永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(90)

2015年12月30日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (90)2015.12.30

「七月十よ日にもなりぬれば、世の人のさわぐままに、盆のこと、年ごろは政所にものしつるも、離れやしぬらんと、あはれ、亡き人もかなしうおぶすらんかし、しばし心みて、ここに斎もせんかし、と思ひつづくるに、涙のみ垂り暮すに、例のごと調じて文添ひてあり。『亡き人をこそおぼし忘れざりけれと、惜しからでかなしき物になん』と書きてものしけり。
◆◆七月十日すぎにもなったので、世間ではお盆の支度で騒いでいるにつけ、お盆の供え物など、毎年あの人の政所で整えてくれていたけれど、もう今年は知らん顔でやってくださらないのっかしら、ああ、亡き母上もどんなにか悲しい思いでいらっしゃるのかと、しばらく様子をみておいて、もし届かなければ、こちらで仏事の支度をしようと思い続けて、涙ばかりこぼれ落ちる有様で日を過ごしていましたが、いつものように整えて手紙も添えて届けられました。私からの返事は、「亡き母のことはお忘れなさいませんでしたけれど、それにつけましても、『惜しからで悲しきものは』という思い、そのままでございまして」と書いて送りました。◆◆

■斎(とき)=仏事に出す食事

■惜しからでかなしき物になん=「惜しからで悲しきものは身なりけり人の心のゆくへ知らねば」(西本願寺本・類従本『貫之集』)を本歌とする。


蜻蛉日記を読んできて(89)

2015年12月27日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (89) 2015.12.27

「つくづくと思ひつづくることは、なほいかで心ととく死にもしにしがなと思ふよりほかのこともなきを、ただこの一人ある人を思ふにぞ、いとかなしき。人となして、うしろやすからん妻などにあづけてこそ、死にも心やすからんとは思ひしか、いかなる心地してさすらへんずらんと思ふに、なほいと死にがたし。」
◆◆つくづくと思いつづけていることは、やはり何とかして自分から死んでしまいたいと思うより他に何もありませんが、ただ息子の道綱一人を思うととても悲しくなってしまうのでした。一人前にして安心できる妻に任せた後ならば、死ぬにしても気が楽であろうと思っていたのに、もし私が今死んだら、あの子はどんな気持ちで、よりどころもなく、心細く暮してゆくだろうと思うと、はやりどうしても死にきれない。◆◆



「『いかがはせん、かたちをかへて、世を思ひ離るやと心みん』と語らへば、まだ深くもあらぬなれど、いみじうさくりもよよと泣きて、『さなりたまはば、まろも法師になりてこそあらめ、なにせんにかは世にもまじろはん』とて、いみじくよよと泣けば、我もえせきあへねど、いみじさにたはぶれに、言ひなさんとて、『さて鷹飼はでは、いかがし給はむずる』と言ひたれば、やをら立ちはしりて、し据ゑたる鷹をにぎり放ちつ。」
◆◆私が、「どうしましょう。仕方が無い。尼となって、この世のことを思い捨てられるか、ひとつ試してみようかと思うのだけれど」と話すと、まだ子供で深い事情も分らないであろうが、ひどくよよと声を立ててなきじゃくり、『そうおなりなさるならば、私も法師になって暮しましょう。なんで世間の人たちにまじって暮しましょうか。』と言って、またさらに一層泣くので、私も涙をこらえきれないけれど、あまりの真剣さに悲しくもあったけれど、冗談に紛らわそうと、『では、法師におなりになって、鷹を飼えなくなったらどうするの』と言うと、道綱はおもむろに立ち上がり、走って行って、木に止まらせておいた鷹をつかんで空に放してしまったのでした。◆◆



「見る人も涙せきあへず、まして日暮らしかなし。心地におぼゆるやう、
<あらそへば思ひにわぶるあまくもにまづそる鷹ぞかなしかりける>
とぞ。
日暮るるほどに、文みえたり。天下そらごとならんと思へば、『ただいま心地あしくて、え今は』とてやりつ。」
◆◆見ていた侍女たちも涙をこらえきれず、まして私は日がな一日中悲しくて仕方がないのでした。心に浮かんだのは、
(道綱母の歌)「夫との仲がうまく行かないので苦しく尼になろうと思う私より先に、鷹を手放し剃髪しようとする道綱が不憫でならない」と。
その日、日が暮れる頃にあの人から手紙がきました。まったくの口からのでまかせなんだろうと思ったので、「ただいまは、気分がすぐれませんので、今はご返事ができません」と言って、使いを返したのでした。◆◆


