27日の明日へのことば「日本国最後の帰還兵深谷義治とその家族」の著者深谷敏雄・冨美子さんのトークを聞いた。
メデアを通じて戦後70年の節目に、死んでも国に汚名を着せてはならないという使命感で生き抜いた深谷義治という人がいたことを知り、戦争のスパイ・逃亡者という汚名の犠牲者であることも知った。
父義治さんは22才で、浜田歩兵隊から中国へ、憲兵試験に合格後、現地の商人姿でスパイ活動、中国人女性と結婚4人の子をもうけた。終戦後上海で任務続行の命令でも遂に1958年に逮捕、完全黙秘を貫徹、獄中病になっても治療なし、死を覚悟したが同僚から助けられ、1978年日中平和友好条約締結の特赦で、故郷島根太田市に帰国、逃亡者の汚名で恩給もなく、今年広島で99才で亡くなった。
日本語が分からない上海生まれの二男の敏雄(66)さんは父の苦難の生涯を闇に葬ってはいけないという使命感で6年前から執筆、娘孫の大学生冨美子(24)さんのアドバイスを受けて書き上げた。
敏雄さん自身も、日本語が分からない差別、工場の作業員、タクシーの運転手をする極貧の生活、父の獄中での手記を織り交ぜながらつづった家族の物語である。トークの中で、敏雄さんは父は「岸壁の母」や「安来節」など心で歌っていたと。また、冨美子さんは、執筆で、父のてにおはの助詞の使い方で、何を言いたいのか分からず苦労があったと・・・。
また、未だに、国からご苦労さんの言葉もなければ、恩給もなく、汚名を着せられたままという。こんなに日本国に忠実な人がなぜ救われないのか、広島の係も冷たいものと思う。
メデアを通じて戦後70年の節目に、死んでも国に汚名を着せてはならないという使命感で生き抜いた深谷義治という人がいたことを知り、戦争のスパイ・逃亡者という汚名の犠牲者であることも知った。
父義治さんは22才で、浜田歩兵隊から中国へ、憲兵試験に合格後、現地の商人姿でスパイ活動、中国人女性と結婚4人の子をもうけた。終戦後上海で任務続行の命令でも遂に1958年に逮捕、完全黙秘を貫徹、獄中病になっても治療なし、死を覚悟したが同僚から助けられ、1978年日中平和友好条約締結の特赦で、故郷島根太田市に帰国、逃亡者の汚名で恩給もなく、今年広島で99才で亡くなった。
日本語が分からない上海生まれの二男の敏雄(66)さんは父の苦難の生涯を闇に葬ってはいけないという使命感で6年前から執筆、娘孫の大学生冨美子(24)さんのアドバイスを受けて書き上げた。
敏雄さん自身も、日本語が分からない差別、工場の作業員、タクシーの運転手をする極貧の生活、父の獄中での手記を織り交ぜながらつづった家族の物語である。トークの中で、敏雄さんは父は「岸壁の母」や「安来節」など心で歌っていたと。また、冨美子さんは、執筆で、父のてにおはの助詞の使い方で、何を言いたいのか分からず苦労があったと・・・。
また、未だに、国からご苦労さんの言葉もなければ、恩給もなく、汚名を着せられたままという。こんなに日本国に忠実な人がなぜ救われないのか、広島の係も冷たいものと思う。