永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(431)

2009年06月30日 | Weblog
09.6/30   431回

三十四帖【若菜上(わかな上)の巻】 その(40)

 大尼君(明石御方の母君)も、大分もうろくしてきましたが、夢のような思いで、こちらで奉仕をしております。明石の御方は今までも、姫君に付き添っていらっしゃるものの、昔の事など詳しくもお聞かせせずにおりましたが、大尼君は涙がちに姫君ご出生の頃のことを、感動に声を震わせながらお話申し上げます。

「初めつ方は、怪しくむつかしき人かなと、うちまもり給ひしかど、かかる人ありとばかりは、ほの聞き置き給へれば、なつかしくもてなし給へり」
――(姫君は)初めのうちは、妙にうるさい人だと尼君の顔をご覧になっていましたが、こんな祖母が居るということだけはちょっと耳にしてしましたので、やさしく対しておられました――

 尼君は姫君のお生まれになった時のことや、源氏が明石の浦に来られたご様子などをお話になり、

「今はとて京へ上り給ひしに、誰も誰も心を惑はして、今は限り、かばかりの契にこそはありけれ、と歎きしを、若君のかくひき給へる御宿世の、いみじく悲しきこと」
――源氏が都にお帰りになるということで、誰もかれも落胆して、これが最後だ、ただこれだけの因縁だったのだと歎きましたが、姫君がこうして私どもをお助けくださった御因縁が、実に身に沁みます――

 と、ほろほろと涙を流してお話になります。姫君はお心の内で、

「げにあはれなりける昔の事を、かく聞かせざらましかば、おぼつかなくても過ぎぬべかりけり」
――このような哀れ深い昔のことを、こうして尼君が話してくださらなかったならば、何も知らずに過ぎてしまうところだった――
と、思いながら涙ぐまれ、またお心のうちに、

「わが身は、げにうけばりていみじかるべき際にはあらざりけるを、対の上の御もてなしに磨かれて、人の思へるさまなども、かたほにはあらぬなりけり、身をばまたなきものに思ひてこそ、宮仕えの程にも、かたへの人々をば思ひ消ち、こよなき心驕りをばしつれ、世人は、下に言ひ出づる様もありつらむかし」
――本当は自分は、大きな顔をして高い地位にいるべき身ではなかったものを、紫の上が大切に守り育ててくださり、ご教育のお陰で、人からもそれほどおかしく思われないようになったのだろう。それなのに、私程の者は他に居ないとさえ思い、宮仕えの間にも、他の人々を数にも思わず、心驕りしていたのを、世の人々は陰で何と噂していたことか――

 と、つくづくと思い知られたのでした。

◆写真:産着を縫う女房たち 風俗博物館

源氏物語を読んできて(430)

2009年06月29日 | Weblog
09.6/29   430回

三十四帖【若菜上(わかな上)の巻】 その(39)

 秋好中宮からのお祝い事に源氏は、

「四十の賀といふことは、さきざきを聞き侍るにも、残りの齢久しき例なむ少なかりけるを、この度はなほ世のひびき止めさせ給ひて、まことに後に足らむ事をかぞへさせ給へ」
――四十の賀ということは、前例を聞きましても、その後長生きした例は少ないものですから、この度は矢張り世間の評判となる事はお止めくださって、本当に五十、六十になりますのをお数えください――

 と、おっしゃられましたが、やはり結局は朝議に准じて盛大に行われたのでした。

新年を迎えました。

 桐壷の女御(明石の女御)のお産の時期が近づいて参りました。源氏は、元日より僧たちに絶えず読経をおさせになります。寺々、社々に祈らせること限りもありません。

「大臣の君、ゆゆしき事を見給ひてしかば、かかる程の事は、いと恐ろしきものに思ししみたるを、対の上などのさる事し給はぬは、口惜しくさうざうしきものから、うれしく思さるるに」
――(源氏は)かつて、葵の上がお産の為に死なれた不吉な御経験がお有りなので、お産はたいそう恐ろしいものと思い込んでいらっしゃる。紫の上がお産をされないのは、残念で物足りないものの、却って安心でもあると思われますが――

 明石の女御はまだ十三歳の若く弱々しい年ごろと、ご心配も一通りではなく、周りの人々も騒いでおりますうちに、二月頃からますますご容体が変わってお苦しみになりますので、ご心配はひとかたではありません。陰陽師どもも、御産所を変えて謹慎されるようにとお勧めになりますので、なるべくお近い御母(明石の御方)のいらっしゃるお部屋に御移りになりました。

「御修法の壇ひまなく塗りて、いみじき験者どもつどひてののしる。母君、この時にわが御宿世も見ゆべきわざなれば、いみじき心をつくし給ふ」
――安産ご祈祷の壇をぎっしり塗り固め、偉い修験者がそろって大声で祈祷されます。明石の御方は、この時こそご自分の運命(男か女か)も定まるべき分かれ目ですので、ひとかたならず心をつくしてお世話申し上げます。

◆写真:安産を願い御修法(みずほう)をおさせになる。風俗博物館

ではまた。


源氏物語を読んできて(429)

2009年06月28日 | Weblog
09.6/28   429回

三十四帖【若菜上(わかな上)の巻】 その(38)

 夜になって楽人たちは退出しました。紫の上付きの別当が下人を指図して、唐櫃から禄を一人一人にお渡しになります。やがて管弦のお遊びがはじまり、それはそれは趣深いものです。

