永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(20)(21)

2015年04月30日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (20) 2015.4.30

「かくて絶えたるほど、わが家は内裏よりまゐりまかづる道にしもあれば、夜中あか月とうちしはぶきてうち渡るも、聞かじと思へども、うちとけたる寝もねられず、夜長うして眠ることなければ、さななりと見聞く心ちは何にかは似たる。」
――こうして夜離れがつづいている間、わたしの家はあの人が内裏への行き帰りの途中でもありましたので、夜中といわず、明け方といわず、前駆(さき)の咳ばらいをして通って行くのが、聞くまいと思っても耳について眠られず、「夜長うして眠ることなし」の詩句のとおりで、あの人が通り過ぎていくのだと察するこの気持ちは何にもたとえようもないのでした。――


「今はいかで見聞かずだにありにしがなとおもふに、昔すきごとせし人も、『今はおはせずとか』など、人につきて聞こえごつをきくをものしうのみおぼゆれば、日くれはかなしうのみおぼゆ。」
――今はもうあの人のことを見たり聞いたりしたくないと思っているのに、昔、兼家との結婚の前に言い寄っていた男までもが、「(兼家は)現在は通っておられぬとか」などと、侍女を介して下心ありげに言ってくるのを、聞くにつけ不愉快で、ことに日の暮れ方はいっそう寂しくてやりきれないのでした。――


蜻蛉日記  上巻 (21) 2015.4.30

「子どもあまたありと聞くところも、むげに絶えぬと聞く。あはれ、ましていかばかりと思ひてとぶらふ。九月ばかりのことなりけり。『あはれ』など、しげく書きて、
<ふく風につけてとはむささがにの通ひし道はそらに絶ゆとも>
――(兼家との)子どもが沢山いると聞いている時姫さまのところにも、あの人はふっつりと通わなくなったと聞きました。私以上にお気の毒なここと思ってお便りを差し上げました。それは九月ごろのことでした。「おいたわしいこと…」などと、あれこれと書き連ねて、
(道綱母の歌)「秋風に託してお見舞いを申し上げます。その風で兼家の訪れが途絶えているとしても(女同士つらい思いを慰めあってまいりましょう)」――


「返りごとに、こまやかに、
<色かはるこころとみればつけてとふ風ゆゆしくもおもほゆるかな>
とぞある。
――返事は、こまやかな文面で、
(時姫の歌)「(ご厚情は痛み入りますが)人の心は移ろいやすいもの、まして「風につけて」とおっしゃるその風も、秋(飽き)風に託しての好意だと思いますと、不吉な気がします。(どうぞいつまでもお変わりなく)」


「かくて、つねにもえいななはてで、ときどき見えて、冬にもなりぬ。臥し起きは、ただをさなき人をもてあそびて、『いかにして網代の氷魚にこと問はむ』とぞ心にもあらでうち言はるる。」
――こうして、あの人は、そうそう訪ねないわけにもいかないとみえて、ときどき訪れてきているうちに冬になりました。私は明け暮れ幼い(道綱=二歳)息子を相手に、「どうしてお父様は来てくれないのでしょうね。網代の氷魚に聞いて見ましょう」などと、我知らず言ってしまうのでした。――


■いななはてで=(未詳ながら)いな(否)びはてで。と解する。

■『いかにして網代の氷魚にこと問はむ』=拾遺集「いかでなほ網代の氷魚にこと問はむ何によりてか我をとはぬと」より、下句を暗示。



蜻蛉日記を読んできて(藤原 兼家とは)

2015年04月28日 | Weblog
藤原 兼家という人物   2015.4.28

藤原 兼家(ふじわら の かねいえ)は、平安時代の公卿。右大臣藤原師輔の三男。策略によって花山天皇を退位させて、娘が生んだ一条天皇を即位させて摂政となった。その後右大臣を辞して摂政のみを官職として、摂関の地位を飛躍的に高め、また息子の道隆にその地位を譲って世襲を固める。以後、摂関は兼家の子孫が独占し、兼家は東三条大入道殿と呼ばれて尊重された。
兄藤原兼通との激しい確執や、妻の一人に『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母がいる事でも知られている。


