永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(71)(桃の節句)

2015年09月30日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (71)2015.9.30

「中の十日のほどに、この人々、方わきて、小弓のことせんとす。かたみに出居などぞしさわぐ。しりへの方のかぎり、ここにあつまりて馴らす日、女方に懸物乞ひたれば、さるべき物やたちまちにおぼえざりけむ、わびざれに、あをき紙を柳の枝にむすびつけたり。
<山風のまへより吹けばこの春の柳の糸はしりへにぞ寄る>
◆◆二十日ごろに、この人たちが二組に分かれて、小弓の試合をすることになりました。それぞれが練習だなどと騒いでいます。後方(しりえ)の組の者達が全員、私のところに集まって練習する日、侍女に賞品をねだったところ、とっさに思いつかなかったのだろうか、困った挙句の趣向で、私がちょっと戯れて、青い紙に次の歌を書いて、柳の枝に結びつけて差し出しました。
(道綱母の歌)「山形から風が吹いて柳葉が後方になびくように、私たちも後方組の味方です◆◆


「かへし、口々したれど、忘るるほどおしはからなむ。一つはかくぞある。
<かずかずに君かたよりてひくなれば柳の眉も今ぞひらくる>
『つごもりがたにせん』と定むるほどに、世の中に、いかなる咎まさりたりけむ、天下人びとながるると、ののしること出で来て、紛れにけり。」
◆◆返歌はそれぞれ作って来たけれど、忘れてしまう程度のできばえなのでよく覚えていませんが、その中に一つはこうありました。
(侍の歌)「心をこめて味方になってくださるので、やっと愁眉をひらくことができます」
「試合は下旬ごろにしよう」と決めていたのですが、世間ではどのような重罪があったのでしょうか。人々が流罪になるという上を下への騒動が起きて、取り紛れてしまったのでした。◆◆


■方わきて=二組に分けて。この場合、前方(まえ)と後方(しりえ)に分ける。

■小弓のこと=射的あそびです。小さな弓矢で的に当てる室内ゲームで、的は小型の衣桁のようなものに後ろ布を垂らし、その前に錘をぶら下げた的をつり下げます。さらに小型の子どもの遊技「雀小弓」もありました。




■桃の節句  2015.9.30
昔の日本には五つの節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)があり、当時この行事は貴族の間では、それぞれ季節の節目の身のけがれを祓う大切な行事でした。
その中の一つ「上巳(じょうし)の節句」が後に「桃の節句」となります。

平安時代、上巳の節句の日に人々は野山に出て薬草を摘み、その薬草で体のけがれを祓って健康と厄除けを願いました。
この行事が、後に宮中の紙の着せかえ人形で遊ぶ「ひいな遊び」と融合し、自分の災厄を代わりに引き受けさせた紙人形を川に流す「流し雛」へと発展してゆきます。

室町時代になるとこの節句は3月3日に定着し、やがて紙の雛ではなく豪華なお雛さまを飾って宮中で盛大にお祝いするようになりました。
その行事が宮中から武家社会へと広がり、さらに裕福な商家や名主の家庭へと広がり、今の雛祭りの原型となっていきました。



蜻蛉日記を読んできて(69)(70)

2015年09月27日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (69) 2015.9.27

「またの日、こなたあなた、下衆のなかより事いできて、いみじきことどもあるを、人はこなたざまに心よせて、いとほしげなるけしきにあれど、われはすべて近きがすることなり、くやしくなどおもふほどに、家移りとかせらるることありて、われはすこし離れたる所に渡りぬれば、わざときらきらしくて、日まぜなどにうち通ひたれば、はかな心ちには、なほかくてぞあるべかりけるを、錦を着てとこそいへ、ふるさとへも帰りなんと思ふ。」
◆◆あくる日、こちらと時姫宅のところで、下人の間で喧嘩殴り合いのようなことがあって、面倒なことがいろいろあるのを、あの人(兼家)は私の方に同情して、気の毒がっていましたが、私は何事も近くに住んでいることが原因であって、近くに来なければ良かったなどと思っているうちに、移転ということになって、私は少し離れたところに移ったので、あの人は、わざと美々しく着飾って一日おきくらいに通って来られたのは、はかない今の心境から考えると、やはりころは満足すべきことだったかも知れませんが、私としては、「錦を着て故郷に帰る…」のたとえがあるけれど、それどころではなく、いっそ、元の家(もと住んでいた一条西洞院)に帰ってしまいたいと思う。◆◆


