永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(1279)

2013年07月29日 | Weblog
2013. 7/29    1279

五十四帖 【夢浮橋(ゆめのうきはし)の巻】 その13

「この子も、さは聞きつれど、をさなければ、ふと言ひ寄らむもつつましけれど、『また侍る御文、いかで奉らむ。僧都の御しるべには、たしかなるを、かくおぼつかなく侍るこそ』と伏し目にていへば、『そそや。あなうつくし』など言ひて、『御文御覧ずべき人は、ここにものせさせ給ふめり。見証の人なむ、いかなることにか、と、心得がたく侍るを、なほのたまはせよ。をさなき御程なれど、かかる御しるべに頼みきこえ給ふやうもあらむ』など言へど」
――この小君も、姉の浮舟がここにいるとは聞いてはいましたが、何分幼いので、ふいと言葉をかけることも恥かしく、それでも、「もう一通別のお手紙を是非差し上げたいのですが、僧都のお話くださったところでは、こちらに姉が居ることは確かですのに、こうはっきりいたしませんでは…」と伏し目になって言いますと、尼君が、「おお、そうですか、そうですか。何とまあ、可愛らしいこと」などと言って、「お手紙をご覧になるお方は、ここにおいでのようでございますよ。私どものような門外漢には、何のことやらわかりませんから、もっとよく事情をお話ください。ご幼少ですが、薫の君がこうした大事なお使いをご依頼申されるだけの訳もおありでしょうから」など言います――

「『思し隔て、おぼおぼしくもなさせ給ふには、何ごとをか聞え侍らむ。うとく思しなりにければ、聞ゆべきことも侍らず。ただこの御文を、人づてならで奉れ、とて侍りつる、いかで奉れむ』と言へば、」
――(小君が)「姉上が分け隔てをなさって、はっきりしないお扱いでは、何を申し上げられましょう。私を他人と思っていらっしゃるのでしたら、申し上げることもございません。ただこのお文を、直接姉上に差し上げよと仰ってお渡しくださったのです。ですから何とかして差し上げたいのですが」と言いますので――

「『いとことわりなり。なほいとかくうたてなおはせそ。さすがにむつくけき御心にこそ』と聞え動かして、几帳のもとに押し寄せてたてまつたれば、あられもあらでゐ給へる、けはひ、こと人には似ぬ心地すれば、そこもとに寄りて奉りつ。『御かへりとくたまはりて、参りなむ』と、かくうとうとしきを、心憂しと思ひて、いそぐ」
――(尼君が)「ほんとうにご無理もありません。いつまでもそのような不愉快なご態度をおとりなさいますな。物怪にとりつかれた人だけあって、どうにも気味悪いお心ですね」と口説き進めて、几帳の側に押し出してさしあげます。小君は、そこに座っておいでの浮舟のご様子が、まししく別人とは思われないので、その側に近寄って、お文を差し上げました。「お返事をはやく頂いて帰参いたしましょう」と、あまりにも他人行儀な扱いをうけて、情けなく思って、お急かせします――

では7/31に。

源氏物語を読んできて(1278)

2013年07月27日 | Weblog
2013. 7/27    1278

五十四帖 【夢浮橋(ゆめのうきはし)の巻】 その12

「とばかりためらひて、『げにへだてあり、と思しなすらむが苦しさに、ものも言はれでなむ。あさましかりけむありさまは、めづらかなることと見給ひてけむを、さて現し心も失せ、魂など言ふらむものも、あらぬさまになりにけるにやあらむ、いかにもいかにも、過ぎにし方のことを、われながら、さらにえ思ひ出でぬに、』」
――(浮舟は)しばらくためらっておいでになって、「ほんとうによそよそしいとお恨みのご様子が辛くて、何も申し上げられません。私が見つけられた時の、ひどい有様は、どんなにか怪しくお思いになったことでございましょう。そのまま正気も失せ、魂とかいうものも、変わっていまったのでしょうか。何もかも昔の事は一向に思い出せませんのに…」――

