永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(187)その2

2017年04月29日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (187)その2  2017.4.29

「助と物語忍びやかにして、笏に扇のうちあたる音ばかりときどきして、ゐたり。内に音なうてやや久しければ、助に「『一日かひなうてまかでにしかば、心もとなさにさん』ときこえ給へ」とて入れたり。『はやう』と言へばゐざり寄りてあれど、とみにものも言はず。
内よりはたまして音なし。とばかりありて、おぼつかなう思ふにやあらんとて、いささかしはぶきの気色したるにつけて、『時しもあれ、悪しかりける折にさぶらひあひはべりて』と言ふをはじめにて、思ひはじめけるよりのこといとおほかり。」

◆◆助と小声で話して、笏に扇があたる音だけがしばらくしていました。御簾の内の方からは何も言わないで、かなり時間がたったので、助に「『先日はお伺いした甲斐もなく帰りましたので、気がかりでございまして』と申し上げてください」と私に言い伝えさせまっした。助が右馬頭に「さあ、早くお話ください」と勧めると、にじり寄ってきたけれど、すぐには言葉を発しない。しばらくして、右馬頭が不安に感じているのではないかと、私が、咳払いをしたのにつづいて、「先日は、ちょうどあいにくの時に参上いたしまして」と言うのを皮切りに、思い始めてからのことを、事こまかに話すのでした。◆◆



「内には、ただ、『いとまがまがしきほどなれば、かうのたまふも夢の心ちなんする。ちひさきよりも世にいふなる鼠生ひのほどにだにあらぬを、いとわりなきことになん』などやうにこたふ。声いといたうつくろひたなりときけば、我もいと苦し。」

◆◆内からはただ、「まだまだ子どもで縁談など程遠く、はばかられる年ごろでございますので、このように仰せられますのも、夢のような気がいたします。小さいというよりも世間で言います鼠生いでさえございませんので、とてもご無理なお申し出でございまして」というように答えます。右馬頭の声が、いかにも改まった物言いであるので、私もひどく
心苦しいのでした。◆◆


■鼠生ひ=当時の言葉風習。生まれたばかりの鼠のように、ひ弱な状態。


蜻蛉日記を読んできて(187)その1

2017年04月27日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (187)その1  2017.4.27

「二日ばかりありて、ただ言葉にて『侍らぬほどにものしたまへりけるかしこまり』など言ひて、たてまつれて後、『いとおぼつかなくてまかでにしを、いかで』とつねあり。『にげないことゆゑに、あやしの声までやは』などあるは、許しなきを、『助にものきこえむ』と言ひがてら、暮れにものした。」

◆◆二日ほどして、私の方から口上として、「留守の間においでになったそうで、大変失礼をいたしました」と使いの者をやりましたところ、その後で、「先日はお目にかかれずお暇いたしましたが、どうぞお目もじのほどを」と始終言ってきます。「どうも不似合いであるから、私のお聞きぐるしい声までお耳を汚すことはどうも」と言っているのは、許さないということなのに、「助の君にお話があります」と言いがてら、夕暮れにやってきました。◆◆



「いかがはせんとて格子二間ばかり上げて、簀子に火ともして廂にものしたり。助、対面して、『はやく』とて椽にのぼりぬ。妻戸をひきあけて『これより』といふめれば、あゆみ寄るものの、又たちのきて、『まづ御消息きこえさせたまへかし』と忍びやかにいふめれば、入りて、『さなん』とものするに、『おぼし寄らんところにきこえよかし』など言へば、すこしうち笑ひて、よきほどにうちそよめきて入りぬ。」

