2010.6/30 781回
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(42)
「紙魚といふ虫の住処になりて、古めきたる黴くささながら、あとは消えず、ただ今書きたらむにも違はぬ言の葉どもの、こまごまと定かなるを見給ふに、げに落ち散りたらましよ、と、うしろめたう、いとほしき事どもなり」
――紙魚(しみ)という虫の住処になって、古びたカビ臭いものではありますが、筆跡は消えずに、たった今書かれたもののように言葉がこまごまと、心情のあふれているのをご覧になりますと、なるほど、弁の君が言ったように、これが世間に散らばったならば大変な事だったなあ、と、不安でもあって、又おいたわしいとも思われるのでした――
「かかる事世にまたあらむや、と、心ひとつにいとど物思はしさ添ひて、内裏へ参らむと思しつるも、出で立たれず」
――(薫は)このような事が世にまたとあろうか、と、人にも言えず新たな物思いに沈んで、宮中へ参内するつもりでしたものの、立ち出でる気もしません――
「宮の御前に参り給へれば、いと何心もなく、若やかなるさまし給ひて、経読み給ふを、はぢらひてもて隠し給へり。何かは、知りにけりとも知られ奉らむ、など、心にこめてよろづに思ひ居給へり」
――(薫は)母宮の女三宮の御前に伺ってみますと、母宮は何の物思いもなさそうな、若々しいご様子で読経をなさっておられましたが、ふと恥ずかしげに経本を隠してしまわれました。どうして自分が昔の秘密を知ってしまったことなどを、この母宮に申し上げられよう、と、薫はご自分の胸ひとつに納めて、あれこれと思いに沈んでいらっしゃるのでした――
◆写真:貴族の直衣姿、薫もこのような姿で。
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】おわり。
●7月~8月は奇数日に連載します。ではまた。
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(42)
「紙魚といふ虫の住処になりて、古めきたる黴くささながら、あとは消えず、ただ今書きたらむにも違はぬ言の葉どもの、こまごまと定かなるを見給ふに、げに落ち散りたらましよ、と、うしろめたう、いとほしき事どもなり」
――紙魚(しみ)という虫の住処になって、古びたカビ臭いものではありますが、筆跡は消えずに、たった今書かれたもののように言葉がこまごまと、心情のあふれているのをご覧になりますと、なるほど、弁の君が言ったように、これが世間に散らばったならば大変な事だったなあ、と、不安でもあって、又おいたわしいとも思われるのでした――
「かかる事世にまたあらむや、と、心ひとつにいとど物思はしさ添ひて、内裏へ参らむと思しつるも、出で立たれず」
――(薫は)このような事が世にまたとあろうか、と、人にも言えず新たな物思いに沈んで、宮中へ参内するつもりでしたものの、立ち出でる気もしません――
「宮の御前に参り給へれば、いと何心もなく、若やかなるさまし給ひて、経読み給ふを、はぢらひてもて隠し給へり。何かは、知りにけりとも知られ奉らむ、など、心にこめてよろづに思ひ居給へり」
――(薫は)母宮の女三宮の御前に伺ってみますと、母宮は何の物思いもなさそうな、若々しいご様子で読経をなさっておられましたが、ふと恥ずかしげに経本を隠してしまわれました。どうして自分が昔の秘密を知ってしまったことなどを、この母宮に申し上げられよう、と、薫はご自分の胸ひとつに納めて、あれこれと思いに沈んでいらっしゃるのでした――
◆写真:貴族の直衣姿、薫もこのような姿で。
四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】おわり。
●7月~8月は奇数日に連載します。ではまた。