「御琴どもは、東宮よりぞととのへさせ給ひける。朱雀院よりわたり参れる琵琶、琴、内裏よりたまはり給へる筝の御琴など、皆むかし覚えたるものの音どもにて、珍しく掻きあはせ給へるに、何の折にも過ぎにし方の御有様、内裏わたりなど思し出でらる」
――楽器の類は主に東宮のほうでお揃えになってくださいました。朱雀院からお譲り受けになった琵琶、琴、今の帝から賜りました筝の御琴など、みな源氏には昔を思いだされる楽器ばかりで、久しぶりにご一緒に掻き合わせなさると、何の音色にも過ぎ去った昔の有様、御所あたりのことなどが彷彿と思い出されるのでした――

「故入道の宮おはせしかば、かかる御賀など、我こそ進み仕う奉らましか、何事につけてかは、志をも見え奉りけむ、と飽かずくちをしくのみ思ひ出で聞こえ給ふ」
――(源氏は)亡き藤壺中宮が御在世中ならば、こうした賀宴などは、自分こそ進んで御奉仕しようものを、いったい御在世中、自分は何によって中宮に真心をお見せしたというのだろうか、と、いつまでも口惜しくのみ思い出されるのでした。―-―

 内裏では、冷泉帝がしみじみと亡き御母の藤壺中宮を偲ばれ、せめて源氏だけにでも御父への礼を尽くしたいと、今回も六条院へ行幸の意をお伝えになりましたが、源氏は、世人の迷惑になることは決してなさらぬようにとお止め申されます。

 十二月の二十日頃に、秋好中宮が内裏を御退出なさって、源氏のための四十の賀として、奈良の都の七大寺に、御誦経、布四千段、四十の寺に絹四百疋をご布施としてお納めになりました。秋好中宮は、

「あり難き御はぐくみを思し知りながら、何事につけてか、ふかき御志をもあらはし御覧ぜさせ給はむとて、父宮母御息所のおはせまし御為の志をも取り添へ思すに(……)」
――源氏の御養育のご恩はお分かりでありながら、この機を外しては何によって誠意をお示しできようかと、亡き御両親が御在世でありましたら、きっとなさるに違いない感謝の志を加えたいとお考えになっておりましたが、(源氏が帝にさへご辞退申し上げてのことですので、中宮はご計画の大部分をお取り止めになったのでした)――

◆写真:お祝いを受ける源氏 倚子(いし)に座っている。風俗博物館

ではまた。


源氏物語を読んできて(428)

2009年06月27日 | Weblog
09.6/27   428回

三十四帖【若菜上(わかな上)の巻】 その(37)

「舞台の左右に、楽人の平張うちて、西東に屯食八十具、禄の唐櫃四十づつ続けて立てり」
――設えた舞台の左右に樂人の為の平張を造り、西東に屯食(とんじき)八十具、禄(ろく)の唐櫃四十づつを並べ立ててあります――

 午後二時ごろ樂人が参り、万歳楽、皇じょうなど舞って、日暮れの頃になって高麗楽で急調子とともに、落蹲(らくそん)が舞われました。

 舞が果てる頃、

「権中納言、衛門の督おりて、入綾をほのかに舞ひて、紅葉の陰に入りぬる名残、飽かず興ありと人々思したり」
――夕霧と柏木が庭上に下りて、入綾(いりあや=舞楽の引き入り際に、更に舞う手)をほんの一くさり爽やかに舞われて、紅葉の陰に隠れて行ったそのあとには、名残惜しさと、面白さが人々の心に残ったのでした――

 亡き桐壷帝が朱雀院に行幸の折、源氏と頭の中将(現太政大臣)が青海波(せいがいは)を舞われた夕べのことを思い出された人々は、

「権中納言、衛門の督の、またおとらず立ち続き給ひにける、世々のおぼえありさま、容貌用意などもをさをさおとらず、官位はやや進みてさへこそなど、齢の程をも数えて、なほさるべきにて、昔よりかくたち続きたる御仲らひなりけり」
――夕霧も柏木も、父君達に劣らず並び立たれたそのご様子は、世人の信望、ご容姿、御態度などもほとんど父君たちに劣らず、官位はそれより少し進んでさえおられるなどと、年齢の具合まで数えては、やはり前世からの因縁で、両家は昔からこのように並び立っている間柄なのだ――

 と、感心しています。源氏も感慨深く涙ぐまれて、昔のあのことこのことの思い出が尽きないご様子です。

◆写真:寝殿の前に設えられた楽舞台  風俗博物館

ではまた。



源氏物語を読んできて(屯食)

2009年06月27日 | Weblog
 屯食(とんじき)というのは、甑(こしき)で蒸した強飯を握り固めて卵形にし、折敷に載せたものです。宮中や貴族の宴会において庭に用意され、下人らに振舞われました。いずれも主催者または後援者が非常に力を入れた盛大な儀式である点が注意されます。

 食膳が庭に用意されるということは、取りも直さず身分の低い者は建物の中には上がれないことを意味しており、この時代のはっきりとした身分秩序が感じられますが、下人の食膳のことまで書き記すというのは、宴の主催者の行き届いた配慮や、身分の高い者も低い者も残らず列席した宴の盛大さを表現しているのかもしれません。

 そして80という数は、40の倍数で揃えたものです。

◆参考・写真 風俗博物館

源氏物語を読んできて(舞・入り綾)

2009年06月27日 | Weblog
舞・入り綾(いりあや)

 入綾(いりあや)を舞う夕霧と柏木です。入綾というのは、本来は左方の舞で、舞の終了後に当曲(最終楽章)を重ねて演奏する中を舞人達が中央に縦列になって順次退出していく作法のことを指しますが、単に舞の終了後も奏楽を続けてその中を退場するのも「入綾」と呼ぶ場合があります。

 落蹲(らくそん)は右方舞ですので、ここでの入綾は後者の方でしょう。

◆参考・写真 :風俗博物館