生涯[編集]
童殿上の後、天暦2年(948年)に従五位下に叙され、翌天暦3年(949年)には昇殿を許された。村上天皇の時代には左京大夫に春宮亮を兼ねた。
康保4年(967年)、冷泉天皇の即位に伴い、同母兄兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌安和元年(968年)には兼通を超えて従三位に叙される。安和2年(969年)には参議を経ずに中納言となる。蔵人頭は通常、四位の官とされて辞任時に参議に昇進するものとされていた。しかし、兼家は従三位に達し、更に中納言就任直後までその職に留まった。これは、長兄伊尹が自己の政権基盤確立のための宮中掌握政策の一翼を兼家が担っていたからだと考えられ、安和の変に兼家が関与していたとする説の根拠とされている。


その後、伊尹が摂政になると重んじられた。伊尹は兼家が娘の超子を入内させるのを黙認しただけでなく、天禄3年(972年)には正三位大納言に昇進させ、更に右近衛大将・按察使を兼ねさせた。その結果、兼家の官位は兼通の上を行くこととなり、このため兼通は兼家をひどく恨んだ。
同年、伊尹が重病で辞表を提出すると、兼家は関白を望んだが、兼通は「関白は、宜しく兄弟相及ぶべし(順番に)」との円融天皇の生母安子の遺言を献じた。孝心厚い天皇は遺言に従い、兼通の内覧を許し、次いで関白となした(『大鏡』[1])。
兼通に妬まれていた兼家は不遇の時代を過ごす。兼家の娘・超子が冷泉上皇との間に居貞親王(後の三条天皇)を生むと、兼通はこれを忌んで円融天皇に讒言した。また、次女の詮子を女御に入れようとするのを妨げた。兼家の昇進も止まってしまい、『栄花物語』によれば兼通は「できることなら九州にでも遷してやりたいものだが、罪がないのでできない」と発言している。


貞元2年(977年)兼通は重態に陥った。邸で伏していると家人が兼家の車がやって来たと告げた。仲の悪い兄弟だが見舞いに来たかと思ったところ、兼家の車は門前を通り過ぎて禁裏へ行ってしまった。兼通は激怒して起き上がり、病身をおして参内して最後の除目を行い、関白を藤原頼忠に譲り、兼家の右大将・按察使の職を奪い、治部卿に格下げした。ほどなく、兼通は薨去した。兼家は長歌を献上して失意の程を円融天皇に伝えたが、天皇は「稲舟の」と返歌し、しばらく待つよう答えたという。


後任の関白の頼忠は、天元元年(979年)に兼家を右大臣に進め、廟堂に復権させた。また、翌年には父の遺志を継いで天台座主良源とともに延暦寺横川に恵心院を建立している。
かねて望んでいた詮子の入内もかない、懐仁親王(後の一条天皇)を生んだ。兼家は詮子を中宮に立てることを望むが、天元5年(982年)、円融天皇は頼忠の娘の遵子を中宮となした。兼家は大いに失望して、以後、詮子、懐仁親王ともども東三條殿の邸宅に引きこもってしまった。円融天皇は憂慮して、使いを東三條へ送るがろくに返答もしない有様だった。


永観2年(984年)7月、円融天皇は相撲節会を懐仁親王に見せたいと望み、兼家の参内を求めるが病と称して応じない。天皇はなおも使者を送ったため、兼家はやむなく参内した。天皇は「朕は在位して16年になり、位を東宮(師貞親王・冷泉天皇の皇子で、後の花山天皇)に譲りたいと思っていた。その後は懐仁を東宮にするつもりだ。朕の心を知らずに不平を持っているようだが、残念だ」と諭した。兼家ははなはだ喜んだ。