蜻蛉日記  中卷  (70) 2015.9.27

「三月三日、節供など物したるを、人なくてさうざうしとて、ここの人々、かしこの侍ひに、かう書きてやるめり。たはぶれに、
<桃の花すき物どもを西王がそのわたりまでたづねにぞやる>
すなはちかい連れて来たり。おろし出だし、酒のみなどして暮らしつ。」
◆◆三月三日、節供のお供えなど支度をしたのに人少なく物足りないといって、私方の侍女たちが、あちら(兼家方)の侍たちに、こんな歌を書いて送ったようでした。冗談めいて、
(侍女の歌)「桃花を浮かべた節供の酒を飲む風流人を探し求めて、あなたのところまで使いを出します。そちらは西王母の園で、桃の節供にふさわしい風流人がおいででしょうから、お招きいたします。」
さっそく連れ立ってやって来ました。お供えのお下がりを出して、酒を飲んだりして一日過ごしたのでした。◆◆

■おろし出だし=供物のあさがり。


蜻蛉日記を読んできて(68)

2015年09月24日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (68)2015.9.24
 
安和二年(969年)
作者(道綱母)   三十三歳くらい
藤原兼家      四十一歳くらい。蔵人頭 左中将
道綱        十五歳くらい


「かくてはかなながら、年たちかへる朝にはなりにけり。年ごろ、あやしく、世の人のする言忌などもせぬところなればや、かうはあらんと、疾く起きてゐざり出づるままに、『いづら、ここに人々今年だにいかで言忌みなどして世の中こころみん』といふをききて、はらからとおぼしき人、まだ臥しながら『物きこゆ。あめつちを袋に縫ひて』と誦するに、」
◆◆このような頼りない身の上のままで、年が明け元旦となりました。ここ何年も新年に世間の人がするという言忌みなどもしなかったせいで、このような幸うすい身の上になったのかしらと思い、急いで起きていざり出ながら、「さあ、さあ、みなさん、今年だけでも是非言忌みをして、ひとつ運だめしをしてみましょう」と言うと、それを聞いて私の妹が、まだ横になったまま、「申し上げます。『天地を袋に縫ひて…』と寿ぎ歌を唱えるので、◆◆



「いとをかしくなりて、『さらに身には、三十日三十夜は我がもとに、と言はむ』と言へば、前なる人々笑ひて、『いと思ふやうなることにも侍るかな。おなじくはこれを書かせたまひて、殿にやはたてまつらせ給はぬ』と言ふに、臥したりつる人も起きて、『いとよきことなり。天下の吉方にもまさらん』など笑ふ笑ふ言へば、さながら書きて、ちひさき人してたてまつれたれば、このごろ時の世の中人にて、人はいみじくおほくまゐりこみたり。」
◆◆とても面白くなって、「それに加えて、私には『三十日三十夜は我がもとに…』と言いたいわ」と言うと、前に居る侍女たちが笑って、「そのようになりましたら、願いどおりのお身の上でございますね。いっそのこと、それをお書きなさいまして、殿にお差し上げなさってはいかがでしょう」と言うと、横になっていた妹も起きてきて、「それはとても良い思いつきですこと。どんな素晴らしい恵方まいりよりも勝っていましょうよ」と笑いながら言うので、その言葉通りに書いて、息子道綱より差し上げさせますと、あの人はこの頃、まことに時を得て栄えている権勢家で、沢山の人々が参賀に詰め掛けていて、ごった返しているところでありました。◆◆



「内裏へも疾くとて、いとさわがしけれど、かくぞある。今年は五月二つあればなるべし。
<年ごとに余れば恋ふる君がためうるふ月をば置くにやはあるらん>
とあれば、祝ひそしつと思ふ。」
◆◆しかも、宮中へも急いで参内せねばという、大変多忙な折であったようですが、このように返事がありました。今年は閏年で、五月が二度あるからでしょう。
(兼家歌)「(毎月三十日来て)では、年々数日ずつ日が余るので、私を恋しがるあなたのためにも、閏月があるのだろうね」
と、ありましたので、大層な言祝ぎを交わしたと思ったことでした。◆◆


