永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(145)その2

2016年09月27日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (145)その2  2016.9.27

「しばしありて台などまゐりたれば、すこし食ひなどして、日暮れぬと見ゆるほどに、『あす春日の祭りなれば、御幣出だしたつべかりければ』などて、うるはしうひき装束き、御前あまたひきつれ、おどろおどろしう追ひ散らして出でらる。」
◆◆すこしたって、侍女がお食事などをさしあげますと、少し召し上がって、日の暮れかかったとみえるころに、「明日は春日の祭りのために、御幣使い(みてぐらづかい)を出立させねばならないから」と言って、完璧に装い、先駆の供々を大勢ひきつれて、威勢よく先払いをさせて出て行かれました。◆◆



「すははちこれかれさし集まりて、『いとあやしううちとけたりつるほどに、いかに御覧じつらん』など、口々いとほしげなることを言ふに、まして見苦しきことおほかりつると思ふ心ち、ただ身ぞ倦じ果てられぬるとおぼえける。」
◆◆すぐさま、侍女たちが集まってきて「あいにく、無様なだらしのない格好をしておりましたのを、殿様はどう御覧になったでしょう」などと口々に申し訳なさそうに言っていましたが、私の方こそ余程みっともない有様だったと思う気持ちで、ただもう我が身こそ愛想をつかれたと感じられたのでした。◆◆



「いかなるにかからん、このごろの日、照りみ曇りみ、いと春寒き年とおぼえたり。夜は月明かし。」
◆◆どうしたことなのか、このごろの天候といったら、照ったり曇ったり、春だというのに、とても寒い年だと思われました。夜は月が明るかった。◆◆


「十二日、雪こち風にたぐひて散りまがふ。午時ばかりより雨になりて静かに降り暮らすまましたがひて世仲(よのなか)あはれげなり。今日まで音なき人も思ひしにたがはぬ心ちするを、今日より四日、かの物忌みにやあらんと思ふにぞ、すこしのどめたる。」
◆◆十二日、雪が東の風と一緒になって散り乱れています。昼ごろからは雨になって、静かに降り続くにつれて、世の中全体がしんみりとした感じでした。今日まで手紙も訪れもないあの人のことは、思ったとおりだという気がしますが、今日から四日間は物忌みかも知れないと思って、少し気持ちを落着かせました。◆◆


■春日の祭り=春日神社の祭礼は二月と十一月の上申(かみのさる)の日に行われる。天禄三年二月は11日。その前日に御幣使いが立つ。


蜻蛉日記を読んできて(145)その1

2016年09月23日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (145)その1 2016.9.23

「三日になりぬる夜降りける雪、三四寸ばかりたまりて、いまも降る。簾を巻きあげてながむれば、『あな寒』といふ声ここかしこにきこゆ。風さへはやし。世の中いとあはれなり。」

◆◆三日になった夜に降った雪が、三、四寸ばかりに積もって、今も降っています。簾をまきあげて見るともなしに眺めていると「ああ、寒いこと」という侍女たちの声が、ここかしこに聞こえます。風までもひどく吹いています。世の中全体がしみじみとした感じのするところです。◆◆



「さて日晴れなどして、八日のほどに県ありきのところに渡りたり。類おほく、若き人がちにて、筝の琴、琵琶など、折りにあひたる声にしらべなどして、うち笑ふことがちにて暮れぬ。つとめて客人帰りぬるのち、心のどかなり。」

◆◆さてその後、天気が回復して、八日ごろに父倫寧の邸に行きました。一族の縁者が多く集まり、しかも若い女達の方がたくさんで、筝(そうのこと)や琵琶などを今の季節に合った調子に奏したりなどして、笑い声の絶えない一日を過ごしたのでした。翌朝、客の親類の人々が帰ったあとは、のんびりとした気分でした。◆◆



「ただいまある文を見れば、『ながき物忌みにうちつづき、着座といふわざして慎みければ。今日なんいととくと思ふ』など、こまやかにあり。返りごとものして、いとよげにあめれど、よにもあらじ、あさましううちとけたることおほくてあるところに、午時ばかりに『おはします おはします』とののしる。いとわただしき心ちするに、はひ入りたれば、あやしく我か人かにもあらぬにて向かひゐれば、心ちも空なり。」

