生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

某月某日某所にて

2010年06月10日 22時58分47秒 | 美術/絵画
2010年6月10日-3
某月某日某所にて

 某ギャラリーを訪れる。某氏によれば、おとつい、或る広い空間で展示していた人が、隣り合った空間から聞こえる音を自分の空間にとっては好ましくないので扉を閉めた。閉めると、その展示室でなにかの展示をしているとは見えない。そこで、音を発生させている作者が来て、数時間の緊張感ある話し合いとなったという次第。であれば、その二人による演為芸術 performance artが出現した、ことになる。ビデオに取って編集すれば、ビデオアートになるかも。
 天井が高くて広い空間に、口の彫刻作品を、おそらく長い展示ピンを使って壁掛けしている。一つの壁は幅が数メートルあり、そのような四つの壁面に30cmくらいの幅の主にステンレスだろうかの口を、壁の中央に高さ1m少しのところに、一つずつだけ展示している。潔い。
 その隣では、音を止めることで決着したのではなかったらしく、どちらの作者もいなかったが、滝のような音を床から二つの棒状スピーカで、また奥の部屋からは二つの箱形スピーカで、したがって見えない場所からときおり鳥の声を流している。(もうひとつウーファ用かのスピーカもあった)。地蔵?を囲んで亀が10匹くらいか床に置いてあり、その周りを緑の人工芝があり、そこに座ったり寝転んだりしてもいいですよという、指示。

 某ギャラリーに、桑山忠明の作品が六つあった。オープニングパーティとはどんなものなのかとい興味もあって行った。そこにおいてあったちらしで知った、村上友晴という作家。

静けさのなかから:桑山忠明/村上友晴
 後期(村上友晴):2010年6月1日(火)~7月4日(日)
 名古屋市美術館/地下鉄東山線伏見下車5番出口から南へ徒歩8分

 ミニマル・アートの文脈。

 「自己の眼と心を開いて、美術作品と向かい合うことで、そこから密やかに現れてくるものや微かに聞こえてくるものを感じる体験は、持続的で強烈な刺激に摩滅、消耗した私たちの心身を快復するためには、何よりの良薬になります。」
http://www.art-museum.city.nagoya.jp/tenrankai/2010/shizukesa/
とある。

 あたしも、快復(病気やけがが直ること)したい。
 「絵画と彫刻のあいま」もやっている。明日の気分に願かける。

幸せ作りの基盤整備

2010年06月10日 00時12分13秒 | 生命生物生活哲学
2010年6月10日-2
幸せ作りの基盤整備

中之島哲学コレージュ 哲学カフェ「“幸せ”ってなに?」
6月9日[水] 19:00-21:00/アートエリアB1

 幸せであるかどうか、わたしは問題にしない。
 人生で大事なことは、それぞれがなしとげたいことを実現することに努めること。結果には執着せずに。つまり、あなたが経験することが大事である。
 <汝の意思するところを行なえ。>

 政府に託された税金は、不幸にならないような経済を運営するために使うことだ。内閣府だったかの調査にあるように、幸せであることを妨げる社会的条件を政府は整備するが使命である。幸せ作りのための基盤整備である。それによって、国民は各自の幸せと思うところを追求すればよいし、追求しなくてもよい。
 たとえば、基本収入を国民すべてにばらまくこと。食い物と住居がなければ、幸せではないと思う人が多いのだから、それら、生存上の必要物が入手できるようにすることである。たとえ、与えられた金銭を博打に使っても、人の自由であるが、月々一定額を振り込むようにすればよい。
 そして、競争ではなく、ある目的に賛同する者は協調すること。ストレスと感じるようになるのは、競争に駆られることが多いと思う。ストレスもまた、幸せではない要因の一つだと国民が考えているという調査結果なのだから、競争にならないような社会体制、そしてそのように意識変革することが大事である。



生命の定義と種の定義/サイエンスカフェ

2010年06月10日 00時03分38秒 | 生命生物生活哲学
2010年6月10日-1
生命の定義と種の定義/サイエンスカフェ

「ラボカフェ」6月のプログラムが、
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/activity/view/538
にある。

 おとついの2010年6月8日、18:30から21:00頃まで行なわれた、ラボカフェの「サイエンスカフェ「あなたの『?』に応える生物科学」/アートエリアB1/京阪電車なにわ橋駅地下1階、に参加した。主催は、アートエリアB1(大阪大学+NPO法人ダンスボックス+京阪電気鉄道(株))である。

 進行?を務めるのは大学院生で、研究者の卵なので、このサイエンス・カフェは訓練の場で(も)あるらしい。
 机は四角く、二人ずつ座れる大きさである。そのような机がおそらく会場に少なくとも三つあった(四つだったかも)。全体に対する基調講演といったものは無く、当初から机ごとに、参加者の疑問などをポストイットに書いて、机に置かれた紙に張りつける。
 主題に焦点を合わすことはなされず、話題があちこちに行く。ときには個人的物語を叙述する人も。

 さて、生命の定義に、さしあたって種の定義は関係ない。生命の定義として何を考えるかだが、まずは、生きている状態を言葉で表現することだろう。すると、「自己」複製は、或る生物体が生きていることとは無関係である。生殖可能かどうか、結果として子を産むかどうか、そのようなことは、その生物体が生きているのなら、生きている物体であり、いかなる種に属する親から産まれようと、あるいは雑種個体であろうと、生き物には違いない。そして生命の定義は、それを生き物として認めるものでなければならない。親に似た子生物体が産まれるのは、親生物体が生きていることの結果であり、必要条件である。一つの種に属していることとか、生殖可能であることは、親生物体自身が生きていることとは、なんら関係が無い。