◆◆どうしたものか、仕方がないと格子を二間(ふたま)だけ上げて、簀子に灯火をともし、廂の間に招き入れました。助が会って、「さあ、どうぞ」と勧めて、右馬頭は縁に上がりました。助が妻戸を引き開けて、「こちらから」というようなので、歩み寄ったけれど、またあとへ下がって、「まずは母君にお取次ぎください」と小声で言っている様で、助が来て、私に「そのようにおっしゃっています」と言うので、「思し召し(養女)のところで申し上げなさいよ」と言うと、少し笑って、程よく衣ずれの音をさせて、廂の間に右馬頭が入ってきました。◆◆


■椽(えむ)=たるき。縁

■二間(ふたま)=「間」は柱と柱の間のことをいう。


蜻蛉日記を読んできて(186)

2017年04月25日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (186) 2017.4.25

「ついたち、七八日のほどの昼つかた、『右馬頭おはしたり』といふ。『あなかま、ここになしとこたへよ。もの言はむとあらんに、まだしきに便なし』など言ふほどに入りて、あらはなる籬の前に立ちやすらふ。例もきよげなる人の、練りそしたる着て、なよよかなる直衣、太刀ひきはき、例のことなれど、赤色の扇すこし乱れたるを持てまさぐりて、風はやきほどに纓吹き上げられつつ立てるさま、絵にかきたるやうなり。」

◆◆四月上旬の七、八日ごろの昼時分に、「右馬頭さまがおいでになりました」という。「ちょっと静かに。私は留守だと伝えなさい。話をしたいということでしょうが、まだ早すぎて、都合が悪いし」と言っているうちに、頭は入って来て、中からもその姿が丸見えの籬(まがき)の前に佇んでいます。いつもきれいなこの人が、十分練り上げた袿を着て、その上にしなやかな直衣を着、太刀を腰につけ、いつものことだけれど、赤色の扇のすこし形のくずれたのを手にもてあそんで、折からの風に冠の纓(えい)を上に吹き上げられながら立っている姿は、まさに絵にかいたように美しい。◆◆



「『きよらの人あり』とて、奥まりたる女どもなど、うちとけ姿にて出でて見るに、時しもあれ、この風の、簾を外へ吹き内へ吹き、まどはせば、簾をたのみたるものども我か人かにて押さへひかへさわぐまに、なにか、あやしの袖口もみな見つらんと思ふに、死ぬばかりいとほし。」

◆◆「きれいな人が来ている」といって、奥まっているいるところにいる侍女たちが、うちとけた姿のままで出てみると、なんと時も時、風が簾を外へ内へと吹きまくって、簾を頼みと陰から見ていた者どもが、すっかり慌てて無我夢中で簾を押さえたりひっぱったり騒ぐ間に、なんとまあ、見苦しい袖口も全部見られてしまったと思うと、私は死んでしまいたいほど恥ずかしい気持ちでした。◆◆



「よべ出居のところより、夜ふけて帰りて寝臥したる人を起こすほどに、かかるなりけり。からうして起き出でて、ここには人もなきよし言ふ。風のこころあわたたしきに、格子をみな、かねてよりおろしたるほどにあらば、何ごと言ふもよろしきなりけり。しひて簀子にのぼりて、『今日よき日なり。わらうだ貸い給へ。居そめん』などばかりかたらひて、『いとかひなきわざかな』とうちなげきて帰りぬ。」

◆◆昨夜弓の練習場から夜ふけて帰ってきてまだ寝ている助を起こしている間に、こんな不様なことがあったのでした。やっと起きてきて助が、目下家の者は皆不在であることを告げます。風がひどく吹き荒れていた時だったので、格子をみな前から降ろしていたので、どのように言っても良いことでした。右馬頭は強引に簀子(すのこ)にまで上ってきて、「今日は吉日です。どうか円座を貸してください。座り初めをしたいのです」などと話したきり、「どうも伺った甲斐がないことでした」をため息をつきながら帰っていきました。◆◆


■纓(えい)=冠の後部に垂らした羅(うすもの)



蜻蛉日記を読んできて(185)