約束通り、同年8月に円融天皇は師貞親王に位を譲り(花山天皇)、懐仁親王が東宮に立てられた。兼家は関白を望むが、頼忠が依然として在任中であり、しかも朝政は天皇の外伯父の権中納言藤原義懐が執っていた。
花山天皇は好色な上に情緒的な性格で、寵愛していた女御藤原忯子が急死すると、絶望して世を棄てることさえ言い出していた。もしも、花山天皇が退位すれば懐仁親王が即位することになる。兼家の三男の道兼が天皇に出家をしきりと勧め、天皇もその気になってしまった。寛和2年(986年)6月22日夜、天皇は道兼とともに禁裏を抜け出してしまった。兼家に仕える源頼光ら武士たちが二人の貴人を警護した。天皇の姿が消えて内裏は大騒ぎになっていた。天皇と道兼は山科の元慶寺に入り、まず天皇が剃髪出家した。ところが道兼は「出家する前の姿を最後に父に見せたい」と言い出して、去ってしまった。天皇は欺かれたと知ったがもう手遅れであった。翌朝、中納言義懐と権左中弁惟成が元慶寺に駆けつけるが、そこにいたのはの姿になってしまった花山天皇だった(寛和の変)。


策略は成功し、懐仁親王が即位した(一条天皇)。兼家は天皇の外戚となり摂政・氏長者となる。天皇の外祖父が摂政に就任するのは、人臣最初の摂政となった藤原良房(清和天皇外祖父)以来のことであった。ところが、当時右大臣であった兼家の上官には前関白の太政大臣頼忠と左大臣の源雅信がいた。特に雅信は円融天皇の時代から一上の職務を務め、法皇となった円融の信頼を背景に太政官に大きな影響力を与えていた。しかも、頼忠も雅信も皇位継承可能な有力皇族との外戚関係がなかったために、謀叛などの罪を着せて排斥することも出来なかった。そこで兼家はこの年に従一位・准三宮の待遇を受けるとともに右大臣を辞して、初めて前職大臣身分(大臣と兼官しない)の摂政となった。右大臣でなくなったことで兼家は頼忠・雅信の下僚の地位を脱却し、准三宮として他の全ての人臣よりも上位の地位を保障されたのである。

また、一条天皇を本来は一氏族である藤原氏の氏神に過ぎない春日社へ行幸させたり、道隆や道長ら自分の子弟を公卿に抜擢し、弁官を全て自派に差し替えるなどの強引な人事を行ったり、自邸東三条殿の一部を内裏の清涼殿に模して建て替えたりして、自流の地位を他の公家とは隔絶したものに高めた。その一方で有能な人材を登用し、新制を発布して官僚機構の再生を尽力したり、梅宮祭・吉田祭・北野祭を公祭(官祭)と定めて主催の神社を国家祭祀の対象として加え後の二十二社制度の基礎をつくるなど、一条朝における政治的安定にも貢献した。


永祚元年(989年)、円融法皇の反対を押し切って長男・道隆を内大臣に任命して、律令制史上初めての「大臣4人制」を実現させ、更にこの年に頼忠が薨去すると、その後任の太政大臣に就任した。翌永祚2年(990年)の一条天皇の元服に際しては加冠役を務める。これを機に関白に任じられるも、わずか3日で病気を理由に嫡男・道隆に関白を譲って出家、如実と号して別邸の二条京極殿を「法興院」という寺院に改めて居住したが、その2ヶ月後に病没した。
後に兼家の家系は大いに栄え、五男の道長の時に全盛を迎える。


兼家は左中弁藤原在国、右中弁平惟仲を信任し、「まろの左右の目である」と称した。また、高名な武士の源頼光が兼家に仕え、名馬30頭を献上をしている。打伏神子(うちふしのみこ)を甚だ信じ、動静全て彼女の言葉に従ったともいう。

■Wikipediaより


蜻蛉物語を読んできて(18)(19)

