、山は深くとも、また必ずお立ち寄りくださいませ」といいますと――
「すずろに居くらさむもあやしかるべければ、帰りなむとす。人知れずゆかしき御ありさまをもえ見ずなりぬるを、おぼつかなくくちをしくて、心ゆかずなりながら参りぬ」
――(小君は)用もないのに暮れるまで待っているのも変ですので、帰ろうとします。心ひそかに慕っていた姉君ですのに、そのお姿も見ることが出来ずじまいだったのも残念で、不満のまま薫のところへ帰って参りました――
「いつしかと待ちおはするに、かくたどたどしくてかへり来たれば、すさまじく、なかなかなり、と、思すことさまざまにて、人の隠しすゑたるにやあらむ、と、わが御心の思ひ寄らぬ隈なく、落とし置き給へりしならひに、とぞ本に侍るめる」
――(薫の君は)今か今かと待ち遠しく待っておられるところでしたのに、小君がこうも訳の分からぬ状態で帰ってきましたので、すっかり気落ちなさって、なまじ使いなど出さなければよかったと、あれやこれやと気を回されて、挙句の果てには、もしや誰かが、あの女(ひと)を小野に匿っているのではないかと、疑ってみたりもなさるのでした。それというのも、ご自分が抜け目なく気を配って、あの女(ひと)を宇治の山里に密かに囲ってお置きになった来し方に照らして、気を回してお考えにもなったとやら――
◆とぞ本に侍るめる=もとの本にそう書いてありました(写した人の注記で、鎌倉時代以後古形を示す意図から、度々慣用された)
―完― 長い間お付き合い頂き、ありがとうございました。