2017年04月24日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (185) 2017.4.24

「三月になりぬ。かしこにも女方につけて申しつがせければ、その人の返りごと見せにあり。『おぼめかせたまふめればなむ。これかくなん殿のおほせはべめる』とあり。見れば、『<この月、日悪しかりけり。月立ちて>となん、暦御覧じてただ今ものたまはする』などぞ書いたる。いとあやしう、いちはやき暦にもあるかな、なでふことなり、よにあらじ、この文かく人の空言ならんと思ふ。」

◆◆三月になりました。右馬頭は兼家宅にもあちらの女房を頼って、養女の件を取り次がせていたので、その女房の返事を見せに寄こしました。右馬頭からの『ご不審にお思いのようでしたから。このように殿の仰せがございましたので。』とあります。見ると、「『この月は日が悪いね。月が改まってから』と、暦をごらんになって、たった今も、おっしゃっていられます」などと書いてあります。どうも奇妙なこと。強引な暦勘定だこと。そんなことは断じてないはず。この手紙を書いた人の作り事であろうと思う。◆◆

【解説】 蜻蛉日記 下巻 上村悦子著より
(前略)右馬頭遠度(うまのかみとおのり)は、兼家の異母弟であるから相当な年齢であるはずである。(四十歳前後)親子ほど年齢のちがう養女に求婚の意向をもらしたので作者も最初は信じなかったのも無理がない。(中略)
そもそも遠度に養女のことを漏らした張本人は兼家自身に違いない。(中略)作者は養女に后がねとして十分な教養をつけ、出来るなら宮中に入内させるか、章明(のりあき)親王のような妃をたいせつにする、しかるべき宮に縁づけたいと考えていたのではないかと思われる(憶測に過ぎないが)。


蜻蛉日記を読んできて(184)その3

2017年04月19日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (184)その3  2017.4.19

「さて返りごと、今日ぞものする。『このおぼえぬ御消息は、この除目の徳にやと思ひたまへしかば、くなはちもきこえさすべかりしを、<殿に>などのたまはせたることのいとあやしうおぼつかなきを、たづねはべりつるほどの、唐土ばかりになりにければなん。されどなほ心えはべらぬは、いときこえさせんかたなく』とてものしつ。端に、<曹司にとのたまはせたる武蔵は、≪みだりに人を≫とこそきこえさすめれ>となん。さて後、同じやうなることどもあり。返りごと、たびごとにしもあらぬに、いたうはばかりたり。」

◆◆さて、返事はやっと今日したためました。「この思いがけないお手紙は、この度の除目のためかと存じましたので、ただちにお返事申し上げねばなりませんでしたが、『殿に』などとおっしゃいました事がとても気になりましたので、訊ねておりました間に、唐土へ問い合わせるほどの時間がかかりました次第でございます。けれどもやはり納得できませんことで、何とも申し上げようもございません」と書きました。そして端に、「お部屋にとおっしゃいます武蔵は、『みだりに人を』と申しているようでございます。と書き添えました。さて、その後も同じような便りが幾度もありました。返事はその度ごとには必ずしもしませんでしたので、右馬頭は遠慮がちでありました。◆◆


■「みだりに人を」=後撰集「白河の滝のいと見まほしけれどみだりに人は寄せじものをや」右馬頭に協力する意思のないことをいう。


蜻蛉日記を読んできて(184)その2

2017年04月14日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (184)その2  2017.4.14

「おぼつかなうもやありけん、助のもとに『切にきこえさすべきことなんある』とて、よび給ふ。『いまいま』とてあるほどに、使ひはかへしつ。そのほどに雨ふれど『いとほし』とて出づるほどに、文とりて帰りたるを見れば、紅の薄様ひとかさねにて、紅梅に付けたり。言葉は、「石の上とふことは、知ろしめしたらんかし、
<春雨にぬれたる花の枝よりも人しれぬ身の袖ぞわりなり>
あが君あが君、なほおはしませ』と書きて、などにかあらん、『あが君』とある上は、書い消ちたり。助、『いかがせん』といへば、『あなむつかしや、道になん逢ひたるとて、まうでられね』とて出だしつ。」