2015年04月26日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (18) 2015.4.26

「かくありつつき絶えずは来れども、心のとくる世なきに、離れまさりつつ、来ては気色あしければ、『倒るるに立ち山』とたち帰るときもあり。近き隣にこころばへしれる人、出づるにあはせてかく言へり。
<藻塩焼く煙の空にたちぬるはふすべやしつるくゆるおもひに>
など、隣さかしらするまでふすべかはして、このごろはことと久しう見えず。」
――こんなふうに、絶えるというのでもなくあの人は来るけれど、私は不安な心の休まらない日を過ごしていました。訪ねてくる日が間遠になりながらも、来たら来たで、私の機嫌が悪いので、「まったく、困ったなあ」と言って、引き返してしまうこともありました。隣人で私たちの内情を知る人が、兼家が帰るときに、こんなふうに言いました。
(隣人の歌)「藻塩草を焼く煙が空に立ちのぼった(兼家が帰った)のは、あなたがくすぶらせた(嫉妬してすねた)からか」
などと、隣人がいかにもお節介なことを言うので、この頃はまた、ますますもって訪ねてきません。――

■ありつつき=意味不詳。「有り続き」か「ありきつつ」か。


蜻蛉日記  上巻 (19) 2015.4.26

「ただなりし折はさしもあらざりしを、かく心あくがれて、いかなる物もとどめぬ癖なんありける。かくて止みぬらん、そのものと思ひ出づべき便りだになくぞありけるかしと思ふに、十日ばかりありて文あり。」
――普通の折はそんなこともなかったのに、町の小路の女に夢中になってからは、あの人のちょっとした物も、心静かに見られないほど穏やかでなくなっていました。そのうち私たちの間もこうして終わりになってしまうのだろうか。なにか思い出になるようなものは無いかしらと思っていると、十日ほど経ってから手紙がきました。――


「なにくれと言ひて、『張の柱に結ひ付けたりし小弓の矢とりて』とあれば、これぞありけるかしと思ひて、解きおろして、
<思ひいづる時もあらじとおもへども矢といふにこそおどろかれぬれ>
とてやりつ。
――文面になにやかにやとあって、「寝所の柱に結い付けてあった小弓の矢をよこせ」とあったので、ああ、そんなものがまだあったのかしらと、降ろして持たせてやったこともありました。悔しさに、
(道綱母の歌)「あなたのことを思い出す折などあるまいと思っていましたが、矢を寄こせというので、(やっ)はっとして思い出しましたよ(矢に「や」という呼びかけをひびかす)」
と言ってやったのでした。――


■張(ちょう・とばり)=部屋に垂れ下げる布。たれぎぬ。張台におなじ。ここでは母屋に畳二枚を敷き、四隅に柱を立て、天井を設けて周囲に張を垂らす。寝所。

■小弓(こゆみ)=遊戯用の小型の弓。矢は魔除けとして寝所に置いたものか。



蜻蛉日記を読んできて(16)(17)

2015年04月22日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (16) 2015.4.22

「おほかたの世のうちあはぬことはなければ、ただ人のこころの思はずなるを、われのみならず、年ごろのところにも絶えにたなりと聞きて、文などかよふことありければ、五月三四日のほどにかく言ひやる。
<そこにさへかるといふなる真菰草いかなる沢に根をとどむらん>
かへし、
<真菰草かるとは淀の沢なれや根をとどむてふ沢はそことか>
――普段の暮らしには別に困ることもないので、それはそれで良いのですが、あの兼家の浮気が不満でならないのも、私だけでなく、年来の妻(時姫)のところにも音沙汰が無くなったと聞きまして、普段から文などのやり取りもあった五月の三日か四日にこのように申し上げたのでした。
(道綱母の歌)「あなたの許をさえ離れていったと聞く兼家(真菰草)という人は、一体何処に居ついたのでしょう」
お返事は
(時姫の歌)「兼家(真菰草)が夜離れをするのは私の処(淀の沢)、留まっているのはあなたのところではありませんか」

■真菰草(まこもぐさ)=草の名。水辺に生える。線形の葉は刈り取ってむしろなどに編む。また、実を食用とする。「菰(こも)」「真菰草」「かつみ草」とも。◆「ま」は接頭語。[季語] 夏。
ここでは、水辺(だれかの所)に居座っている…か。