■言忌(こといみ)=不吉な言葉をつつしむこと。

■ゐざり出づる=深窓の貴婦人達は膝行で移動する。

■今年は五月二つ=閏五月のある年。

蜻蛉日記を読んできて(上巻の終わりに)

2015年09月20日 | Weblog
■『蜻蛉日記』上 (上村悦子著より引用。) 2015.9.20
 
 初瀬からの帰路で、兼家の愛情を確認したこと、何よりも十一面観世音菩薩の霊験を信じ、期待することによって、心の安らぎを得て落ち着いた作者は、超子(兼家と時姫のむすめ)入内に全面的に協力する姿勢を見せている。兼家は冷泉院の後宮に長女を入れ、陽のあたる道をまっしぐらに進んでいく。
……
結びの直前の作者の心情は穏やかで満足しており、生涯の中では新婚の一か月とともに幸福な時期で、「人にもあらぬ身の上」とか「かげろふの身」とか「ものはかなし」と長嘆息し「書き日記」せねばならぬほどの追い詰められた、惨めな境涯ではなかった。それなのにこの結びの文句がその直後に書かれているのは木で竹をついだような唐突な感じがする。貞観殿登子との交友や初瀬詣での記事とまったく違和感を与えるこの文句をあえて結びに据えた作者の意図は何であろうか。もしこの結びの文句「かく年月はつもれど…かげろふの日記をいふべし」がなく、初瀬詣でや御禊の記事で終わっていたら、上巻は序や主題(かげろふの如き身の上を書く)と無縁のもの、むしろ逆な印象さえも読者に与えかねないであろう。この結びの言葉により読者に今一度上巻全体がはかない身の上の告白であるという認識をあたえるためにこの結びの言葉は上巻末に必要であり、この結びの言葉によって、上巻が、主題のもっとも鮮明に出ている中巻と密接し得ているのである。



蜻蛉日記を読んできて(66)(67)

2015年09月18日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (66)

「明くれば、御禊のいそぎ近くなりぬ。『ここにし給ふべきこと、それそれ』とあれば、『いかがは』とて、しさわぐ。儀式の車にて引きつづけり。下仕、手振りなどが具し行けば、いろふしに出でたらん心地していまめかし。
月立ちては大嘗会の小忌よとしさわぎ、われも物見のいそぎなどしつるほどに、つごもりにまたいそぎなどすめり。」
◆◆一夜明けると、大嘗会の御禊の準備が迫ってきました。あの人から「こちら(作者方)でしていただくことは、あれやそれ」と言ってきたので、「いいですとも」といって、大わらわになってしています。御禊の当日は、威儀を正した特別仕立ての車で、続いていきます。下仕えや手振りなどが付き添っていくので、見ている私はまるで晴れの儀式に自分も参加しているような気持ちがして、華やかな気分でした。
月が変わっていよいよ大嘗会の下検分だと騒ぎ立て、私も見物の用意などして暮しているうちに、年末には新年の準備もしているようです(侍女たちが)。◆◆


■下仕え=院御所・宮家・摂関家などで、雑用をする女房

■手振り=男の従者、下男

■大嘗会の小忌(だいじょうえのをみ)=小忌は大嘗会や新嘗会の際の斎戒、またはその役を務める「小忌人」、その際に着用する青摺の衣をもさす。


蜻蛉日記  上巻 (67)

「かく年月はつもれど思ふやうにもあらぬ身をし嘆けば、声あらたまるもよろこぼしからず、なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心地するかげろふの日記といふべし。」
◆◆こうして十五年という月日は経ったけれども、思うようにならぬわが身の上を嘆いているので、新しい年を迎えても一行にうれしい気持ちにもならず、相も変らぬものはかなさを思うと、あたかもあるかないのか分らない「かげろう」のようなはかない身の上の日記ということができるであろう◆◆