◆◆右馬頭のほうは気がかりだったのであろうか、助のもとに、「是非申し上げたいことがございます」と言ってお呼びになります。「すぐ参ります」といってとりあえず使いの者を帰しました。そのうちに雨になって、「お待たせするのは申し訳ない」といって助が出かけて、お手紙を手にして戻ってきたのをみますと、紅色の薄様をひとかさねにして、紅梅の枝につけてありました。文面は、「『石の上(いそのかみ)』という古歌をごぞんじでしょうね。
(右馬頭の歌)「春雨に濡れた紅梅よりも、人知れず血に染まった私の袖の方がひどい」
あが君あが君、やはりお出でください」と書いて、どうした訳かしら、「あが君」と書いてあるところはそのうえを墨で消してあります。助が「どうしましょう」と言うので、「まあ、面倒なこと、途中で使いに逢ったと言ってお伺いしていらっしゃい」と言って兼家邸に送り出しました。◆◆



「帰りて、『<などか、御消息ここえさせ給ふあひだにても、御かへりのなかるべき>と、いみじううらみきこえ給ひつる』など語るに、いま二三にちばかりありて、『からうして見せたてまつりつ。のたまひつるやうは、<なにかは、いま思ひさだめてとなん言ひてしかば、返りことははやう推し量りてものせよ。まだきに来むとあることなん、便なかめる。そこに娘ありといふことは、なべて知る人もあらじ。人、異様にもこそ聞け>となんのたまふ』ときくに、あな腹だたし、その言はん人を知るはなぞ、と思ひけんかし。」

◆◆助は帰って来て、「右馬頭さまは『どうして、殿にお問合せをなさっている間でも、ご返事いただけない筈はないでしょうに』と大変お恨みになってお出ででしたよ」などと話して、さらに二、三日くらい経って、助が、「やっと父上にあの手紙をお見せしました。そしておっしゃるには、『なに、かまわない。そのうちにこちらの返事はすると言っておいたから、そちらから返事は早くよいように書いておけばよい。まだ年頃でもないのに、通って来たいなどと言っているのは具合が悪い。第一、そちらに娘がいるなどとは世間では知っていないだろう。変な噂がたっては困るよ』とおっしゃっていました」ということを聞いて、何と腹立たしいこと。その誰もが知らないはずの娘のことを右馬頭が知っているのはなぜ?そもそもあの人が漏らしたからではないかと思ったことでしたよ。◆◆


■『石の上(いそのかみ)』=古今集「石上(いそのかみ)ふるとも雨にさはらめや逢はんと妹にいひてしものを」(雨が降っても来て欲しいという気持ちをあらわしている)

蜻蛉日記を読んできて(184)その1

2017年04月11日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (184)その1  2017.4.11

「からうして帰りて又の日、出居のところより夜ふけて帰りきて、臥したる所に寄り来て言ふやう、『殿なん、<きんぢが寮の頭の、去年よりいと切にのたうぶことのあるを、そこにあらん子はいかがなりたる。おほきなりや、心ちつきにたりや>などのたまひつるを、又、かの頭も<殿はおほせられつることやありつる>となんのたまひつれば、<さりつ>となん申しつれば、<あさてばかりよき日なるを、御文たてまつらむ>となんのたまひつる』と語る。いとあやしきことかな、まだ思ひかくべきにもあらぬを、と思ひつつ寝ぬ。
 