蜻蛉日記  上巻 (17) 2015.4.22

「六月になりぬ。ついたちかけて長雨いたうす。見出してひとりごとに、
<わが宿のなげきの下葉いろふかく移ろひにけりながめふるまに>
などいふほどに、七月になりぬ。絶えぬと見ましかば、かりに来るにはまさりなましなど、思ひつづくるをりに、ものしたる日あり。」
――六月になりました。この月のはじめにかけて長雨が続いていました。外を眺めながら一人言に、
(道綱母の歌)「わが家の庭木の下葉は、この長雨ですっかり色づき、私も物思いで心の中いっぱいに嘆きが深まったことだ」
などと、つぶやいているうちに七月になりました。あの人とはもうすっかり絶えてしまったのだとしたら、もう来ることはないだろうと思い続けていたとき、あの人がひょっこりと来た日がありました。――


「ものも言はねばさうざうしがなるに、まへなる人、ありし下葉のことを、もののついでに、言ひ出でたれば、聞きてかく言ふ。
<折ならでいろづきにけるもみぢばは時にあひてぞ色まさりける>
とあれば、硯ひきよせて、
<秋にあふ色こそましてわびしけれ下葉をだにもなげきしものを>
とぞ、書き付くる。」
――私は腹も立ち、すねて話もせずにいますと、あの人はとりつくしまもなく手持ち無沙汰の態で居ますのを、侍女が、いつぞやの歌の「わが宿のなげきの下葉…」を話題にして言い出しますと、あの人はそれを聞いてこう言います。
(兼家の歌)「秋になる前(六月)から色づいていた紅葉は、秋になって一段と美しくなったものだ」
私は硯を引き寄せて、
(道綱母の歌)「秋ならぬあなたの飽きに逢わされてほんとうに心細い。それでなくても嘆きの多い思いをしてきているのに」
と、思いのたけを書き付けてやりました。――



蜻蛉日記を読んできて(15)

2015年04月20日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (15) 2015.4.20

「かくて、いまは、この町の小路にわざと色に出でにたり。本つ人だにあやしう、くやしと思ひげなる時がちなり。いふかたなうこころ憂しとおもへども、なにわざをかはせん。」
――こうして、もう今はこの町の小路の女のところへ、何の遠慮もなく出かけて行っています。もとからの方(最初の妻となっている時姫)さえも、どうしたことか、後悔しはじめているようで、もう何とも言えずつらいことですが、どうしようもありません――


「この、いま一方の出で入りするを見つつあるに、いまは心やすかるべき所へとて、ゐてわたす。とまる人まして心ぼそし。『かげも見えがたかべいこと』など、まめやかにかしうなりて、車よするほどにかく言ひやる。
<などかかるなげきは繁さまさりつつ人のみかかる宿となるらん>
――我が家では、姉のところへ通ってくる夫(為雅)を、よそながら眺め暮していましたが、今は気兼ねのないところへ移ろうと、姉を連れて出ていくことになりました。ここに一人留まる
私は本当に心細いことかぎりもありません。「これからは、たまにでもお目にかかることが難しいことだ」と心底悲しくなって、車を寄せたときにこう申したのでした。
(道綱母の歌)「どうして嘆きが増すばかりで、この家から人が次々と遠のいていくのでしょう」


「返りごとは、男ぞしたる。
<おもうてふわが言の葉をあだ人の繁きなげきにそへてうらむな>
など言ひおきて、みな渡りぬ。思ひしもしるくただひとり、臥し起きす。」
――返歌は、姉の夫で、
(姉の夫の歌)「この家を離れてもあなたのことは忘れないという私の言葉を、浮気者(兼家)の言葉と同じようにみないで、お恨みなさいますな」
などと、言い置いて、みな行ってしまいました。それからはたった一人でこの家に暮すことになったのでした。――


蜻蛉日記を読んできて(14)

2015年04月17日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (14)  2015.4.17

「年かへりて、三月ばかりにもなりぬ。桃の花などやとりまうけたりけん、待つに見えず。いま一方も、例はたち去らぬ心ちに、今日ぞ見えぬ。」
――翌年になって三月ごろになり、桃の花などを取り揃えて待っていましたが、あの人は見えません。もう一方(道綱母と同居の姉の夫で藤原為雅か)も、いつもはしょっちゅう来ているのに、今日は見えないのでした――


