永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(122)

2008年07月31日 | Weblog
7/31  

【澪標(みおつくし】の巻  その(15)

 源氏は、あまりのあっけなさに、心細く思われて、しばらく内裏へも出仕されず、葬送のことなどを指図されて、諸事を処理されます。
この六條の宮家には、他に頼りになさる方はおられず、伊勢の時からの女官などへあれこれと指図をされます。

 源氏はご自身でもお出でになって、姫君に、何事もお申し付けくださるようにと、お言葉をお伝えになります。
 姫君は「今は悲しみばかりで、何事も思い分けられずにおります」
源氏は、かつての御息所への無情をお取り返しでもされるように、ご葬儀も立派になさり、二條院の者までも大勢お供をおさせになりました。

 源氏は、しばらくご精進されて、御簾を下ろし仏事のお勤めをなさいます。その間にも宮に始終お見舞いを差し上げられます。

 雪やみぞれの荒れ模様の日、人数も少ない宮家では、どんなに物思いに沈んでいらっしゃるだろうとお思いになって、源氏はお使いを出されます。

源氏のうた
「降りみだれひまなき空に亡き人の天翔けるらむ宿ぞかなしき」
――雪や霙のひまなく降り乱れる空に、亡き母君の霊が天翔っているあなたのお家を思えば、悲しゅうございます――

「空色の紙の、くもらはしきに書いたまへり。若き人の御目にとどまるばかりと、心してつくろひたまへる、いと目もあやなり。」
――鈍色の曇りをおびた紙にお書きになります。年若い斎宮の御目を引くようにと、心を込めてお書きになったのが、本当に眩しいくらいです――

◆斎宮についてここでは、斎宮、姫君、宮といろいろな書き方をしています。



源氏物語を読んできて(葬送の地・鳥辺野)

2008年07月31日 | Weblog
葬送の地・鳥辺野(とりべの)

 東山区南部、阿弥陀ケ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野にいたる丘陵地、鳥辺山のふもと一帯を総称。平安期から墓地、葬送の地として知られる。現在は東山区清水寺の南西、大谷本廟東方の山腹にある墓地を指す。広さは、約4万平方メートルにもおよぶ。

◆写真は現代の姿

源氏物語を読んできて(信仰と生活・葬儀)

2008年07月31日 | Weblog
葬儀
 
 死者を葬る葬式は、愛宕(おたぎ)、鳥辺野(とりべの)などで行われた。桐壺の更衣は愛宕で、葵の上は鳥辺野で行われたと書かれている。当時葬儀は夜行われ、火葬が普通で、煙となって空にのぼり雲と一つになっていくあわれさを、人々は思った。
 
 死後七日七日の法事がある。死後四十九日(なななぬか)は、死の瞬間から次の世に生をうけるまでの中間の時期で中陰(ちゅういん)という。四十九日は満中陰である。
その間、七日を一期とし、おそいものでも四十九日には必ず次の生を得る。それで七日目ごとに法事をする。四十九日には特に念仏し誦経し、仏界をうることを祈願する。極楽往生を祈るのである。
 
 死者が天皇、父母、夫、主人の場合は一年間喪に服す。
父方の祖父母や養父母は五ヶ月など、喪の期間は一年から七日まで細かく規定されていた。

 喪中は調度、衣服など常の色と異なり、服喪の軽重によってなされた。
服喪が終わることを果(はて)という。河原に出て禊ぎをする。

◆斎宮は母君の喪に一年間服することになる。
◆六條御息所の死は36歳~37歳、斎宮は19歳~20歳位。



源氏物語を読んできて(信仰と生活・無常観)

2008年07月31日 | Weblog
無常観
 
 当時、人々の心を支配した思想は仏教思想である。仏教は人生無常を説くが、この物語でも「常なき世」という言葉を、作中人物が口にする。

 源氏でみてみると、わずか三歳で母に先立たれ、正妻葵の上の死を経験し、父帝の死後の弘徴殿女御方の圧迫をうけて須磨流謫の憂き目に合って、世の無常を経験している。
 肉親の死は人生の無常、世のはかなさを知る最大の契機であるが、政治的に栄華と衰退を味わった源氏は道心を起こしている。しかしそれを妨げる柵(しがらみ)に、なお生きねばならない。

