永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(172)

2017年02月27日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (172) 2017.2.27

「大夫、例のところに文ものす。かごといひつづけてもあらず。これよりも、いと幼きほどのことをのみ言ひければ、かうものしけり。
<みがくれのほどといふともあやめ草なほ下刈らん思ひあふやと>
返りごと、なほなほし。
<下刈らんほどをも知らずまこも草よに生ひ添はじ人は刈るとも>」

◆◆大夫はいつもの所へ手紙を送る。あちらでも、そう逃げ口上を言ってくるのでもない。こちらからもまったく幼稚なことばかり言っているので、私が助け舟を出しました。
(道綱母の歌)「姫君が水に隠れて見えないほどの幼くていらしても、こちら同様に思ってくださっていらっしゃるか、あなたのお気持ちを知りたいのです」
返事は、ごくごく平凡でした。
(大和方の歌)「私はあやめでなくて、つまらない真菰草です。ですから下根を刈るなんてまだ聞いたことがありません。たとえ刈られても生い添うことはありません。ですから、求婚されても添う気はありません。あなたが思ってくださるはずがありませんから」

■ことついつけても=未詳。

蜻蛉日記を読んできて(171)

2017年02月24日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (171) 2017.2.24

「朝廷には、例の、そのころ八幡の祭になりぬ。つれづれなるをとて、いのびやかに立てれば、ことにはなやかにていみじう追ひ散らすもの来。たれならむと見れば、御前どもの中に例みゆる人などあり。さなりけりと思ひて見るにも、まして我身いとほしき心ちす。簾まきあげ、下簾押し挟みたれば、おぼつかなきこともなし。この車を見つけて、ふと扇をさし隠して渡りぬ。」

◆◆朝廷では、例年通り、そのころ岩清水八幡の臨時の祭の時期となりました。何のする事もないので、こっそりと出かけて車を止めて見ていると、特別に華やかに先払いをしてくる者がいます。誰だろうと見ると、先払いの者の中に、我が家にいつも来ている者がいます。そうかあの人の行列かと思って見るにつけ、(その華やかな兼家と比べて)自分自身が惨めに思えてならない。あの人の車は簾を巻き上げ、下簾を左右に推し挟んで開けてあるので、全部丸見えです。私の車を見つけると、さっと扇で顔を隠して通り過ぎました。◆◆



「御文ある返りごとの端に、『<昨日はいとまばゆくて渡りためひにき>と語るは、などかは、さはせでぞなりけん、若若しう』と書きたりけり。返りごとには、『老いのはづかしさにこそありけめ。まばゆきさまに見なしけん人こそにくけれ』などぞある。
又かき絶えて十よ日になりぬ。日ごろの絶え間よりは久しき心ちすれば、またいかになりぬらんとぞ思ひける。」

◆◆あの人から手紙がきたその返事の紙の端に、「侍女たちが<昨日はお殿様はとても恥ずかしそうにお顔をそむけてお通りなさいました。>と話していましたが、あれはどうしてなのでしょうか。そんなことをなさらなくてもよろしいのに。年甲斐もなく」と書きましたっけ。その返事には「年寄りの気恥ずかしさだったのだろうよ。それを顔を背けた様に見た人が憎らしいね」などと書いてありました。またすっかり耐えて十日あまりになってしまいました。いつもより訪問のない感覚が長いような気がするけれども、またどうしてしまったのかなどと思うのでした。◆◆


【解説】蜻蛉日記(下)上村悦子著より

「以前は祭を見物するときも桟敷を無理に都合してくれた(中略)ちょっとも知らせてくれない。道綱も作者に言わなかったのだろうか。時間と体を持て余してした作者なのに。そこで堂々と華やかに先払いをさせて、やってくる一行を認めて、「誰ならむ」と書いたのである。兼家だと気づいたとき、彼の社会的地位の高さ、官人としての権勢を目のあたりに見て、その北の方である自分の置かれた立場のみじめさ、哀れさがしみじみ感じられて、やりきれない思いに駆られたのであろう。(中略)しかし手紙だけはよこしてくれたので、作者もそう気を悪くせず、気軽に兼家の振る舞いを「…若々しう」としたためて送った。また、音さたが絶えて十日余りにもなったので、いったいどうなっているのだろうと案じているが、多妻下の、本邸に迎え入れられなかった上流夫人の、片時も気の休まらない苦しい心情がうかがえる」

