2010.2/28 66Ⅰ回
四十帖 【御法(みのり)の巻】 その(4)
このように一晩中念仏の声に合わせて鼓を打ち鳴らしていますのが趣ぶかく、やがてほのぼのと夜が明けはなれていきます。
「霞の間より見えたる花のいろいろ、なほ春に心とまりぬべくにほひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音におとらぬ心地して、もののあはれも面白さも残らぬ程に」
――霞のあいだに見える花々は、紫の上のご趣味どおり心がひかれるほど、一面に輝いて、鳥たちのさえずりも笛の音におとらずにぎやかに、あわれ深さも面白さも、この上ないと思われるときに、――
「陵王の、舞ひて急になる程の末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに、皆人のぬぎかけたる物のいろいろなども、物の折からにをかしうのみ見ゆ」
――陵王の舞いが急な調子になり、終りに近い楽の音がはなやかに賑々しく聞こえ、一座の人々が禄として舞人に脱いで与えた衣の種々の色合いが、折が折とて一層この情景にふさわしく、趣きぶかいものでした――
「上下心地よげに、興ある気色どもなるを見給ふにも、残り少しと身を思したる御心の中には、よろづの事あはれに覚え給ふ」
――身分の上下を問わず心地よげにうち興じていますのをご覧になるにつけても、紫の上は、この世にあるのは残り少ないと思われ、お心の内では何事もあわれ深く覚えられるのでした――
「昨日例ならず起き居給へりし名残にや、いと苦しうて臥し給へり。」
――(紫の上は)昨日いつになくお起きになっていらしたせいか、たいそうご気分が悪くお寝みになっていらっしゃいます――
年来、折々につけて、いつも楽奏に参集される方々の楽器の音色にも、今日が最後かとおもわれますのか、紫の上はしみじみとお心に留めてご覧になったのでした。
「まして夏冬の時につけたる遊び戯れにも、なまいどましき下の心は、自づから立ち交じりもすらめど、さすがに情を交わし給ふ方々は、誰も久しくとまるべき世にはあらざなれど、先づわれひとり行方知らずなりなむを思し続くる、いみじうあはれなり」
――(その中でも)まして夏冬、時折りの御遊び事などにつけましても、内心ではいくらかの競争心がありながらも、それでもお互いに親しみ合ってきました花散里や明石の御方などに対しては、誰しもいつまでもこの世に留まっていることは出来ないと分かってはいても、まず先にご自分一人が、行方も知れず消えてしまうことを思い続けておられますと、しみじみとあわれ深いのでした――
◆写真:陵王=舞楽の名。羅陵王又は蘭陵王(らんりょうおう)。
左舞(さまい)。北斉の蘭陵王長恭は、武勇の誉れが高い将軍であったが、容貌(ようぼう)が美しかったので、味方の兵士が彼に見とれて戦さをしようとしなかった。そこで恐ろしい仮面を着て勝利したという。その故事に基づく。龍を頭に戴き、顎(あご)を吊った仮面が特徴。走舞(はしりまい)という勇壮な舞で、一人で舞う。参考と写真:風俗博物館
ではまた。
四十帖 【御法(みのり)の巻】 その(4)
このように一晩中念仏の声に合わせて鼓を打ち鳴らしていますのが趣ぶかく、やがてほのぼのと夜が明けはなれていきます。
「霞の間より見えたる花のいろいろ、なほ春に心とまりぬべくにほひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音におとらぬ心地して、もののあはれも面白さも残らぬ程に」
――霞のあいだに見える花々は、紫の上のご趣味どおり心がひかれるほど、一面に輝いて、鳥たちのさえずりも笛の音におとらずにぎやかに、あわれ深さも面白さも、この上ないと思われるときに、――
「陵王の、舞ひて急になる程の末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに、皆人のぬぎかけたる物のいろいろなども、物の折からにをかしうのみ見ゆ」
――陵王の舞いが急な調子になり、終りに近い楽の音がはなやかに賑々しく聞こえ、一座の人々が禄として舞人に脱いで与えた衣の種々の色合いが、折が折とて一層この情景にふさわしく、趣きぶかいものでした――
「上下心地よげに、興ある気色どもなるを見給ふにも、残り少しと身を思したる御心の中には、よろづの事あはれに覚え給ふ」
――身分の上下を問わず心地よげにうち興じていますのをご覧になるにつけても、紫の上は、この世にあるのは残り少ないと思われ、お心の内では何事もあわれ深く覚えられるのでした――
「昨日例ならず起き居給へりし名残にや、いと苦しうて臥し給へり。」
――(紫の上は)昨日いつになくお起きになっていらしたせいか、たいそうご気分が悪くお寝みになっていらっしゃいます――
年来、折々につけて、いつも楽奏に参集される方々の楽器の音色にも、今日が最後かとおもわれますのか、紫の上はしみじみとお心に留めてご覧になったのでした。
「まして夏冬の時につけたる遊び戯れにも、なまいどましき下の心は、自づから立ち交じりもすらめど、さすがに情を交わし給ふ方々は、誰も久しくとまるべき世にはあらざなれど、先づわれひとり行方知らずなりなむを思し続くる、いみじうあはれなり」
――(その中でも)まして夏冬、時折りの御遊び事などにつけましても、内心ではいくらかの競争心がありながらも、それでもお互いに親しみ合ってきました花散里や明石の御方などに対しては、誰しもいつまでもこの世に留まっていることは出来ないと分かってはいても、まず先にご自分一人が、行方も知れず消えてしまうことを思い続けておられますと、しみじみとあわれ深いのでした――
◆写真:陵王=舞楽の名。羅陵王又は蘭陵王(らんりょうおう)。
左舞(さまい)。北斉の蘭陵王長恭は、武勇の誉れが高い将軍であったが、容貌(ようぼう)が美しかったので、味方の兵士が彼に見とれて戦さをしようとしなかった。そこで恐ろしい仮面を着て勝利したという。その故事に基づく。龍を頭に戴き、顎(あご)を吊った仮面が特徴。走舞(はしりまい)という勇壮な舞で、一人で舞う。参考と写真:風俗博物館
ではまた。