◆◆自宅に帰って、すぐに届いたあの人からの手紙を見ますと、「長い物忌みがつぎつぎ続いて、着座ということをして謹んでいたので。今日、早速行こうと思う」などと、心細やかな文面です。返事を出して、いかにもすぐ行くよなどと言っているけれど、そんなことも無いであろうと、全くこの頃はあの人に相手にされなくなっているので、わたしはもうあの人のことは気に掛けずだらしなく過ごしているところに、午(午前11時~午後1時ごろの間)のころに「いらっしゃいます。いらっしゃいます」と侍女たちが大騒ぎしています。わたしがひどくあわてふためいているところに、あの人が入ってきたので、変な格好でぼおっとして対座していると、まったく気持ちもうわの空というものでした。◆◆


蜻蛉日記を読んできて(144)

2016年09月20日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (144) 2016.9.20

「あくれば二月にもなりぬめり。雨いとのどかに降るなり。格子などあげつれど、例のやうに心あわただしからぬは、雨のするなめり。されどとまるかたは思ひかけられず。」
◆◆明ければ二月にもなったらしい。雨がしんみりと降っています。格子などを上げたけれど、いつものように急き立てられるような気分でないのは、雨のせいで、あの人がのんびりしているせいらしい。けれどこのまま、ここに留まるということは考えられません。◆◆



「と許りありて『男どもはまゐりにたるや』などいひて、起き出でて、なよよかなる直衣、しをれよいほどなる掻練の袿ひとかさね垂れながら、帯ゆるるかにてあゆみ出づるに、人々『御かゆ』などけしきばむめれば、『例食はぬものなれば、なにかはなにに』と心よげにうちいひて、『太刀とくよ』とあれば、大夫とりて簀子に片膝つきてゐたり。」
◆◆しばらくして、「供人たちは参っているか」などと言って、あの人が起き出して、やわらかな直衣に、糊けのとれてしなやかになった紅の練絹の袿を一かさね指貫の上に垂らし、帯をゆったりと結んで、足を運んでくると、侍女たちが、「ご飯を」などと勧める様子、すると、「いつも食べないものだから、なあに、いらないよ」と、機嫌良さそうに言って、「太刀を早くな」というので、大夫(道綱)が取って、縁側に片膝をついて控えています。◆◆



「のどやかにあゆみいでて見まはして、『前裁をらうがはしく焼きためるかな』などあり。やがてそこもとに雨皮張りたる車さしよせ、男ども軽らかにてもたげたれば、はひ乗りぬめり。下簾ひきつくろひて中門よりひきいでて、先よいほどに追はせてあるも、ねたげにぞきこゆる。」
◆◆あの人は足を運んで、あたりを見回して、「植え込みを乱雑に焼いたようだな」などと言っています。やがてそこに雨覆いをつけた車を近寄らせて、供人たちが軽々と車の轅を持ち上げますと、乗り込んだようでした。下簾をしっかりと下ろし、中門から引き出して、先払いをほどよくさせて遠ざかった幾野も、ねたましく感じるほど立派な様子でした。◆◆



「日ごろいと風はやしとて、南面の格子はあげぬを、今日かうて見出してとばかりあれば、雨よいほどにのどやかに降りて、庭うち荒れたるさまにて草はところどころ青みわたりにけり。あはれとみえたり。昼つかた、かへしうちふきて晴るる顔の空はしたれど、ここちあやしうなやましうて、暮れはつるまでながめくらしつ。」
◆◆数日来、とても風が強いというので、南面の座敷の格子を上げずにいましたが、今日このようにあの人を見送ったまま、しばらく外を見ていると、雨がほどよくのどやかに降って、庭は大分荒れた様子で、草がところどころ青く萌え出ています。しみじみと感慨をもよおされるのでした。昼ごろになって、吹き返しの風が吹いて雨雲を打ち払い、晴模様の空にはなったけれど、私の気持ちはすぐれず、この日の暮れるまでぼんやりと外を眺めて暮してしまったのでした。◆◆


蜻蛉日記を読んできて(143)

2016年09月17日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (143) 2016.9.17

「又つごもりの日許りに、『なにごとかある。さわがしうてなん。などか音をだに。つらし』など、はては言はんことの無さにやあらん、さかさまごとぞある。今日もみづからは思ひかけられぬなめりと思へば、返りごとに、『御前申しこそ御いとまの暇なかべかめれど、あいなけれ』と許りものしつ。」