■人となして=一人前にして。このとき道綱は元服前だったので。

■さくりも=しゃくりあげて。か。

■天下(てんげ)そらごとならん=あきれた、まったくの口からのでまかせなんだろう。


蜻蛉日記を読んできて(88)

2015年12月25日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (88) 2015.12.25

「貞観殿の御方は、おととし尚侍になりたまひにき。あやしく、かかる世をも問ひたまはぬは、このさるまじき御中の違ひにたれば、ここをもけ疎くおぼすにやあらん、かくことのほかなるをも知り給はでと思ひて、御文たてまつるついでに、
<ささがにの今はとかぎる筋にてもかくてはしばし絶えじとぞ思ふ>
ときこえたり。返りごと、なにくれといとあはれにおほくのたまひて、
<絶えきとも聞くぞかなしき年月をいかにかきこし蜘蛛ならなくに>」
◆◆貞観殿の御方(兼家の妹・登子)は、おととし尚侍におなりになりました。どうして私のこの境遇をお尋ねくださらないのか、仲たがいなさるはずもないご兄妹の仲が気まずくなってしまったので、その縁につながる私までうとうとしくお思いになるのでしょうか、こんな意外な状態になってしまっている私たち夫婦の仲をご存知なくてはと思って、お手紙を差し上げるついでに、
(道綱母の歌)「私たち夫婦の仲はもうおしまいでございますが、夫との血縁でありましても、あなたさまとは、仲がとぎれないようにいたしたいです」
と申し上げます。お返事は、なにやかやと身に沁みるお言葉をお書きくださって、
(貞観殿登子の歌)「あなた方の御仲が絶えたと聞くのは、とても悲しゅうございます。長年あなたを思い続けてきた兼家ですのに。」



「これを見るにも、見聞きたまひしかばなど思ふに、いみじく心地まさりてながめ暮すほどに、文あり。『文物すれど、返りごともなくはしたなげにのみあめれば、つつましくてなん。今日もと思へども』などぞあめる。これかれそそのかせば、返りごと書くほどに、日暮れぬ。まだ行きも着かじかしと思ふほどに、見えたる。」
◆◆この歌を拝見するにつけても、私たちの仲をよくご存知だったのかと思うと、ますます悲しくなってきて、物思いに沈んでしまっているときに、あの人から手紙がありました。「手紙を出したが返事もなく、まるで取り付くしまもない状態だから、つい伺うのが億劫でね。今日でも訪ねようと思っているが…」などと書いてあるようだった。侍女たちが、返事をするようにと勧めるので、書いているうちに日が暮れてしまったのでした。返事を持たせた使いがまだ先方に行きつかないだろうと思う頃に、あの人が姿を見せます。◆◆



「人々『なほあるやうあらん、つれなくてけしきを見よ』など言へば、思ひかへしてのみあり。『慎むことのみあればこそあれ、さらに来ずとなん我は思はぬ。人のけしきばみくせぐせしきをなん、あやしと思ふ』など、うらなくけしきもなければ、け疎くおぼゆ」
◆◆侍女たちが、「なにかご事情がおありなのでしょう。知らぬふりをして、様子を御覧なさいませ」と言うので、じっと我慢していました。あの人は「物忌みや方たがえばかり続いたので来られなかったのだが、決して訪れまいと思っていたわけではない。あなたが怒って拗ねているのが不思議に思うよ」などと、まったく単純で上機嫌なので、こちらの気も知らず興ざめに思ったのでした。◆◆



「つとめては、『ものすべきことのあればなむ。今、あすあさてのほどにも』などあるに、まことは思はねど、思ひ直るにやあらんと思ふべし、もし、はたこのたびばかりにやあらんと心みるに、やうやうまた日かず過ぎゆく。さればよと思ふに、ありしよりもけの物ぞかなしき。」
◆◆翌朝あの人は、「しなければならない用事があるので今夜は来れない。すぐ明日、明後日のうちにでも来よう」などと言う。この言葉どおりとは思わないけれど、あの人が思いなおしてくれたのだろうか、あるいは今回だけのことかも知れないと思って、様子を見ていると、だんだんと又しても日数が経って行くので、案の定そうだったのかと思うと、以前よりましてもの悲しくなってくるのでした。◆◆


