2010.3/31 692回
四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 その(17)
暑さの耐えがたい頃、源氏は釣殿のあたりで物思いに沈んでおいでになりますと、池の蓮の花が今を盛りに咲いているのにお目がとまって、「悲しさぞまさりにまさる人の身にいかに多かる涙なるらむ」の古歌が先ず思い出されて、気抜けなさったように、つくづくと眺めていらっしゃるうちに日が暮れてしまいました。
「蜩の声はなやかなるに、御前の撫子の夕映えを、一人のみ見給ふは、げにぞかひなかりける」
――蜩(ひぐらし)がはなやかに啼き、庭先の撫子が夕日に映えてうつくしいこの景色を、たった一人でご覧になるのは、さぞ味気ないことでしょう――
「七月七日も、例にかはりたること多く、御遊びなどもし給はで、つれづれにながめくらし給ひて、星合い見る人もなし」
――七月七日も、いつもの年と違うことが多く、管弦のお遊びなどもなさらないで、ただつれづれと物思いに沈んでばかりいらっしゃって、この夜の牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の星を、ご一緒に眺める紫の上もこの世にいらっしゃらない――
源氏は夜更けの妻戸を一人押し開けて、露に濡れたお庭に出られ、
(歌)「たなばたの逢ふせは雲のよそに見て別れのにはに露ぞおきそふ」
――七夕の夜の空は見ないままで、今朝は別れに泣く二星の涙に、私の涙も重なって余計に悲しい――
「風の音さへただならずなり行く頃しも、御法事の営みにて、朔日頃は紛らはしげなり。今まで経にける月日よ、と思すにも、あきれて明かし暮らし給ふ。御正日には、上下の人々みな斎して、かの曼荼羅など今日ぞ供養ぜさせ給ふ」
――秋の風がただならず身に沁みる頃ながら、紫の上の一周忌の御法事の準備で、八月の初めごろは取紛れて過ぎていきます。源氏は、何と今まで生きてきたことよ、とお思いになっては、ご自分でも呆れて日を送っていらっしゃる。御命日の日は、上も下も皆精進して、あの曼荼羅の絵などを、この日に御供養おさせになります――
◆星合い=七夕の夜、牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の二つの星が会うこと。
◆御正日(おんしょうにち)=命日。紫の上の亡くなった日は、八月十四日。
◆斎(いもひ)=斎戒
◆写真:橘(たちばな)の実
ではまた。
四十一帖 【幻(まぼろし)の巻】 その(17)
暑さの耐えがたい頃、源氏は釣殿のあたりで物思いに沈んでおいでになりますと、池の蓮の花が今を盛りに咲いているのにお目がとまって、「悲しさぞまさりにまさる人の身にいかに多かる涙なるらむ」の古歌が先ず思い出されて、気抜けなさったように、つくづくと眺めていらっしゃるうちに日が暮れてしまいました。
「蜩の声はなやかなるに、御前の撫子の夕映えを、一人のみ見給ふは、げにぞかひなかりける」
――蜩(ひぐらし)がはなやかに啼き、庭先の撫子が夕日に映えてうつくしいこの景色を、たった一人でご覧になるのは、さぞ味気ないことでしょう――
「七月七日も、例にかはりたること多く、御遊びなどもし給はで、つれづれにながめくらし給ひて、星合い見る人もなし」
――七月七日も、いつもの年と違うことが多く、管弦のお遊びなどもなさらないで、ただつれづれと物思いに沈んでばかりいらっしゃって、この夜の牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の星を、ご一緒に眺める紫の上もこの世にいらっしゃらない――
源氏は夜更けの妻戸を一人押し開けて、露に濡れたお庭に出られ、
(歌)「たなばたの逢ふせは雲のよそに見て別れのにはに露ぞおきそふ」
――七夕の夜の空は見ないままで、今朝は別れに泣く二星の涙に、私の涙も重なって余計に悲しい――
「風の音さへただならずなり行く頃しも、御法事の営みにて、朔日頃は紛らはしげなり。今まで経にける月日よ、と思すにも、あきれて明かし暮らし給ふ。御正日には、上下の人々みな斎して、かの曼荼羅など今日ぞ供養ぜさせ給ふ」
――秋の風がただならず身に沁みる頃ながら、紫の上の一周忌の御法事の準備で、八月の初めごろは取紛れて過ぎていきます。源氏は、何と今まで生きてきたことよ、とお思いになっては、ご自分でも呆れて日を送っていらっしゃる。御命日の日は、上も下も皆精進して、あの曼荼羅の絵などを、この日に御供養おさせになります――
◆星合い=七夕の夜、牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)の二つの星が会うこと。
◆御正日(おんしょうにち)=命日。紫の上の亡くなった日は、八月十四日。
◆斎(いもひ)=斎戒
◆写真:橘(たちばな)の実
ではまた。