◆◆また三十日ごろに、「なにか変わったことはないのか。こちらは取り込み中でね。せめて手紙だけでもくれないのか。薄情な」などと、しまいには言うことがなくなったのか、逆恨みをしてきます。今日もあの人自身の来訪はないだろうと思うので、返事に「御前での御奏聞のお役目は、お体のお休みになる暇もないご様子ですが、私には何とつまらないこと」とだけ書いてやりました。◆◆



「かかれど、今はものともおぼえずなりにたれば、なかなかいと心やすくて、夜もうらもなううち臥して寝入りたるほどに、門たたくにおどろかれて、あやしと思ふほどに、ふとあけてければ、心さわがしく思ふほどに、妻戸口に立ちて『疾くあけ、はや』などあなり。

◆◆こんな風で、今は足が遠のいてしまっていますが、それもそう気にならなくなって、かえって気が楽で、夜も心置きなく横になって寝込んでいましたところ、門を叩く音にすっかり目が覚めて、変だと思っていると、召使がさっと門を開けたので、わたしがどきどきしていますと、あの人が妻戸口に立って、「早く開けよ。早く」などと言う声がします。◆◆



「前なりつる人々もみなうととけたれば、逃げ隠れぬ。見苦しさにゐざりよりて、『やすらひにだになくなりにたれば、いとかたしや』とて開くれば、『さしてのみまゐりくればにやあらん』とあり。さてあか月がたに松ふく風の音いと荒くきこゆ。ここら一人あかす夜、かかる音のせぬは、ものの助けにこそありけれとまでぞきこゆる。」

◆◆前にいた侍女たちもみなくつろいだ身なりだったので、逃げ隠れてしまいました。だれも迎えに出る人がいないので、わたしが妻戸口にいざり寄って、「もしかしてお出でになるかと戸締りをせずに寝ることすらこの頃はしなくなりましたので、すっかり錠が錆付いて開けにくくなってしまったこと」などと言って開けますと、「ただ一途にこちらを目指してやって来たせいで、戸も鎖して開かなかったのだろうかね」と言う。さて、夜明け前ごろに松を吹く風の音が、とても荒々しく聞こえます。独り寝をして明かした幾晩もの間、こんなひどい音がしなかったのは、神仏の御加護であったのだわと、思うくらいに荒々しく聞こえるのでした。◆◆


■御前申し=帝の御前で奏上すること。大納言の職務をいう。大納言の和名は「おほいものまうすつかさ」



蜻蛉日記を読んできて(解説)

2016年09月14日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (141)(142)の解説

『蜻蛉日記』下巻 上村悦子著 より

 袍の仕立てを忘れていたのか、十四日ごろに急いで作者邸へ持ってきた。お裁縫の上手な作者だが、平常あまり寄り付きもしないで、』急ぎの縫い直しをおしつけた身勝手さに反発して、向こうの指定日に合わせて精を出す気になれず、捨ておいたところ、矢の催促で取りに来たのであるが、行き違いに仕立て直した着物を手紙もつけずに届けさせた。これをめぐる兼家と作者の歌の贈答であるが、珍しく兼家の方から歌をよこしている。(中略)歌は明るい、やや諧謔を含むものである。

 初雪、鶯の初音、こうした自然現象を目にし耳にしては感慨もひとしおで、和歌を口ずさむのが歌人のたしなみであり、作者もその一人で、いつも歌が口をついて出るのが常であったが、どうも年が老けたせしか、歌がすらすら生まれて来ないことを述べている。兼家の訪れもなく、仕立物の縫い直しを頼まれる実用的な妻になって、教養人ならいちはやく感得する自然のうつり変わりにも心が弾まず、感動も薄い人間になってしまったことをなげくでもなく、かなり素直に述べている。

蜻蛉日記を読んできて(142)

2016年09月10日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (142)2016.9.10

「今日は廿三日。まだ格子はあげぬほどに、ある人起き走りて妻戸おしあけて『雪こそ降りたりけれ』と言ふほどに、鶯の初音したれど、ことしもまいて心ちも老いすぎて、例のかひなきひとりごともおぼえざりけり。」
◆◆今日は一月二十三日。まだ格子を上げないうちに、側の侍女が起きはじめて妻戸をおしあけて、「まあ、雪が降ったのだわ」と言っていると、鶯の初音が聞こえてきたのでした。でもまるで気持ちが老い込んでしまったようで、いつもの何の役にも立たない独り言の歌も浮かばないのでした。◆◆