■尚侍(ないしのかみ)=尚侍(ないしのかみ/しょうじ)とは、日本の律令制における官職で、内侍司の長官(かみ)を務めた女官の官名。
准位は従五位のち従三位。定員は2名。多くは摂関家などの有力な家の妻や娘から選任された。天皇の側近くに仕えて、臣下が天皇に対して提出する文書を取り次いだり、天皇の命令を臣下に伝えること(内侍宣)などをした。もともと、これらの職掌は尚侍のみのものであって、典侍以下が扱うことはできなかった。奈良時代から平安時代前期には尚蔵を兼ねることもあった。


■このさるまじき御中の違ひにたれば=兼道、兼家兄弟の不仲の余波で、妹登子と兼家の間も疎遠であったのか、又は、兼家と登子の不仲か。



蜻蛉日記を読んできて(86)(87)

2015年12月22日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (86) 2015.12.22

「またの日はこうじ暮して、あくる日、をさなき人『殿へ』と出で立つ。あやしかりけることもや問はましと思ふも物憂けど、ありし浜辺を思ひ出づる心地のしのびがたきに負けて、
≪うき世をばかばかりみつつ浜辺にて涙になごりありやとぞみし≫
と書きて、『これ見給はざらんほどに、さし置きてやがて物しね』と教へたれば、『さしつ』とて帰りたり。もし見たるけしきもやと、した待たれけむかし。されどつれなくて、つごもりころになりぬ。」
◆◆次の日はすっかり疲れ切って一日を過ごし、その翌日、道綱は「本邸へ」と言って出かけます。唐崎へ出かけた日に、よりによってあの人がわが家に来たことが腑に落ちないことなど、聞いて見たいと思うのですが、どうも気が進まない。でも先日の浜辺の感動を思い出し、黙っていられない気持ちを抑えて、
(道綱母の歌)「さんざん辛い目に合ってきた私に、まだ残りの涙があるかどうかを見に、御津(みつ)の浜に行ったのでした」
こう書いて、道綱に「このお手紙をお父様が御覧にならない間に、そっと置いて帰っておいで」と言いつけると、「そのとおりにしました」と言って帰ってきました。もしや、私の歌を読んだ気配でもあるかしらと、あの時は内心では返事を待っていたようだったけれど、でもやはり、そのような様子もなく、月末になってしまったのでした。◆◆



蜻蛉日記  中卷  (87) 2015.12.22

「先つ頃、つれづれなるままに草どもつくろはせなどせしに、あまた若苗の生ひたりしを取り集めて、屋の軒にあてて植ゑさせしが、いとをかしうはらみて、水まかせなどせさせしかど、色づける葉のなづみて立てるを見れば、いとかなしくて、
≪いなづまの光だに来ぬ屋隠れは軒端の苗も物おもふらし≫
と見えたる。」
◆◆先日、手持ち無沙汰のまま、庭の草々の手入れなどさせていた折に、稲の若葉がたくさん生えていたのを取りまとめて、軒下に当るように植えさせたのが、とても面白く実をつけてきたので、水など引き入れて世話をしたのですが、今では黄色くなった葉が弱々しく立っているのを見ると悲しくなって、
(道綱母の歌)「稲妻の光さえ届かぬ家の陰(夫の訪れない我が家)では、軒下の苗も、私と同じように沈んでいるようだ」
と、思われたのでした。◆◆


蜻蛉日記を読んできて(85)の6

2015年12月18日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (85)の6 2015.12.18

「行きもてゆけば、粟田山といふ所にぞ、京より松明もちて人来たる。『この昼、殿おはしましたりつ』と言ふを聞く。いとぞあやしき、なき間をうかがはれけるとまでぞおぼゆる。『さて』など、これかれ問ふなり。我はいとあさましうのみおぼえて、来着きぬ。」
◆◆どんどん進んで行くと、粟田山というところに、京から松明を持って迎えの人が来ていました。「京の昼に、殿がおいでになりました」という報告を聞く。なんとも変なこと、留守の間を狙って来られたようで腑に落ちない。「それから」などと供のだれかが聞いているようであった。私はまったくあきれたことだと、それのみ思って家に帰り着いたのでした。◆◆



