2010年8月10日-7
生命:生死と物物間相互作用
わたしは、『生物哲学の基礎』の訳者あとがきに、
「本書でたびたび述べられているように,議論が混迷する源として,ものごとの種類と程度を無視するということがある.本書では生物は生きているか死んでいるかのどちらかであると主張するが,ここでも種類と程度を考えることは可能であろう.たとえば,ある時間では生きているが,他の時間では(生物体としての同一性が問題になるにせよ,死んではおらず,しかし)生きていないと捉えることができるし,生命活動の種類と程度があると考えれば,たとえばバクテリオ・ファージなどや,さらには成長する結晶も生物だとすることができよう.さらに,物や性質とはそもそも何かを追及すれば,物活論的唯物論を構想できるだろう.この世界には物々間相互作用(これこそメカニズムをわれわれに想定させるものではないか)があるのみで,物自体が生きていることになり,そのようにして生物も「非」生物も統一的に捉えることができるかもしれない.」(508頁)。
と書いた。
緩歩動物のクマムシという実例。
「クリプトビオシス(cryptobiosis '隠された生命活動'の意)とは、クマムシなどの動物が乾燥などの厳しい環境に対して、活動を停止する無代謝状態のことを言う。水分などが供給されると復活して活動を開始する。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%82%B9)
「完全な休眠状態になる。……この現象が、「一旦死んだものが蘇生している」のか、それとも「死んでいるように見える」だけなのかについて、長い論争があった。現在ではこのような状態を、クリプトビオシスと呼ぶようになり、「死んでいるように見える」だけであることが分かっている。乾眠(anhydrobiosis)はクリプトビオシスの一例である。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%A9%E6%AD%A9%E5%8B%95%E7%89%A9)
生きているという状態の判断基準として、代謝活動が見られるかどうか、を採用すると、クリプトビオシスのときには、その生物体は生きている状態ではないことになる。にもかかわらず、水分を与えれば動き回るようになるならば、その状態は生きているとみなすことになる。一度生きていない状態(この状態を、死んでいる状態とは区別することにしよう)になっても、生きている状態になることは可能である。一度死んでいる状態になれば、生きている状態にはならないのだろうか? いわば生命活動が復活することは、ほとんど観測されない。むしろ、一度死ねば生き返ることは無いと、死亡の定義が不可逆性を含意するところといってもよいかも。しかしそれは、観測的な判断だろう。生命活動が一度停止して、再開することを妨げることは無い。その生物体は代謝がゼロになっても、死なかったのであり、再び代謝などの(生物体システムが『持つ』)メカニズムが起動して、生命活動を再開したと考えられる。もし、一切の活動が停止した状態を死んでいる状態だと定義しても、また生きている状態になることは禁止されない。
要するに、構成要素の物質の振る舞い自体は、生死とは関わりない(とみなされている)。生命活動が諸物物間の作用によって起きているとするならば、物物間作用が環境からの刺激に応答するようなシステムの制御メカニズムの解明が重要である。とりわけ、それらの作用過程における種々の力の種類と程度、そしてその結果がどうなるのか、である。それらを線図〔略図〕diagramで表示すること。
あるいは、いかなる物体であれ、作用していることが生きている、と定義してもよい。
あるいは、生物体全体としての生死は、別の問題であるのか。
トレハロース!
臨死状態はどうなのか。
なお、イエスが死んで復活したという(観測上からは例外的な)言い伝えもある。トリノの聖骸布(Turin Shroud)にネガ状に転写されているように見える全身像のようなものは、いかにしてできたのか。
生命:生死と物物間相互作用
わたしは、『生物哲学の基礎』の訳者あとがきに、
「本書でたびたび述べられているように,議論が混迷する源として,ものごとの種類と程度を無視するということがある.本書では生物は生きているか死んでいるかのどちらかであると主張するが,ここでも種類と程度を考えることは可能であろう.たとえば,ある時間では生きているが,他の時間では(生物体としての同一性が問題になるにせよ,死んではおらず,しかし)生きていないと捉えることができるし,生命活動の種類と程度があると考えれば,たとえばバクテリオ・ファージなどや,さらには成長する結晶も生物だとすることができよう.さらに,物や性質とはそもそも何かを追及すれば,物活論的唯物論を構想できるだろう.この世界には物々間相互作用(これこそメカニズムをわれわれに想定させるものではないか)があるのみで,物自体が生きていることになり,そのようにして生物も「非」生物も統一的に捉えることができるかもしれない.」(508頁)。
と書いた。
緩歩動物のクマムシという実例。
「クリプトビオシス(cryptobiosis '隠された生命活動'の意)とは、クマムシなどの動物が乾燥などの厳しい環境に対して、活動を停止する無代謝状態のことを言う。水分などが供給されると復活して活動を開始する。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%82%B9)
「完全な休眠状態になる。……この現象が、「一旦死んだものが蘇生している」のか、それとも「死んでいるように見える」だけなのかについて、長い論争があった。現在ではこのような状態を、クリプトビオシスと呼ぶようになり、「死んでいるように見える」だけであることが分かっている。乾眠(anhydrobiosis)はクリプトビオシスの一例である。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%A9%E6%AD%A9%E5%8B%95%E7%89%A9)
生きているという状態の判断基準として、代謝活動が見られるかどうか、を採用すると、クリプトビオシスのときには、その生物体は生きている状態ではないことになる。にもかかわらず、水分を与えれば動き回るようになるならば、その状態は生きているとみなすことになる。一度生きていない状態(この状態を、死んでいる状態とは区別することにしよう)になっても、生きている状態になることは可能である。一度死んでいる状態になれば、生きている状態にはならないのだろうか? いわば生命活動が復活することは、ほとんど観測されない。むしろ、一度死ねば生き返ることは無いと、死亡の定義が不可逆性を含意するところといってもよいかも。しかしそれは、観測的な判断だろう。生命活動が一度停止して、再開することを妨げることは無い。その生物体は代謝がゼロになっても、死なかったのであり、再び代謝などの(生物体システムが『持つ』)メカニズムが起動して、生命活動を再開したと考えられる。もし、一切の活動が停止した状態を死んでいる状態だと定義しても、また生きている状態になることは禁止されない。
要するに、構成要素の物質の振る舞い自体は、生死とは関わりない(とみなされている)。生命活動が諸物物間の作用によって起きているとするならば、物物間作用が環境からの刺激に応答するようなシステムの制御メカニズムの解明が重要である。とりわけ、それらの作用過程における種々の力の種類と程度、そしてその結果がどうなるのか、である。それらを線図〔略図〕diagramで表示すること。
あるいは、いかなる物体であれ、作用していることが生きている、と定義してもよい。
あるいは、生物体全体としての生死は、別の問題であるのか。
トレハロース!
臨死状態はどうなのか。
なお、イエスが死んで復活したという(観測上からは例外的な)言い伝えもある。トリノの聖骸布(Turin Shroud)にネガ状に転写されているように見える全身像のようなものは、いかにしてできたのか。