蜻蛉日記を読んできて(170)

2017年02月20日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (170) 2017.2.20

「三月十五日に院の小弓はじまりて出居などののしる。前後わきてさうぞければ、そのこと大夫により、とかうものす。
その日になりて、『上達部あまた、今年やむごとなかりけり。小弓おもひあなづりて念ぜざりけるを、いかならんとおもひたれば、最初にいでて諸矢しつ。つぎつぎあまたのかず、この矢になん刺して勝ちぬる』などののしる。さて又二三日すぎて、『大夫の諸矢はかなしかりしかな』などあれば、まして我も。」

◆◆三月十五日に院の小弓が行われることになって、その練習が始まって大騒ぎです。先手組、後手組に分けて装束を調えるので、その支度を大夫の指図により、あれこれとする。当日になって、あの人が、「上達部が大勢参観して、今年はとても盛大であった。あの子(大夫・道綱)は小弓などとあなどって、練習も真剣にやらなかったので心配していたが、最初に出て、諸矢(二本一組の矢を両方とも)を射当てたのだよ。つぎつぎとその矢が糸口となって、多くの得点を得て勝ってしまったのだ」などと騒ぎ立てて言ってきました。そしてまた、二、三日経ってからも、「大夫の諸矢は素晴らしかったよ」などと言ってよこすので、私はもちろんうれしかった。◆◆

■小弓=小弓(こゆみ)
 短小の弓の総称だが、特に平安時代以来、宮中や仙洞をはじめ広く貴族社会で行われた遊興の的射、及びそれに用いる的弓のことをいう。小弓は遊戯の具で、座したまま左膝を立てて左の肘をもたせかけ、右手を顔近く寄せて射る遊び。

◆写真と参考:風俗博物館 


蜻蛉日記を読んできて(169)

2017年02月16日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (169) 2017.2.16

「さてついたち三日のほどに、午時ばかりに見えたり。老いてはづかしうなりにたるに、いと苦しけれど、いかがはせん。とばかりありて、『方ふたがりたり』とて、わが染めたるともいはじ、にほふばかりの桜襲の綾、紋はこぼれぬばかりして、固紋の表の袴つやつやとして、はるかに追ひ散らして帰るを聞きつつ、あな苦し、いみじうもうちとけたりつるかななど思ひて、なりをうち見れば、いたうしほなえたり。」

◆◆さて(二月)はじめの三日のころに、昼過ぎほどにあの人が見えました。私はすっかり年をとってしまって恥ずかしくて心苦しいけれど、どうしようもない。しばらくして「方角が塞がっているので(泊まれない)」と言って、私が染色をしたから言うのではないけれど、におうばかりの美しい桜襲ねの綾織で、今にもこぼれそうにくっきりとした浮き紋になっている下襲(したがさね)、つやつやとした固紋の表袴(うわばかま)をつけ、遠くまで響く大声で堂々と先払いをさせながら帰っていくのを聞きながら、ああ苦しい!すっかりくつろいだ姿でいたものだわ、と思って自分の姿を見てみると、着古して衣がよれよれになっていること。◆◆



「鏡をうち見ればいとにくげにはあり、またこたび倦じはてぬらんと思ふことかぎりなし。かかることをつきせずながむるほどに、ついたちより雨がちになりにたれば、『いとどなげきのめをもやす』とのみなんありける。」

◆◆鏡をのぞくと、なんと憎らしげな顔つきでもあり、今度こそあの人から愛想をつかされるだろうとつくづく思ったことでした。



「五日、夜中ばかりに世の中さわぐをきけば、さきに焼けにし憎どころ、こたみはおしなぶるなりけり。
十日ばかりにまた昼つかた見えて、『春日へなん。詣づべきほどのおぼつかなさに』とあるも、例ならねばあやしうおぼゆ。」