「司召、廿五日に、『大納言に』などののしれど、わがためは、ましてところせきにこそあらめと思へば、『御よろこび』など言ひおこする人も、かへりては弄ずる心ちして、ゆめ嬉しからず。」
◆◆司召しがあって、二十五日に、あの人が「大納言に昇進した」とか大騒ぎだけれど、私のためには、今まで以上に自由の利かない身になるであろうと思うと、「お祝い申し上げます」などと言ってよこす人も、かえって私をからかっているように感じられて、全く嬉しくなんぞない。◆◆



「大夫許りぞえもいはず下には思ふべかめる。又の日ばかり、『などか、いかにと言ふまじき。よろこびのかひなくなん』などあり。」
◆◆大夫(道綱)ばかりは、内心、なんともいえないほど喜んでいるようです。次の日あたりに、あの人から「なぜ、『どんなにお喜びでしょう』、などと言ってはいけない筈がないだろう。あなたが何にも言ってくれないから、昇進した喜びの甲斐がないよ」などと言ってきました。◆◆

■大納言に=兼家は右大将兼任の大納言に。

蜻蛉日記を読んできて(141)

2016年09月07日 | Weblog
141蜻蛉日記  下巻 (141) 2016.9.7

「かくてなかなかなる身の便なきにつつみて、世人のさわぐ行ひもせで、二七日はすぎぬ。」
◆◆こうして、なまじっか兼家という人の妻であるという我が身なので、気兼ねして、世間の人々が熱心にする勤行もせずに、二七日(十四日)が過ぎていきました。◆◆



「十四日ばかりに古き袍、『これ、いとようして』など言ひてあり。『着るべき日は』などあれど、急ぎも思はであるに、つかひのつとめて『おそし』とあるに、
<久しとはおぼつかなしや唐衣うち着てなれんさて送らせよ>
とあるに、たがひて、これよりも文もなくてものしたれば、『これはよろしかめり。まほならぬがわろさよ』とあり。」
◆◆その十四日ころに、古い袍(うえのきぬ)を、あの人の方から「これを仕立て直して」などと言って寄こしました。「着る予定の日はこれこれ」などとあるけれども、急いで仕立てようとは思わずにいると、使いが翌朝、「まだですか」と言ってきて、
(兼家の歌)「まだ出来上がらないとは気がかりなことよ。その着物をずっと着慣れたいもの。きものはそのまま返送させよ」
とありましたが、行き違いにこちらから手紙も付けずに仕立物を届けたので、「これはなかなかの出来栄えのようだ。素直でないのがいただけないが」とありました。◆◆



「ねたさにかくものしけり。
<わびてまたとくとさわげどかひなくてほどふるものはかくこそありけれ>
とものしつ。それよりのち『司召しにて』などて、音なし。」
◆◆しゃくにさわってこう言ってやりました。
(道綱母の歌)「せっかく仕立て直した甲斐もなく、ぐずぐずしている古女房の私はこうして文句を言われるのですね」
と、言って送りました。それから後、「司召し」で忙しいなどと言って、音沙汰がないのでした。◆◆


■袍(うへのきぬ)=奈良時代以来の朝服およびその変化形式である束帯や衣冠の上着。〈うえのきぬ〉ともいう。詰襟式の盤領(あげくぴ)で,身は二幅,袖は奥袖にほぼ半幅の端(鰭)袖(はたそで)をつけた裄(ゆき)の長い衣。奈良時代から平安時代初期にかけての袍は身ごろも袖も細いものであったが,平安時代中期以降,服装の和様化,長大化によって,身ごろが広く,袖丈が長いものに変わった(図)。袍の形に2種あり,文官の用いるものは両脇が縫いふさがり,裾に襴(らん)がついた,有襴(うらん)の袍または縫腋袍(ほうえきのほう)といい,若年や武官の用いるものは両脇を縫いふさがず開いていて,襴をつけていないもので,襖(あお)とか無襴の袍,または闕腋袍(けつてきのほう)と呼んだ。

■写真=袍


蜻蛉日記を読んできて(140)