「『紀伊守とかありし人の、世のものがたりすめりし中になむ、見しあたりのことにや、と、ほのかに思ひ出でらるることある心地せし。そののち、とざまかうざまに思ひ続くれど、さらにははかばかしくも覚えぬに…』」
――「先日、紀伊の守とかいう方が世間話をしておられたその中に、もと私が住んでいました辺りかしらと、かすかに思い出されることがあるような気がいたしました。それからというもの、あれやこれやと考え続けていますが、いっこうに思い出しませんのに…」――

 つづけて、

「『ただ一人ものし給ひし人の、いかで、とおろかならず思ひためりしを、まだや世におはすらむ、と、そればかりなむ心に離れず、悲しき折々侍るに、この童の顔は、ちひさくて見し心地するにも、いと忍びがたけれど、今さらに、かかる人にも、ありとは知られでありなむ、となむ思ひ侍る…』」
――「ただ一人おいでになる母上が、なんとかして私を仕合せにしたいと並々ならず心配して、心を込めて育ててくださったので、今でも生きていらっしゃるかと、そればかりは忘れることはなく、悲しく思う事が折々ございます。この子の顔を今日見ますと、幼い頃に見たような気がしまして、まことに堪え切れぬ思いでございますが、今となっては、こうした弟などにも、生きているとは知られずに居たいと、そう思うのでございます…」――

 さらに、浮舟は、

「『かの人もし世にものし給はば、それ一人になむ、対面せまほしく思ひ侍る。この僧都ののたまへる人などには、さらに知られたてまつらじ、とこそ思ひ侍れ。かまへて、ひがごとなりけり、と聞えなして、もてかくし給へ』とのたまへば、『いと難いことかな。僧都の御心は、聖といふ中にも、あまりくまなくものし給へば、まさに残りては聞え給ひてむや。のちに隠れあらじ。なのめに軽々しき御程にもおはしまさず』など、言ひ騒ぎて、『世に知らず心強くおはしますこそ』と、皆言ひ合はせて、母屋の際に几帳立てて入れたり」
――「母上が、もし生きておいでならば、その方お一人にはお目にかかりとうございます。この僧都の御文にあります御方(薫)には、決して知られたくございません。是非ともお人違いであったとお答えになって、お隠しくださいませ」とおっしゃいます。妹尼は、「それは難しいことです。あの僧都のお心は、真正直すぎるほどでいらっしゃるので、きっと何もかも申し上げておしまいになるでしょう。後ですっかり分かってしまいますよ。また大将殿にしましても、こうした事情をなまじ隠しておけるような、軽いご身分ではいらっしゃいませんしね」などと、うるさく言って、「世にも珍しい気の強い方ですこと」などと、他の尼たちも言いながら、母屋の端に几帳を立てて、小君を招じ入れました――

では7/29に。


源氏物語を読んできて(1277)

2013年07月25日 | Weblog
2013. 7/25    1277

五十四帖 【夢浮橋(ゆめのうきはし)の巻】 その11

「まがふべくもあらず、書きあきらめ給へれど、こと人は心も得ず。『この君は、誰にかおはすらむ。なほいと心憂し。今さへかくあながちに隔てさせ給ふ』と責められて、すこし外ざまに向きて見給へば、この子は、今はと世を思ひなりし夕ぐれにも、いとこひしと思ひし人なりけり」
――間違いのない事実をはっきりと書いてありますが、他人には何のことか分かりません。「この君はどのようなお方でしょう。まあ何と情けない事。今になってもまだこう頑なにお隠しになるのですか」と妹尼に責められて、尼姫君が、ちらと御簾の外の方に顔を向けられますと、そこに居るのは、いよいよ死を覚悟した夕べにも、大そうなつかしく思い出された弟(父の違う)なのでした――