◆◆五日、夜中に世間が騒がしいので聞くと、以前火事で焼けた憎らしいあの女の家が、今度は丸焼けになったとか。
十日ごろに、あの人が昼ごろ見えて、「春日大社に行かねばならないのだが、その間心配なので」などと、いつものようではなく神妙なので不思議な気がしました。◆◆

■桜襲(さくらがさね)の綾(あや)、紋(もん)はこぼれぬばかりして、固紋(かたもん)の表の袴つやつやとして=襲(かさね)の色目。表が白、裏が濃い蘇芳。綾はあや織物のことで、いろいろの模様を地紋として織り出した絹織物。紋は綾に織り出した模様。固紋と浮紋とがあるがここは浮紋で糸を浮き出すように織った模様。


■固紋=織物の紋様を糸を浮かさず固く締めて織り出したもの。

■憎どころ=憎らしいところ、近江の女の家



蜻蛉日記を読んできて(168)

2017年02月12日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (168) 2017.2.12

「二月になりぬ。紅梅の常の年よりも色こくめでたうにほひたり。わが心ちにのみあはれと見れども、なにと見たる人なし。大夫ぞ折りて例のところにやる。
<かひなくて年へにけりとながむれば袂も花の色にこそ染め>
返りごと、
<年をへてなどかあやなく空にしも花のあたりをたちはそめけん>
と言へり。なほありのことやと待ち見る。」

◆◆二月になりました。紅梅が例年よりも色鮮やかに香りよく咲いています。私一人が感慨深く感じているけれども、特別に目を止めて鑑賞している人はいません。道綱がその梅を折って例の大和に届ける。
(道綱の歌)「あなたを思う甲斐もなく年が経ったと物思いに沈んでいると、悲しみの血の涙で、袂も紅梅色にそまることです」
返事には、
(大和の歌)「昨年からどうしてあなたは訳の分らない恋に夢中になり、私の周りをうろうろとされるのでしょうか」
 と言ってきた。まあ待ち受けて見た歌は、ありきたりの返歌だと思ったことでした。◆◆

■自筆の返歌がきはじめると、結婚は成立間近となるが、この縁談は不成立だったようなので、この返歌も代筆であろう。



蜻蛉日記を読んできて(167)

2017年02月10日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (167) 2017.2.10

天延元年(973年) 
兼家   46歳
作者   38歳
道綱   20歳

「さて年暮れはてぬれば、例のこととてののしり明かして、三四日にもなりにためれど、ここにはあらたまれる心ちもせず、鶯ばかりぞいつしか音したるをあはれと聞く。」

◆◆さて、この年も暮れてしまったので、年末には例年の通りのことをして、あれこれ大騒ぎして大晦日の夜を明かし、一月も三、四にもなったようですが、私の家では新年を迎えたような気もせず、鶯がいつの間にか訪れてきたのを、しみじみと感慨深く聞くのでした。◆◆



「五日のばかりのほどに昼見え、又十よ日、廿日ばかりに人ねくたれたるほど見え、この月ぞすこしあやしと見えたる。このころ司召しとて、れいの暇なげにののしるめり。」

◆◆五日になって、あの人が昼間に見え、また、十日すぎに訪れ、二十日ほどには、皆寝入った頃に訪れて、この月はすこし妙だと思えるくらいに姿を見せたのでした。このごろ司召しということで、例のように暇もなさそうに騒いでいるようでした。◆◆



蜻蛉日記を読んできて(166)

2017年02月06日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (166) 2017.2.6

「神無月、例の年よりもしぐれがちなるころなり、十よ日のほどに、例のものする山寺に『もみぢも見がてら』と、これかれ誘はるれば、ものす。今日しもしぐれ降りみ降らずみ、ひねもすに、この山いみじうおもしろきほどなり。」
 
◆◆十月、いつもの年よりしぐれがちな頃です。十日過ぎくらいに、いつも行く山寺に「紅葉でも見がてらにと、家の者達が誘われたのでわたしも出かけました。ちょうど今日はしぐれが降ったり止んだりして、一日中、この山はたいそう趣きのあるところでした。◆◆



「ついたちの日、『一条の太政の大臣失せ給ひぬ』とののしる。例の『あないみじ』など言ひて聞きあへる夜、初雪七八寸のほどたまれり。あはれ、いかで君達あゆみ給ふらんなど、わがする事もなきままに思ひをれば、例の世の中いよいよ栄ののしる。しはすの廿日あまりに見えたり。」