◆◆ようやくの思いで帰って来ての次の日、練習場から助(道綱)が夜更けて帰って来て、私の寝ているそぼにきて言うには、「殿(父・兼家)が、『お前の役所の長官(右馬頭)が、去年からひどく熱心におっしゃる事があるが、そちらにおいでになるあの女の子はどうしておいでかな。大きくおなりか、娘らしくなってきたか』などとお聞きになりました。また、その長官も『殿から何かおっしゃっられたことがおありでしょうか』とおっしゃられましたので、『はい、ございました』と申し上げますと、『明後日は佳き日にあたるので、御文をさしあげましょう』とおっしゃっていました。」と話します。まあ、奇妙なこと、まだ恋文などをもらうほどの年頃ではないのに、と思いつつ寝たのでした。◆◆



「さて其の日になりて文あり。いと返りごとうちとけしにくげなるさましたり。中の言葉は、『月ごろ思ひたまふることありて、殿に伝へ申させはべりしかば、<ことのさまばかりきこしめつ。いまはやがてきこえさせよとなんおほせ給ふ>とうけ給はりにしかど、いとおほけなき心のはべりけるとおぼし咎めさせ給はんを、つつみはべりつるになん。ついでなくてとさへ思ひ給へしに、司召しみ給へしになん、この助の君のかうおはしませば、まゐりはべらんこと、人見咎まじう思ひたまふるに>など、いとあるばかしう書きなし、端に、『武蔵といひはべる人の御曹司に、いかでさぶらはん』とあり。返りごときこゆべきを、まづこれはいかなることぞとものしてこそは、とてあるに、『<物忌みやなにやと折悪し>とて、え御覧ぜさせず』とてもて帰るほどに、五六日になりぬ。』

◆◆さてその日になって、長官(頭=かみ)から手紙が届きました。お返事をば、気を許して書けそうにもないような手紙です。中の言葉は、「幾月も前から、考えております(養女への求婚のこと)ことがありまして、殿に申し上げるようにいたさせましたところ、『殿は、事のあらましはお聞きとりくださいました。今はもう直接お話申し上げるようにと仰せになっておられます』と承りましたが、まことに身分不相応な望みを抱いていると、お咎めあそばすであろうと、遠慮申し上げていた次第でございます。その上良い機会もなくてと存じておりましたが、このほどの司召しの結果をみますと、この助の君が、このように同じ役所の勤めになられましたので、お宅に参上いたしますことを、誰も不審には思うまいと存じまして」などと、もっともらしく書いてあって、端に、「武蔵と申します人のお部屋に、是非とも伺候したいとものです」と書いてあります。◆◆


■武蔵といひはべる人=作者の侍女か。右馬頭に縁のある者であろうか。

蜻蛉日記を読んできて(183)

2017年04月08日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (183) 2017.4.8

「あるところに忍びておもひ立つ。『なにばかり深くもあらず』といふべきところなり。野焼きなどするころの、花はあやしう遅きところなれば、をかしかるべき道なれどまだし。いと奥山は鳥の声もせぬものなりければ、鶯だに音せず、水のみぞめづらかなるさまに湧きかへり流れたる。いみじう苦しきままに、かからである人もありかし、憂き身ひとつをもてわづらふにこそはあめれと思ふ思ふ、入相つくほどにぞ至りあひたる。」

◆◆あるとことにこっそりと出かけようと思い立った。「なにばかり深くもあらず」と言ってみたいような場所です。野焼きなどするころで、桜は今が咲く時期なのに、どうしたものか、本来は道々美しい桜の見られるところのはずなのに、まだまだでした。実際山の奥深いところでは鳥の声もしないものでしたから、鶯の声も耳にせず、川の水だけが勢いよくほとばしって流れています。(山奥なので徒歩)たいそう苦しくてたまらないままに、こんな苦労を味わわない人も世の中にはいるのだろう。私はつらい憂き身ひとつを持て余しているんだわ、と思い思いして、入相の鐘がなるころに寺に到着したのでした。



「御灯明などなてまつりて、ひとときばかり立ち居するほど、いとど苦しうて、夜あけぬときくほどに、雨降りいでぬ。いとわりなしと思ひつつ、
法師の坊にいたりて『いかがすべき』など言ふほどに、ことと明けはてて、『蓑、傘や』と人はさわぐ。」