「同じ所にて見し程は、いとさがなく、あやにくにおごりてにくかりしかど、母のいとかなしくして、宇治にも時々率ておはせしかば、すこしおよずけしままに、かたみに思へりし童心を、思ひ出づるにも夢のやうなり」
――同じ家に暮らした時分は、たいそう意地悪く、いやに偉そうにして憎らしかったけれど、母親が他の兄弟よりもたいそう可愛がって、宇治にもときどき連れて来られましたので、少しずつ成長するに従って、お互いに姉弟らしく慈しみ合うようにもなっていたのでした。その子供心の無邪気さを思い出すにつけても、夢のような気がします――

「先づ母のありさま、いと問はまほしく、こと人々の上は、おのづからやうやう聞けど、親のおはすらむやうは、ほのかにもえ聞かずかし、と、なかなかこれを見るに、いと悲しくて、ほろほろと泣かれぬ」
――浮舟は何よりもまず、母の様子を尋ねたい、他の人たちのことはおのずと耳にも入ってきますが、親子がどうしていらっしゃるかは、ほんのすこしも耳に入って来ないものよ、しかしなまじ小君と顔を合わせたりしたら…と思うと、たまらなく悲しくなって、ついほろほろと涙がこぼれるのでした――

「いとをかしげにて、すこしうちおぼえ給へる心地もすれば、『御兄弟にこそおはすめれ。聞えまほしく思すこともあらむ。うちに入れたてまつらむ』を言ふを、何か、今は世にあるものとも思はざらむに、あやしきさまに面変はりして、ふと見えむもはづかし、と思へば…」
――小君がたいそう愛らしげで、少し浮舟に似ておられる気もしますので、尼君が、「この方は、あなたのご兄弟でなのでしょうね。お話したいこともおありでしょう。内へお入れしましょう」と言うのを、姫君は、いや、小君にしても、よもや私がこうして生きているとは思ってもいまいに、このような面変わりした尼姿で、ふと逢うのも恥かしいと思って…――

◆写真:春の三室寺

では7/27に。

源氏物語を読んできて(1276)

2013年07月23日 | Weblog
2013. 7/23    1276

五十四帖 【夢浮橋(ゆめのうきはし)の巻】 その10

「あやしけれど、『これこそは、さはたしかなる御消息ならめ』とて、『こなたに』と言はせたれば、いときよげにしなやかなる童の、えならず装束きたるぞ、歩み来る」
――僧都のお手紙がきたばかりなのに、また御文とは腑に落ちませんが、妹尼は「それではこれが、薫の君のお手紙なのでしょう」と察して、「こちらへ」と言わせますと、大そう美しく着飾った子が歩み寄って来ます――

「円座さし出でたれば、簾のもとについ居て、『かやうにてはさぶらふまじくこそは、僧都はのたまひしか』と言へば、尼君ぞいらへなどし給ふ」
――円座(わろうだ)を差し出して進めますと、簾の前に膝をついて、「こうした他人行儀なお扱いを受ける筈はないように僧都は仰せられましたが」と言いますので、尼君が出て応対なさる――

「文取り入れて見れば、『入道の姫君の御方に、山より』とて名書き給へり。あらじ、などあらがふべきやうもなし。いとはしたなく覚えて、いよいよ引き入られて、人に顔も見合わせず。『常も誇りかならずものし給ふ人柄なれど、いとうたて心憂し』など言ひて、僧都の御文見れば…」
――その御文を取り入れてご覧になりますと、「入道の姫君に、山より」と書いて、僧都の名が記されてあります。人違いでしょうと言い分けのしようもありません。姫君はただ恥かしくて、ますます奥の方に引きこんで、誰にも顔を合わせません。妹尼が、「いつも内気でいらっしゃるのは存じておりますが、それではあまりにも情けないご態度です」などと言って、僧都の御文を見ますと…――