「さて四日のつとめてぞみな見えたる。昨夜より待ち暮らしたるものども、『なほあるよりは』とて、こなたかなた取り出でたり。心ざしありし花を折りて、うちの方よりあるを見れば、心ただにしもあらで、手習ひにしたり。」
――そうして四日になって二人とも見えました。昨夜より待ち暮らしてした侍女たちが、「なにもしないよりは」と言って、あちらこちらから桃の花を取り揃えました。用意していた桃の花を折って、兼家が内裏の方角からやって来たのを知ると(町の小路の女の家も内裏の方角ゆえ、そこから来たのだと)むしゃくしゃして、手習いに使ってしまいました――


「<待つほどの昨日すぎにし花の枝は今日をることぞかひなかりける>
と書きて、よしやにくきにと思ひて隠しつる気色をみて、奪いとりて返ししたり。
<三千年を見つべき身には年ごとにすくにもあらぬ花としらせん>
とあるを、いま一方にも聞きて、
<花によりすくてふことのゆゆしきによそながらにて暮してしなり>
――(道綱母の歌)「待っていた昨日が過ぎてしまった桃の花枝は、今日折っても何の甲斐もありません」(「過ぎ」に「好き」をかけて、兼家の浮気をとがめる)
と、まあなんと憎らしいと思って書いたこの歌を隠した私の様子をみて、あの人は奪い取って見て、返歌をしたのは、
(兼家の歌)「末長く連れ添う私ゆえ、あなたのもとで桃の節句を祝えない年もあることを知ってほしものだ」(三千年に一度実がなるという西王母の桃の故事による。)
と言ったのを、姉の夫も聞いて、
(姉の夫の歌)「桃の花を酒に浮かべて飲(す)くというのは、浮気をする(好く)という連想が不吉なので、昨日は訪れなかったのですよ」――

蜻蛉日記を読んできて(13)

2015年04月14日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (13)  2015.4.14

「これより、夕さりつかた、『内裏のかたるましかりけり』と出づるに、心えで人をつけて見すれば、『町の小路なるそこそこになん、とまり給ひぬる』とて、来たり。さればよと、いみじう心憂しと思へども、いはんやうも知らであるほどに、二三にちばかりありて、あか月がたに門をたたくときあり。」
――私のところから夕方になって、「宮中に大事な仕事があって」と出かけたので、不審に思い人に跡をつけさせてみたところ、「町の小路のこれこれの女の家に、お車をお止めになりました」と報告して来ました。やっぱりそうだったのか、と心も煮え返る思いでいましたが、どのようにも言ってやることも出来ずにいて、二三日ほどすぎて、まだ夜も明けきらぬ明け方に門を叩くときがありました。――


「さなめりと思ふに、憂くてあけさせねば、例の家とおぼしきところにものしたり。つとめて、なほもあらじと思ひて、
<なげきつつひとり寝る夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る>
と、例よりはひきつくろひて書きて、うつろひたる菊に挿したり」
――あの人だと思うものの、腹立たしいのでそのまま知らぬ顔で門を開けさせないでいると、例の女のところへ行ったようでした。翌朝、このまま黙っていられるものかと思って、
(道綱母の歌)「もう幾夜のあなたの見えないことを嘆きながら、一人寝を重ねて夜の明ける間の、どんなに長いことか、あなたはお分かりになりますか。とてもお分かりにはなりますまい。」
と、いつもよりは丁寧に、色の褪せかかった菊(兼家の心変わりを暗に)に添えて持たせてやりました――


「返りごと、『あくるまでもこころみむとしつれど、とみなる召使の来あひたりつればなん。いとことわりなりつるは。<げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸もおそくあくるはわびしかりけり>
さてもいとあやしかりつるほどに事なしびたり。しばしは忍びたるさまに、『内裏に』など言ひつつぞあるべきを、いとどしう心づきなく思ふことぞかぎりなきや。」
――あの人の返事は「夜の明けるまで(門を開けてくれるまで待とうとしたが、急用を持って召使いが来たものだから仕方が無かった。おまえの言うことももっともだ。
(兼家の歌)「まったく冬の夜長の一人寝もつらいものだが、門を容易に開けてもらえないのもそれに劣らず辛いものだった」
どういうつもりなのかと不審に思うほど、あの人はけろっとしています。普通なら、遠慮がちに「宮中に用事があって」などと言いつくろうところなのに、そのような心くばりもないのが、ますます不愉快でならない(あの人は平然と町の小路の女のところに通う)。――