◆◆み仏さまにお灯明などを上げて、数珠をひとつずつ繰っては立ったり座ったりして礼拝している間に、ますます苦しくなってきて、「夜が明けた」という声を耳にするころに雨が降ってきました。ああなんと困ったことだと思いながら、庫裏に行って、「どうしたらよいかしら」などと言っているうちに、夜がすっかり明けきって、「蓑だ、傘だ」と供人たちが騒いでいます。◆◆



「我はのどかにてながむれば、前なる谷より雲しづしづとのぼるに、いとものがなしうて、
<おもひきやあまつ空なるあま雲を袖して分くる山踏まんとは>
とぞおぼえけらし。雨いふかたなけれど、さてあるまじければ、とかうたばかりて出でぬ。あはれなる人の、身に添ひて見るぞ、我がくるしさもまぎるばかり、かなしうおぼえける。」

◆◆私自身はおちついた気分で、ぼんやりと外を眺めていると、前の谷から雲がしずかに登ってきて、それをみているとひどくもの悲しくなって、
(道綱母の歌)「思いもしなかったことです。空に浮かぶ雨雲を袖で押し分けて奥山に詣でようとは。そんなはかない身の上になろうとは。」
という歌が心に浮かんだようだった。雨がいいようもなくひどく降っているけれども、そのまま寺にいるわけにもいかず、あれこれと雨を防ぐ用意をしながら、出発しました。あのいじらしい養女が、私の身に寄り添っているのを見ると、自分の苦しさも忘れてしまうくらい、いとしく感じたことでした。◆◆


■『なにばかり深くもあらず』=「何ばかり深くもあらず世の常の比叡を外山(とやま)と見るばかりなり」大和物語43による。この歌は横川を詠んだもの。

■奥山は鳥の声もせぬもの=古今集「飛ぶ鳥の声もきこえぬ奥山の深き心を人は知らなん」

■鶯だに音せず=古今集「春やとき花やおそきと聞きわかむ鶯だにも鳴かずもあるかな」

■あはれなる人=養女。ここで養女同伴での参詣であったことが分る。



蜻蛉日記を読んできて(182)

2017年04月05日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (182)  2017.4.5

「廿五日に、大夫しも、ひんがしなどにそそきおこなひなどす。などぞすらんと思ふほどに司召しのことあり。めづらしき文にて、『右馬助になん』と告げたり。ここかしこによろこびものするに、その寮の頭、叔父にさへものしたまへば、まう出たりける、いとかしこうよろこびて、ことのついでに、『殿にものしたまふなる姫君はいかがものし給ふ。いくつにか、御年などは』と問ひけり。」
◆◆二十五日に、大夫(道綱)が、東の廂の間で熱心に勤行に励んでいます。なぜかと思っていると、司召しのことがあったのでした。あの人から珍しい手紙がきて、「右馬助になったよ」と知らせてきた。助があちこちに任官のお礼回りをしたときに、その役所の長官は叔父に当る方でもあったので、大変喜んでくださって、話のついでに、「お宅においでになるという姫君はどういうお方でしょうか。おいくつですか、お歳は」と尋ねるのでした。◆◆



「帰りて、『さなん』と語れば、いかで聞き給ひけん、なに心もなく、思ひかくべきほどしもあらねば、やみぬ。」
◆◆助が帰宅して、「これこれでした」と話すので、いったいどうしてあの娘のことを聞くのかしら、あの娘はまだまだ子どもっぽく、懸想の相手にされるような歳ごろではないからと思って、そのままにしておきました。◆◆