◆◆十一月一日の日、「一条の太政大臣様が亡くなられました」と大騒ぎです。だれもからえも「ああ、お気の毒に」などと話し合っていた夜、初雪が七、八寸ほど積もりました。ああ、お労しい、ご子息たちがこの雪の中をどのような気持ちで葬送に連なっていらっしゃることかと、私が所在なきままに思っていますと、例のようにあの人は、ますます威勢を増して、大変な勢いで大騒ぎをしていて、十二月の二十日過ぎにこちらに見えました。◆◆

■一条の太政の大臣=藤原伊尹(これまさ)、兼家の長兄。兼家を常に引き立てていた。
 
■七、八寸=約20センチ

■例の世の中いよいよ栄ののしる=伊尹の死後、兼家の地位が政界で重くなること。



【解説】 上村悦子著「蜻蛉日記」下より

 当時の上流女性で絵を描く趣味を持った方は時折ある。(中略)作者の父も絵心を有していたことは巻末歌集に陸奥守のとき陸奥国の景色を絵にかいて持ち帰っていることで伺われる。作者も父の血を引いたのか絵心を有したらしく、鳴滝参籠中にも「昔、わが身にあらむこととは夢に思はで、あはれに心すごきこととて、はた、高やかに、絵にもかき」とも書いている。(中略)おそらくつれづれには歌を詠み、絵を描くことで慰めていたのであろう。
 死の予告ははずれたが作者は幸福な人は薄命(今は美人薄命という言葉もあまり耳にしないが昭和初年ごろにはまだよく言われた)だが、自分は幸福には縁が遠いからまだなかなか死なないだろうと自嘲めいた言葉を漏らしている。(中略)
「思ひをれば、例の世の中いよいよ栄ののしる」と記しているが、史実を検討すると作者の子の小丹波はかならずしも真実を伝えていない。今まで四歳年下の実弟兼家に官職を越されていた次兄兼道が好機逸すべからずと、妹の村上天皇中宮安子(円融天皇生母)に生前懇願して書いてもらっていた、【関白は次弟のままにせさせ給へ】のお墨付を錦の御旗と振りかざし、円融天皇の御心を動かし、権中納言から一挙に関白内大臣に昇進してしまい、陰に陽に同母弟の兼家を圧迫したからである。…



蜻蛉日記を読んできて(165)

2017年02月02日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (165) 2017.2.2

「若き人こそかやうに言ふめれ、我ははるのよのつね、秋のつれづれ、いとあはれに深きながめをするよりは、残らん人の思ひ出にも見よとて、絵をぞかく。さるうちにも今やけふやとまたがるる命、やうやう月たちて日もゆけば、さればよ、よも死なじものを、さいはいある人こそ命はつづむれと思ふに、うべもなく九月もたちぬ。」

◆◆若き人たちはこんな風に歌のやりとりをしているようでした。私は決まって春の夜だとか、また秋の所在無い折々に、ひどく深い物思いに沈んでいるよりは、私の亡きあとに残る人たちの思い出として見てもと思って絵を描いています。そうしているうちにも、今に死ぬのか、今日死ぬのかと待たれる命が、そんな気配もなく、死ぬと言われた八月に入り、日が過ぎてゆくので、ほらやっぱり、まさか死ぬことはあるまいに、幸せな人こそ命が短くなるのだけれど(私は不幸だから短命ではない)、と思っていると、やはりそのとおりで異常なこともなく九月になったのでした。◆◆



「廿七八日のほどに、土犯すとてほかなる夜しも、めづらしきことありけるを、人告げにきたるも、なにごともおぼえねば、憂くてやみぬ。」

◆◆二十七、八日のころに、土を犯すというので、他に移った丁度そのころに、あの人からめづらしいこともあるもの、使いが来たと留守居の者が来たけれど、何もおもいうかばないことなので、もの憂いまま返事もせずにしてしまったのでした。◆◆

■土犯すとて=陰陽道で、「土公」のいる方角で工事、造作をすること。その邸の住人は、「土忌み」として他所へ移る。