「下りたれば、心地いとせんかたなく苦しきに、とまりたりつる人々『おはしまして問はせたまひつれば、ありのままになん聞こえさせつる。≪何とか、この心ありつる。悪しうも来にけるかな≫となむありつる』などあるを聞くにも、夢のやうにぞおぼゆる」
◆◆車を下りると、気分がどうしようもなくひどく苦しいのに、居残っていた侍女たちが、「殿さまがおいでになりまして、どうしたのかとお尋ねにまりましたので、ありのままに申し上げますと、どうしてまたそんな気になったものかな。生憎なときに来てしまったね」と仰せになりました」などと聞くにつけても、上の空で夢の中のような心持でした。◆◆



■粟田山(あわたやま)=この山を越えると京都盆地。


蜻蛉日記を読んできて(85)の5

2015年12月15日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (85)の5 2015.12.15

「ふりがたくあはれと見つつ行きすぎて、山口にいたりかかれば、申のはてばかりになりにけり。蜩さかと鳴きみちたり。聞けばかくぞおぼえける。
<なきかへる声ぞきほひてきこゆなる待ちやしつらん関のひぐらし>
とのみ言へる、人には言はず。走井にはこれかれ馬うちはやして先立つもありて、いたり着きたれば、先立ちし人々いとよく休みすずみて心地よげにて、車かきおろすところに寄り来たれば、後なる人、
<うらやまし駒の足疾く走井の>
といひたれば、
<清水に影はよどむものかは>」
◆◆去りがたく、しみじみと心惹かれて景色を見ながら、逢坂山の麓にさしかかると、申(さる=午後3時~5時ごろ)になってしまいました。蜩が今を盛りと鳴き満ちています。それを聞くとこんなふうに感じられました。
(道綱母の歌)「激しく鳴くひぐらしの声が、泣き泣き帰る私の泣き声に劣らじと聞こえてきます。私もまっていたのか、逢坂の関のひぐらしは」
とだけ、口の中でつぶやして、誰にも言いませんでした。
走井には、従者の中に馬の足を速めて先に行った者もいて、私たちが到着すると、その先だった連中が、十分休息をとり、涼んで、気持ち良さそうな顔をして、車の轅を降ろす所に寄ってきたので、車の後ろの方に乗っていた人が、
(同乗の女性の歌)「うらやましいこと。馬を疾走させて、先に泉に到着している人は」
と言ったので、私は、
(道綱母の歌)「勢いよく流れる走井の水には影は映らない。足の速い馬なら、清水でゆっくり休んでいるものですか。うらやむことはありませんよ」



「ちかく車よせて、奥なる方に幕などひきおろして、みな下りぬ。手足も浸したれば、心地物思ひ晴るくるやうにぞおぼゆる。石どもにおしかかりて、水遣りたる樋のうへに折敷どもすゑて、もの食ひて手づから水飯などする心地、いと立ちうきまであれど、日暮れぬなどそそのかす。かかる所にては、物などいふ人もあらじかしと思へども、日の暮るればわりなくて立ちぬ。」
◆◆清水の近くに車を寄せて、道から奥に引っ込んだところに幕などを引き廻らして垂らして、みな車から降りました。手も足も水にひたすと、鬱陶しい物思いもすっかり消えて晴れ晴れする気がするのでした。石などにもたれて、水を流している筧の上に折敷などを据えて、食事をし、自分の手で水飯などをこしらえて食べる心地は、本当に帰るのが厭になるくらいですが、回りの人々が「日が暮れてしまいます。」などと言って急き立てます。こんな所では悩み事など言う人は居ないであろうと思うほど、いつまでも居たいけれど、日が暮れるので仕方なく出立したのでした。◆◆


■走井(はしりい)=逢坂の関付近の地名、大津市大谷町。現在月心寺の所にあり。

■水飯(すいは)=乾飯(ほしいひ)を冷水に浸して食べる夏の食物。


蜻蛉日記を読んできて(85)の4

2015年12月12日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (85)の4 2015.12.12