「そのころ院の賭弓あべしとてさわぐ。頭も助もおなじ方に、出居の日々には行きあひつつ、おなじことをのみの給へば、『いかなるにかあらん』など語るに、二月廿日のほどに夢にみるやう、(本)」
◆◆そのころ、院の賭弓(のりゆみ)のことがあるというので大騒ぎしています。長官も助も同じ組で、助が練習に出かける日ごとに、長官と顔を合わせると、その度に長官が同じことばかり仰るので、「どうしたことでしょうか」などと私に話していましたが、二月二十日ごろ、夢に見たことは、(以下本文脱落か)◆◆


■司召(つかさめし)=官吏の任命をいうが、特に京官任命の公事(くじ)をさす場合が多い。

■右馬助(むまのすけ)=右馬寮の次官。馬寮(めりょう)は宮中の御厩の馬・馬具・および諸国の牧場を司る役所。左右に別れ、長官をそれぞれ左馬頭(さまのかみ)、右馬頭(うまのかみ)という。

■叔父=藤原遠度(とおのり)=兼家の異母弟。道綱の叔父にあたる。

■院の賭弓(のりゆみ)=「院」は冷泉院。賭弓は宮中で弓射の試合をして天覧に供する行事。年中行事では一月十八日に行われる。ここはそれに準じて院でも行われ、冷泉院がご覧になる。

■(本)=原本のまま写したとの意の注記が本文に竄入(ざんにゅう)・この箇所に夢の記事があったと思われるがだつらくしたのか。底本、以下行末まで空白。一説では何人(なんぴと)かの故意の削除か。残念である。

蜻蛉日記を読んできて(181)

2017年04月02日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (181) 2017.4.2

「帰りて三日ばかりありて、賀茂に詣でたり。雪風いふかたなう吹りくらがりてわびしかりしに、かぜおこりて臥しなやみつるほどに、霜月にもなりぬ。しはすもすぎにけり。」

◆◆帰ってからまた三日ばかり後に、賀茂神社にお参りをしました。雪と風がひどくふぶいて、あたりが暗くなり、とても辛かったうえに、風邪をひいて寝込んで悩んでいるうちに、十一月にもなり、やがて十二月もすぎてしまいました。◆◆



「十五日、地震あり。大夫の雑色の男ども、『地震す』とてさわぐを聞けば、やうやう酔ひすぎて『あなかまや』などいふ声きこゆる、をかしさに、やをら端のかたにたち出でて見やりたれば、月いとをかしかりけり。」

◆◆一月十五日には儺火がありました。道綱の召使いたちが、「儺火をする」といって騒いでいるのを聞いていると、だんだん酔いが回って、「しっ、静かに」などという声が聞こえてくる。興味をそそられて、そっと端近に出て外を見てみると、月がたいへんきれいでした。◆◆



「東ざまにうち見やりたれば、山かすみわたりていとほのかに心すごし。柱により立ちて、思はぬ山なく思ひ立てれば、八月より絶えにし人、はかなくてむ月にぞなりぬるかし、とおぼゆるままに、涙ぞさくりもよよにこぼるる。さて、
<諸声にまくべきものを鶯はむつきともまだ知らずやあるらん>
とおぼえたり。

◆◆東の方を見わたすと、山一面に霞が渡ってほんのりとして見え、一段と寂しい気持ちになるのでした。柱に寄りかかって、どこでもいい、山に姿を隠してしまおうかと思いながら立っていると、八月以来訪れのないあの人は、あのまま音沙汰なくてとうとう正月になってしまったのだなあと思うと、涙がしゃくりあげるようにこみ上げてきました。そこで
(道綱母の歌)「一緒に泣いてくれるはずの鶯はまだ正月になったことを知らないのだろうか。私はただ独りで泣いてばかりいます」


■地震(なゐ)あり=儺火か? 確実なところは分らない。一説には、正月十四日の夜から十五日にかけてと十八日に行われた。陰陽師による悪魔祓いの行事。火祭り、だとも言う。

■うぐいす=正月は鶯が山から里に出てくる時という。