 御文は、

「『今朝ここに、大将殿のものし給ひて、御ありさまたづね問ひ給ふに、はじめよりありしやうくはしく聞え侍りぬ。御こころざし深かりける御中を、背き給ひて、あやしき山がつの中に、出家し給へること。かへりては、仏の責め添ふべきころなるをなむ、いけたまはりおどろき侍る。いかがはせむ。もとの御契りあやまち給はで、愛執の罪をはるかしきこえ給ひて、一日の出家の功徳は、はかりなきものなれば、なほ頼ませ給へ、となむ。ことごとには、みづからさぶらひて申し侍らむ。かたがつこの小君聞え給ひてむ』と書いたり」
――「今朝こちらへ薫大将がお出でになりまして、姫君(浮舟)のご様子をお尋ねになりましたので、はじめからの事情を詳しく申し上げました。薫の君のご愛情は深かった御仲ですのに、背を向けられて、見ぐるしい田舎者たちの中で出家されたとは! 却って仏のお咎めを受ける事でございましょうに、今更承って驚いております。しかしこうなった以上は致し方ございません。昔どおり、夫婦の御縁をお結びになり、薫の君の愛執の罪を晴らしてお上げなさいまし。一旦出家した功徳は、計り知れないものですから、なお行く末は頼もしく存じます。細かいことは私自身伺って申し上げましょう。とりあえず、この小君がお話することでございましょう」と認めてあります――

◆写真は三室戸寺境内

では7/25に。

源氏物語を読んできて(1275)

2013年07月21日 | Weblog
2013. 7/21    1275

五十四帖 【夢浮橋(ゆめのうきはし)の巻】 その9

「かの殿は、この子をやがてやらむ、と思しけれど、人目多くてびんなければ、殿に帰り給ひて、またの日、ことさらにぞ出だし立て給ふ。むつまじく思す人の、ことごとしからぬ二三人、送りにて、昔も常につかはしし随身添へ給へり。人聞かぬ間に呼び寄せ給ひて、『あこが亡せにしいもうとの顔はおぼゆや。今は世に亡き人と思ひ果てにしを、いとたしかにこそものし給ふなれ。うとき人には聞かせじ、と思ふを、往きてたづねよ。母には、まだしきに言ふな。なかなかおどろき騒がむ程に、知るまじき人も知りなむ。その親のみ思ひのいとほしさにこそ、かくもたづぬれ』と、まだきにいと口がため給ふを、をさなき心地にも、兄弟は多かれど、この君の容貌をば、似るものなし、と思ひしみたりしに、亡せ給ひにけり、と聞きて、いと悲しと思ひわたるに、かくのたまへば、うれしきにも涙の落つるを、はづかしと思ひて、まぎらはしに、『をを』と荒らかに聞え居たり」
――薫は、小君をここからすぐに小野に遣ろうと思われましたが、大勢の供人の手前も具合が悪いので、一旦自邸にお戻りになってから、翌日、改めて小君を小野へ使いにお出しになります。薫が親しくしておられる人で、身分も大して重くもない二、三人が送り役で、あの頃も始終浮舟の所へお遣わしになった随身を添えておやりになります。薫は密かに小君をお側に召し寄せて、「お前は、行方知れずになった姉君の顔を覚えているか。今は世に亡い人と諦めていたところ、間違いなく生きているということだ。他人には聞かせまいと思うのだがね、行って調べて来い。母君には、まだ確かめぬうちから言うな。かえって驚き騒ぐうちに、知ってはならぬ人まで知ってしまうからね。母君のそのお嘆きが気の毒だからこそ、これ程までしてしらべるのだから」と、事前に固く口止めなさるのを、小君は子供心にも、大勢の兄や姉の中で、この姉の容貌を、及ぶ人も無いほど美しいと思い込んでいましたのに、亡くなったと聞いてたいそう悲しく思いつづけていたのでした。それを、突然こう仰せられますので、うれしさもひとしおで、われ知らず涙の落ちるのも気まりが悪く、「はい」と凛々しくお答え申し上げるのでした――

「かしこには、まだつとめて、僧都の御許より、『よべ大将殿の御使ひにて、小君やまうで給へりし。ことのこころ承りしに、あぢきなく、かへりて臆し侍りてなむ、と、姫君に聞え給へ。みづから聞えさすべきことも多かれど、今日明日過ぐしてさぶらふべし』と書き給へり」
――小野の尼君の所へは、早朝に僧都の許からお手紙で、「昨夜、薫の君のお使いとして、小君が参上されましたか。薫の君から事情を伺いましたが、どうも出家をおさせしたことが、気後れしておりまして、今になって恐縮していますと姫君にお伝え申し上げてください。私自身で申し上げたい事がありますが、今日明日を過ごしてから、お伺いいたしましょう」と書いてあります――