「さて車かけてその埼にさしいたり。車ひきかへて祓へしにゆくままに見れば、風うち吹きつつ波たかくなる。ゆきかふ舟ども帆ひき上げつつ行く。浜づらに男どもあつまり居て、『歌つかうまつりてまかれ』と言へば、いふかひなき声ひき出でて、うたひて行く。祓へのほどにけ怠になりぬべくながら来る。」
◆◆再び車に牛をつけて出発し、唐崎に着き、車の向きを変えて、お祓いをしに行きながら見ると、琵琶湖には風が出て波が高くなっています。行き交う舟は帆を高く上げながらゆく。浜辺に下男たちが集まって腰をおろしていたが、従者が、「歌をお聞かせして行け」というと、なんともひどい声を張り上げて、歌って行く。祓への時刻に遅れそうになりながら到着しました。◆◆



「いとほど狭き埼にて、下のかたは水際に車立てたり。網おろしたれば、頻波に寄せて、なごりにはなしと言ひ古したる貝もありけり。後なる人々は落ちぬばかり覗きて、うちあらはすほどに、天下見えぬものども取り上げまぜてさわぐめり。」
◆◆とても幅の狭い埼で、下手の方は水際すれすれに車を止めています。網を下ろしたところ、波がしきりに打ち寄せるそのあとには、無いと言い古されてしる貝もあったよ。ここに来た甲斐があったというもの。車の後ろに乗っている人たちは、車から落ちそうになるまで身を乗り出して覗き込んでいると、漁師たちが、世にも珍しい魚や貝を取り上げて騒いでいる様子です。◆◆


「若き男も、ほどさしはなれて並みゐて、『ささなみや、滋賀の唐崎」など、例のかみこゑふり出だしたるも、いとくをかし聞こえたり。風はいみじう吹けども、木陰なければいと暑し。いつしか清水にと思ふ。未のをはりばかり、果てぬれば帰る。』
◆◆若い男たちも少し離れたことろに並んで座り、「ささなみや滋賀の唐橋」などと、例の神楽声を張り上げて歌っているのも、とてもおもしろく聞こえました。風はひどく吹いているけれども、木陰がないので、とても暑い。はやくあの清水に行きたいと思いました。未(ひつじ=午後一時~3時)の時刻の終わりごろにお払へが終わったので、帰途につきました。◆◆


■け怠に=遅れそうになりながら。

■なごりにはなしと言ひ古したる貝もありけり=淡水ゆえに琵琶湖の浜には無いといわれてきた貝。

■かみこゑ=神楽歌の調子。一説には上声(甲高い声)

■写真は琵琶湖


蜻蛉日記を読んできて(85)の3

2015年12月09日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (85)の3 2015.12.9

「いきもて行くほどに、巳の時はてになりにたり。しばし馬ども休めんとて、清水といふところに、かれと見やられたるほどに、おほきなるあふちの木ただひとつ立てる陰に車かきおろして、馬ども浦にひきおろして冷やしなどして、『ここにて御破籠待ちつけん、かの埼はまたいと遠かめり』と言ふほどに、をさなき人ひとり、疲れたる顔にて寄りゐたれば、餌袋なる物とり出でて食ひなるするのどに、破籠もて来ぬれば、さまざまあかちなどして、かたへはこれより帰りて、『清水に来つる』と、おこなひやりなどすなり。」
◆◆さらに進んで行くうちに午前十時ごろになってきました。しばらく馬を休めるべく清水というところに、あれが清水だと見られるところの大きな楝(あふち)がただ一本立っている陰に車を止め、馬どもを浦に連れていって冷やしなどして、「ここでお弁当の届くのを待ちましょう。目指す唐埼はまだまだずっと遠いようです」と言っていると、おさなき子がひとり疲れきって寄りかかっているので、袋から食べ物をやっているうちに、お弁当が届いたので、それぞれに手渡して、男の従者の一部はここから引き返して、『清水に着きました』と知らせてやるよう報告の使者を遣わしたりするようでした。◆◆


■巳の時(みのとき)=午前九時~十一時ごろ。

■清水=多分、大津と唐埼の間にある泉の湧くところであろう。

■破籠(わりご)=食物を入れる折り箱。転じて入れられた食物。

■をさなき人ひとり=道綱で、ここで同乗者は道綱だと分る。

■餌袋(えぶくろ)=携帯用の食料袋。

蜻蛉日記を読んできて(85)の2

2015年12月06日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (85)の2  2015.12.6