 物語中での藤壺や六條御息所の出家は、自身で決められたようであるが、これから展開される紫の上では、源氏は最後まで許さない。

◆参考:源氏物語手鏡

源氏物語を読んできて(121)

2008年07月30日 | Weblog
7/29  

【澪標(みおつくし】の巻  その(14)

 御帳台の東面に添い臥していらっしゃるのは、斎宮でしょうか。御几帳が無造作に引きやられた隙間から、御目をとおしてご覧になりますと、頬杖をついていかにも悲しそうにしておいでです。

源氏は、
「僅かなれど、いとうつくしげならむと見ゆ。御髪のかかりたる程、頭つきけはひ、あてに気高きものから、ひぢぢかに愛敬づき給へるけはひしるく見え給へば、心もとなくゆかしきにも、さばかり宣ふものを、と思し返す。」
――わづかしか見えませんが、たいそうお美しい。お髪のかかりようや、おつむの形、ご様子など上品にけだかいものの、人なつかしく愛敬のあおりになるご様子が、まざまざと感じられますので、心惹かれもっと近づきたく思われますが、あれほど御息所がご心配なさったのであるからと、お思い返しになるのでした。――

いかにも苦しそうなご様子の御息所へ、源氏は

「故院の御子たちあまたものし給へど、親しく睦び思ほすも、をさをさなきを、……すこしおとなしき程になりぬる齢ながら、あつかふ人もなければ、さうざうしきを。など聞えて、帰り給ひぬ。」
――故桐壺院の御子が大勢いらっしゃいましたが、私を親しく睦みあわれる方が、ほとんどおられませんのに、(御父の故桐壺院が、斎宮を御子たちと同様な待遇をなさったのですから、私もそのように御妹ととして、お力になりましょう)私もやや人の親らしい歳になりましたのに、育てるはずの子を持たず、淋しく思っているところですから。などと申し上げてお帰りになりました。――

 その後もお見舞いをつくされましたが、七、八日の後、御息所は、
「亡せ給ひにけり」
――お亡くなりになってしまわれました――

◆写真:大殿油(おおとなぶら・おおとのあぶら)室内灯  風俗博物館


源氏物語を読んできて(信仰と生活・宿世の思想)

2008年07月30日 | Weblog
信仰と生活

宿世の思想

 この時代の骨格をなしているのが宿世(すくせ)の思想である。仏教の三世思想、つまり、人は前世、現世、来世とめぐりめぐって生き続けるという輪廻の思想を根底とするもので、因縁の因果の理である。
 
 現世において、たとえば中宮、皇后になるとか、内親王に生まれるというのは、前世の功徳のおかげであり、めでたき宿世の人ということになる。
 源氏が親王としてではなく、臣下に宣下されたのも、臣下のままで終わらない宿世をも、高麗の相人が占っている。
 
 宿曜(すくよう)は、星の運行によって人の運命を占うのであるが、「源氏の御子の一人が帝に、姫君は妃に、もう一人は太政大臣に」と、物語の展開は宿世の占いによって暗示されている。この、もう一人の太政大臣は源氏の子夕霧である。

 当時の信仰生活、ものの考え方を、源氏物語からうかがい知ることができる。

◆参考:源氏物語手鏡

源氏物語を読んできて(120)

2008年07月28日 | Weblog
7/28  

【澪標(みおつくし】の巻  その(13)

源氏は、「お頼みがなくても、思い棄て申すべきではありませんのに、こうしてお話がありました以上、何事にもご後見申そうと存じます」と。

御息所は、
「いと難きこと。まことにうち頼むべき親などにて見ゆづる人だに、女親に離れぬるはいとあはれなることにこそ侍るめれ。まして思ほし人めかさむにつけても、あぢきなきかたやうち交じり、人に心も置かれ給はむ。うたてある思ひやりごとなれど、かけてさやうの世づいたる筋に思し寄るな。憂き身をつみ侍るにも、女は思ひの外にて物思ひを添ふるものになむ侍りければ、いかでさるかたをもて離れて見奉らむ、と思う給ふる」など聞え給へば、