■『内裏のかたるましかりけり』=意味不明。「内裏(の方)のがるまじかりけり」か、「内裏の方ふたがりけり」か。

■「なげきつつ……」の歌=百人一首に載る。


蜻蛉日記を読んできて(11)(12)

2015年04月07日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (11)

「正月ばかりに、二三日見えぬほどに、ものへ渡らぬとて、『人来ば、取らせよ』とて、書きおきたる、
<しられねば身を鶯のふりいでつつ鳴きてこそゆけ野にも山にも>
返りごとあり、
<鶯のあだに出ゆかん山辺にも鳴く声聞かば尋ぬばかりぞ>
など言ふころより、なほもあるぬことありて、春夏なやみくらして八月つごもりにとかうものしつ。そのほどの心ばへはしもねんごろなるやうなりけり。」
――正月ごろ、二三日あの人の訪れがなく、(物忌み)他所へ行くことになったので、「あの人が来たら、お見せして」といって書き置いたもの、
(道綱母の歌)「あなたの訪れがないので、深山の谷の鶯のように、鳴き声をあげて野にも山にもさまよい出ていきます」
その返事に、
(兼家歌)「鶯が山辺をさして浮かれ出て行こうと、私はどこまでも探しに行くまでのことだ」
などと言い交わしている頃より、私の体も普通ではない、つわりで春から夏にひどく苦しく、八月の末に長男(道綱)の出産がありました。その間のあの人の心配りはたいそう懇ろではありました――


蜻蛉日記  上巻 (12)

「さて九月ばかりになりて、出でにたるほどに、箱のあるを手まさぐりにあけて見れば、人のもとにやらんとしける文あり。あさましさに、見てけりとだに知られんとおもひて書きつく。
<うたがはしほかにわたせる文みればここやとだえにならんとすらん>
など思ふほどに、むべなう十月つごもりがたに三夜しきりて見えぬときあり。つれなうて、『しばし心みるほどに』など、けしきあり。
――さて、九月ごろのある日、あの人が帰ったあとで、置いてある文箱を手なぐさみに開けてみると、他の女に渡そうとした文がありました。あまりにもひどいと、せめて見てしまったとだけでも言ってやりたいと思って、その文に書き付けたのでした。
(道綱母の歌)「あやしいこと。他の女に送ろうとした手紙を見たからには、もう私の処は、
もうお見かぎりのおつもりでしょうか」
などということがあって、案の定、十月の末あたりに三日つづけて訪れのない日がありました。あの人は何食わぬ様子で、「しばらくあなたの心を試そうと思ってね(行かないのだ)」などと、行ってよこすのでした。――


■なほもあらぬこと=普通でないこと。懐妊によるつわりか。

■とかうものしつ=なんとかかんとかして=出産の婉曲表現。道綱誕生。

■三夜しきりて=他の女との婚姻あり。そちらへ三日つづけて通ったため、訪れがなかった。


蜻蛉日記を読んできて(9の2)(10)

2015年04月05日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (9の2)(10) 2015.4.5

「見るべき人見よとなめりとさへ思ふに、いみじうかなしうて、ありつるやうに置きて、とばかりあるほどにものしためり。」
――私の夫であるあの人に見てもらいたいとの思いで書かれた物と思うと、切なくて、置いてあったところにおいておきましたところ、しばらくしてあの人が訪れてきたようでした。――