■かげろふ=「あはれとも憂しともいはじかげらふのあるかなきかに消ぬる世なれば」(後撰集)などによる。「かげろふ」は陽炎で、はかなさを象徴する歌語。

蜻蛉日記 上巻 終わり。


蜻蛉日記を読んできて(65)の7

2015年09月15日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (65)の7 2015.9.15

「落忌もまうけありければ、とかうものするほど、川のあなたには、按察使の大納言の領じ給ふところありける、『このごろの網代御覧ずとて、ここになんものし給ふ』と言ふ人あれば、『かうてありと聞き給ふべからんを、まうでこそすべかりけれ』など定むるほどに、紅葉のいとをかしき枝に、雉、氷魚などを付けて、『かうものし給ふと聞きて、もろともにと思ふも、あやしう物なき日にこそあれ』とあり。」
◆◆参籠の精進落しの準備がしてありましたので、食べたりしていたときに、川の対岸には、按察使大納言様のご領有の別邸があったのですが、「大納言様が、このごろの網代見物にこちらにおいでになっておられます。」という人があったので、「私たちがこうしてここに来ていると、お耳に入っているだろうから、ご挨拶に上がるべきだったよ」などと話し合っているところに、紅葉のとても美しい枝に、雉(きじ)や氷魚などをつけて、「こうしておそろいでいらしている由を伺って、ご一緒にお食事でもと思いますが、あいにく今日はめぼしいものが無い日でありまして」と大納言様からのご挨拶がありました。◆◆


「御かへり、『ここにおはしましけるを。ただ今さぶらひ、かしこまりは』など言ひて、単衣ぬぎてかづく。さながらさし渡りぬめり。また鯉、鱸などしきりにあめり。ある好き者ども、酔ひあつまりて、『いみじかりつるものかな。御車の月の輪のほどの、日にあたりて見えつるは』とも言ふめり。」
◆◆あの人(兼家)のお返事は、「こちらにおいでになっておられましたのに、失礼いたしました。すぐにもそちらへお伺いし、ご挨拶の遅れましたことをお詫び申し上げます」と申して、使いの者に単衣を脱いで祝儀を与えます。その者は単衣を肩にかけたまま、川を渡って帰ったようでした。また、鯉や鱸(すずき)などがつぎつぎに届けられたようでした。居合わせた風流者たちが酔って集まってきて、「すばらしいものだったなあ。お車の月の輪のあたりが、日の光にかがやいて見えていたのは」とでも言っているようでした。◆◆


「車の後のかたに花、紅葉などや挿したりけん、家の子とおぼしき人、『ちかう花さき、実なるまでなりにける日ごろよ』と言ふなれば、後なる人も、とかくいらへなどするほどに、あなたへ舟にてみなさし渡る。『論なう酔はむものぞ』とて、みな酒飲む者どもを選りて、率てわたる。」
◆◆車の後ろの方に、花や紅葉などを挿していたらしく、良家の子息と思われる人が、「やがて花が咲き実がなるように、御開運のときが近づいたこのごろですよ」と言うと、後ろの人がそれになにやら応えているうちに、対岸の大納言様のところにみな渡ることになったのでした。「きっと酔っ払うことになるだろうよ」ということで、酒に強い者どもを選んで、兼家が率いて渡って行きます。◆◆


「川のかたに車向かへ、榻立てさせて、二舟にてこぎ渡る。さて酔ひまどひ、歌ひ帰るままに、『御車かけよ、御車かけよ』とののしれば、こうじていとわびしきに、いと苦しうて来ぬ。」
◆◆川の方へ車を向けさせ、轅を榻に立てさせてみていますと、二艘の舟で漕いで渡っていきました。さて、すっかり泥酔して、歌いながら帰ってくるとそのまま、「御車に牛をつけよ、つけよ」と大声で叫び立てるので、私は疲れてとても辛いのに、ひどく苦しい思いをしながら帰って来たのでした。◆◆