「関の山路、あはれあはれとおぼえて、行く先を見やりたれば、ゆくへも知らず見えわたりて、鳥の二三ゐたると見ゆるものを、しひて思へば釣り舟なるべし、そこにてぞ、え涙はとどめずなりぬる。いふかひなき心だにかく思へば、ましてこと人はあはれと泣くなり。」
◆◆逢坂の関の山路にしみじみ感動を覚えながら、行く手を見渡すと、果てしもなく琵琶湖が眺め渡されて、そこに鳥が二、三羽飛んでいるなあと見えたものは、実は釣舟なのでしょう。そこにきて私は涙がとめどもなく流れるのをどうしようもなくなってしまったのでした。言うに足りない私の心でさえ、これほど感動すのですから、まして一緒に来た他の人は、何と素晴らしいと感じ入って涙を流しているようでした。◆◆


「はしたなきまでおぼゆれば、目も見合わせられず。行く先おほかるに、大津のいとものむつかしき屋どもの中に引き入りにけり。それもめづらかなる心地して行きすぐれば、はるばると浜に出でぬ。来しかたを見やれば、湖づらにならびて集まりたる屋どものまへに、舟どもを岸にならべ寄せつつあるぞいとをかしき。漕ぎ行きちがふ船どももあり。」
◆◆お互いに泣き顔を合わせるのがきまりが悪いので、顔をあわせられません。行先はまだ遠いけれど、車は大津のたいそうむさ苦しい家並みの中に入って行きました。それも私には珍しく感じられて通り過ぎると、はるばると開けた浜に出ました。振り返って通ってきた道を見ると、湖畔に並んでいる一塊の家々の前に、舟をずらりと岸に並べ寄せてあるのが、とても面白い風景でした。湖上を漕いで行き来する舟どもも見えます。◆◆

■こと人=異人、妹か。

■逢坂の関の歴史
大化2年(646年)に初めて置かれた後、延暦14年(795年)に一旦廃絶された[1]。その後、平安遷都にともなう防衛線再構築などもあり、斉衡4年(857年)に上請によって同じ近江国内の大石および龍花とともに再び関が設置された。寛平7年12月3日(895年12月26日)の太政官符では「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁じており、この中で会坂関を畿内の東端と定義している。関はやがて旅人の休憩所としての役割なども果すようになり、天禄元年(970年)には藤原道綱母が逢坂越を通った際に休息した事が蜻蛉日記に記されている。


蜻蛉日記を読んできて(85)の1

2015年12月03日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (85)の1 2015.12.3


「かくながら二十よ日になりぬる心地、せん方しらずあやしく置きどころなきを、いかで涼しき方もやあると、心も述べがてら浜づらの方へ祓へもせんと思ひて、唐崎へともてものす。寅の時ばかりに出で立つに、月いと明かし。我がおなじやうなる人、また供に人ひとりばかりぞあれば、ただ三人のりて、馬にのりたる男ども七八人ばかりぞある。」
◆◆あの人の訪れがなく、このような状態で二十日過ぎになってしまった心持は、もうどうしようもなくやりきれなくて、どこか涼しいところでもあるかしらと、気晴らし方々、浜辺の方で、是非お祓いもしてみたいと思って、唐崎へと出かけました。寅の時刻に出発しましたが、月がとても明るい。私と同じような人、それに侍女が一人の三人ほどで、一つの車に乗り、また馬に乗った男たち七、八人います。◆◆



「賀茂川のほどにて、ほのぼのと明く。うち過ぎて山路になりて京にたがひたるさまを見るにも、このごろの心地なればにやあらん、いとあはれなり。いはんや関にいたりて、しばし車とどめて牛飼ひなどするに、空車ひきつづけてあやしき木こり下ろして、いと小暗き中より来るも、心地ひきかへたるやうにおぼえて、いとをかし。」
◆◆賀茂川の辺りになって空がほのぼのと明るくなってきました。そこを過ぎて、山路にさしかかると、京とはまるっきり違う風景を見るにつけても、近頃の憂鬱な気持ちのせいか、しみじみと心に沁みるのでした。ましてや逢坂の関に着くと、しばらく車を止めて、牛にまぐさを与えたりしている、そんな折、荷車を何台も引き連ねて、見慣れぬ木を伐り出して、薄暗い木立の中から出てくるのを見ると、気分が変わって、とてもおもしろく感じられました。◆◆

■唐崎(からさき)=大津市坂本の琵琶湖畔。難波と並ぶ著名な祓い所。

■寅の時=午前3時~5時の間。