「目もあはせず思ひ入りてあれば、『などか。世の常のことにこそあれ。いとかうしもあるは、我をたのまぬなめり』などもあへしらひ、硯なる文を見つけて、『あはれ』といひて、門出のところに、
<我をのみたのむといへば行く末の松のちぎりも来てこそは見め>
となん。」
――私が顔も上げず沈み込んでいますと、あの人が「どうしてなのか。父とのしばしの別れなど世間によくあることではないか。私を頼りにしていないのだろう」と言葉をかけ慰めて、「不憫なこと」と言って、父の門出の所に、
(兼家歌)「私だけが頼りだとおっしゃるなら、末長く変わらぬ二人の仲をお見せしましょう。」としたためてありました。


「かくて日のふるままに旅の空をおもひやるここち、いとあはれなるに、人の心もいとたのもしげには見えずなんありける」
――こうして日が経つままに、父の道中を思いやって心細く寂しくおりますのに、あの人の心も頼もしげには見えないのでした。――


蜻蛉日記  上巻 (10)

「師走になりぬ。横川にものすることありて登りぬる人、『雪に降り籠められて、いとあはれに恋しきことおほくなん』とあるにつけて、
<氷るらん横川の水にふる雪もわがこと消えてものはおもはじ>
など言ひて、その年はかなく暮れぬ。」
――師走になりました。横川に用事があって登った人(兼家)が、「生憎雪に降り籠められて、しみじみと恋しく思っている」という文に、
(道綱母の歌)「凍っているはずの横川の氷に降る雪は、(消えぬゆえ)私のように消え入るほどの物思いはしていないでしょう」
などとのやり取りをして、その年ははかなく暮れたのでした。――

■あへしらふ=ほどよく取り扱う。とりなす。
■門出のところ=旅立ちに際し、吉日吉方を選んで、一旦自邸から他へ移ったところ。その場所。

■横川(よかわ)=比叡山延暦寺境内北部の奥地。兼家の父、もろ師輔が法華三昧院を寄進した地。

蜻蛉日記を読んできて(9の1)

2015年04月03日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (9の1) 2015.4.3

「時はいとあはれなるほどなり。人はまだ見馴るといふべきほどにもあらず、見ゆるごとにたださしぐめるにのみあり。いと心ぼそくかなしきこと、ものに似ず。見る人もいとあはれに、忘るまじきさまにのみ語らふめれど、人の心はそれにしたがふべきかはと思へば、ただひとへにかなしう心ぼそきことをのみ思ふ。」
――季節はただでさえ物寂しい秋になっていました。あの人(兼家)とは、まだ打ち解けてなじむというほどでもなく、逢うたびに私はただ涙ぐんでいるばかり、心細いことといったら他に比べようもない。あの人もいつもしんみりと、決してあなたを見捨てるようなことはしない、と話すけれど、人の心というものは言葉どおりになるとは限らないので、頼みとする父との別れに加えてただただ行く末が不安で、心細いとばかり思うのでした。――


「いまはとてみな出で立つ日になりて、ゆく人もせきあへぬまであり、とまる人、はたまいていふかたなくかなしきに、『時たがゐぬる』と言ふまでもえ出でやらず、又、ここなる硯に文をおし巻きてうち入れて、またほろほろとうち泣きて出でぬ。しばしは見む心もなし。」
――さて、いよいよ父の出立の日になって、出立つする父は涙も堰きかねるほどですし、留まる私は、ましてなおさら言葉のないほど悲しみにくれているときに、供の者が、「出立の時が狂ってしまいます」と急き立てて言ってきますが、父は私の部屋からなかなか出て行かれず、」そばにある硯箱に、したためた文を巻いて納めて、またほろほろと涙をぬぐって出られたのでした。わたしはすぐにはその文を拝見することができないでいました。――


「見出ではてぬるに、ためらひて、寄りてなにごとぞと見れば、
<君をのみたのむたびなるこころには行く末とほくおもほゆるかな>
とぞある。
――父の一行を見送ってから、気をとりなおして、文ににじり寄って何が書いてあるのかしらと、見ますと、
(道綱母の父親の歌)「あなた(兼家)だけを娘の庇護者として、頼りにして旅立つ私には、旅の遠い道のりのように、あなたの庇護が末永くあってほしいと願うばかりです」
とあったのでした。――