――いえ、これは難しいことでしょう。頼りになる父親に後時をお頼みする場合でも、傍にいて何かと気遣う母親がいないのは、哀れなことが多いでしょう。まして他人のあなたが、娘の斎宮を妻の一人にお扱いなさるようならば、娘に嫉妬などの不愉快な事も起こりやすく、人から恨まれることもありましょう。思い過ごしかも知れませんが、決してそんな色めいたことをお考えになりますな。つたない私の身の上を比べてみても、女というものは、思いの外苦労が多く、このようなことでますます苦しみが増すというものです。
娘にはそういう世づいたことから離れさせておきたいのです。とおっしゃると――

源氏は
「あいなくも宣ふかなと思せど、……」
――源氏は、よくもまあ、ずけずけとおっしゃる事よとお聞きになり、「この数年の間に私も万事に分別がついてまいりましたのに、昔の浮気心がまだ残っているようにおっしゃられるのは心外です。まあ、自然にお分かりになると思いますが――

 外は、暗くなっております。内には大殿油(おおとのあぶら・おおとなぶら)の光が、ほのかにものごしに透けて見えますので、源氏は、もしやと御几帳の隙間から覗いてごらんになると、御息所は髪を上品に尼そぎにして脇息に寄りかかっておられ、そのお姿は、絵に描いたように美しいのでした。

◆写真:尼削ぎ=出家して尼になると、髪を腰の辺りまでで切りそろえます。
    風俗博物館

明日はお休みします。ではまた。



源氏物語を読んできて(平安時代という時代 2 )

2008年07月28日 | Weblog
平安時代という時代(2)

 王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していった。

 国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。

 この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していった。

源氏物語を読んできて(平安時代という時代 3 )

2008年07月28日 | Weblog
平安時代という時代(3)

 11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力である。

 院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。

 こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場するが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまう。

 平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろした。



源氏物語を読んできて(119)

2008年07月27日 | Weblog
7/27  

【澪標(みおつくし】の巻  その(12)

六條御息所がお帰りになって後も、源氏は以前と変わらぬお世話をお申し出になりますが、

「昔だにつれなかりし御心ばへの、なかなかならむ名残は見じ、と思ひ放ち給へれば、渡り給ひなどする事はことになし」
――六條御息所は、源氏が昔でさへ、冷淡でいらしたお心から、なまじお情けを頂いて後悔するような目は見まいと、ふっつりと思い離れていらっしゃるので、源氏からことさらお出でになることはありません――

 源氏は、ただ、あの美しい斎宮は、どのように成長なさったかと、垣間見て見たいとお思いです。

 六條御息所は、風流を好まれることは昔のままで、過ごされていらっしゃいましたが、
「なはかに重くわづらひ給ひて、物のいと心細く思されければ、罪深き所に年経つるも、いみじう思して、尼になり給ひぬ」
――急に重い病気になられて、この先を心細く思われ、仏事供養を忌み避ける斎宮にて、年月を送りましたことを罪深く気に病まれて、尼になられました。――

 源氏はこのことをお聞きになって、色めいたことではなくても、あの方をしかるべく思われておりましたので、こう発心されたことが口惜しく、驚きながらお渡りになり、あわれ深くお見舞いを申し上げます。御息所は大層弱々しいご様子で、脇息に寄りかかってご返事なさって、その中で

「心細くてとまり給はむも、必ず事に触れて数まへ聞え給へ。また見ゆづる人もなく、類なき御有様になむ。……とても、消え入りつつ泣い給ふ」
――斎宮は心細いさまで残られますゆえ、必ず、何かにつけてお世話下さい。他にお世話を頼む人もなく、またとないあわれなお身の上なのです。(私はもうしばらく生きて、斎宮の後見ができると思っていたのですが)とおっしゃって、消え入るようなお声で泣いておられます――

◆罪ぶかき所=佛教の立場からみると、斎宮は神道で、仏事供養を忌み避ける場所である。
 この時代は、佛教が盛んになり、末法思想の中で、死後は西方浄土への願いが大きかった。六條御息所も死を前に、仏事を離れていた事を、罪深いと思ってのこと。