2016年09月04日 | Weblog
蜻蛉日記  下巻 (140) 2016.9.4

「八日ばかりに見えたる人、『いみじう節会がちなるころにて』などあり。つとめて帰るに、しばし立ちどまりたる男どもなかより、かく書きつけて、女方の中に入れたり。
(男の歌)「下野の桶のふたらをあぢきなく影もうかばぬ鏡とぞ見る」
◆◆今年になって初めて八日になってから見えたあの人は、「たいそう節会が続くのが重なって」などと弁解しています。翌朝帰る折に、一服していた従者の中から、こんな歌を書きつけて、こちらの侍女に寄こした者がいました。
(兼家方の従者のうた)「何も入っていない桶の蓋は、情けないことに姿も映らぬ鏡だ。」(暗に酒を要求した歌)◆◆


「その蓋に、酒、くだものと入れて出だす。かはらけに女方、
(女の歌)「さし出でたるふたらを見れば身を捨ててたのむは魂の来ぬとさだめつ」
◆◆その蓋に、酒と肴とを入れて差し出した。土器(かわらけ)に書き付けた侍女の歌、
(作者方の侍女のうた)「差し出された蓋を見ると身がありません。これでは鏡ではないので魔力がなく私たちを呼び出すことは出来ませんよ。代わりにお望みの品を入れて差し上げましょう」◆◆

■女方(おんなぼう)=道綱母の侍女

蜻蛉日記を読んできて(139)

2016年09月01日 | Weblog
蜻蛉日記 下巻  2016.9.1より

天禄三年(972年) 円融天皇
兼家 44歳くらい。正月二十四日、右大将兼任の権大納言。
          二月二十九日(閏月)大納言に。
作者(道綱母)36歳 結婚十八年目。
道綱 18歳

蜻蛉日記  下巻 (139) 2016.9.1
「かくてまた明けぬれば、天禄三年といふめり。ことしも憂きもつらきもともに心ち晴れておぼえなどして、大夫さうぞかせて出だし立つ。下り走りてやがて拝するを見れば、いとどゆゆしうおぼえてなみだぐまし。」
◆◆このようにして新年となり、天禄三年というようです。今は嫌なことも情けないこともすっきりしたような気分になって、道綱を正装させ参賀に送り出しました。道綱が庭に降りて拝舞するのをみると、ひときわ立派に成長した姿に涙ぐんでしまいました。◆◆


「行ひもせばやと思ふ今宵より、不浄なることあるべし。これ人忌むといふことなるを、またいかならんとてにかと、心ひとつに思ふ。今年は天下に憎き人ありとも思ひなげかじなど、しめりて思へば、いとこころやすし。」
◆◆私は勤行をしようと思っていたこの夜から不浄の身となるようです。月の障りが元日からとは、世の中の人が忌み嫌うようですが、全く私はどうなっていくのかと、内心案じられるのでした。今年は兼家をどんなに憎らしいと思っても、嘆くまいとしんみりとして思えば、心も安らかにいられます。◆◆


「三日は帝の御冠とて、世はさわぐ。白馬やなどいへども、心ちすさまじうて、七日もすぎぬ。」
◆◆正月三日は円融天皇の元服の儀だといって、世間は大騒ぎしています。七日は白馬(あおうま)の節会やなにやと騒いでいますが、私の心は荒涼としたまま、その七日も過ぎていきました。◆◆

■さうぞかせて=装束させて、正装させて。

■白馬=白馬(あおうま)の節会。七日。
奈良時代ころから行われた年中行事。正月7日、天皇が紫宸殿(ししんでん)または豊楽殿(ぶらくでん)に出御し、左右馬寮(めりょう)から引き出された21頭の青馬(あおうま)を見る儀式。青馬とは、白または葦毛(あしげ)の馬で、この日に青馬を見れば、その年の邪気を避けられるという中国の風習に倣ったもの。もとは「青馬」と書いていたが村上(むらかみ)天皇(在位946~967)のとき「白馬」と書き改めた。ただし読みは「あおうま」のままであり、馬の色がとくに変わったのではなく、ただ、上代の色彩感が平安時代になると、白を重んじる結果である。行事の日本化のためである。平安時代には儀式も整い、初めに御弓奏(みたらしのそう)、白馬奏(あおうまのそう)があり、のちに諸臣に宴が設けられた。平安末ごろからこの行事は衰え、応仁(おうにん)の乱(1467~1477)で中絶、1492年(明応1)に再興して、明治初年まで行われた。