■按察使の大納言=兼家の叔父、師氏(もろうじ)。このときは中納言。
■落忌(としみ)=「おとしいみ」の略。参籠後の精進落し。


蜻蛉日記を読んできて(65)の6

2015年09月09日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (65)の6 2015.9.9

「舟の岸によするほどに、かへし、
<かへるひを心のうちにかぞへつつ誰によりてか網代をも訪ふ>
見るほどに、車かき据ゑて、ののしりてさし渡す。いとやんごとなきにはあらねど、賤しからぬ家の子ども、何のぞうの君などいふものども、轅、鴟尾のなかに入りこみて、日の脚のわづかに見えて、霧ところどころ晴れゆく。」
◆◆舟が向こう岸からこちらに引き返して来る時に、あの人からの返事で、
(兼家の歌)「あなたが帰る日を心の内で数えて待っていたのだ。あなた以外の誰のために宇治までやって来るものか」
読むうちに、車を舟に乗せて、大きく掛け声をかけて、棹をさして渡す。大して高貴な身分ではないけれども、決していやしくない良家の子息たちや、なにがしの丞(ぞう)の君などという人たちが、車の轅とか鴟の尾(とみのを)の間にぎっしり入り込んで渡っていくと、日差しがわずかに洩れはじめ、霧もところどころ晴れていく。◆◆



「あなたの岸に家の子、衛府の佐など、かひつれて見おこせたり。中に立てる人も、旅だちて狩衣なり。岸のいと高きところに舟をよせて、わりなうただ上げに担ひ上ぐ。轅を板敷きに引き掛けて立てたり。」
◆◆あちらの岸には良家の子息や衛府の佐などが連れ立ってこちらを見ています。その中に立っているあの人も、狩衣姿です。岸のとても高いところに舟を寄せて、がむしゃらにただもう上に担ぎ上げて、轅をすのこに立てかけて置きました。◆◆


■轅、鴟尾(ながえ、とみのを)=車の前後に出た棒。前部を轅、後部を鴟尾という。

■衛府の佐(えふのすけ)=「かみ」に次ぐ位。この年、左兵衛佐になった兼家の長男、道隆か。(母は時姫)

*写真は中世の宇治川

蜻蛉日記を読んできて(65)の5

2015年09月06日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (65)の5 2015.9.6

「かくて、今しばしもあらばやと思へど、明くればののしりて出だし立つ。帰さは、しのぶれどここかしこ饗しつつとどむれば、ものさわがしうて過ぎゆく。三日といふに京に着きぬべけれど、いたう暮れぬとて、山城の国、久世の屯倉といふところに泊まりぬ。いみじうむつかしけれど、夜に入りぬれば、ただ明くるをまつ。」
◆◆こうして、はじめは三日間参籠のつもりでいたのですが、夜が明けると大騒ぎして出でたたせます。帰途は忍んでの道中ながら、あちらこちらでもてなしをしてくれて引き止めるので、にぎやかな旅となってしまいました。三日目に京に帰りつく予定でありましたが、途中ですっかり暮れてしまったというので、山城の国の久世の三宅という所に宿をとりました。とてもむさくるしいところだったけれど、夜に入ってしまったので、ただただ夜の明けるのを待ったのでした。◆◆


「まだ暗きより行けば、黒みたる者の調度負ひて走らせて来。やや遠くより下りて、ついひざまづきたり。見れば、隋身なりけり。『何ぞ』とこれかれ問へば、『きのふの酉の時ばかりに宇治の院におはしまし着きて、『帰らせ給ひぬやと、まゐれ』と、仰せごとはべりつればなん』と言ふ。さきなる男ども、『疾う促がせや』など行ふ。」
◆◆まだ暗いうちから出かけて行くと、黒っぽい人影が、弓矢を背負って馬を走らせてやってきます。やや離れたところで下馬して、ひざまずいています。見ると、あの人の隋人でした。「何事ですか」と、こちらの供回りの者が尋ねますと、「殿は昨夜の夕方、酉の時刻(午後六時前後)のころ、宇治の院にご到着なさいまして、『お戻りになったかとご様子を伺いに参れ』とのご命令がございましたので」と言う。先頭にいる男どもが、「車を早く進ませよ」などと、車の指図をします。◆◆