「これはなにごとぞ、と尼君おどろきて、こなたへもてわたりて見せたてまつり給へば、おもてうち赤みて、もののきこえのあるにや、と苦しう、もの隠ししけり、と恨みられむを思ひ続くるに、いらへむかたなくて居給へるに、『なほのたまはせよ。心憂く思し隔つること』といみじくうらみて、ことの心を知らねば、おわただしきまで思ひたる程に、『山より、僧都の御消息にて、参りたる人なむある』と言ひ入れたり」
――これはどうしたことであろうと、妹尼はおどろいて、浮舟のお部屋にその手紙を持ってきて、お見せ申しますと、尼姫君はお顔を赤らめて、さては自分の事が評判になったのかしら、隠しごとをいていたと、この尼たちにもさぞかし恨まれることだろうと思いつづけますと、何とお返事をしてよいか、途方にくれて黙っていらっしゃる。尼君が、「お隠しにならずに仰ってくださいまし。分けヘだてなさるとは情けない」と、ひどく恨みながら、それにしても事情が分かりませんので、ただただうろたえております。そこへ小君が、「山から、僧都のお手紙を頂いて参上した者でございます」と案内を乞うてきました――

◆ひきぼし(引干し)=海草の干したもの

では7/23に。

源氏物語を読んできて(宇治を訪ねて)7

2013年07月14日 | Weblog
◆(宇治を訪ねて)7  2013.7.14

「浮舟の巻」
匂宮が橘の小島に永き愛を誓い、歌を詠む。
 
(匂宮)年経とも変はらむものか橘の小島の崎に契る心は
―千年の緑を保つ橘の小島の崎で契るのだから、二人の仲は何年経っても変わる筈がない―

(浮舟の返歌)橘の小島の色は変はらじをこの浮舟ぞ行方知られぬ 
―橘の小島の緑の色のように、貴方のお心は変わらないでしょうが、波に浮かぶ小舟のような頼りない私の身は、一体どうなるものでしょう―

◆碑は、匂宮が浮舟をだいて舟に乗るところ。

源氏物語を読んできて(宇治を訪ねて)6

2013年07月11日 | Weblog
◆(宇治を訪ねて)6  2013.7.11

宇治平等院
 
平等院の創建


●浄土式庭園と鳳凰堂
京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていたが、翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。

●『仏説阿弥陀経』では、「從是西方 過十万億佛土 有世界 名曰極樂 其土有佛 號阿彌陀 今現在說法 舍利弗 彼土何故 名爲極樂 其國衆生 無有衆苦 但受諸樂 故名極樂[1]」と説かれている。その意は、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。舎利弗、かの土を何のゆえぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦あることなし、但もろもろの楽を受く、かるがゆえに極楽と名づく[2]」で、阿弥陀如来とその仏国土である「極楽」について説かれている。平等院の庭と建物は、その極楽浄土をあらわしており「浄土庭園」と言う。

●飛鳥・奈良・平安前期に広まった仏教は、現世での救済を求めるものであった。平等院創建された平安時代後期になると、日本では「末法思想」が広く信じられていた。末法思想とは、釈尊の入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという思想である。しかし、天災人災が続いたため人々の不安は一層深まり、終末論的な思想として捉えられるようになり、この不安から逃れるための厭世的な思想として捉えられるようになる。仏教も現世での救済から来世での救済に変わっていった。平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。

●平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。道長は寛仁4年(1020年)、無量寿院(のちの法成寺)を建立、また11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が今の京都市左京区岡崎あたりに相次いで建立された。しかし、これらの大伽藍は現存せず、平安時代の貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一の史跡である。ただ、平等院も建武3年(1336年)の楠木正成と足利氏の軍勢の戦いの兵火をはじめ、度重なる災害により堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続している。

では7/13に。