「宇治の川によるほど、霧は来しかた見えず立ちわたりて、いとおぼつかなし。車かき下ろして、こちたくとかくするほどに、人声おほくて『御車おろし立てよ』と、ののしる。霧の下より、例の網代も見えたり。いふかたなくをかし。みづからは、あなたにあるなるべし。まづ、かく書きて渡す。
<人ごころうじの網代にたまさかによるひをだにも尋ねけるかな>」
◆◆宇治川に近づくころ、霧が立ち込めて今来た道を覆い、心もとなく不安になりました。車から牛を外して轅をおろし、あれこれと渡河の準備をしているうちに、大勢の人声がして、「車を川岸にとどめよ」と大声で言う。霧の下より例の網代も見えています。言葉もないほど風情があります。あの人は対岸の方にいるのでしょう。私はまず、このように書いて渡しました。
(道綱母の歌)「あなたという人は、私が宇治に着いた日、たまたま網代の氷魚を見に来ただけなのでしょう。薄情ですこと。」◆◆


*写真:現在の宇治川に架かる宇治橋



蜻蛉日記を読んできて(65)の4 

2015年09月03日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (65)の4 2015.9.3

「それより立ちて、行きもて行けば、なでふことなき道も、山深き心地すればいとあはれに、水の声も例に似ず霧は道まで立ちわたり、木の葉はいろいろに見えたり。水は石がちなる中より湧きかへりゆく。夕日の射したるさまなどを見るに、涙もとどまらず。道はことにをかしくもあらざりつ。もみぢもまだし、花もみな失せにたり、枯れたる薄ばかりぞ見えつる。」
◆◆そこから出立してどんどん進んで行きますと、何ほどという道でも、山深い感じがするので趣ぶかく、水の流れる音も身に沁みて、木の葉は色とりどりに色づいて見えています。水は石の多い初瀬川の川床から湧き出すように流れていきます。夕日が射しこんできる光景などを見ていますと、自然と涙が流れてとまらない。道中(川ではなく)は、格別景色も優れていませんでしたし、紅葉もしておらず、花という花もすっかり散ってしまっていて、枯れた薄ばかりが見えたのでした。◆◆


「ここはいと心ことに見ゆれば、簾まきあげて、下簾おしはさみて見れば、着なやしたる物の色も、あらぬやうに見ゆ。うすいろなる薄物の裳を引きかくれば、腰などちりひて、焦がれたる朽葉に合いたる心地も、いとをかしうおぼゆ。」
◆◆ここは(長谷寺)は、これまでの景色とは格別に違って趣があるので、簾をを巻き上げて、簾の内側に垂らした二枚の絹布の帷子(かたびら)を横に挟み込んで眺めてみると、道中着通しで萎えてしまった着物が夕日に映えて、別物のように美しく見えます。うすむらさき色の薄い絹布の裳を付けると、その裳の引き腰などが交差して、焦げ朽葉色の着物と調和した感じなのも、とても興味深く感じられます。◆◆


「乞児どもの坏、鍋など据ゑてをるもいとかなし。下衆近なる心地して、入り劣りしてぞおぼゆる。ねぶりもせられず、いそがしからねば、つくづくと聞けば、目も見えぬ者のいみじげにしもあらぬが、思ひけることどもを、人や聞くらんとも思はずののしり申すを聞くもあはれにて、ただ涙のみぞこぼるる。」
◆◆(長谷寺の門前には)乞食どもが食器や鍋などを地面に置いて座っているのも、いかにもあわれではあります。が、私は卑しい者の中に入ったような心持になって、境内に入ってからかえって、清浄、厳粛な気分がそこなわれて、がっかりしてしまいました。御堂に参籠してしる間は眠ることもできず、そうかといって忙しいお勤めでもないので、ぼんやりと聞いていると、盲人で、それほどみじめでもなさそうな者が、心に思っている願いのことを、周りで人が聞いているかも知れないのに、大声でお願い申し上げているのを聞くにつけ、しみじみと心を打たれ、私は思わず涙ばかりがこぼれるのでした。◆◆

*写真:「例の杉」初瀬川古川の辺に二本(ふたもと)ある杉。「年を経てまたも逢ひ見む二本ある杉」古今集。